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19. 回想-A Hope Teller

 先天性の心臓疾患を抱え、身体能力には限界がありながらも、その他の活動に関して、葵はどちらかというと「できる」ほうだった。授業プリント。百ます計算。絵画。作文・感想文。どれも比較的卒なくこなす彼女だったが、その授業は珍しく休み時間まで残っていた。

 右手に握られた鉛筆は、長時間紙面の上で静止したままだった。プリント上部には、拙い字で書かれた「一ねん一くみ くさかりあおい」の氏名と印字された「しょうらいのゆめ」が並んでいた。

 ほとんどの児童が、外や他のクラスに遊びに出ていたため、教室内は静かだった。葵以外に残っていたのは、絵を描くのが好きなグループと、読書をする凉だけだった。

 休み時間が始まって十五分、葵の手が止まってからは一時間が経過した。葵はすでに書くことを諦めようとしていた。休憩が終わる五分前になったら、職員室に行って先生に謝ろう。そんな考えが頭を過った矢先、

「まだ書き終わんないの? もうすぐ休憩終わるけど」

突然声を掛けられ、顔を上げた。凉だった。あまりにも遅いから、様子を見に来たのだろう。

 凉は、英語のタイトルが書かれた分厚い青紫色の本を閉じた。

「夢なんて何でもいいじゃん。パティシエでも、イラストレーターでも、学校の先生でも。職業じゃなくてもいい。有名人に会いたいとか、ドラゴンを飼いたいとか。何か一つぐらい、やりたいことってあるでしょ?」

 ポキっと小さな音が鳴った。見ると、無意識にプリントを刺していた鉛筆の芯が折れていた。黒い欠片が、プリントに軌跡を残しながら机の隅まで転がっていき、凉の足元に落ちる。

「あるよ」

葵の呟く声に、床を見下ろしていた凉が頭を上げる。

「山に登って珍しい花と動物を見たい。小さくなった街も見たいし、やまびこも聞いてみたい」

「じゃあ、そう書けば――」

「叶わないもん」

きっぱりと言い放った。凉が反論の言葉を探す間、さらに続ける。

「お父さんね、昔、漫画家を目指してたんだって。でも、なれなかった。お母さんも、宇宙飛行士になって月にいるウサギに会いに行くのが夢だったらしいけど、ダメだった」

 物憂げな眼差しが、「しょうらいのゆめ」の字から窓の外へと移る。

「同じ病気の友達も、お姉さんたちも、アイドルになるとか、イルカと泳ぐとか、医者になるとか、それぞれ夢を持ってた。でも、みんな死んじゃった」

 震えた手に握られた鉛筆が、欠けた先端で「しょうらいのゆめ」の印字を抉る。

「夢なんて、そんなもんだよ」

 突然、机の上に分厚い専門書が下ろされた。葵の手の震えがぴたりと止まる。

 葵と目が合ったところで、凉が口を開いた。

「僕はね。研究者になって、ぜーんぶの病気を治せるようにしたいと思ってる」

「いくら頭のいい凉でも、そんなの叶いっこない――」

「叶うよ」

力強い声だった。葵は思わず口を閉ざす。

 凉の目は、自信に満ちていながら驕っているわけではない、真摯な眼差しだった。そして、確かな熱意があった。

 それは、葵自身が自覚している自分の目とは対照的だった。

 友達とのお喋りやお絵描きは楽しい。美味しいものを食べると満たされる。だが、そうして得られる幸せは所詮一過性のもので、多くの時間心を占めているのは虚無感だった。長生きできないことを悲しいと思ったことはない。むしろ、病気のせいでできることが少ないから、早く終わって欲しいとすら思っている。治る希望もないのだから、なおさらだ。

 色のない世界で、時間だけが過ぎていくのを待ち続ける。それが葵にとっての人生だった。

 凉の見せた目は、そんな彼女のものと決定的に違っていた。同時に、憧れを語る少年少女のどの瞳とも異なっていた。

 それでも葵は、まだ凉の夢が叶うとは信じていなかった。今まで見てきた他人と同様、簡単に潰えてしまうのだろうと思っていた。

 そんな予想を嘲笑うかのように、凉は夢に向かって邁進していった。海外の大学の研究室見学で気に入られ、そのまま研究に参加。九歳で学術論文に名前を載せる快挙。まもなく、日本政府の「ダイヤの原石プロジェクト」の参加権を手にすると、思い上がるどころか、早く他の研究者と同じ土俵に立とうと勉学・研究にいっそう励み始める。プロジェクト開始後初めての学会発表で、すでに専門家たちと議論を交わせるようになっていた。

 次第に、葵は凉の言葉を信じるようになった。

 明日、もしかするとすごい発見をするかもしれない。何なら、いきなりAHT細胞が完成してしまうかもしれない。そんな想像をしては、胸をときめかせる毎日。いつの間にか、つまらなかった日常は鮮やかに色づいていた。

 そして――願うことすら諦めようとしていた夢が、ついに叶った。

 初めての登山。街中では見ることのない美しい花。珍しい動物の姿や声。足で踏み潰せてしまいそうなほどの小さな街並み。やまびこ。知識でしかなかったものが、経験として次々と飛び込んでくる。

 人生で最も幸せな瞬間だった。

 最高の時間を与えてくれた幼馴染に、気恥ずかしさなど忘れて感謝の気持ちが溢れ出す。

「私ね。ずっと人生が退屈だったの。夢は叶わない――そういう現実ばかり見てきたから、夢とか希望なんて、持つだけ無駄だと思ってた。でも、そうじゃないってことを凉が教えてくれた」

