「名前を喪った朝に、それでも残るもの」
朝は来た。
来てしまった、と言うべきだった。
何事もなかったかのように、世界は回っている。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日と同じ角度で床を照らし、
ポットの湯が沸く音は、いつもと同じリズムで鳴っている。
変わらない。
何一つ。
――何一つ、変わっていないはずなのに。
「……ねぇ」
最初に口を開いたのは、リオナだった。
パンを持ったまま、動きが止まっている。
「なんか……おかしくないですか」
“おかしい”。
その一言が、妙に重く響いた。
アリアは視線を落とす。
自分の手。
テーブル。
影。
「……うむ」
ようやく出た言葉は、ひどく曖昧だった。
「何かが……欠けておる」
欠けている。
確かに、そうだ。
だが――
“何が欠けているのかが分からない”。
セレナは、ゆっくりと目を閉じた。
思考を沈める。
昨日。
夜。
この部屋。
(……いた)
確かに、“誰か”がいた。
それは、ただの知識ではない。
感情が、そう叫んでいる。
大事な存在。
失ってはいけない存在。
なのに――
(……名前が、出てこない)
思い出そうとした瞬間、記憶が崩れる。
輪郭が、ほどける。
まるで、最初から“なかったもの”のように。
胸の奥が、強く締めつけられた。
「……消えてない」
セレナは、ほとんど自分に言い聞かせるように呟く。
「消えてない。忘れてるだけ」
その時だった。
テーブルの下。
影が――揺れた。
三人の視線が、同時にそこへ吸い寄せられる。
小さい。
頼りない。
それでも、“形”がある。
そこにいる。
理由なんて分からない。
でも、分かる。
“ここにいる”。
アリアの喉が震えた。
「……おる」
それだけで、十分だった。
セレナは、息を吐く。
「……よかった」
リオナは、そっと手を差し出す。
触れられない。
けれど。
影は――確かに応えた。
わずかに、揺れた。
それだけで、胸の奥の何かが、救われた気がした。
◆
通学路。
足音が、やけに遠く感じる。
三人は並んで歩いていた。
言葉は少ない。
だが、不思議と沈黙は苦しくなかった。
「……変なのじゃ」
アリアがぽつりと零す。
「忘れておるはずなのに……」
続きの言葉が出てこない。
セレナが引き継ぐ。
「怖くない、でしょ」
アリアは、ゆっくり頷いた。
リオナは、小さく笑った。
「……うん」
「理由は分からないですけど」
“守りたい”。
その感情だけは、はっきりと残っている。
名前も、過去も、理由も。
すべて曖昧なのに。
それでも。
(この人を、守る)
その選択だけは、消えていない。
◆
教室の扉を開けた瞬間。
空気が変わった。
音はある。
人の気配もある。
だが――
“揃いすぎている”。
影が。
床。机。壁。
すべての影が、同じ方向を向いている。
統一された異常。
「……来る」
アリアが低く呟いた。
その瞬間。
教室の中央。
影が、立ち上がる。
ゆっくりと。
あまりにも自然に。
それは、人の形をしていた。
だが、人ではない。
温度がない。
呼吸がない。
“意味”がない。
ただ、“そうあるべきもの”として存在している。
『確認』
声が響く。
冷たい。
空虚。
『未完成個体の消失を確認』
『代替個体、起動完了』
心臓が、強く打つ。
アリアが前へ出た。
「……何者じゃ」
影は答える。
『影城より派遣された新規個体』
『旧個体は不要』
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが“はっきりと拒絶した”。
違う。
それは違う。
理由は分からない。
でも――
“それは違う”。
セレナが、静かに問う。
「……あなた、自分で何かを選んだことは?」
間を置かず、返答。
『不要』
『王は選択しない』
『与えられた機能を実行するのみ』
リオナの視線が、鋭くなる。
「……じゃあ、違います」
はっきりと言い切った。
「あなたは、その人じゃない」
影が、わずかに揺れた。
『識別不能』
『該当個体は存在しない』
『消去済み』
その言葉が――
三人の中に残っていた“何か”を、強く引き裂いた。
アリアが、低く言う。
「消えてなどおらぬ」
一歩、踏み出す。
「名前は分からぬ」
「だが――おる」
セレナも続く。
「思い出せなくてもいい」
「ここにいる、それだけでいい」
リオナが、震える声で言う。
「私たちは……分かってます」
その瞬間。
教室中の影が、一斉に蠢いた。
集まる。
流れる。
そして――
三人の前に、ひとつの影が現れた。
小さい。
弱い。
それでも。
確かに、“立っている”。
守るように。
(ここにいる)
声はない。
だが。
確かに、届いた。
三人は、同時に頷いた。
「……分かっておる」
「……聞こえてる」
「……大丈夫」
名前は、もうない。
それでも。
“この人”は、ここにいる。
◆
『排除対象を確認』
代替の王が、手を上げる。
影が動く。
教室の空気が、歪む。
だが――
三人は、もう迷わなかった。
理由はいらない。
名前もいらない。
ただ一つ。
“選ぶ”。
その意思だけで、十分だった。
アリアが踏み込む。
セレナが息を整える。
リオナが拳を握る。
そして。




