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左回りの人時計  作者: 白福あずき
第三章
18/30

第5話 涙と雨

 八時間にも及んだ手術は無事成功し、今日は雪斗のお見舞いに来ていた。

 手術から三日経ったこの日は灰色の雲が夏の青い空を覆い隠していた。その隙間から微かに漏れ出る光は頼りなく地上に伸びている。

 父に連れられ訪れた通い慣れた病院は、天気のせいか今日はなんだか重たく暗い。大きくそびえ立ち、その建物はオレを見下ろしていた。

 小走りでエレベーターに乗り込むと、父はいつもと違う階のボタンを押した。

「あれ、今日は七階じゃないの?」

「ああ、そうだよ。病室変わったんだ」

 エレベーターが止まり、扉がゆっくりと開く。五階です、という機械的な声を聞いてオレと父はエレベーターを降りた。

 病院独特の鼻がツンとする臭いが濃くなり思わず顔を顰める。

 父と二人殺風景な廊下を進めば、ちょうど病室から母親が出てきた。

「あら冬馬、お父さん」

「雪斗の様子はどうだ?」

「ちょうどさっき寝たところよ」

 母の化粧が崩れた顔には隈ができている。ここ数日ほとんどの時間を雪斗に付き添っていた母の顔には明らかに疲れが滲んでいた。

「お前も少し休んだらどうだ?」

「そうね、今日は家で寝るわ」

 母の体を案じて父が声をかければ、小さなあくびを一つ漏らしてオレの方を見た。

「冬馬もごめんね。全然家に帰れなくて」

「大丈夫だよ!夜は父さんもいるし!」

 オレの頭をゆっくり撫でる母に心配かけまいと、なるべく元気に答える。それが母の目にどう映ったのかはわからないが、目を細めて笑ってくれた。それに安心してオレの頰も緩む。

 離れていく母の手を名残惜しく感じながら、その手の行方を追った。

「じゃあ私は下のコンビニに行ってくるから、雪斗のことよろしくね」

「うん!」

 母は今オレたちが来た方へ歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、オレはそっと病室のドアを開けた。

 以前とは違う一人部屋。ベットの上でいつも通り本を読んでいる姿を想像して、目的の人物を探す。

 しかしオレの予想は大きく外れる事となる。

 ピッピッピッ、と響く電子音。

 繋がれた長い点滴。

 白い腕から伸びる管。

 ベットを取り囲むように置かれた電子機器。

 口につけられた人工呼吸器はシューシューと音を立てている。

 その姿にオレは絶句した。想像していたものとはあまりにもかけ離れたその姿は、オレから言葉を奪うには十分すぎる衝撃だった。

 これは本当に雪斗なのか。

「冬馬?どうした?」

 ベットで横になる雪斗を前に動かなくなったオレを心配して、父親がそう声をかける。

 そんな声も聞こえないほどオレは動揺していた。

 鼓動が速くなった心臓の音が鼓膜の奥から聞こえる。ドク、ドク、ドク、と血液が流れていく。

 一方でいつもより血の気の引いた顔をしている雪斗には血が流れているのだろうか。その心臓は動いているのだろうか。本当に生きているのだろうか。

 頭に浮かぶのは疑問ばかりで、ぐるぐると頭の中を回っている。

 名前も知らない機械が脈を測り、その音を鳴らしているのだから生きているのは間違いない。それなのに目を伏せ微動だにしない片割れは、まるで……、まるで死んでいるかのよう。

 そう思った途端、背筋がゾクリと粟立った。

 何言っているんだ、そんなはずないだろ!と、心の中で反論するももう一人の自分がいる。それでも冷や汗が背中を伝う。

「冬馬!?」

 オレは勢いよく病室を飛び出した。

 父の慌てたような声が後ろから聞こえるけれど、それには振り返らずにひたすら走った。

「病院内を走らないでください!」という看護師の怒る声を背に受けながらエレベーターに乗り込む。

 上から乗って来た人が、飛び込むようにエレベーターに乗り込んだオレに驚いて一歩後ずさった。

 四、三、二、エレベーターが順番通りに降りていく。

 一階に着くなり、ゆっくりと開く扉を押し破るようにしてエレベーターを降りる。そしてそのままの勢いで病院の外へと飛び出した。

 外に出れば蒸し暑い風がオレを覆った。空にかかる雲は墨のように黒く、落ちてきそうなほど分厚く広がっている。今にもバケツをひっくり返したような雨が降り出しそうだった。

