18. 救うものの選択
夜が更け、第二化元体備蓄所は、施設西側の一階廊下の一部と地下の特殊実験室を除き、全焼失した。
本部から駆けつけた血盟士団の団員たちが、隣接の病院ロビーに集合し、朝食前の会議を開く。田村が、帝都たちの話と、これまでの団側の動きを整理し、統括した。
「蔵王の団員殺しの二人は、AHTの完璧なやつを狙っていて、その正体は、浜町と、前の騒ぎを起こした研究者の同僚だった。浜町は子供たちにAHTを仕掛けられて、暴走再生? を起こすと脅されていた。間違いないな?」
質問で締め括り、水で口を潤す。すかさず、脇から千路が補足した。
「子供たちは都内の病院に搬送されました。その他の異常がないかも含め、検査中です」
「それに関しては本当によかった」田村はペットボトルの蓋を閉めた。「蔵王団員殺しの二人組は死んで、天狗も死んだ。封印石は返ってきた。だが、AHTが消えて、かの鬼も暴走寸前となった。これが全部一晩のうちに起きたと」
「ああ」
帝都が返答する。その左腕には、ぐるぐると包帯が巻かれていた。あの後、はなの暴走を少しでも遅らせるため、自らの血肉を削ぎ落し、そこに含まれる化元体を与えたのだった。
「華陽は備蓄所の地下に閉じこもってる。本人の希望でな」
田村は難しい表情のまま、腕を組んだ。
「困ったな。細胞の完成に時間が要ることは承知した。待ってやりたい気持ちも当然あるが、長期的な人妖管理についての議論が必要だ。すぐに結論を出すことはできない。それでも、前向きに考えたいとは思っている。それはそうとして、問題なのは鬼のほうだ」
田村の厳しい視線が、帝都を捉えた。他の団員たちの視線も集まる。
「電気系統が死んで、監禁室のドアや装置はすべて手動で開かなければいけない。化元体の調達には、最低でも半日は掛かる。着く頃には暴走してもおかしくないんだろう?」
帝都は睨み返すだけだった。田村は溜息を吐く。
「地下の写真を見たが、簡単に破壊されそうな構造だったぞ? 知らない間に脱走されたらどうする? そもそも、脱走だけなら暴走前にもできるわけだが」
「華陽は脱走なんかしねえ。あいつは、あんたらの決定がどうであろうと受け入れるはずだ。けどな、何でそこまでして殺そうとする? 生かす手段は考えないのか?」
「リスクがあまりにもデカすぎる。鬼一人の命を生かしたところで、最悪国が崩壊し兼ねない。当人も承知しているんだ、何か問題か?」
帝都は納得していない様子だった。しかし、田村は返事を待たずにこう続けた。
「爆弾の準備はすでにできている。新たなトラブルが発生する前に、とっとと終わらせてしまおう。早いところ退避するぞ。お前は残りたければ勝手に残れ」
帝都は唇を強く噛み締めると、プルプルと腕を振るわせながら俯いた。
田村を先頭に、他の団員たちが出口へ向かう。
凉は、前に並ぶ団員たちが捌けるのを待ちながら、ちらりと帝都のほうを見やった。本当にその場から動くつもりはないようだ。凉はきまり悪そうに視線を外し、再び前を見た。
そのときだった。
帝都が出口のほうに走り出し、ドアの前に立ち塞がった。団員たちの視線が、邪魔をする少年に突き刺さる。
「何の真似だ?」
普段より低い田村の声は、一際威圧感を帯びていた。しかし、帝都は動じない。
「地下室を爆破させるってなら、先にここを吹っ飛ばす」
そう言い、彼が肩掛けカバンから取り出したのは、薬瓶だった。ラベルには『ニトログリセリン』と表記されている。
帝都は瓶の蓋を親指と人差し指だけで摘まみ上げ、ぶら下げて見せた。
「こいつを落としたら、衝撃で爆発する」
「そうは見えんがな」
田村はそう言いながらも、明らかに手出しを躊躇していた。
「爆撃は撤回しろ。じゃなきゃ、本気だからな?」
帝都は、まったく引く気を見せない。
少年に集っていた邪見の眼差しには、次第に恐怖の色が見え始めていた。埒が明かないと悟った田村は、背後の人物に助けを求めた。
「千路。お前の飼い犬だ、何とかしろ」
