九十九話
——廉潔なる初志。
それは烈刀士の試練の中で己と対峙しその先に得る芯のことである。サンが対峙したのは、ライガを見捨てて師匠に拾われた頃ぐらいの自分だった。犠牲を恨み、自分を残していった師匠への怒り、ライガを見捨てた己の弱さへの怒りのみを力として、そんな自分の感情から目を逸らし続けていた頃の自分。サンはそれと対峙し、乗り越えるでもなく、組倒すでもなく、醜い受け入れがたい己を受け入れることで自分とした。
そうして得た力は、守るために闘うであった。戦うことは誰でもできる。だが、心の在り方によって結果が変わるのだ。守るためであっても、心の深淵にある増悪によってもたらされる戦いはなにも救わない。だからこそ、サンはそれを受け入れ、目を逸らさずになにをもって守るべく戦うかを理解している。烈刀士の戦いの本分は、己を剋した純粋な想いとそれを信じる心の刃、それらをもって闘い続けること。それこそが廉潔なる初志。
——ゆえに、ぶつかる。
考えるまでもなくその信念が沸騰するかの如く力を溢れさせる。
蒼龍将が河の水面を駆け、畝る波の上でサンと蒼龍将は激しく剣花を散らす。河は凍り、炎で溶けては二人の秘術のぶつかり合いで雨が降った。蒸気漂い霞む視界の中、互いの気配を手繰り寄せるように静寂が訪れ、白緑の羽衣を纏った二人が一太刀浴びせんと金属の甲高い音を響かせる。霧が何かを中心に晴れた。そこには大太刀を担ぎ構える蒼龍将の姿。それを見るや否やサンは吊り劔の構えをとる。霧が再び空間を飲み込まんと押し寄せるよりも早く、蒼龍将が一歩で宙を滑り大太刀を一閃し、紙一重に躱したサンは落桜一連をもって蒼龍将を迎へ撃つ。
愛刀〝心・通〟から感じた確かな手応え。同時に、刹那なる時の狭間に入ったかのように蒼龍将の廉潔なる初志を見た。
産まれて間もない我が子を腕に抱く蒼龍将。それを微笑み見る女が乳飲み子の口に指を当てた。一心不乱にしゃぶる我が子を柔らかく見守る二人が微笑み合う。
——この子はわたしたちの太陽でありんす。女はぱっと顔を咲かせる。太陽がよろしいかと。
——変な名だ。風斬の子だ、風に纏わる名が慣わし。
一つの家族の平穏が、突如襲う剣客に剥ぎ取られる。血みどろになる女。その腕から乳飲み子が転がり出て大泣きした。蒼龍将は刀傷を負いながら己の子を抱いて、愛する女を弔う時間すら与えられずに逃げるほかなかった。川に追い詰められた蒼龍将は、桟橋の小舟に布で包んだ我が子を置くと、涙を噛み締めながら紙切れに〝太陽〟と血で書くと小舟を押し出した。剣客と対峙する蒼龍将は満身創痍。戦いが終わり、目をやった川にはとっくに小舟の姿は消えていた。
見えたのはそこまでだった。そして残る想いは穴が空くような絶望と息ができなくなるほどの切望。サンは振り返り蒼龍将の背中を見た。
「おぬしがなにを見たかは知らぬ」
「あなたには子供がいた」
「あぁ……太陽。あの子を見つけられなかった。軍に入って間も無くのことだった。それがしはまだ若く、弱く……」蒼龍将がふらふらと、なんとか立っている。そんな様子だった。「太陽が生きているなら、太陽を守るなら、ヴィアドラを守れる立場にならなければならん。ゆえに軍に、軍にいられなくなった後は、斯様な立場へと。それがしにできるのは、それだけであった。だが、なんと、なんという――」
蒼龍将が水面に膝を突き体の半分が水に沈む。そして振り返った顔には万感の後に満ち足りた笑みを浮かべてサンを見た。
「すまなかった」
なにを言っているのだろうか。蒼龍将は俺と剣をぶつけ、魂をぶつけ俺のなにを見たのだろうか。
「蒼龍将!」
意識を失ったのか、水に沈んでいく蒼龍将に飛びつくようにしてサンは水面に蒼龍将を引きずり出した。羽衣を使い、空を翔けることができても水面にて大人を担ぎ沈まないのは至難の技だ。
「しっかりしてください」
サンは蒼龍将を担ぐと、西側――烈刀士が陣を張っている岸――に向かって歩き始めた。二、三歩足を踏み出したところで風切音が背後から聞こえ、続いて背中を突かれたような衝撃を感じ慌てて足を踏み出す。足が水に沈み、体勢を崩して蒼龍将を担いだまま水に沈んだ。水から顔をあげると、西側から烈刀士が小舟を出して必死の形相で東側の空を指差していた。