目の前に広がる絶景が微かに潤む。

「諦めなくてよかった。凉、本当にありがとう」

 恥じらいのない、まごうことなき心からの感謝を口にすることができた。しかし、生憎その声は凉には届いていなかった。

「もう一回言って?」

 もう一度言うのは、流石に恥ずかしかった。

「絶対に言わない!」

このとき二回目も伝えていればよかったという後悔が、今でも尾を引いている。もし、ちゃんと伝えていたら――この後の展開は変わっていただろう。

 日課のジョギングを終え、病室に戻ろうとすると、様子のおかしい父の姿が見えた。普段は溌溂とした笑みを見せびらかしているが、このときは何故か怖い顔をしていた。

「お父さん?」

不審に思い、葵はそっと後をつけた。

 父が入っていったのは、四階の会議室だった。葵はドアの傍で屈み、こっそりと聞き耳を立てた。

「葵は死なないよな? 大丈夫だよな? な? 亡くなった人は心臓以外の病気の人で、偶然AHT細胞が合わなかっただけだよな? もしくは年齢が――」

「現在調査中です」

 これ以上聞いてはいけない――本能がそう囁くほど、その声に歯向かいたくなった。孫場に立ち上がり、ドアの窓から中を覗き込む。直後、

「AHT細胞はどんな病気も治るんじゃなかったんですか?」

父の、聞いたことのない怒鳴り声が聞こえた。叫ぶように訴える声が、さらに続く。それが落ち着いたかと思うと、凉のほうを向き、急に萎れた声でこう続けた。

「頼む。俺の臓器でも身体でも、何でも使ってくれていい。その代わり、葵を助けてくれ。まだ君のことは信じている、だから――お願いだ」

 脳天をハンマーで殴られたような衝撃が走った。口を押えたまま、葵はその場で呆然としていた。

 AHT細胞は失敗作だった。いずれ、自分も死ぬ。

 胸の中に、ずっしりとした重い何かが圧し掛かった。

 窓越しに、両親と医療スタッフが何か話しているのが見える。しかし、その内容はまったく頭に入ってこなかった。

 先日の登山の記憶が、遥か昔のことのように思えた。あのとき感じた胸の高揚が、自分ごとに思えなかった。

 登山の記憶を思い出したことで、ふと凉を見る。凉も重々しく頭を垂れ、呆然としていた。その口が、徐に開かれる。

「励化線が使えれば」

その声で我に返った。その直後に、前田が叱責した。まもなく、二人以外が会議室から移動する流れになったため、葵は急いでトイレに隠れた。廊下の人の気配が消えたところで、再び会議室に忍び寄る。

 最初に聞こえてきたのは、前田の声だった。

「励化線に頼りたい気持ちもわかるし、私だって、ここの人たちを助けたい。だが、蔵王(ざおう)の封印石はもう替えが利かないんだ。何かあっては、それこそ日本全体がおしまいになる。実感が湧かないのは重々承知しているが、どうか理解して欲しい」

どうやら、蔵王の『フウインイシ』と『レイカセン』が、研究を進める上で重要な因子らしい。蔵王はおそらく宮城・山形両県の県境に位置する山のことだろう。だが、フウインイシとレイカセンに関しては、思い当たる節がない。

 手持ちのメモ帳に震える手で単語を書き留め、いったん病室に戻ることにした。忍び足でトイレを離れ、階段に向かう。

 最中、メモ帳を落とした。慌てて拾い、壁の陰に隠れる。凉と前田の視線がこちらから逸れると、再び足音を立てないようにしながら急いで病室に帰った。

 AHT細胞に不具合があり、まもなく自分も死ぬ可能性が高い。これは間違いなさそうだ。無論、ショックは受けたが、正直なところ、失敗のことも考えていなかったわけでもなかった。それ以上に、会議室で見た、凉の落ち込んだ顔が頭から離れなかった。

 常に堂々としている。大人相手でも決して臆さない。怖いのは注射と採血だけ。冷静な傍観者――少なくとも葵の知っている凉は、そんな人物だった。無論、葵たちとは違う世界でも生きているのだから、人知れず辛い思いはしていることだろう。それでも、弱さを晒したことはない。

 つまり、本心を隠すことができないほど滅入っている。

 自分の人生に希望を与えてくれた人が、絶望に挫けそうになっている。

 葵は決心した。今度は自分が救う番だと。

 翌日、日課のトレーニングの途中で病院を抜け出し、最寄りの図書館に向かった。検索用のパソコンに「蔵王」「封印石」と打ち込み、本文検索を掛ける。

 ヒットしたのは、怪奇伝承集一冊だけだった。胡散臭さを覚えたものの、取り敢えず読んでみることにした。

 該当のページを開くと、『人妖』という妖怪の解説が記載されていた。読み進めていると、「蔵王」「封印石」の他に「励化線」という単語も発見した。

 レイカセン。間違いない。

 内容を要約するとこうだ。蔵王にある封印石をどけると、励化線が発生して人が化け物に変わる。この「蔵王にある封印石をどけると、励化線が発生する」という箇所が、昨晩の前田の話に当たるのだろう。蔵王に行って封印石を取れば励化線が発生し、AHT細胞の研究が進められる。筋が通った。

 財布の中身を確認すると、先日の高尾山登山で、何かあったとき用にと預かっていた福沢諭吉が二人いた。片道分は足りそうだった。

 本を放置し、急いで蔵王に向かった。約三時間、新幹線やバスを乗り継ぎ、山麓に到着する。そこからロープウェイでさらに上を目指した。周囲を取り囲む森林は、先日登った高尾山と違い、神秘的で厳かな空気が漂っていた。

 停留所に到着した、本に記載のあった通り、正規ルートを外れて進む。まもなく、血生臭い一軒家が目の前に現れた。伝奇に対して残っていた数パーセントの疑いが、百パーセントの信用に変わった瞬間だった。一軒家の手前には空き地があり、そこから四方にいくつか伸びる道が、さらなる山奥へと誘おうとしていた。

 葵は、一軒家の脇から伸びる、唯一アスファルトで舗装された道を進むことにした。

 頭上は常に木の葉に覆われ、透過したわずかな日光が緑色を纏って降り注いだ。全身をひんやりとした空気が包み、心地よさより寒気を覚える。道が舗装されているおかげで、急な段差や不安定な斜面に足を取られる心配はなかったが、鋭いカーブや勾配が続き、決して歩きやすいわけでもなかった。

 程なくして、坂道が石段に変わった。すでに息切れしていたが、休憩している時間がもったいない。日没までには、確実に封印石を取っておきたかった。手すりに掴まり、階段を上った。一段。また一段。踏み締めるタイミングに合わせ、手すりを掴む手が前に移動する。握っていた箇所には、汗の混じった掌紋が残った。

 ちょうど四十段で、石段が終わった。目の前に、工事現場で見るような白い囲いが現れる。およそ送電塔一つ分の柵と同等の広さを囲んでおり、囲いの上から頭を覗かせるものは何もない。さらに、「侵入禁止」の文字もなければ、見張りの一人もいないという有様だった。

