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   その四

 その夜、なかなか眠りに就けず、寝台の上で読書をしていたアリスは、カタリという物音に顔を上げた。

 閉めたはずの窓が開かれ、冷たい風が中へと入り込んできた。手元を照らしていた蝋燭の灯りがゆらりと揺れる。

 アリスは本を枕元に置くと、大判の肩掛けを羽織って窓辺に近づいた。


「アーリー」


 鼓膜を震わす美しい低音。

 思いのほか近かった声音に、振り返ったアリスは、薄暗闇の中、目をこらした。


「兄様か……?」


 その問いかけに呼応するように、闇が動いた。少しずつ輪郭があらわになる。夜空に燦然と輝く月明かりに照らされ、精巧な顔が浮かび上がる。


「兄様……いつの間に」


 アリスは、驚くよりも呆れてしまった。

 アリスとは違う銀の髪に灰色の双眸を持つ兄は、全体的に色が薄いせいか、この世の者とは思えないほどの美しさであった。

 月の光がいっそうと彼の蠱惑的な美貌を引き立てるようで、見慣れているアリスですら一瞬、息を呑んだほどだった。


「ここの警備は甘すぎる。まあ、そのおかげで私はこうして楽に忍び込むことができるのだがね」


 くくっと喉の奥で笑った兄――クロイツは、大股でアリスに近づくと、ぎゅっと抱きしめた。


「なぜ、逃げる? 兄は悲しいぞ。婚約者殿には顔を見せても、私には見せられないというのかな?」

「兄様は、こうしてオレに会いに来るではないか」


 アリスは、不満そうにそう零した。


「また、お付きの人に迷惑をかけたな。兄様、兄様は一人のものじゃないんだから、こう何回も出歩いては、たくさんの人が困ることになる。おじ様だって、兄様がオレの部屋をときおり訪れていると知ったら、目を回して倒れ込んでしまうぞ」

「可愛いことを言うね、アーリーは。けれど私は、この世でたった一人の家族に会うのに、なぜこんなにも身を潜ませなければならないのか不思議だよ」

「それは……」


 アリスの顔を覗き込んだクロイツは、アリスの小さな唇に人差し指を乗せると、その先に続く言葉を封じた。


「アーリー、私はね、決めたよ」

「兄様……?」

「おまえももうすぐ十五になる。そろそろ公表すべきではないかな」

「!」

「覚悟を決めなさい、アーリー。私はこれでもずいぶんと待ったのだよ? おまえが生い立ちを理解し、私の妹として堂々と振る舞うことのできるよう、手を尽くしたつもりだ。けれどおまえは、それを拒否し、埋もれることを選んだ」

「オレは……」

「可愛いアーリー。早く私の元へおいで」


 そっと額に口づけを落としたクロイツは、甘く微笑んだ。


「おまえを迎える準備は整っているよ。こんなにも可愛いおまえの存在をみんなに見せつけてやりたいと思うのは、おまえの兄だからかな」

「兄様は、オレに過保護すぎます」

「離れていた分、愛おしさが増しているのかもしれない。せっかくおまえを見つけたというのに、バルフィック公に取られてしまったからね。アーリーと少しでも一緒にいたいんだよ。バルフィック公爵家に嫁いでしまったら、ますます縁遠くなってしまうからね」


 寂しそうに瞳を曇らせるクロイツに、アリスは反論しようとした言葉を呑み込んだ。

 アリスとて、兄を悲しませるのは本意ではない。

 けれど、いきなりすぎて考えがまとまらないのだ。

 いつかそうなることは理解していたが、こんなに早いとは思わなかった。


「ごめんね、アーリー。私のわがままなんだ」

「いいえっ、オレが……っ、オレが兄様を困らせているんだ」


 俯くアリスの顎に手を当てたクロイツが、顔を上げさせた。


「私にね、家族のあたたかさや愛を教えてくれたのはおまえだよ」

「あに、さま……」

「政略結婚で結ばれた父上と母上の間に、愛なんてなかった。母上は、私を義務感だけで産み落としたんだ」

「……」


 アリスもその話は、知っていた。

 クロイツの両親が不仲なのは、裏では有名だった。だが、それは珍しいことではない。仮面夫婦など、掃いて捨てるだけいるのだから。


「けれど、不思議なものだね。愛情はないというのに、父上が浮気をすれば、悪魔が乗り移ったかのように形相を変えて、父上を詰った。そんな母上に嫌気が差して、父上はますます母上から遠ざかっていった……。すっかり心を病んでしまった母上は、私のことなんか見向きもしなかったよ。父上も、母上の血を引いた私を毛嫌いしていたしね。だから私は、家族愛というものを知らなかったんだよ。家族なんて、他人よりも遠い存在でしかなかった……」


 どこか遠くを見つめるような眼差しは、きっとそのときのことを思い出しているからかもしれない。

 なんだか兄がこのまま溶け消えてしまいそうなほど儚く感じて、アリスは顎に触れていた手を両手で包み込んだ。

 その温もりに、クロイツの両目に正気が戻る。ふっと優しい光を宿したクロイツは、その温もりを感じるように数秒目を閉じてから、ゆっくりと開いた。慈愛に満ちた眼差しがアリスに注がれる。


「そんなとき、おまえの存在を知ったんだよ。どれほど嬉しかったかわかるか? 父上が気まぐれに手を出した相手が身ごもったことを知った母上は逆上し、身重の彼女を追い出してしまったけれど。私はね、こっそりと行方を捜していたんだ。ようやく居場所を突き止めたとき、この身に流れる血が、喜びの歌を奏でているようだった」


 クロイツは、本当に嬉しそうに微笑んだ。


「私は、おまえという光を得て、はじめて人を愛する喜びを知った。おまえを見つけたとき、まだ小さくて……触れたら壊れてしまいそうだった。そのとき強く思ったんだ。この大切な命を失いたくない、守ってやりたいと。――おまえは、この世でたった一人の私の妹。父上も母上も亡き今、おまえだけが私の家族なんだ」

「……っ、ありがとう、兄様っ」


 アリスは、泣くのを耐えるかのように、くしゃりと顔を歪ませた。


「オレだって……! オレだって、嬉しかったんだ。独りぼっちだって思ってたのに、兄がいるってわかって。オレにはもったいないくらい出来た人で、こんなオレにいつも優しくしてくれた。オレは多分、兄様が望んでた妹と違ったと思う。乱暴だし、口も悪いし……。綺麗なドレス着て、微笑んでるだけなんてできなかった。オレは、兄様の妹には相応しくないんだ」


 でも、とアリスは、瞳を潤ませた。


「オレは、兄様の妹で在りたい。ずっとずっと、兄様の妹がいいんだ」

「アーリー……!」

「……へへっ、半分でも血を分けた兄妹がいるってさ。それって心強いことだね。この世に一人でも肉親がいるなら、強くなれる気がする」

「ああ…、そうだね」


 コツンと額をつき合わせたクロイツは、吐息のように言葉を吐き出すと、静かに目を瞑った。


「おまえがいてよかった」

「オレもだよ」


 普段はどうしても避けてしまう兄だけど、アリスだって彼が大切なのだ。

 今はまだ表立って会えないから、こうしてクロイツが忍び込んで来なければ会うことはないだろう。

 面と向かって言うには照れくさい言葉も、今だけは素直に口にできた。

 あと少しだけ、とアリスも目を瞑った。

 もうすぐ、兄の従者が窓に石を投げつけてくるだろう。それが、終わりの合図。兄はまた戻らなければならない。

 兄が兄でいられるこの一時が、もう少し続くことをアリスは祈らずにはいられなかった。


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