2.お館さま
17歳を迎えたエイプリルに、王都に旅立つ日が近づいていた。
王都にはまだ行ったことがない。エイプリルには国境警備の役目があり、それを果たすことが第一義であり続けてきた。
だが、姉ローズが王弟カンデラ公に嫁すことで王家への恭順を十分示しているのに、第三王子のガリエル皇王家への婿入りを断るために、王家と元老院の総意を以って婚約者と定められた。
どんなに意に添わなかろうとも、あと二月ほどで王都へと発たねばならない。
エイプリルはエルと一緒に、トルソーに着せかけた紺のマントの裾部分に金糸で刺繍をほどこしていた。王宮で行われる婚約式の折り、結納の一部として納めるためだ。
思えば、ハンカチや手袋への白糸での第三王子紋の刺繍から始めた作業も、室内履き、クッション、パラソル、テーブルクロス、ベッドカバーとカラフルに、そして大物になり、今は王子が身にまとうマントにアップグレードしている。
もっとも、エイプリルが針を刺すのはほんの一部だ。ほとんどの部分は母メリーアンと母付きの侍女たちの手になる。姫の手作りというのはそういうものだ。
時間がないので結構真面目に刺していたふたりの耳にノックの音が届いた。
ノックは三度。ペイジのノックだ。
ペイジは、辺境伯領内の各城塞、砦町、領地を治める子爵、男爵、騎士爵、郷士の家から辺境伯主城、ラ・フィエール(美しきフィエール)に奉公に来る少年・少女が、最初に就く仕事だ。
8歳ぐらいで勤め始め、礼儀作法、読み書き計算、武術鍛錬を授けられながら、城内でメッセンジャー・ボーイとして駆け巡り、広大な敷地内の建物配置や部屋割りを覚えることから始める。
次第に簡単なお使い、馬の世話、騎士の身近での武器、防具、衣装などの手入れを教えられ、やがて従卒、準騎士となる。もちろん男女を問わない。
将来は辺境伯直属の騎士や侍従・侍女となる者もいれば、馬と武具一式を授けられて生家に帰る者もいる。
今ノックしたペイジは、今日の辺境伯執務室付きの当番で、エイプリルを呼びに来た。
エルが椅子から立ち、ドアに向かう。重いドアを細く開けノブに手を掛けたまま、その身で開口部を覆うようにして確認する。
「用向きを述べなさい」
「次姫さまにお館さまよりメッセージにございます」
エルはドアを引き、ペイジを中に入れた。ペイジは一歩室内に入り、ドア脇に直立して視線を前に固定した。
「お館さまのお言葉をお伝えいたします」
「よろしい」
「朝の用件は片付いた、執務室に来なさい。
以上にございます」
「その場で待ちなさい」
「はっ」
エルは、書き物机に準備しておいた書類をペイジに渡し、立ち上がったエイプリルの室内履きを革靴に履き替えさせ、衣服と髪を軽く整えた。
ペイジは身支度をしている姫を見ないよう、不動のまま目線を動かさない。
「マイレディ、お仕度整いましてございます」
エイプリルは、このペイジが城に来た日から彼を知っている。興奮と緊張で真っ赤に染まった頬に、切り揃えた金髪、期待に満ちたきらめく目。奉公はすでに5年を数え、ある時は母を恋うて涙ぐみ、またある時は先輩騎士に頭を撫でて褒められていた。
その少年ももはや13歳、城内でともに育ってきた者たちのひとりだ。奉公人といっても家族同然、間もなく城を去るエイプリルではあるが、この少年をもまた愛しく思っていた。
「ペイジ、名を聞きましょう」
姫君に直接話しかけられたペイジは一瞬固まった。
「次姫さま、もったいのうございます」
「そなたがよく勤めていることは皆が知っています。名は何といいますか」
「はっ、ロイとお覚えくだされば幸いにございます」
「ロイか。サウスハイランド領からでしたね。騎士レイコックの身内ですか」
「ありがたき思し召しです。騎士レイコックは、従兄に当たります」
「レイコックのような立派な騎士におなりなさい」
「お心にかなうよう、精一杯努めます」
ロイは先に退出し、扉の前で姫を待つ。
エイプリルが名を聞いたことで直答を許される身となったため、エルは付き従わない。ドアの前でエイプリルを見送り、後ろから付いて行くペイジをほほえましく見る。
辺境伯軍指揮官のひとりに名を聞かれたとなれば、2,3日内にも従卒に出世することだろう。
「お館さま、エイプリル参りました」
「座りなさい」
「はい」
執務室の座り心地の良いソファに腰を下ろす。このソファが、時々父の仮眠場所になっていることを娘は知っている。
その父は、向かいのひとり掛けソファに掛けて、足を組んだ。
「ホーシュビーからリバーアンを回りたいとのことだね」
「はい」
「王都に上がるまで、あと二月だが」
「はい。ひとたび王都に上がれば、二度とモン・フィエール(我が故郷フィエール)に帰ることは叶わないかもしれません」
「ああ、そうだな」
「ホーシュビーの移民船を確認、その後、上道を駆け安全を確認、師匠の設計した橋の開通式を」
「開通式に参列するか」
「リバーアンの民に交じって、喜びをともにしたいと思っております」
「そうか」
父は、娘の最後の視察の旅を咎めたりやめさせたりすることができなかった。
エイプリルは本人にとってもフィエールにとっても理不尽に王家に嫁がされる身だ。この戦姫を国境から遠い王宮に留め置こうとは、王はどういうつもりなのだろうか。
優れた指揮官として国境を護ってきたというのに、その身を只の飾り人形にせよとは。
今、あとわずかとなった時間の最後まで領を思う気持ちを、無下に扱うことはできない。この先の長い王子妃としての生涯の代償ともなりはしないが、せめて最後のひと時まで戦姫としての時間を過ごさせてやりたかった。
「メリーアンに図り、旅程を定めよ」
「お館さまに感謝いたします」
「ウイレムにも諮れよ、よいな」
「はい」