 中に入れる場所がないか、囲いに沿って歩きながら探してみると、石段と正反対の位置に扉を発見した。残念ながら鍵穴があったので、おそらく施錠されているだろう。半ば諦めながらノブを回す。

 扉が開いた。恐る恐る中に足を踏み入れる。

 そこにあったのは、葵の背丈と同じぐらいの石造りの祠だった。その中には、祠の大きさにそぐわない、小さな石片が鎮座していた。子供の手にも乗る大きさで、そこら辺に落ちているような、いかにも無加工という形をしており、くすんだ赤橙色を帯びている。

 本当にこれを取るだけで、励化線が放出されるのか? 半信半疑で石に手を伸ばす。

 そっと石を手に取った。

 何も変わらなかった。強いて挙げれば、空気感は変わったような気がするが、気のせいだと言われれば頷ける程度のものだ。

 葵は、手の中の石をしばらく見つめた。動いたり、発光したりといった変化はなく、祠の中にあったときと変わらない、くすんだ赤橙色をしていた。

 葵は、少し残念そうに石をズボンのポケットにしまい、囲いの外に出た。やはり何も起こらなかった。警報音や、罠の作動もなければ、警備が駆けつけてくる様子もない。伝記の内容が本当なら、子供一人に易々と石を取られるような手薄な警備にはならないはずだ。

 所詮、伝承だったのだろうか? 信用していた自分が馬鹿らしくなり、肩を落としながら来た道を引き返す。行きは長く感じた石段や勾配も、下りである故かあっという間だった。

 木々の間から見え隠れしていた例の不気味な一軒家が、ようやく全貌を見せたそのときだった。

「封印石を取ったのはお前か?」

この場所に続く別の道から、男の声が聞こえた。

 見ると、黒マスクの大人が、息を切らしてこちらを睨んでいた。

 今頃見張りがやってきたのか――葵は唾を飲み込んだ。

「早く戻してこい!」

男が冷たい怒声を浴びせる。命令に背いたら殺される――そう思わせるほど殺気立っていた。葵は、ポケットを庇うように小さな手で覆う。目立たないほどの小さな膨らみが、嫌に強調されているように感じた。

 葵が応じないことを悟ったのか、男は大股で近寄ってきた。

 半ば反射的に、葵は適当な道に向かい、走り出した。

「待て!」

後ろから聞こえる足音が、駆け足のものに変わる。葵はさらに足を急がせた。

 不規則に露出する木の根や石、滑りやすい落ち葉。自然の罠が逃走を妨げる。リハビリとトレーニングで常人の身体能力は獲得したものの、過酷な足場の中で成人男性から逃げ切るほどの体力はまだ備わっていなかった。間の距離はあっという間に縮み、足音がすぐ背後から聞こえるようになる。

 ついに、目の前の道が途絶え、崖が現れた。

 後ろを振り向く。もう走る必要はないと悟ったのか、黒マスクはゆっくりと歩き出した。

 葵の右手が、無意識にズボンのポケットへ伸びた。中のものを握り、きつく瞼を閉じる。石片の角が掌に深く食い込んだが、構わずさらに強く握り締めた。

 そのときだった。頭上から、木の葉の擦れる音がした。

 そっと瞼を開く。直後、目の前に何かが降ってきた。

 一目でわかる、人でないものの後ろ姿だった。背中から生えた鷲のような翼が折りたたまれ、袈裟に同化するように消える。

「お前か」

舌打ちとともに、黒マスクのやや怖気づいた声が聞こえた。

 怪異は、腰から何かを引き抜いた。刀だった。時代劇でしか見たことのない、立派な日本刀だ。所々に発生した赤錆が生々しさを醸している。

 鋭利な先端が鈍い光を放ち、黒マスクを睨む。葵は、決して自分が威嚇されているわけではないにも関わらず、心臓を握り潰されるような鋭い胸の痛みを覚えた。

 黒マスクは狼狽しながらさらに後退し、背後に助けを求めた。

「おい、何をしている! 早く来い!」

方角からして、例の一軒家だろう。

 葵が恐怖と混乱で立ち尽くしたままでいると、不意に怪異がこちらを振り向いた。真っ赤な顔と鋭い目が露わになる。

 逃げようとしたときには、すでに捕まっていた。一瞬にして地面が遠ざかり、ゴンドラから見た山麓の様相が眼下に広がる。

 身体の芯から凍るような寒さと恐怖に、全身の震えが止まらなかった。身体を縮め込み、ガタガタと震え続ける。その最中、

「いや、助かりました。ありがとうございます。やっと感覚も戻ってきました。久々の外はいいですね」

突然、天狗が人語を話し始めた。葵の震えが、一瞬だけ静止する。

 天狗は構わず話を続けた。

「しかし、石を取ったのが子供とは驚きました。止められはしなかったんですか?」

 動揺と恐怖のせいで、質問の内容が頭に入ってこなかった。回答の代わりに、口からは弁明が自然と零れる。

「わ、私はただ、凉を助けたかっただけで……山の主を起こすとは思わなくて」

途端に、天狗は怪訝な表情を浮かべた。

「詳しく話を聞かせてもらえますか?」

意外な反応に、葵もぽかんとする。そうしている間にも山麓に到着し、地面に降り立った。葵が下ろされると同時に、天狗はメガネの中年男性に姿を変えた。驚く暇もなく、

「何か調べられるものはありませんか?」

男性がそう質問した。葵はスマホを手渡した。

「あれから五年も経っていたんですね」

ロック画面を見るや否や、男性はそう零した。

 パスワード入力画面を掲げられ、葵が指紋を押しつける。無事にホーム画面が開くと、男性は若干操作に戸惑いながらも、さっそく検索エンジンで調べものを始めた。次第に、画面を睨む表情が険しくなっていくのがわかった。

 まもなくスマホが差し出され、葵は無言で受け取った。

「ありがとうございます。おかげで、少しだけ状況がわかりました。つまり、君は人妖のことを何も知らないで封印石を取ったと」

「人妖?」

そう呟いた直後にはっとした。図書館で読んだ伝奇のページ項目は、『人妖』だった。確か、励化線で人が化け物に変わるという説明だったはずだ。

 この男性も、ここに来るまでは天狗だった。ということは――

「いずれ、世間の人妖たちが妖化――化け物に変わって襲ってくるようになります。国も黙ってないでしょう、化け物よりも恐ろしい連中が石を探しにやってきます」

 男性の空の右手が差し出される。

「封印石は私が預かります」

 葵の心臓が、発作が起きそうなほど激しく脈打ち始めた。

 突然現れた、正体不明の男性。葵を黒マスクから助けてくれたが、これまでの経緯から考えると、その真意は封印石のためと見ていい。もし拒んだら、黒マスク同様、力ずくで奪いに来るだろう。