 そんな危うい雨雲の下へと繰り出し、走り出す。はずだった。

 パシッと腕を掴まれ今にも前へと走り出そうとしていた体は、後ろへと大きく傾いた。背中が何かにぶつかり、よろめいた足にグッと力を入れた。

 そのときふわりと香った柔軟剤の匂いに親しみを感じて後ろを振り返る。すると息を切らせながらこちらを心配そうに見つめる母の姿があった。

「冬馬?どうしたの?」

 病院から飛び出すオレを見て追いかけてきたのだろうか。

 母はオレの目線に合わせるように屈んで、掴んだ腕を優しく撫でる。

 母の目元は雪斗によく似ていて、逃げるように目を逸らした。

「冬馬?」

 もう一度オレの名を呼ぶ。

 オレは両の手のひらを握りしめ、深く俯く。固く閉ざした口は真横に結ばれる。

 病院の前で動かないオレたちを不思議そうに振り返りながら、見知らぬ人が通り過ぎていく。病人かお見舞いに来た人か、病院関係者か。

 向けられる好奇の目を気にすることなく、母は力の込められたオレの拳をそっと握った。まるで力を解くように優しく、優しく撫でられる。水仕事で荒れた手は少しカサついていたけれど、それは生まれた時から知っている温かい手だった。

 オレの手から力が抜ける。爪が食い込むくらい力を入れていた手は、爪の跡がついていて少し痛かった。

「どうしたの?」

 自分の手のひらにオレの手を置くようにして母は続ける。ゆっくり、ゆっくりオレの手の甲を撫でた。

「うっ……」

 言葉の代わりに口から出てきたのは、そんな情けない声だった。

 唇も震えて、喉も震えて、言葉なんて出てこない。出てくるのは情けない嗚咽だけ。

 オレの頰を雫が伝う。右からも、左からも。

 それを親指の腹で拭うようにして母は穏やかな声で言った。

「冬馬、何があったかお母さんに言ってごらん」

 それはオレたちが泣いている時によく使う声だった。喜んでいる時の声でもなければ、悲しんでいる時の声でもない。もちろん怒っている時の声でもない。宥めるような、慰めるような、そんな声。その声を聞いてしまえばもう話さずにはいられない。

 苦しい嗚咽の隙間でなんとか息を吸って言葉を吐く。

「ユキが……!ユキが!」

「うん」

「あんな姿に、なっちゃって……」

「うんうん」

「苦しそう……、苦しい」

「うん、そうだね」

 母の手がオレの頭を撫でる。髪を梳かすように丁寧に、何度も何度も。

「雪斗の姿を見てびっくりしちゃったか」

「うん……」

「怖くなっちゃったか」

「うん……!」

 オレは大きく頷く。

 涙が一粒地面に落ちた。ジワリと滲み、シミとなる。

 びっくりした。驚いて言葉も出なかった。よくわからない機械に繋がれた雪斗が、一瞬誰だかわからなかった。

 怖くなった。怖くて思わず後ずさった。想像とは違う、変わり果てた姿に。目の前の現実に足がすくんだ。

「冬馬も、苦しい?」

 おでこを撫でるようにして顔を覗き込んできた母には何も答えられなかった。

 苦しい、苦しいよ。目から溢れる涙は止まらないし、息もうまく吸えない。

 でもきっと、これは違うから。雪斗の苦しいとは違うから。

 この胸を突き刺すような苦しさも、うまく呼吸のできない息苦しさも雪斗のものとは違うから。

 オレは返事をする代わりに、首を大きく横に振った。

「……そっか」

 母は納得したようにそう答えて、オレの体を引き寄せた。

 鼻をくすぐる柔軟剤の香りは、いつも自分の服から香るもの。

 それに安心してまた涙が溢れた。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 オレの背中を撫でるように母の手が上へ、下へと行き来する。

 それはいつの日かオレが雪斗にしたように。

 雪斗はどんな気持ちだっただろうか。オレと同じ気持ちだっただろうか。

 オレの心が今落ち着きを取り戻しつつあるように、雪斗も安心してくれただろうか。

 母が今崩れそうなオレの心を支えてくれているように、雪斗の心を支えることができただろうか。

 柔軟剤の香りに隠れて、ほんのり雨の香りがした。

 その日夏の空は、オレと同じように涙をこぼしていた。


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