第30話:知恵熱少女とクレープ
カツン、と。
木製のペンの後ろで机を叩く音が、静かなリビングに響き渡った。
「カリナ、そこは『遺跡』じゃなくて『遺物』。部首が違うわ」
「ううっ……頭が爆発しそう……」
私たちの住むアパートの共有リビング。
テーブルの上には大量のノートと単語帳が広げられ、カリナが頭を抱えて突っ伏していた。
シーカーズの見習いとして雇われた彼女への、クロエ先生による『スパルタ読み書き教室』が開講されてから二時間。
外の世界で魔物と戦うよりも、今のカリナにとってはペンを握る方がずっと過酷な試練らしい。
「ほらほら、温かいお茶淹れたよ。ちょっと休憩しよっか」
私は湯気を立てるマグカップを二つテーブルに置き、カリナの背中をポンポンと素手で叩いた。
カリナは「ありがとう、セレン……」と涙目で顔を上げた。
「……仕方ないわね。詰め込みすぎても効率が落ちるし、今日はここまでにしましょう」
クロエはふぅと息を吐いてペンを置くと、メモ帳にサラサラと何かを書きつけ、それを一枚の紙幣と共に私に差し出した。
「夕飯の買い出しをお願い。ついでにカリナ、あなたも息抜きについていってあげて。王都の市場の空気を見るのも、立派なお勉強よ」
「は、はいっ!」
お勉強から解放されたカリナは、弾かれたように勢いよく立ち上がった。
◇ ◇ ◇
アパートを出て、私たちは王都の南側にある活気あふれる巨大な市場へとやってきた。
「わぁ……! すごい人!」
石畳の広場には所狭しと色とりどりのテントが並び、新鮮な野菜や果物、香ばしい焼き立てのパンの匂いが風に乗って漂ってくる。
魔力で動く冷蔵庫の代わりに、大きな氷の塊を荷車で運ぶお兄さんや、ゼンマイ仕掛けのオモチャを実演販売しているおじさん。
「なんだか、お祭りみたいね」
カリナは目をキラキラさせながら、周囲をキョロキョロと見渡している。
「ふふっ、毎日こんな感じだよ。みんな魔法やスキルがなくても、工夫して色んなものを売ってるんだ」
私たちはクロエのメモを見ながら、じゃがいもや玉ねぎ、お肉などを次々と買っていった。
私は両手に紙袋を抱えて「うぅ、重たいよぉ」とヨロヨロしていたけれど、隣を歩くカリナは涼しい顔をしていた。
「セレン、それ全部私が持つよ。はい!」
カリナは私の持っていた重い袋をひょいっと受け取り、自分の分と合わせて10キロ近くある荷物を、まるで羽毛のように軽々と抱え直した。
「ええっ!? カリナさん、力持ちだね!」
「外の世界で、自分の背丈より大きな魔物の素材を運んだりしてたからね。これくらい全然平気よ」
結界の中ではスキルによる身体強化は使えないけれど、彼女が傭兵として培ってきた基礎体力(純粋な筋肉)は本物だった。
「カリナさんのその力、シーカーズの機材運搬でもすっごく頼りになりそう! 私なんていつも段差で転んじゃうのに」
私が素直に褒めると、カリナは少し照れたように「そ、そうかな?」と頬を掻いた。
外の世界では「人殺しの道具」や「盾」としてしか見られなかった自分の力が、ここでは「重い野菜を運ぶ」という平和な日常のために使われている。
それが、彼女にはとても新鮮で嬉しいことのように見えた。
無事に買い出しを終え、市場のアーケードを抜けようとした時。
ふと、私の視界に、ショーウィンドウに綺麗な服が並ぶブティックが飛び込んできた。
私はカリナを見た。
彼女はずっと、外の世界で着ていた煤けた革の鎧と、擦り切れた地味なズボン姿のままだ。
「カリナさん、ちょっと寄り道しよっか!」
「えっ? セレン、どこに……わわっ!」
私はカリナの手を引き、明るいブティックの中へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませ!」
店員さんの明るい声と、色とりどりの布の匂いが私たちを迎えてくれる。
カリナは場違いな場所に来てしまったとばかりに、オロオロと視線を彷徨わせていた。
「あ、あのセレン、ここは……」