 日本刀を差し向ける天狗の姿が脳裏を過った。恐怖で全身に鳥肌が立つ。とっとと石を投げ捨て、一刻も早く逃げ出したかった。ポケットに手を入れ、小刻みに震える人差し指を石に添える。

 不意に、脳裏に苦しそうな幼馴染の顔が浮かんだ。後退し掛けていた右足が、その場に踏み止まる。

「石は……渡せません」

か細いながらも、はっきりとした声が出た。さらに続ける。

「凉を……友達を助けたいんです。私と同い年なのに、AHT細胞っていうすごい研究をやってて、みんなにも期待されて、それに応えようと毎日毎日必死に勉強してて。それが、たった一度の失敗で責められて、立ち直れないぐらい落ち込んでるんです」

 大人に混ざる小さな背中が蘇る。見えない重荷を背負う、影を落とした背中だ。

「凉は私の人生の恩人です。助けるまでは、絶対に渡しません。どんなに怖い目に遭っても、テロリスト呼ばわりされても、世界から憎まれても、絶対に、絶対に――」

話している間に、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。それでも、隠すことなく――臆さず、相手の顔を見据え続けた。

 やがて、男性が腕を組み、空を睨んだ。

「計画を練りましょう。そのために、もう少しだけ話を聞いてもいいですか? 君自身と、そのご友人について」

 葵は、自身の生い立ちと凉のこと、転じてAHT細胞の臨床試験の経過と現在の状況を伝えた。

 左沢と名乗った男性は、葵の病気のことやAHT細胞の研究の進展について、かなり込み入った内容まで質問していた。似たような病に伏した知人でもいるのだろうか、少なからずその方面の知見はありそうに見えた。ただし、左沢自身の話をすることはなかったので、実際のところは不明だ。

 翌日、左沢に連れられ、『石を奪い取ろうとする恐ろしい連中』である血盟士団の拠点の一つに向かった。現場に着くと、左沢はさっそくこう告げた。

「君はここで待っていてください」

何が起ころうとしているのか、察しがついた。しかし――否、だからこそ首を横に振った。

「一緒に行かせてください」

 封印石を戻さないというのは葵の意志だ。そのための犠牲から目を逸らし、封印石は返さないと言い続けるのは無責任に思えた。凉一人を救いたいがために、数多くの不幸が生まれるのなら、それを直視してもなお意志を貫く必要がある。否、そうでなければ見合わない。

 葵の覚悟を汲み取ったのか、最終的に左沢は彼女を同伴させることにした。

 校舎の中で、次々と人が斬り殺されていった。映画ならモザイクやフレームアウトで隠されるような衝撃的な映像が、絶えずに視界に飛び込んでくる。拒むことだってできただろう。その気になれば、瞼を閉じることも、耳を塞ぐこともできた。校舎から逃げ出すことだってできたはずだ。それでも、葵は目を逸らさなかった。必死に吐き気と涙を耐え忍びながら、現実と向き合い続けた。

「無理はしないでください」

制圧後、左沢からそう言われたが、葵は何度も首を振った。

「大丈夫です」

そして、犠牲となった人たちに心の中で謝罪した。

 左沢が団員の一人を脅迫し、血盟士団本部にコンタクトさせると、テレビ通話が始まった。葵はその様子を後方で見ていたが、取引を持ち掛ける前からすでに、相手方の並みならぬ殺気を感じていた。

『何故このタイミングで復活した? 蔵王の団員殺しはお前が仕向けたのか?』

「文明の利器を持たずして、どうやって外部と連絡できるんですか? 手段があるなら、むしろ教えて欲しいくらいですよ。団長」

左沢の返答で、スキンヘッドの強面男性が血盟士団の首領だとわかる。幼い子供でなくとも思わず萎縮してしまうような気迫の持ち主で、存在感も他の人物とは一線を画していた。

『わからないな。だとしたら、お前が直接殺したことになるが?』

「まだ言いますか。いい加減、先入観を捨ててください。確かに封印石は私が持っていますが、団員は殺していません」

映像の向こう側が、途端に騒然としたのがわかった。

 葵はようやく、封印石をあっさり手に入れることができた理由を知った。見張りが殺されていたのだ。何故左沢が犯人と疑われていたのかは疑問だが、少なくとも彼の言葉に嘘がないことはわかっている。それは、続けて放たれた言葉についても同様だ。

「護衛を殺したのは、男二人でした。素性はわかりませんが、およそ目的の見当はつきます」

 葵の脳裏には、例の黒マスクの顔が浮かんだ。もう一人は会っていないが、左沢から脅された黒マスクが助けを求めていたので、仲間がいたのは事実だ。

『待て、話が掴めない。封印石を持っているのはお前だが、護衛を殺したのは無関係の二人組?』

「取引しましょう」

『どういうことだ、左沢』

「取引です、団長」

最早、相手のほうがこちらに臆していた。左沢は微笑を浮かべ、口を開いた。

「まず先に要求を言います。一つ目、AHT細胞の研究への参加」

当然のように、相手方がざわめく。今度は、葵も驚きを隠せなかった。

 ――AHT細胞の研究への参加?