千路は軽く肩をすくめ、前に出た。帝都が険しい表情のまま、無言で迎え入れる。
しばらく、二人は口を閉ざして向かい合っていた。千路は無表情で相手を見下ろし、帝都は毅然とした目で睨み返す。静止画のように動かない。
ようやく、千路が帝都の横に並んだ。そして拳銃を取り出し、帝都――ではなくニトログリセリンに突きつけた。
団員たちが一斉に退いた。
「何をしている? 紛い物でもつまらん冗談はよせ」
田村が血相を変えて捲し立てる。千路は、銃口を無人の通路に向けると、安全装置を外して引き金を引いた。鋭い発砲音とともに、数メートル先に置かれた「受付」のパネルスタンドが勢いよく倒れた。
団員たちは、さらに一歩退いた。唯一、田村だけがその場に留まった。
「飼い犬に手綱を握られてるのか? 浜町と違って、お前は脅迫に応じる人間だとは思ってないが」
「無論です。元より脅迫材料もありませんから、手綱もありません」
千路が淡々と答える。途端に、田村の目つきが変わった。
「正気か? いつぞの地獄が再現されても構わないと? 万一のことがあれば、もはや責任云々の問題では済まなくなるぞ?」
「重々承知しております。ただ、不要な犠牲を出すのは好みません」
「鬼に食われるのは必要な犠牲だと?」
「最後まで聞いてください、団長」
銃口がニトログリセリンに押しつけられる。田村は息を飲み、半歩退いた。
「言ってみろ」
田村が、一段声のトーンを下げて促す。千路は、瓶からわずかに銃口を離した。
「化元体が届くまで、爆撃は待っていただけませんか? 三橋の監視と化元体の投与は私が行います」
重々しい沈黙の中、「は?」という小さな呟きが千路の隣から上がった。しかし、その他大勢は疑いの目を貫き、事の成り行きを見守る。
「失敗したらどうする?」
田村が全員を代表して訊ねた。
「その可能性が見えた時点で連絡します。そのときは爆破してください。私が持ち込むでも構いませんが」
千路の目が、帝都の持つ薬瓶を捉える。
帝都が、瞳を濁らせながら何か言いたげに見上げていたが、千路は一瞥もくれずに田村に向き直った。
田村はしばらく悩んだ挙句、目の角を取り払いこう告げた。
「そこまで言うなら、本件はお前に任せる。鬼の処遇については、後ほど改めて議論するとしよう」
「ありがとうございます」
緊迫状態から解放され、安堵の空気が流れた。凉も、無意識のうちに強張っていた肩の力を抜く。状況を収めてくれた人物は、さっそく田村と打ち合わせを開始していた。その姿を見ながら、いつか彼の言っていた言葉を思い出した。
――失敗した場合を想定して、責任を取れるか否かで決めている。
失敗したら死ぬ。否、化元体投与に行くだけでも相当危険だ。はなを暴走の危機・あるいは暴走状態そのものから救い出すことを成功と呼ぶのなら、成功イコール千路の生還とは限らない。自らが犠牲になることを前提として考えたとしか思えなかった。そもそも、五年前にはなを救うと決めた時点で、こうなったときを覚悟していたのではないだろうか。
では、はたしてそれを、最も身近な人物はどう捉えるだろうか? 凉は恐る恐る帝都のほうを見た。
ばっちりと目が合った。
とっさに目を逸らした。無自覚のうちに、右手がポケットの中をまさぐり、封印石があることを確認する。凉は、石を手放すまいと力強く握り締めると、大人の陰に隠れながら、こっそりロビーから逃げ出した。
人目につかないところを求め、足は自然と外の立体駐車場に向かった。封印石を握る力は常に入りっぱなしで、滲み出る手汗がポケットの中を蒸らす。
後をつける足音には気づいていたが、振り向く勇気がなかった。さらに、途中で立体駐車場には逃げ先がないことにも気づいたが、怖くて引き返すこともできなかった。
まもなく、立体駐車場の最上階に到着した。最上階とはいえ、併設する病院本館より遥かに低い位置に立っていたが、空が狭く感じた。美しいはずの朝焼けも、淀んで見える。
