越えてはいけない線
放課後。
彼女が校舎を出るのを、少し離れた場所から確認する。
(……念のためだ)
声はかけない。
目も合わせない。
ただ、同じ方向に歩くだけ。
距離は、十分に取っている。
気づかれることは、まずない。
しばらく歩いても、何も起きない。
(……気にしすぎか)
そう思って、踵を返しかけた、そのときだった。
人の流れの中から、
不自然に「浮いた影」が現れた。
全身、黒。
帽子、メガネ、マスク。
顔は、まったく見えない。
――おかしい。
彼女も、それに気づいたのだろう。
歩調が、わずかに速くなる。
影も、速くなる。
彼女は、走った。
逃げるように。
振り返らずに。
影も、追う。
(……確定だな)
考えるより先に、体が動いていた。
距離を詰める。
足音を殺す。
男の背後に、回り込む。
「彼女に――」
男が、はっと振り返る。
その一瞬で、間合いに入った。
「手ぇ出すな」
それだけ言った。
声を荒げない。
殴らない。
触れもしない。
ただ、視線を合わせる。
男は、一瞬だけこちらを見て、
舌打ちもせず、何も言わず――
踵を返し、雑踏の中に消えていった。
それで終わりだった。
彼女は、立ち止まっている。
肩が、少しだけ震えている。
だが、俺は近づかない。
声もかけない。
彼女が振り返ったとき、
そこにはもう、誰もいない。
(……これでいい)
助けを押しつけない。
恐怖を、奪い取らない。
ただ、「越えてはいけない線」を引いただけだ。
女神の言葉が、遅れて浮かぶ。
――助けてほしくても、
助けを呼べない人もいる。
見極めろ、と。
(……なるほどな)
殴らなかった。
名乗らなかった。
英雄にも、ならなかった。
それでも――
越えさせなかった。
それだけで、十分だった。
修行は、
また一つだけ、形を変えて進んでいる。