 葵は困惑した目で、他の要求と対価を告げる左沢を見つめる。少なくとも一般人が挙げる要求ではない。彼は一体何者なのか? しかし、その疑問は次の一声に搔き消された。

『乗った!』

これでもかと言うほど、耳に馴染んだ声だった。葵の視線は、一瞬で映像に釘付けになる。

『AHT細胞のひな型を作った人が研究に加わってくれるなら、こっちとしても心強い。ぜひお願いします』

 そこに映るのは、幼馴染の姿だった。曇天がぱっと晴れ渡ったように視界が開ける。信じられなかった。見間違いではないかと疑い、何度も全身に視線を這わせる。見れば見るほど、それは紛れもない凉本人だった。

 残念なことに、まもなく凉は近くの団員に摘まみ出され、画面から見えなくなった。例のスキンヘッドの男性が通話に戻る。

『今の回答は部外者のものだからナシだ。すぐに答えることはできない、時間をくれ』

「では、明日の同じ時間に改めて……」

『いや、そこまでは掛からん。このまま少し待ってくれれば十分だ』

「嫌ですよ。回答待ちの間に背中を刺されるなんて間抜けな真似は晒したくないですからね。明日またご連絡します、それでは」

左沢は通話を切ると、その場に立ち上がり、脅迫していた男性を手放した。一瞬、天狗のときと同じ目で男性を睨んだが、何かを思い出したように目を逸らし、葵に向き直る。

「団が取引に応じる望みは薄いでしょう」

やや硬い表情だった。和んでいた葵の顔つきも、釣られて険しくなる。

「それじゃあ、どうすれば?」

「応じなければ後がない状況に追い詰める、というのはどうでしょう。例えば……君に封印石と爆弾を一緒に取りつけるとか」

後半は明らかな冗談口調だった。しかし、

「わかりました」

葵は真顔で即答した。

 意外な反応だったのだろう、左沢は狼狽しながら弁明や代案を捻り出そうとしていたが、葵が先手を打った。

「AHT細胞が完成しなかったら、どっち道死ぬので。凉を元気づけられるなら、爆弾だろうが何だって受け入れますよ」

芯のあるはっきりとした声が、意識しなくても出る。ただし、自分でもわかるほど上擦っていた。

 左沢は、いつの間にか真剣な顔に戻っていた。血盟士団との通話で使っていた椅子に改めて腰を下ろし、葵のほうを向く。

「君を人質と思うのはやめにします、草刈さん」

 その晩、血盟士団による奇襲があったが、左沢は物ともせずに敵を返り討ちにした。どちらが奇襲を受けたのかわからないほどの圧倒ぶりで、血盟士団は最後まで葵と封印石に指一本触れることができなかった。

 昼の拠点撃破時とは比にならないほど大量の屍が、月明かりの下で露わになる。今までに見たどの地獄絵図よりも地獄のような光景を、罪悪感とともにしっかりと記憶に焼きつけた。

 葵は単純な力量差の結果だと思っていたが、左沢は違ったようだ。さっそく探りを入れようと、血盟士団に連絡を取るも、目ぼしい収穫は得られず、取引のほうも受け入れられることはなかった。しかし翌朝になると、急遽回答を覆した。葵は素直に喜んだが、通話のやり取りから、左沢は不信感を抱いているようだった。血盟士団に集合時刻と場所・条件を言いつけ、通話を切る。

「草刈さんには、留守番をお願いします」

 場所を移し、葵は東北大学医学部キャンパス傍にある会館の一階・小研究室で待機することになった。当該キャンパスは血盟士団の拠点の一つになっていたが、会館は通りを隔てた場所にあったため、団員が近くを行き来することはなかった。しかしながら、葵はずっとそわそわしていた。左沢が凉と話しに行くことがわかっていたからだ。

 何を話すのだろうか? そもそも凉は約束の場所に来るのだろうか? 血盟士団は言いつけを守ってくれるだろうか? そんな不安を抱えながら待つこと約一時間、左沢が帰ってきた。気になることは山ほどあったが、真っ先に口から飛び出したのはこの言葉だった。

「凉は元気でしたか?」

途端に、左沢は渋い表情を浮かべた。

「この間映像越しに見たときと、だいぶ印象が変わりましたね」

言い方からして、おそらく「悪いほう」にだろう。葵が質問を重ねる前に、左沢はこう続けた。

「夕凪さんには、蔵王で会った二人組の正体を探ってもらうことにしました」

「その二人組がわかったらどうなるんですか?」

「AHT細胞の研究に専念できます」

その返答を聞き、葵は左沢がAHT細胞研究への参加を取引の要求として挙げたことを思い出した。

「左沢さんって、AHT細胞の研究やってたんですか?」

 ――AHT細胞のひな型を作った人が研究に加わってくれるなら、こっちとしても心強い。

 画面越しの凉も、確かそんなことを言っていた気がする。

「五年前に、少しだけですが。専門は別です」

血盟士団を相手にするときとは違い、左沢は控えめに告げた。

「でも、五年前ってまだAHT細胞ってなかったと思いますが」

口ではそう言いながらも、薄々気づいていた。五年前。東北。研究者。連想されるものが一つだけ存在する。その予想を裏付けるように、

「ウイルステロがあったらしいですね――」

左沢が例の事件の真相を語り始めた。当時発生したのは、ウイルステロではなく、今回と同じ人妖の大規模暴走化であったこと。それを引き起こした動機こそが、AHT細胞の開発だったのだ。実際に人妖を見ているから、葵はその話をすんなりと受け入れることができたが、おそらく凉は化け物の姿を認めていない時点で知らされたはずだから、相当困惑したのではないだろうか。

 人妖の暴走周りの件は理解できたが、釈然としない部分も残る。

「そもそも何で別の研究をしていたのに、AHT細胞の開発の話が上がったんですか?」

「ああ、グループ内で持ち上がったわけではなく、外から声が掛かったんです。詳しいことはそのうち話しますね」

左沢は、話題から逃げるように時計に目を逸らす。

「探してる人がいるので、出掛けてきます」

昨晩の奇襲後と同じ冴えない表情を浮かべ、再び葵に留守番を任せた。

 葵は、並べられた椅子の上で手持ち無沙汰に横になった。口からは思わず溜息が零れる。

 仰向けになり、瞼を閉じる。ふと幼馴染の落胆した後ろ姿が浮かんだ。研究ができれば、凉も再び元気を取り戻すだろう。三度の飯よりAHT細胞のことを考えるのが好きな人間だ、早く始めて欲しい。もどかしさは募る一方だった。

