第8話 さらば夏
気がつけば先ほど抜けた森の中へと、再び足を踏み入れていた。
夏の日差しを浴びて膝より上へと伸びた青草を掻き分け、ひたすら走る。目の前を走る白い猫を見失わないように。
猫が前足と後ろ足で地面を蹴るたび、尻尾に付けられた鈴が涼しげな音を鳴らした。提灯の灯りがほんのり滲む夜の森に、鈴の音は跡形もなく消えていく。
その森に自らの身を投げ、ひたすら猫を追いかけた。
いつかは消えてしまう音ではなく、 その音を鳴らす元凶そのものを。
明るさを増した月が真上からオレたちを照らした。
目の前を走っていた猫が、草むらに飛び込みその姿を見失う。しかし微かに聞こえる鈴の音を追えば、再びその姿を捉えることができた。
安心したのは束の間、オレは何かに足を取られる。体は大きく傾き、地面がどんどん近づいてくる。ついに顔と地面がくっつき、衝撃が走った。反射的に前へと出した手のひらが、ジンジンと痛い。
オレは自分が転んでしまったことに気がついた。後ろを振り返れば、大地に埋まる木の根が大きく飛び出している。それに躓いてこけてしまったことを理解した。
ジージー、と夏の虫がすぐ近くで鳴いている。
石で切ってしまった手のひらより、擦りむいた膝のほうが痛くて蹲った。傷口を覗くようにして、ふーふーっと息をかけてみる。そうすれば幾らか痛みが緩和されるような気がした。
オレの口からは思わずため息が漏れる。深く、重く、吐き出されたそれは、暗い森の中に吸い込まれて行く。
自分は一体なにをやっているのだろう。友人を連れて森へ入り、目的のものを見つけられなかったにもかかわらず、懲りもせずにまた同じ場所に足を踏み入れている。
何度探したところで結果はきっと変わらないのに。
ないものはない。はじめから。あれは弟の病気に不安を覚えたオレが、自分自身に見せた幻に過ぎないのだ。きっと、きっと……。
チリン……__
鈴の音が暗い森の中を、明確な意思を持って駆け抜ける。
空気を揺らし音となり、オレの鼓膜を揺らした。
真っ直ぐに届いたその音にオレはつられるように顔を上げる。
「なん.…で」
月の光を集めるように立つ小さな木の家。窓から明かりが漏れ、そこに誰かがいることを教えてくれる。
暑苦しい日差しも、蝉の声も聞こえない。しかし月の光の中に、夏の虫の声の中に、それは存在している。
以前見た時となんら変わりなく、それは佇んでいる。
オレはゆっくりと立ち上がった。手はまだ熱を持ち、擦りむいた膝からは赤い血が流れている。どちらも痛いはずなのに、そんな痛みも忘れるくらい目の前の景色に気を取られていた。
さっき悠星と通った時はなかったものが、間違いなく今オレの目の前にある。確かにここに存在している。
オレは引き寄せられるように一歩を踏み出した。
パキッ、と細い枝が悲鳴を上げる。
そっとドアノブに手をかければ、ひんやりと冷たいそれはバクバクとうるさい心臓を落ち着かせるようだった。
強く握りしめて、そのドアノブを引く。
カラン、コロン……__
ドアの上に取り付けられた小さなベルが鳴り、オレを店の中へと誘う。
「いらっしゃい」
所狭しと並べられた時計の奥、その人物はいつかの日のように窓辺に腰掛けていた。
青い二つの瞳と視線がかち合う。その目の青色はどこまでも深い。
「今日はどうしたんだい?」
トキセが小さく笑みを浮かべた。
オレはここに来た目的を思い出して慌てて口を開く。
「今日、ここを通ったんだ!」
時計の秒針がカチ、カチと右に進む。
「そしたら……、ここには何もなかった」
言ってしまった、そう思った。それを言ってしまえば、もう本当のことを聞くしかない。
「どうして、お店が消えてたの?」
星が顔を出し、藍色の夜空を飾る。窓から差し込む月灯りが、トキセの顔を照らした。
トキセは金色の髪をなびかせて楽しそうに笑った。
「どうしてだろうね」
クスクスと目を細めて笑う姿はまるで女の人のようだった。
青い瞳がキラリと光る。
「ここはね、誰でも辿り着ける場所じゃないんだ」
コツコツと踵を鳴らし、トキセがこちらに近づいてくる。
オレの足は何かに捕らえられたかのようにピクリとも動かない。
「だから最初に言っただろう?」
目の前に立ったトキセが、オレの目の高さに合わせるように屈む。青い瞳が今までで一番近くにあった。
「”君は運がいい“って」
トキセの白い手がオレの頰に触れる。それは驚くほど冷たかった。
ビクリとオレの肩が跳ねたのを気にした様子はなく、トキセはそのまま頰を撫でた。ザラザラとした感覚の後、何かが床に落ちる。そこで初めて自分の顔に土が付いていたことに気がついた。おそらくさっき転んだ時に付いたのだろう。
トキセはまた楽しそうに笑ってオレの足を見た。
「顔も足も泥だらけじゃないか」
丁寧にオレの足に付いた土を払う。
「何をそんなに急いでたんだい?」
そこでトキセが顔を上げた。しゃがんだままこちらを見る目は、オレより下の位置にある。それがなんだか妙に落ち着かなくて思わず目を逸らした。
その先にあの大きな人時計があってオレの目は行き場を無くしたように彷徨う。
「気になっていたんだろう?人時計の時間が」
その言葉に喉がヒュッと狭くなり、息が止まった気がした。
トキセはゆっくりと立ち上がってオレを見下ろす。すべてを見透かしたように不敵に笑いながら。
遠くの方から太鼓の音が聞こえてきた。それは地面を揺らすように低く地を這う。
雪斗の手術が終わってから約一週間、オレはずっと迷っていた。ここに来るかどうかを。
ここに来れば人時計で雪斗の寿命を見ることができる。しかし、もし短くなってしまっていたらと考えると見るのが怖くなってしまった。ここに二回目に来た時『オレは信じない』と、『諦めない』と啖呵を切ったくせに、その決意は簡単に揺らぐ。
血の気の引いた顔で点滴に繋がれた弟の姿を見ただけでそれはいとも簡単に崩れ落ちた。
だから人時計で雪斗はまだ大丈夫だと、まだ死なないと確かめたかった。結局いつか訪れるという目に見えない”終わり“の時を、目に見える形で知りたいのだ。そして安心したいのだ。それが明日ではないと、ずっとずっと先の事であると。
一方でもし雪斗の寿命が縮まっていたら、もうどんな顔をして雪斗に会いに行けばいいのかわからなくなってしまう。だから今日までずっと来ることができなかった。
でも悠星とここへ来て店がなくなってしまったと思った時、すごく後悔した。もっと早く来ればよかったと、早く見に来ればよかったと。
結局見たくないと、見るべきではないと思いながらも、心の奥底では見たいと思っていたんだ。
「……みせてください」
思っていたより自分の声が小さくて、大きく息を吸う。
「人時計を、見せてください」
もう後戻りはできない。人時計が右に振れていたとしても、左に振れていたとしても。
「ちょうど一週間ほど前、大きく動いたところだよ」
外が少し明るくなり、それに遅れるようにして花火の上がる音が聞こえてきた。
夜空に大輪の花を咲かせ、長かった夏が終わりを迎えようとしていた。