凉は、迷わず備蓄所側の端へと走った。追ってきた人物も、凉についてきた。
行き止まりに達したところで、凉は踵を返した。背後の柵に、ぴったりと背中を押しつけ、回した手でしっかりと格子を握った
前方からは、帝都が一歩ずつ、じわじわと迫っていた。終始無言を貫き、温度のない瞳が静かにこちらを刺す。
凉は、浅い呼吸を繰り返しながら、格子を握る力を強めた。掌に跡が残りそうなほど、深く食い込む。呼吸に合わせて肩が上下し、それと連動して柵がガタガタと音を立てた。
とうとう、帝都が目の前にやってきた。頭一つ分高いところから、鋭い視線を感じる。
次の瞬間、思い切り胸倉を掴まれた。もう一方の、包帯の巻かれた腕が拳を作り、振り上がる。
凉は、きつく目を閉じた。
十秒経過した。二十秒、三十秒――何もない時間が過ぎていく。不思議に思い、ゆっくりと瞼を開いた。
そこには、目尻に力を入れて立ち尽くす、少年の姿があった。
「みんな助かって、みんな幸せになって欲しい。犠牲なんて一つもいらない、ないほうがいい。それなのに、どうして――」
空を仰いで震えていた拳が、力なく下ろされる。
「どうして、たくさんの人を救う決断ほど、覚悟がいるんだよ」
胸倉を掴んでいた腕が離れた、帝都の顔が、下ろされた拳と同じ方向を向く。
クールで少し気難しい。厳しいこともはっきりと言う。だけど他人思い。たまに、さりげない気遣いを見せる。ピンチでも弱音を吐かない。泣かない。それが、凉の知る帝都だった。涙を堪えながら弱音を吐く、目の前の人物とは異なる。しかし、何故か違和感はなかった。むしろ、こちらのほうが素顔のようにさえ思える。
凉は、目を伏せながらポケットに手を入れた。生温い封印石が指先に触れる。
これを渡せば、帝都は蔵王に向かうだろう。励化線が止まって、はなの暴走はなくなり、千路も危険な真似をせずに済む。
その代わり、葵は死ぬ。
当然、葵は助けたい。そのために東北に来て、ここまでやってきたのだ。血盟士団や左沢との交渉も、暴走した柊の阻止も、必要とあらば、命を顧みずに行動したのも、全部葵を救うためだ。今更諦めるわけにはいかない。それに、浜町とも約束したのだ。子供たちの体内に仕組まれた不完全AHT細胞も、どうにかすると。
封印石は渡せない。
しかし同時に、それが正しい選択である自信もなかった。
封印石を渡さないことで起こり得る問題。帝都がこの場を爆発させる。あるいは、暴走したはなが地下から飛び出す。いずれにせよ、血盟士団の中枢が壊滅するため、封印石が戻されることは必至だ。結局、葵は助からない。
それ以前に、帝都たちには散々助けてもらった上、振り回してしまったという負い目もある。渡してやるべきだという心の声も聞こえていた。
封印石を握る力が緩んでいく。しかし、ポケットから出されることはなかった。
身動きが取れない間に、病院から団員たちがぞろぞろと出てきた。最後のほうで、千路と田村が現れる。話し込んでいる千路の爪先は、備蓄所の方向を向いていた。
凉がその様を見届けている間に、隣から柵を飛び越えていく影が見えた。
団員の前に、青い化け物が降り立つ。すぐに人の姿に戻り、千路を盾にしてこう叫んだ。
「千路は行かせない。華陽も死なせない」
カバンから薬瓶を取り出し、千路の胸の前に出す。
「いい加減にしろ!」
田村が叱責した。周囲の団員もたちまち妖化し、臨戦態勢に入る。
「桜木。やめろ」
千路も、小声で背後にそう告げた。対し、帝都は大声で返した。
「やめるかバカ! あんたが死ぬ」
「三橋は助かる」
「あんたが助からないのが嫌だって言ってんだ、わからないか?」
サングラス越しの目が、大きく見開かれた。
帝都は、薬瓶を押しつけながら、集団のほうに向き直った。そして、独り言のような声で、千路にこう吐き捨てた。
「五年前の俺とは違うんだよ」
これまで平静だった千路の顔に、たちまち苛立ちの色が表れ始めた。
「だったら、他人を振り回すのもやめろ」