 そんな願いは、思わずしてその日のうちに叶うことになった。

 夕方、左沢が帰ってくると、緊迫した面持ちで開口一番にこう告げた。

「夕凪さんの元気がないので、来てくれませんか?」

あまりに唐突だったため、嬉しさが込み上げる隙すらなかった。すぐに踵を返す左沢についていき、研究拠点の実験棟へ移動した。

「まずい病気じゃないですよね?」

左沢の表情があまりにも重々しかったため、恐る恐る訊ねる。微かに胸騒ぎがした。

「精神的に相当参っているように見えました」

葵は一瞬、返事に窮した。そして、思い出したように質問を続けた。

「研究は始められそうなんですか? それなら元気が出るかも――」

「できないくらい弱っています」

 無意識に足が静止した。頭をぶん殴られたような衝撃に、思わず目を見開く。

「どういうことですか?」

意味がわからなかった。好きなことというのは、元気がないときこそ気晴らしとしての効果を発揮するものだ。そんなことがあって溜まるか。

 否。あり得るのだろう。そうでなければ、凉が研究好きであることを否定することになる。もっとあり得ない。

 前を歩いていた左沢が足を止め、葵のほうを振り向く。しかし、口は閉ざしたままだった。

 葵は唇を一の字に結び、再び口を開いた。

「凉は、大丈夫なんですか?」

 左沢は震えた溜息を小さく零した。

「休憩室で寝かせていますが……無理はさせないようにします」

「わかりました」

休憩室のある上の階に向いていた視線が、左沢に戻る。葵は拳を握り締めた。

「それなら、会いに行くのは起きてからにします。休養の邪魔はしたくないので」

 左沢は目を見張るだけで、何も言わなかった。

 静まり返った実験棟の廊下に、再び二人の足音が響いた。

 葵は、前を歩く左沢の背中を見据え、歩調を少しだけ上げた。やや萎れた後ろ姿が、治験の失敗で落ち込む幼馴染の姿と妙に重なって見えた。隣に並ぶと、左沢は不意にこう零した。

「夕凪さんの研究データを見せてもらいましたが、化け物みたいな人ですね。どこから時間を捻出しているのか……あれで学校にも通っているって本当ですか?」

「まぁ、学校ではほとんど内職してますけどね。テストで取れてるから、何も言わない先生が多いですけど」

口調は、自然と誇らしげになった。凉と同じ研究者から褒められたのだから、当然だ。正確には、研究者「だった」人物にだが。そこまで考えたところで、以前質問をはぐらかされていたことを思い出し、口を開き掛けた。しかし、

「少しだけ安心しました。それでも、到底一日二四時間の世界で生きているとは思えませんが」

左沢に遮られる形になった。話が続くのか、終わったのかよくわからない沈黙が挟まる。

 隣から受ける不安を纏ったオーラに、葵はつい耐え切れなくなった。何を考えているのか――何に不安を抱いているのかは、明らかだった。

「凉は大丈夫です」

葵は足を止め、振り向く。さらに続けた。

「AHT細胞を完成させるまで、研究者を辞めません。当然、死にもしません。よぼよぼの爺さんになっても、まだ完成していなかったらずっと現世に留まり続けると思います」

自分で話しながら想像してしまい、思わず笑いが零れた。

「先生を納得させられるような具体的な根拠はないですけど、それでも、あいつならやってくれるっていう確信があるんです。滅茶苦茶なこと言ってるのはわかってます。でも、信じてください」

決して左沢を心配させないように、あるいは凉との研究をとっとと始めて欲しいが故にやっつけで放った言葉ではない。紛れもない本心だった。

 左沢は顔を下ろし、小さく息を吐いた。

「やはり、草刈さんが必要ですね」

その顔には微笑が浮かんでいた。今度はまっすぐ葵のほうを向き、ドアに手を伸ばす。

「夕凪さんが起きたら、呼びに来ます」

その場で葵は、再びひとりで待機することになった。会館にいたとき同様、椅子を並べて簡易ベッドを作り、横になる。部屋が広い分、解放感はあったが、寝心地はあまり変わらなかった。

 仰向けになり、瞼を閉じる。

 ――やはり、草刈さんが必要ですね。

 先程の左沢の声が蘇った。嬉しいはずの言葉が、どこか不安を孕む。掻き立てられる胸騒ぎに、思わず目をきつく閉じながら、拳を胸元に押しつけた。


 無意識のうちに寝落ちしていたようだった。目を覚ますと、すでに日没しており、部屋の中は暗くなっていた。寝ぼけ眼を擦りながら、頭が覚醒するのを待つ。頭が動き始めるにつれて、下の階が騒がしいことに気づいた。急いで身体を起こし、椅子から降りて窓の外を確認する。

 下のほうから、黒煙が立ち込めていた。

 パニックで頭が真っ白になった。避難訓練なら学校で何度かやったが、他の児童もいたし、先生が指示を出してくれた。しかし今は誰もいない。思考停止状態から抜け出せずにいる間にも、煙の勢いは増していた。さらなる焦燥が呼び起こされ、全身を巣食う不安が募っていく。まるで、実体を持った何かに胸を押し潰されるような感覚を覚え、呼吸が苦しくなった。

 過呼吸が始まった。死ぬのではないかという恐怖が、途端に押し寄せる。パニックに支配された頭は、根拠のない荒唐無稽な不安を生成しては、さらに恐怖を煽る。息が苦しいのは、ここに漏れ出した煙を吸い込んでしまったからだ。このまま動けなくなり、炎に焼かれながら死ぬだろう。

 苦しい。どんなに息を吸おうとしても、空気が体に入って来ない。次第に視界がブラックアウトしていく――。

 正気を取り戻したとき、そこは外だった。夜空と建物が見え、騒がしい人の声と足音が振動として地面から伝う。ようやく、隣でこちらを覗き込む人物の存在を認知した。次第にその顔がはっきりとする。

 凉だった。自分の頬を抓ってみる。確かな痛みを感じたので、どうやら現実らしい。

「怪我は? 何ともないならいいけど」

聞き慣れた声が耳に届いた。少し不愛想で、でもこちらを気遣っているのがわかる。嬉しさに胸が弾んだが、直に失神前の記憶を取り戻すと、今度は心配の気持ちが沸き上がった。

 左沢からは、研究もできない状態だと聞いている。見た感じ、普段通りの凉そのものだが、無理を装っていると考えたほうが自然だ。

 そもそも、凉の不調は今に始まったことなのだろうか? 最後に見たとき――蔵王の拠点から繋いだテレビ通話で見た時点で、すでに限界だったのではないだろうか?