サンがそちらを見上げると同時に、無数の矢が水面を叩く。サンは潜り沈み始めていた蒼龍将を捕まえて水面に顔を出させて絶句した。
蒼龍将の胸に深く矢が刺さっていた。気がつけば水面が赤く染まり、自分の体が見えないほどにまでなっていた。烈刀士の小舟に引き揚げられたサンは蒼龍将に近づき、その顔が青ざめているのを見て力なく腰を落とした。
なんということだろうか。言葉にならない。叫ぶだけでは足らず、刀を持ってしてもこの落胆と怒りは表現できない。
小舟を次々と出し河を渡ろうとする烈刀士達を止めることもできず、サンは濡れた髪を鷲掴んで額に深い皺を作ることしかできないでいた。
岸に着き、蒼龍将を川縁におろす。蒼龍将の胸は動いていなかった。誰もが息を呑み動かない蒼龍将に目を落としていた。河を見ると、烈刀士達の小舟はその数を減らしていた。いくつかは矢を草のように突き立てて志半ばに漂い、残った小舟の数は半分以下になっていた。
背後で音がしてサンが振り返ると、森からそわそわと出てくる氏族の姿があった。その表情は泣きそうな子供のようで、助けを求めるようにサンに向けられた。
「嵐様が……。嵐様が!」
女の悲鳴にも近い叫び声が響き、ぞろぞろと森から氏族が出てきた。
「龍人様は仲間になるから安心しろと言っていた。仲間ならば、なぜここにいる」男は声を震わせて河の方を指差した。
小舟がまた一つ、沈みかけている。守らなければ。彼らも、廉潔なる初志を持ち、守るために戦っている。彼らの想う心は本物だ。誰もがヴィアドラの顔も知らぬ人のため、未来のために剣を握っている。守らなければ。
サンは立ち上がり羽衣を纏うと同時に河に向かって飛翔した。
軍の太鼓の拍子に合わせて矢が波状に空を覆う。軍旗の数は四つ。四國の軍が集まっているのだ。矢が弧を描き落下してくるのを見て、サンは白緑の焔の龍をもって空の矢を薙いだ。空を泳ぐ龍は全身が白緑の焔。それに焼かれた矢は失速し火の雨となって河に落ち、烈刀士の命を穿つようなことはなかった。それでも、空を撫でるように気の力を大盤振る舞いするのは無理がある。
サンは手近な小舟に降り立つと、驚いて刀を向けてきた烈刀士に落ちつくように促す。そして、小舟を一箇所に集めるように言うと、先の空を覆う白緑の炎がなんだったのかを理解して他の舟に声をかけ始めた。あっという間に舟が集まるが、その間にも矢が天を昇り落ちるのが繰り返され、サンはその度に龍をもって天を焼いた。舟が集まった頃には、サンは顔を土気色にし、ひどい悪寒に堪えるしかなかった。気の一切を纏わず、体を支えるだけの剣気もない。絞るように気を練り上げようにも体がついてこなかった。
上空に黒い影が昇ってゆく。それは緩やかに向きを変え、まるで宙で止まったかのように見えた。小舟の烈刀士達が雄叫びをあげ、せめてもと足掻いていた。止まっているように見える矢が本当に止まっていてくれたらどれだけいいだろう。まっすぐとこちらに落下してくる千の影が濃くなってくる。
だめだ。
そう思うと同時に、天を赤黒い焔が喰らった。肌を逆立てるほどの気を持つその炎は炎魔のものだと直感する。焔に焼かれた雨が水蒸気となって空を霞ませると、四軍の太鼓の音が止まった。
小舟はなおも漕ぎ続けていたが、岸の兵の動きがわかるほどの場所で櫂を止めた。弓兵達は矢を番えてはいるものの、弓を下ろしている。舟の烈刀士達は不穏なその空気に、助かったのか己の煮え切らない運命を歯がゆそうに舌打ちした。
サンは身を起こし、岸を睨む。炎魔は戦わないと言っていたが、ここにきて元老院側に組み入ったのだろうか。それとも、俺達を助けたのだろうか。
小舟に一本の矢が突立ち、烈刀士はそれに視線を注ぐ。それは矢文だった。
——我が友の信念の昇華、感謝申し上げる。貴殿の廉潔なる初志しかと受け取り、遅ればせながら助力申し上げる。まずはささやかながら、漣豪雹率いる元老院との会合の席を差し上げる。
その手紙をサンは力一杯握り潰した。
遅すぎる。蒼龍将の死の前にどうしてそれが叶わなかったのか。
そう考えて、サンは息を呑んだ。
——誰かの傀儡になってはならぬ。
これこそが誰かの思惑なのではないか? 天星神宮で豪雹に言われた言葉が、静まりきった落胆の心に怒りの波を渦巻かせた。それは、豪雹への怒りというよりも、豪雹の糸に踊る己へ向けられてもいた。




