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左回りの人時計  作者: 白福あずき
第二章
13/30

第5話 運命

 最近ふと思うのは、自分の知らないところで物事は進んでいくということ。

「手術?」

 夏休み二週目の朝、母が作ってくれた目玉焼きトーストを頬張りながらオレは首を傾げる。

「そうよ。雪斗、今度手術することになったの」

 コポコポとお湯が沸く音がキッチンから聞こえる。

 母は最後の一口を放り込むと席を立ち上がった。

「え……、いつ決まったの?」

「最初から決まっていたことよ。そのために手術してくれるこっちの病院に移ったんだから」

 お湯の沸いたポットを傾け、マグカップに注いでいく。もくもくと湯気が立ち込め、コーヒーの香りが運ばれて来る。

「ユキ、そんな悪いの?」

 母はびっくりしたように顔を上げ、オレの方を見た。そして小さく笑って、「バカね」と呟いた。

「調子が良いから手術できるのよ。雪斗はもっと元気になるために手術するの」

 その目は未だ湯気が立ち上るマグカップを見つめている。

 オレはパンに吸い込まれた水分を補給するために、コップに入れたお茶を流し込んだ。冷えたそれは、オレの喉も潤していく。

「じゃあ手術したらユキは元気になるの?」

 コーヒーを片手にキッチンから戻ってきた母に思い切って聞けば、にっこりと笑ってオレの頭に手を乗せた。くるくるとかき回すように撫でながら、やがてその手はオレの頰に添えられた。毎日の水仕事でカサついた母の手は温かい。

「元気になるよ。だからお母さんと一緒に雪斗を応援しようね」

「うん!!」

 明かりが見えた気がした。先の見えない薄暗い運命という道に、一筋の光が灯ったように感じた。

 雪斗の病気が治るかもしれない。雪斗が元気になるかもしれない。雪斗はもっともっと、生きられるかもしれない。

 この時のオレは何もかもが良いように進むと思っていた。本音を隠して笑った母にも気がつかずに、不確定な未来に期待して馬鹿みたいに笑った。

 優しい朝日が差し込むダイニングには、大人のコーヒーの香りとほんのり焦げたトーストの匂いが充満していた。


 その日の午後、オレはいつかの日のように坂道を駆け上がっていた。あと時とは違う、纏わりつくような暑さを振り切るように思いっきり走る。向かい風は生温かいけれど、ジリジリと照りつける日差しよりかは幾分か涼しく感じられた。もうあの頃に舞っていた桜の花びらはどこにもなく、深い緑の葉が青空に映えている。どこまでも広がる空の青が海のようだと言うのなら、細い枝を埋めるように生い茂る葉の緑は一体なんと言うのだろう。オレはそれに変わる言葉も、景色さえもまだ知らない。

 太陽にすっかり熱せられたアスファルトから逃げるように足を上げれば、道の脇に長い長い石階段が顔を出す。オレはその勢いのまま階段を駆け上った。以前よりも差し込む光も、被さるような木々の影も色濃く道を染めている。

 階段を上りきれば古びた社が姿を現し、今日も二匹の狛犬を引き連れている。賽銭箱に入れられる小銭なんて持ち合わせていないけれど、一応形だけでもと手を合わせた。そんな挨拶もそこそこに社の裏手へとまわり、好き放題に伸びきった草むらに足を踏み入れる。

 木々が生い茂るこの場所はアスファルトで整備された道よりも涼しく感じた。けれども忙しなく鳴く蝉の声が暑苦しく耳にまとわりついて、結局夏の暑さからは逃れられそうになかった。

 走ったせいで吹き出た汗で肌に服がぴっとりとくっついて気持ち悪い。頭から滴る汗が目に入って不快感を覚えたころ、夏の太陽がオレを照らした。小さな家が姿を現わし、夏には不釣り合いな涼しい風が首筋を抜けた。

 カラン、コロン……

 扉を開けば前と同じようにベルが鳴る。眩いほどの光に目を細めながらも店へと足を踏み入れれば、あの時のようにあの人は窓辺に腰掛けていた。

「いらっしゃい」

 目を細め怪しく笑うその青い瞳に吸い込まれそうになる。

「こんにちは」

 オレは久しぶりにトキセの時計屋を訪れた。最後に来たのはまだ桜の咲く時期だったから、三ヶ月ぶりほどだろうか。そんなに経っていないと思っていたが、改めて振り返れば結構な月日が経っていた。それほどにこの数ヶ月間はオレにとって忙しいものだったのだろう。新しい土地に引っ越してきて、ここで不思議な出会いをして、新しい学校に入って友達と喧嘩をして。それは時間の流れを感じさせないほどに慌ただしい日々だった。

「久しぶりだね。今日はどうしたんだい?」

 まるでトキセはオレが来るのがわかっていたかのように、淡々と言葉を発する。

 こちらを見つめる青い瞳になにもかも見透かされているような気がするけれどオレは答えた。

「ユキが、手術することになったんだ!」

 へえ、とトキセは顎に手を当てる。肩まで伸びた金色の髪が、窓から差し込む光に照らされてキラキラと輝く。

「きっと手術が成功したら、ユキは元気になるよ!」

 手術が終われば、手術が成功すれば雪斗はきっと元気になる。病気だって治るかも知れない。もしかしたら退院できるかもしれないし、学校だって行けるかもしれない。

 オレはそんな期待を朝から抑えられないでいた。だからお昼ご飯もそこそこに家を飛び出した。このことを早くトキセに伝えるために。

 しかしトキセはスッと目を閉じ、人時計へと視線をずらした。どこか難しそうに考え込むその横顔に、オレの興奮していた胸の鼓動が少しずつ治まっていく。

「人時計は変動することがあるんだよ」

 トキセは静かに口を開いた。人時計の針がカチリ、と左へ動く。四つの文字盤のうち”月“を表す文字盤は残り八ヶ月を切ったところだった。

「人の死には”種類“があるのは知っているかい?」

「種類?」

 カチ、コチ、と店内の時計が針を進める。

「例えば事故死とか病死とか、あと自殺もあるね」

 オレが聞きなれないその”死の種類“とやらを、トキセは淡々と並べていく。ニュースとかでしか聞かないその言葉に難しさを感じた。

「事故は予期せぬことだから人時計は計りかねる。自殺も心理的状況に関わるからね、急に変動したりするんだ」

 トキセは棚に置かれていた小さな時計を手に取る。

「そして病死。病気の人の残り時間が変動するのは手術を受けた時」

 カチ、コチと時を刻む針の音が遠退いていく。

「それはもちろん残り時間が延びることもあれば、それとは逆に」

 赤いピアスがこちらを覗く。

「短くなるときもある」

 シャラシャラと、トキセの腰から下げられた高そうな飾りが音を立てる。その音がすぐ近くで止まって、オレは慌てて顔を上げた。すると思っていたよりずっと近くにトキセの顔があって言葉を失う。

「さあ、運命はどちらに転がるかな」

 夏の青空のような瞳に捕らわれて、オレは反論することさえできなかった。


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