 ただ、凉が普段通りを装おうとするのと同様に、葵もまた心配しているということを悟られたくはなかった。

「大丈夫。それより凉、何か痩せたね。ガイコツみたい」

「はぁ? 久々に会ってそれかよ。で、失神は今回だけ? 病院出てからは? 何もなかったのか?」

「ないよ。心配性だなー、凉は。本当に何もなかったよ? おじさんも気を遣ってくれたしさ。そうそう、凉よりもずっと心強かった」

「なんだよそれ、ふざけんなよ」

失敗だった。すかさず謝罪しようとしたが、すでに手遅れだった。

「そもそも、お前が封印石を取らなければ、こんなことにはならなかった!」

凉はそう言い残し、背中を向けて去ってしまった。

 悔やんでも悔やみきれない後悔に苛まれた。自らの愚かさを呪った。

 十年来の幼馴染に本心を知られたくなくて、わざと隠す。つい先日、登山のときに同じ過ちを犯し、後悔したばかりではないか。

 それに、凉の反応は予測できたはずだ。無論、普段の凉なら、あの程度の茶化しに本気で怒ることはないが、精神的に余裕がない状態なら話は変わってくる。

 今からでも追いかけて謝るべきだ。そう思い、走り出そうとしたそのとき、

「左沢。話がしたい。応じなければ少年の腕をぶっ刺す」

血盟士団員の声が聞こえてきた。

 指示を請うべく、葵は左沢のいたほうを振り向いた。無人だった。周囲を探しても、どこにも見当たらない。さらに探し続ける間に、先程団員の声がしたほうから、今度は凉の声が聞こえてきた。

 視線を戻すと、凉が必死に抵抗していた。その右腕には、ナイフの刃が宛がわれていた。

「大丈夫だ、死にやしない。何なら傷もすぐ治る」

団員の声が続く。その言葉に嘘はないようだ。それでも、ただではいられなかった。周囲を見回してみるが、なおも左沢が現れる気配はない。

 だったら、自分が出るしかない。唾を飲み、震える右足を少しだけ前に出した。大きく息を吸い、胸に手を当てる。普段より速く脈打っていた。その鼓動に合わせ、団員たちのほうに歩み出した。

 あくまで毅然と。胸の内にそう言い聞かせ、口を開く。

「待ってください! 封印石と私さえ戻ってくればいいんですよね? だったら私がそっちに行きます、石を持って。だから凉を離してください」

 程なくして、集団の中心にいた凉が追い出された。入れ替わりで、葵が迎え入れられる。

 ――凉、ごめんね。

 最悪な再会にしてしまった罪悪感が、胸の中をジクジクと痛めつける。凉がこちらを見ているのがわかったが、視線を返すことはできなかった。

 車での長距離移動を経て、血盟士団本部に到着した。以前、左沢と占拠した拠点から通信を行ったときに見えた場所だった。さっそく、厳ついスキンヘッドの男を筆頭に、強面男たちに取り囲まれる。

「まず、封印石を渡してくれないか?」

スキンヘッドが皺だらけの手を伸ばした。まだ渡すつもりはなかったが、存在だけは確認しておきたかったので、ポケットをまさぐり始める。

 そこにあるはずの石はなくなっていた。ポケットの中身をひっくり返してみても、やはりない。徐々に血の気が引いていくのがわかった。

「ごめんなさい。消えました」

「おいおい、まさか落としたわけじゃあるまいな?」

「ないとは思いたいですけど……」

葵は、ポケットの蓋をぱかぱかと動かして見せる。蓋をすり抜けていくような大きさではなかったはずだ。であるならば、可能性は一つしかない。

「左沢でしょう」

スキンヘッドの隣のサングラスの男が、同じ考えを告げる。スキンヘッドは腕を組んだ。

「だろうな。まぁ、人質は回収できたんだ、そこはいいだろう」

スキンヘッドはそう言うと、葵のほうに向き直り、前のめりになった。

「君にいくつか訊きたいことがある」

映像越しに見たときより二割増しの威圧感が、恐怖と全身の鳥肌を誘発させる。葵はその場に留まろうと、掌をきつく握り締め、踏ん張った。

「何でしょう?」

怯えを払拭しようと、敢えて反抗的な口調を作る。スキンヘッドの男は、表情・声色何一つ変えず、質問を開始した。

「何故左沢と一緒にいることになった?」

「封印石を取った後、怪しい人に捕まりそうになったところを助けられ、そこから一緒にいることになりました」

記憶を呼び起こしながら、正直に答える。

「助けられたって、いきなり現れたのか?」

「はい。でも、現れる前から、その怪しい人とは揉めていたようでした」

「揉めていた? 何で?」

「わかりません」

「そもそも、何故左沢がそこにいた? 何故、『今』取引を持ちかけてきた? 意図は聞いてないか?」

「いいえ、何も」

 後半の返答から、スキンヘッドはそれ以上の詮索を諦めたようだ。無論、葵も投げやりな回答をしたとはいえ、何も知らないのは事実だ。

 ようやく質問攻めから解放される――葵が安堵の息を吐いたのも束の間、

「何故、石を取ろうとしたんですか?」

今度はサングラスの男から質問が飛んできた。葵は一瞬言葉に詰まり、瞬きを繰り返す。しかし、すぐにこう答えた。

「間違って取っちゃいました」

わざと軽い口調で、笑顔を繕う。サングラスは困ったように眉を下げた。

「血盟士団や一部の政府関係者・研究者を除いて、封印石の存在を知っている者はいないはずです。何かしらの意図はあると思っています」

 葵は唇を噛み締め、サングラスの男を睨んだ。

 封印石を取った理由は、凉に知られていけない。だから、凉の周りの人にも教えられない。眉を顰めながら、わざとズレた回答をした。

「石を取ったら、こんなことになるなんて知りませんでした」

当然、サングラスの男は納得していなかった。葵は顔を強張らせながら、次の質問に構える。そこに、

「千路。理由なら天才少年から聞いたんじゃなかったか? もういいだろう」

スキンヘッドが介入し、ありがたいことに質問タイムを切り上げてくれた。千路と呼ばれた男は、不満を露わにしながらも口を閉ざした。

 まもなく、葵は会議から解放されることになった。退室際に、スキンヘッドからこう告げられる。

「ご両親には連絡済みだ。ただ、こっちに来てもらうことは考えてないから、会えるのはもう少し先になる」

その言葉を聞いて、葵は思い出したようにスマホを取り出した。切っていた通知の設定をすべて元通りにすると、たちまちアイコンのバッジに恐ろしい数の通知件数が表示された。胸の中に罪悪感が湧き起こる。

