傷つけない方が、難しかった
家に戻ってからも、あの光景が頭から離れなかった。
帽子にマスク。
黒い服。
背中を向けて、逃げるように去っていった男。
――殴らなかった。
前の俺だったら、
考える前に、体が動いていた。
異世界では、
敵意を向けられた時点で、排除する。
それが正解だった。
(……ボコボコにして、終わりだったな)
傷つけた方が、早い。
分かりやすい。
確実だ。
でも。
相手も傷つけず、
自分も踏み越えず、
それでいて、守る。
(……こっちの方が、よっぽど難しい)
力を使わないという縛りは、
思っていた以上に、重かった。
そのときだった。
視界が、白く滲む。
気づけば、あの何もない空間に立っていた。
『よくやった』
女神の声。
「……今のが?」
『そうだ』
即答だった。
「あれで、徳を積んだ?」
正直、実感はなかった。
殴っていない。
説教もしていない。
名前すら名乗っていない。
『人を助けるときは』
『最低限でいい』
女神は、静かに続ける。
『助けすぎれば』
『相手の尊厳を奪う』
『やりすぎれば』
『あなたの力を誇示するだけになる』
思い返す。
彼女は、叫ばなかった。
助けを求める声も、上げなかった。
それでも――
怖かったはずだ。
『あなたは』
『「奪わなかった」』
『恐怖も』
『選択も』
『その後の人生も』
胸の奥が、静かに鳴った。
「……徳を積もうとするのを、やめたら」
「徳を積めた、ってことか」
『そういうこともある』
皮肉でも、罰でもない。
ただの事実として、女神は言った。
「あと、どのくらいだ」
思わず、聞いていた。
「あと、どれだけ徳を積めば」
「俺は、元の世界に帰れる」
一瞬の沈黙。
『それは』
女神は、少しだけ間を置いてから答えた。
『分からなくていい』
「……は?」
『数を気にした時点で』
『それは修行じゃなくなる』
『あなたは』
『徳を集めているのではない』
『生き方を、学んでいる』
白い空間が、ゆっくりと薄れていく。
『焦るな』
『殴らなかった選択を』
『軽く扱うな』
『それは』
『あなたが、変わった証だ』
気づけば、自分の部屋だった。
静かな夜。
拳を、そっと開く。
殴らなかった。
壊さなかった。
奪わなかった。
(……確かに)
少しだけ、
胸の奥が、軽い。
徳を積むことを、
諦めたつもりだった。
だが――
どうやら俺は、
まだ、修行の途中らしい。
それも、
思っていたより、
ずっと人間らしい修行の。




