第2話 帽子
「ゆ、悠星……。さっきはごめんな」
掃除の終わりを告げる放送を背に受けながら、反省会もそこそこにオレは教室にもどってきた。教室掃除を任されている悠星達の班はちょうど反省会を終えたところで、オレは迷わず声をかけた。
「……別に」
しかし、返ってきたのはあまりにも冷たい返事だった。目が合ったのなんて一瞬で、すぐにそらされる。
悠星のいつもと違う態度に、他の子も顔を見合わせる。
「でもやっぱり今日は病院に……」
「わかったってば!!」
オレの声を遮るように張り上げられた声は教室を静かにさせるには十分だった。教室で騒いでいた男子もおしゃべりを楽しんでいた女子も一斉にこちらを振り返る。静寂は一瞬で、なんだなんだと騒がしくなる。
悠星はバツが悪そうに早足で教室から出て行ってしまった。
「えー、どうしたの?」
「喧嘩か?」
「冬馬、悠星と喧嘩したの?」
どうかしたのかと心配して尋ねてきた友人に、うまい答えが見つからず答えあぐねる。わらわらと集まってきたクラスメイトが、どうしたどうしたとオレの答えを求めてくる。単なる好奇心からくるそれらに構っていられるほど、オレに余裕なんてなかった。
何も答えないオレの後ろで、『冬馬と悠星が喧嘩した』という話が伝言ゲームのように広がっていく。
呆然とするオレと騒がしいクラスメイト。それを咎めるように五時間目の始まりを告げるチャイムが教室に鳴り響いた。
結局、悠星とは話ができないまま帰りの会が終わろうとしていた。
オレは悠星の後ろ姿を盗み見た。オレの所属する五年二組は先月に席替えを済ませ、悠星は一番前の窓側の席に頬杖をついて座っている。その目は窓の外に向けられたまま、こちらを見ることはない。悠星の日に焼けた首筋は皮膚がめくれかけていた。
「それでは帰りの会を終わります」
「きりーっつ!」
先生の声に、待ってましたと言わんばかりに日直が声を上げる。
「礼!」
「さようなら!」
お別れの挨拶を口にして、みんな慌ただしくランドセルを背負う。椅子がガタガタと音を立て、机の下という定位置にしまわれる。出しっぱなしにされた椅子は、どこか寂しそうだった。
「冬馬!帰ろうぜ!」
黄色い学校の帽子をかぶりながらトシくんが声をかけてきた。
「あ、ああ。でもちょっと待って」
オレは黒いランドセルを肩にかけながら、ちょうど帰ろうと教室を出ようとしている集団に声をかける。
「悠星……」
オレの声に振り返る集団の中で、目的の人物は背を向けたまま。
「あのさ……」
もう一度声をかけようと言葉が口から出たのと悠星が走り去るのは、一体どちらが早かっただろうか。
それは完全なる拒絶だった。それはオレの胸の辺りをグサリと突き刺す。
「ちょ、まてよ悠星!」
悠星と一緒にいたアキラくんが声を上げながらその姿を追いかけていく。それに続く人が数人。彼らの後ろ姿をただ呆然と見つめるよりほかなかった。
刃物のような、鋭利なもので刺されたかのようにズクリ、と心臓が抉られる。心が悲鳴を上げ、上手く声が出せない。
ヒロくんは困ったように笑ってオレの方を振り返った。
「お前ら何があったか知らねえけど、はやく仲直りしろよ!」
そう言ってオレの肩を叩きヒロくんは走り出した。しかしすぐにその足を止めて、こちらを振り返った。
「そういえば今日、悠星の誕生日らしいんだ」
頭がガツンと殴られたような衝撃だった。悠星の寂しげに歪んだ顔を思い出す。不満げに眉を寄せ、素っ気なく放たれる言葉。それらは全て、悠星からの失望のサインだった。いつもユキの話ばかりする自分への、誕生日さえ祝ってくれないオレへの落胆にすぎなかった。
遠ざかるヒロくんの足音が、オレから離れていく悠星の後ろ姿を連想させて、オレは前の学校の校章がついた学童帽子を握りしめた。
空には分厚い黒い雲が、その手を広げていた。