先程よりも、声がわずかに荒くなる。しかし、帝都は団員たちを睨んだまま、答えようとしない。
「桜木」
千路が再度呼び掛けると、
「うるせえ」
帝都は視線をそのままに、しれっと言い放った。
「時間がない、手遅れになる」
「黙れ」
「話を聞け」
「黙れっつってんだろ」
「帝都!」
爆薬が取り上げられた。
帝都がすぐに取り返そうと、手を伸ばす。しかし、千路が鳩尾を蹴り、ニトログリセリンを遠ざけた。帝都がその場で尻餅を突く。
千路は、空いたほうの手で銃を持ち、帝都を牽制しながら、田村に薬瓶を受け取るよう目配せした。田村は、及び腰でなかなか近づこうとしなかった。千路は、待ちきれないと言わんばかりに眉を顰め、帝都に向き直った。
「何がしたい?」
「みんなを救いたい。でも、華陽やあんたみたいに、そうするための覚悟が俺にはない」
「だったら何もするな」
「わかってるよ」
目元をわずかに力ませると、帝都は軽く俯き、肩を震わせた。
「俺みたいな無能は、何もしないほうがいいことぐらい、わかってる。でも……できねんだよ」
五年前。はなを犠牲にして平穏を取り戻そうとする血盟士団の判断に、帝都は許すことができず、反対した。しかし、たかだか少年一人の感情論で、決定が覆ることはなかった。
千路から「左沢を誘導する」ことしか告げられなかったはなに、帝都は真実を言うことも、止めることもできなかった。当然、助けることもだ。
真の意味で最後の作戦に向かう彼女の背中を見送りながら、孤島に一人取り残されたような感覚を得た。それは、寂寥感と呼べるような、しかし違うような、何とも表現し難いものだった。
だからこそ、千路がはなを助けに行くと提言したときは、救われるような思いだった。
誰にも知られてはならない、秘密の救出劇。担ぎ出されたはなの嬉しそうな顔。
望んでいたはずだった。それなのに、純粋に喜ぶことができなかった。喜び以上に、自らの無力感に苛まれた。
――華陽を救うことに、俺は何も関与していない。
「自分でも嫌になるくらい、クソみたいな妬みだ。あんたも華陽も特別で、俺だけ違う。受け入れりゃいい、いや、受け入れなきゃいけない。でも無理だった。だから千路――殺してくれ」
微動だにしていなかった拳銃が、びくりと身震いした。
帝都はなおも、赤く腫らした真摯な眼差しを向ける。劣等感。諦観。はたまた相手への信頼と、ある種の覚悟。淀んでいると表現するには、あまりに洗練された瞳だ。
武器を向けられているのは帝都だが、気圧されているのは明らかに千路のほうだった。
見兼ねた団員たちが、指示を仰ぐように田村を見る。田村も、応えるように団員たちに目配せをし始めた。
その様子を、凉はただ一人ぽつんと高所から見下ろす。
自分だけが、別の世界に取り残されているように感じた。目の前には、視界に映っている柵以上に高くて大きな隔たりがあり、凉だけが一方的に向こう側を観測している。例えるならば、テレビ中継で海外の戦争を見ているような感覚だ。
この状況を収めることができる人物がいるとすれば、それは凉に違いない。しかし、どう帝都を説得すべきか。そもそも、帝都を説得するのが正しいのか。間違っているなら、他にどんな選択肢があるのか。
何もわからなかった。
救いを求めるように隣を見る。虚空しかなかった。ポケットに手を入れると、先程まで温かったはずの封印石は、熱を失っていた。
助けてくれる人はいない。かと言って、己ほど頼りないものはない。
自分の身体が、溶けてなくなっていくような感覚がした。足腰に力が入らなくなり、その場に膝から崩れ落ちる。
このまま立ち上がれずに、朽ちていくかもしれない。本気でそう思った。しかし、それでもいいと思ってしまった。
何も考えたくなかった。
「凉!」
背後からの不意の声に、思わず振り向く。
長い髪を風で揺らす、一人の少女の姿があった。その名前を呼ぼうにも、声が出ない。ようやく口が開いたが、葵のほうが早かった。
「石を戻しに行こう」