 ――明日には電話しよう。

 葵が凉を心配するように、両親もまた葵を心配しているだろう。お詫びと、明日電話を入れる旨のメッセージを送る。その間にも、会議室からぞろぞろと人が出てきた。会議が終了したようだ。まるで空気になったかのように、葵の前を通り過ぎていく。その中で、一人だけ足を止める者がいた。

「少しいいか?」

千路だった。葵の顔が、無意識に渋くなる。

「しつこいですね」

スマホの画面を閉じ、相手の顔を睨むだけで留まる。どうせ逃げても、また来るだろうと思ったからだ。

 千路は軽く頭を下げ、話を切り出した。

「夕凪は、君が石を取った理由を、死にたくないからだと言っていたそうだ」

「ええ」

葵が即答する。しかし、千路もすぐに続けた。

「だとすると、少し疑問が残る。今までの君の言動は、明らかに死にたくない人間のものじゃない。むしろ、命を捨てる覚悟が要るものばかりだ」

 今度は、即座に返事が思いつかなかった。思考が空回りを続ける中、口だけが準備万端と言わんばかりに開かれる。

 結局、ごまかせそうな言葉は見つからなかった。そこで、はぐらかすためにこちらからも質問をすることにした。

「石を取った目的を知って、どうするつもりですか?」

「可能な限り意向に沿いたい」

「適当な返事ですね。私のと同じくらい」

葵が苦笑する。互いに続ける言葉がなかったからか、わずかに沈黙の時間が流れた。目の前の男に煩わしさは感じていたものの、居心地の悪さや緊張感はなかった。

「もういいですか?」

葵は千路のサングラス越しの目を見ないようにしながら、その場を離れようとした。

「もし仮に、夕凪がAHT細胞を作れなくなったらどうする?」

不意の質問に、足が止まった。

 まるで、凉にはAHT細胞を作れる才能がないと言われているようで、たちまち怒りを覚えた。それが表情にも出ていたのだろう。気づいた千路が、すぐにこうつけ加えた。

「失礼。夕凪の腕を疑っているわけではないんだ」

「じゃあ、何ですか?」

葵が面倒そうに訊ね、手の中のスマホに視線を移した。

 千路は腰を屈めると、葵と目線の高さを合わせてこう言った。

「余計なお世話かもしれないが、食い違いはなくしておいたほうがいい。最悪、望まない結果を生んで、一生後悔することになる」

最後に、「邪魔して悪かった」と言い残し、千路は立ち去った。その背中はどこか寂れていた。

 ようやく面倒な相手から解放され、葵はほっと息を吐いた。そんな安堵と相反して、心の中には蟠りが残っていた。

 先程の千路の言葉が、脳内で繰り返し反芻される。

 臨床試験に失敗して落ち込んだ凉に、自信を持たせたい。AHT細胞の完成を持って、失敗を挽回させてあげたい。そのために励化線を解き、封印石を戻されないように守り、絶好の実験環境を整えた。しかし、AHT細胞は完成するどころか、研究すら始まらなかった。凉の苦しみは、もっと別のところにあったのだ。

 凉が、本当に必要としているものは何なのか?

 しばらくして、辺りが急に騒がしくなった。聞こえてくる話によると、第二化元体備蓄所というところが炎上したらしい。詳しいことはよくわからないが、左沢がまずい状態にあるという声も聞こえてきた。

 左沢がいるということは、凉もいるはずだ。「凉が本当に必要としているもの」はまだ探せていないが、直接会って話す必要はあると思う。

 団員の多くが備蓄所に向かう支度をする中、葵は千路を見つけ出し、こう頼み込んだ。

「お願いします。私も連れてってください」


 車に揺られる間に眠ってしまい、起きたときにはすでに朝だった。

 見知らぬ病院の駐車場で、エンジンが掛かったままの車内にひとり残されていた。目が覚めたのも、母からの着信があったからだ。応答アイコンを押すと、通常の電話ではなくビデオ通話が始まった。

 映像に、父母の顔がどんと並んで表示された。

『葵? 身体は大丈夫? 何ともない? ご飯は? ちゃんと眠れてる?』

「おはよう、お母さん。お父さんもおはよう。うん、電話が来るまでぐっすりだったよ」

開幕からの怒涛の質問攻めに、葵は失笑した。しかしすぐに、そこまで心配を掛けてしまったということに気づき、顔から笑みが引いた。

「ごめんなさい」

たちまち涙が零れ落ちる。釣られて母も泣き出した。話せなくなった母に代わり、涙を堪えるように顔をくしゃっと歪めた父がこう訊ねた。

『確か山形にいるんだよな? 駅の近くって聞いたぞ?』

「今ね、仙台にいる」

『何でまた? こっちにはいつ帰れるんだ?』

 葵は鼻をすすると、目を伏せながらこう答えた。

「ごめん。まだやらなきゃいけないことがあるの」

『やらなきゃいけないこと? 危険なことじゃないよな?』

『それって葵じゃなきゃダメなの?』

父に続いて母も訊く。葵は、口から出掛けていた「わからない」の単語を、すんでのところで飲み込んだ。

 そのとき、外から少年の叫び声が聞こえた。驚いて窓を見る。

 高校生ぐらいの少年が、千路を盾にして大人たち相手に何かを訴えていた。その寂しそうな表情が、凉と重なった。

 ――凉はどこ?

 目を凝らしながら、見える範囲を隈なく見回した。

 見つけた。立体駐車場の上でぽつんと佇む小さな人影。間違いなく凉だった。すべてを諦めたような虚ろな目で、眼下の騒動を見つめている。そのまま崩れたら、二度と立ち上がれない。そう思わせる脆さがあった。

 葵はスマホを口元に近づけ、保留していた返事を告げた。

「うん。私しかいない」

両親からの返答は、すぐには来なかった。しばらくして、父の声が聞こえてきた。

『葵。無茶はするなよ』

『助けが欲しかったら絶対に言って。そしたらお母さんたち、止められても行くから』

母も続いた。葵の口元がふっと綻ぶ。

「ありがとう。お父さんとお母さんの子供で本当によかった」

 通話が終わると、葵は急いで車を降り、立体駐車場に向かった。

 走るのはまだ慣れない。息が苦しい。それでも、凉が挫ける前に行かなければならない。


 世界の敵ではなく、たった一人の味方になるために。

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