第3話 兄と弟
重たく覆いかぶさるような雲は今にも雨が降り出しそうだった。
入院病棟の七階の一室、スライド式のドアを開けて中に踏み込む。四人部屋の病室は全て仕切りのカーテンが閉められ、中の様子を伺うことはできない。しかしオレは窓側の左奥のベットに迷わず足を進める。
「ユキ、開けるぞ」
返事は聞こえなかったが容赦なくカーテンを開けた。するとそこにはいつもと同じように本を読む雪斗の姿があった。
「本なんか読んでて大丈夫なのか?」
「読まないと気分が滅入っちゃうんだ」
雪斗は本から顔を上げずにそう答えた。今日は幾らか顔色も良く、文字を追う目も生き生きとしている。
オレはそんな雪斗にホッと胸を撫で下ろし、椅子に腰かけた。いつかと同じような沈黙が、オレらを包み込む。
いつもならまだギラギラと輝いているはずの太陽も、今日はすっかりその姿を隠してしまっている。そのせいか病室の中は薄暗く、どんよりとして見えた。
「学校でなんかあった?」
雪斗はポツリと言葉を漏らした。依然、その目は本のページに向けられたまま。
「……別に」
なんて言うべきか迷って、結局出てきたのはそんな味気ない言葉だった。
雪斗はチラリとこちらを見やり、ため息をひとつこぼす。
「わかりやすすぎなんだよ、トーマは」
ぱらり、ページを捲る音が静かに響いた。
「昔から怒りっぽいし、すぐ泣くし、すぐ拗ねる」
「は……、そ、そんなことねえし!」
「そんなことあるよ」
オレの反論はばっさりと切り捨てられる。変わらず本に顔を向けたままのその横顔が、やけに大人びて見えて悔しさを覚える。
「すぐに顔に出るのは昔からだけど、最近は何かあると黙り込むからなあ」
雪斗の白く、細い腕から伸びた点滴が、ポタリとその雫を落とした。
「らしくないね」
そっと吐き出されたその一言は、なぜだかズシリとのしかかる。
雪斗は長い睫毛を伏せながら言葉を続けた。
「ねえ、覚えてる?」
本から顔を上げ、面白そうに口角を上げながらオレに尋ねる。
「保育園でトーマが暴れた時のこと」
懐かしそうに目を細め、雪斗は天井を見上げた。
「今思うとボクたちは問題児だったのかもね」
クスクスと笑いながら、雪斗はそっと目を閉じた。
たしかあの日は今日みたいに、今にも雨が降り出しそうな空の色をしていた。
今にも泣き出してしまいそうな空の下で、ボクたちは走り回って遊んでいた。そこに遅れて外に出てきたキリン組の冬馬は、一目散にこちらに向かって走ってきた。
「ユキ!あそぼう!」
赤いほっぺたはいつもと変わらず、ボクもいつもと同じように返事をした。
「えー!とうまくん、今日はぼくたちとあそぶって言ってたじゃん!」
冬馬のあとをついてきたキリン組のマコトくんが不満げな声をあげた。
「そうだよ!今日はおれたちとあそぼーよ!」
それに続いて次々声が上がる。それに冬馬は振り返って言った。
「ユキもいっしょでいいだろ?」
そんな冬馬の言葉にマコトくんは明らかに嫌そうな顔をした。その目がジトリとこちらを睨みつける。
「やだよ!だってゆきとくんはパンダ組じゃん!」
やだ、と面と向かって言われたのはこの時が初めてだった。
「そうだそうだ!パンダ組のやつはキリン組とはあそべないんだぞ!」
よくある仲間割れだった。先に口を開いた奴に続き、次の奴はそれに乗っかって言葉を放つ。そんなよくある子ども同士のケンカだった。そして次に口を開いたのはさっきまでボクと遊んでいたパンダ組の面々だった。
「なにそれ!なんでそんないじわる言うの!」
「キリン組なんてきらいだ!」
言い合いはどんどんヒートアップし、いよいよ収拾がつかなくなった。そんな時冬馬が一際大きな声を上げた。
「みんなうるさい!!」
少し乱暴な言葉とそのボリュームに驚いて、みんな口を閉ざした。マコトくんはびくりと肩を震わせ、冬馬の方を見ていた。
「なんでそんないじわるするんだよ!みんなでいっしょになかよくあそぼうよ!」
冬馬のそんな言葉にみんな顔を見合わせる。気まずそうに目を合わせては、逸らすの繰り返し。少しの静寂が訪れた。
しかし、それは簡単に破られる。
「やだよ!だってとうまくんいっつもゆきとくんとあそんでるじゃん!」
マコトくんが負けじと口を開いたからだ。
「”ふたご“だからっていっつもいっしょにいておかしいよ!!」
「おかしくない!!!」
冬馬の怒った声が鼓膜を突き抜けた。両の手は固く握り締められ、わなわなと震えている。