「カリナさんの服を買いに来たの! これからシーカーズの本部に出入りするんだし、お仕事用と、普段着のお着替えがないと不便でしょ?」
私はラックから、いくつか服を見繕ってカリナの体に当ててみた。
「セレン、でも私、お金なんて……」
「大丈夫! 今日は私のおごり! カリナさんがお勉強を頑張って、いつか立派な調査員になった時に、出世払いで返してくれればいいからね」
私がウインクして笑うと、カリナは目を丸くした後、申し訳なさそうに、でもすごく嬉しそうに「……ありがとうございます」と小さく呟いた。
「よーし、じゃあまずはこれ! 着てみて!」
私が最初に渡したのは、淡いブルーのワンピースだった。
裾には控えめなフリルがついていて、風通しの良さそうな柔らかい生地だ。
試着室から出てきたカリナを見て、私は思わず「おおー!」と手を叩いた。
「すっごく可愛い! カリナさん、そういうフワフワしたの似合うよ!」
「ほ、本当……? 私、今までこんなひらひらした服、着たことなくて。いつも泥や血が目立たない、暗い色の服ばっかりだったから……」
鏡の前に立ったカリナは、自分の姿が信じられないように、そっとスカートの裾を撫でた。
その顔は真っ赤に染まっていて、年相応の18歳の女の子の可愛らしさが溢れていた。
「うん! 可愛い! これはお休みの日の普段着に決定! 次はこっち!」
次に私が選んだのは、働きやすい、スタイリッシュな服だ。
白のブラウスに、機能的なポケットがたくさんついた黒のショートベスト。そして動きやすい細身のパンツ。
「おお……これは、すごく動きやすい。それに、なんだか賢そうに見えるねえ」
鏡を見たカリナの表情が、今度はキリッと引き締まる。
シーカーズの本部を歩いていても全く違和感のない、知的な仕事着のスタイルだ。
「うんうん、バッチリ! じゃあこの二着、お願いします!」
私はお財布からお金を出して、カリナの新しい生活のための服を購入した。
◇ ◇ ◇
「本当に、何から何までありがとうね。私、絶対に立派な調査員になって、この服の恩返しをするから!!!」
両手に紙袋を抱えたカリナが、帰り道のトラムの中で何度も頭を下げてくる。
「えへへ、気にしないで。私もクロエにいっぱい買ってもらってるから」
窓の外を見ると、天空を覆う『星時計の魔法陣』が、夕焼けのオレンジ色を反射してキラキラと輝いていた。
カリナは自分の膝の上に乗せた紙袋を、まるで宝物のように大切に抱きしめている。
外の世界では、彼女はただの『戦力』だった。
でも、この平和な結界の中では、美味しいご飯を食べて、難しいお勉強に頭を悩ませて、可愛い服を着て頬を赤らめる、等身大の女の子だ。
「……なんだか、私、普通の人になれたみたい!」
カリナが、夕日を見つめながらポツリとこぼした。
「カリナさんは最初から普通の女の子だよ」
私がそう言って微笑むと、カリナはふわりと、心底ホッとしたような柔らかい笑顔を見せた。
「さ、帰ろっか! 今日はクロエがハンバーグ作って待っててくれるって言ってたし!」
「ハンバーグ……! うん、早く帰ろーー!!」
私たちはトラムを降りて、夕暮れの街を並んで歩いた。
シーカーズの新しい仲間として、カリナの平和で少しだけ大変な『見習い生活』が、こうして温かく幕を開けたのだった。
「あ、セレン?」
「どうしたの??」
「良かったらさ、呼び捨てで。《《カリナ》》って呼んでほしいかな」
お!待ってました!実はちょっと悩んでたんだよね。
切り出すタイミングを探してたところだから……ありがとうカリナ~。
「ふふ、おーけー!よろしくね!《《カリナ》》」
「うん!こちらこそよろしくね!!」
私が思わず手を差し出した、が。彼女は両手が荷物一杯だったのでこの差し出した手をただ戸惑って見つめるだけだった。ああ、肝心な時に私のバカ。
カリナ「セレンに買ってもらったこの服……すごく動きやすいし、可愛い。……絶対に立派な調査員になって、出世払いで返すんだから!」
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