「だ、だっておかしいじゃん!いっつも手つないでさあ!」
「おかしくない!!」
「そ、それに!ゆきとくんいつも本ばっかよんでるし、そんな子と遊んだって楽しくないよ!」
ちらりとこちらへと向けられたマコトくんの目は、冬馬の背中で見えなくなった。ボクを庇うように冬馬はマコトくんの前に立ちはだかったのだ。
「ユキをわるく言うな!」
しかしそれは一瞬で、冬馬はマコトくんに殴りかかった。
「ユキにあやまれ!」
「ちょっと!トーマ!!」
ボクの制止を振り切って冬馬は怒鳴り声を上げる。
「ユキをわるく言うやつはゆるさないぞ!」
ボクと冬馬は双子で、生まれる前からずっと一緒だった。それでも少し早く先に生まれた冬馬はボクのお兄ちゃんで、ボクは冬馬の弟。背格好も似ていて、そっくりなボクらは対等の立場だ。でも冬馬の中には、自分が”お兄ちゃん“であるという自覚が芽生え始めていたんだと思う。それが良くも悪くも今回の騒動を引き起こしてしまった。
結局殴り、殴り返すを繰り返し乱闘にまで発展してしまった事態は、騒ぎを聞きつけた先生たちによって止められた。ボクを悪く言ったマコトくんは「ごめんなさい」と言ってきたし、先に手を出した冬馬はお母さんにもこってり絞られていた。
結局マコトくんは純粋に冬馬と遊びたかっただけで、いつもボクに冬馬を取られていた彼はそれが納得いかなかったのだろう。きっともっと冬馬と遊びたかっただけなのだ。その後、冬馬とマコトくんもちゃんと仲直りをして、仲良くみんなで遊んだ。
明るく、よく喋る冬馬は人気もので友達はこの頃から多かった。でも正直者で正義感の強いその性格は、時に問題を引き起こした。それでもそれはいつも何かを守りたいという思いからくるものだったように思う。この日それはボクに向けられた。ボクの前に立つその背中は、弟を守る兄の背中だった。
口下手な冬馬はすぐ手が出てしまうし感情的になりやすい。それが正しいとは言えないが、そんな真っ直ぐな冬馬をカッコいいと思ったんだ。ボクのために声を張り上げて、ボクのために怒る姿が頼もしかったのを覚えている。
みんなで仲良く遊ぶボクらの上には、すっかり晴れ渡った青空が広がっていた。
「あの時のトーマはカッコよかったなあ」
ボクは読んでいたページにしおりを挟んで、そっと閉じた。
「なんでそんなこと覚えてるんだよ」
恥ずかしそうに口を尖らせる姿はやけに子供っぽい。
「『ユキを悪く言うな!』だったかな?」
「やめろよ!」
顔を赤くして怒る冬馬はあの頃と変わらないけれど、ボクたちはあの頃より大きくなった。背も伸びたし、手も足も大きくなった。取り巻く環境も変わり、昔ほど一緒にいられる時間は短くなった。
ボクらは双子で、生まれる前からずっと一緒。少し先に生まれたのが冬馬で、それを追いかけるように生まれたのがボク。ボクらはずっとお互いがお互いの隣で生きてきた。けれどボクたちには別々の時間が流れている。ボクにはボクの、冬馬には冬馬の時間が流れている。
「トーマのいいところは正直なところだよ」
だからきっと、同じ時間を同じ場所で過ごすことはできないだろう。だってボクらはきっとそれぞれ別の人と出会い、別々の思い出を作っていく。
「その馬鹿正直で直球なところを捨てたら何が残るっていうのさ」
その中でボクは冬馬の幸せを一番に願う人でありたい、一番近くで見守る弟でありたい。だから……。
「トーマらしく生きなよ」
だからどうか冬馬らしく真っ直ぐ、大きく、温かく。
「ユキ、……ありがとう!」
何か答えが出たような輝きをその瞳に映し、慌ただしく病室を出て行った。「走らないでください!」という看護師の怒った声が聞こえてきて、思わず声を出して笑ってしまった。きっと「すみません!」と頭を下げながら、それでも早足にエレベーターに乗り込むのだろう。
「相変わらず元気な弟くんだねえ」
隣のベットで寝ていたおじいさんが、カーテンを開けて顔を覗かせた。
「いいえ、双子の兄ですよ」
そうかそうか、ホッホッホ。とおじいさんは笑って再びカーテンを閉めた。騒がしくてすみませんと言えばまた小さな笑いが返ってきた。
それに耳を傾けながら窓の外を見上げれば、黒い雲をかき分けて眩しい太陽が顔を覗かせていた。
「今日は雨が降ると思ったんだけどな」
その輝きはさっきの冬馬の瞳と重なって、ボクはまた小さく笑った。




