七十九話
サンは朝の世話をしてくれた雑士が部屋から出るのを確認してから、気を練り上げて己の内側で輝く力を収束させると、羽衣を纏った。
漲る力を握り、高揚感に包まれる安堵感を堪能しながら、寝台から立ち上がってみた。
俺は、また生きるんだ。
立ち上がり一歩踏み出そうとしたが、足は石のように動かない。板張りの床が顔に迫ってくる。咄嗟のことで理由はわからないが、腕は自然と動いてなんとか床に顔を打ちつけずに済んだ。
昨日から体をどう動かすかの特訓を続けてわかったことがある。体を動かそうと考えてやると動かないのだ。無意識に、自然的に、反射的にやると体は動く。歩こうと考えてから人は歩かないものだ。
立ち上がろうとして、膝をつくことには成功したものの、力を入れて立ち上がることはできなかった。それに、動くたびに溢れる気が大量に削れていくのを感じる。健全な状態でも羽衣状態でいられるのは一時間程度だった。それ以上は続けたこともないし、今の俺では集中力も保てない。
何も考えずに、体を動かす。そう言い聞かせて膝立ちのまま数十秒が過ぎた。今度こそ立ち上がる、何も考えず、と何も考えないことを考えてしまって、結局石像のようになるしかなかった。
扉が開く音がして、振り向くと真が立っていた。そして、固まっている俺の状況を見て、目を細めた顔に陰険な笑みを浮かべた。
真は木刀を逆手に持つと、寝台を飛び越してサンの頭に木刀を振り下ろす。容赦の無い速さをもって振り下ろされる木刀を、サンは立ち上がり体を傾けるだけで躱すと、真の腹に蹴りを放つ。真は挑戦的な笑みを見せながら蹴りを防いで距離をとった。
「言った通りじゃん」
「あぁ。やっぱり、体が勝手に動くような状況なら問題ないみたいだ」
真が腕を組んで鼻から息をつく。
「でも、それだと不便すぎるしね。歩けないとやっぱりキツくない?」
今度はサンが息をつく番だった。まったくもって真の言う通りで、これじゃあ自分の尻を拭くこともできやしないし、尻を拭くのに龍人の力を顕現させるなんてのも冗談がすぎる。
サンは顔を手で覆い、摩りながら寝台に腰掛けて羽衣を解いた。体がぐにゃっとして寝台に倒れこむ。真がその様子に小さく笑い声をあげると、サンはやる気のない声で助けを求めた。
「何事だ」
真が体をびくりとさせて、起き上がらせていたサンの体から手を離した。サンは再びこんにゃくのように体をしならせながら、喚き声をあげながら床に落ちる。
「皇燕将……。俺は、龍人様の様子を見に来ただけです」
サンは低く唸りながら、両手を背中に回して恐縮した様子の真を睨みあげた。
「おい、真。鼻が折れたかもしれないくらいに痛いぞ。起こしてくれ」
真が慌てたようにサンを寝台に戻す。その間も、皇燕将は鋭い眼差しで二人を見ていた。
サンが一呼吸置いて咳払いすると、サンの挨拶よりも早く皇燕将が口を開いた。
「さきほどから大きな気を感じていた。お前達、この部屋で一体何をしていた?」
皇燕将の目が真からサンに移る。真は目を下に落として黙り込んだ。
「こいつに稽古をつけていました」
「そんな体で何ができる」
サンは苦笑しながら真を横目で見た。
「それはできない理由にならないって気付いたので――」カゲツのようなもの言いに気づき、サンは咳払いをする。「――剣の道の指導をしていただけです」
「〈無色流〉を皆伝されていたとは知らなかった」
サンはばつが悪そうに口をつぐんだ。
「師弟ごっこというわけか」皇燕将はサンが反論してこないのを見て満足したかのように鼻を鳴らす。「まぁいい。だが、砦の中であまり大きな気を練るでない。私のように感じとれる者は穏やかではないことを知れ。場合によっては良くないことも起きる。特に今はな」
そう言って皇燕将は部屋から出て行った。
「〝特に今は〟?」
サンの問いに、真は腕を組んで斜め下に視線を落とす。その堅い雰囲気は、考え事をするときの蒼龍将に似ていた。
「蒼龍将が南の氏族達の所に行ってから、この砦の中はちょっと居づらいよ。俺が感じるのは、蒼龍将の意思を掲げる人がいて、それに不満げな人達がいるってことくらいかな。それに、鬼がどんどん南下して来てるって話だよ」
「そうか。蒼龍将の意見に反対する者もいるのか」真の咎めるような視線を無視して、サンは考えた。
蒼龍将は烈刀士を束ねる中心的な存在だ。他の烈刀士将ですら蒼龍将に意見を仰ぎ、その言葉を尊重するくらいだ。だけど、どんな大義であれ、守るべきヴィアドラ四國と対立することに抵抗を覚える者もいるのだ。
そして、その抵抗の意思を掲げないのは、あまりにも数が少ないからだろう。鬼の南下によって緊張が続く中で足並みを乱したくないという気持ちもあるかもしれない。
「叔父さんは正しいことをしてるんだ」
そう堅く言う真に、サンは痛い気な目を向ける。
「守るべきヴィアドラに刃を向けることがか?」
サンの言葉に、真が肩を怒らせて西側――ヴィアドラ四國の方――を指差す。その顔は憎悪に歪んでいる。
「あそこは腐ってる! 俺の父さんが守ってたヴィアドラを、あいつが腐らせたんだ。そんなヴィアドラはヴィアドラじゃない!」
確か、真の両親を死に追いやったのは漣豪雹だと、蒼龍将が言っていた。その漣豪雹が実権を握る蒼龍ノ國、もとい元老院が束ねるヴィアドラそのものが、真にとっては気に入らないのだろう。それはわかる。だけど、それを大切に思う人だっているのだ。
「真、お前の恨みはわかるけどな」
「わからないだろ!」
真は荒々しく部屋を出て行ってしまった。
どれだけ悔しい思いをしているか、確かに俺には想像でしかわからない。親が守り築いたものを掻っ攫われ、挙げ句の果てに殺されそうになりこんな辺境地に追いやられているのだから、切り刻んでやりたくなるのも当然だ。
サンは、頭の中の思考を吐き出すように溜息を洩らした。
蒼龍将の意思を掲げる者達か。蒼龍将は、氏族に戦いをやめるように諭しに行ったのではないのだ。戦いに備えるように、発起しに行ったのだ。
更に、鬼が南下してきているとなると、砦の戦いは一層厳しいものになる。
サンは羽衣を薄く纏って無意識に拳を握った。
「早く動けるようにならないと」
砦全体が震えるほどに喧しい警鐘の音で目が覚めた。
外の様子はわからないが、窓の隙間から光が漏れていないのを見ると、まだ日が昇る前なのだろう。
砦にきてから三年の間、この警鐘を聞くことはなかった。戦闘区域での鬼との戦闘自体が少なくて、砦の方まで南下してくることはなかったからだ。この警鐘は砦に鬼が近づいていることを知らせるための鐘だ。なら、今この瞬間にも鬼が攻めようとしているのだ。
サンは己の内側に光を湧き立たせ、それを握り収束させる。心の中で光る剣だ。翡翠色の揺らめく炎のような気が、狩衣と大鎧を合わせたような形となって身を纏い、白緑の光へと変わっていく。
サンは寝台から飛び起きて愛刀〝心・通〟をひったくるように手に取った。
同時に部屋の扉が勢いよく開け放たれて、真が息を切らして部屋に入ってくる。目はぎらついていた。
「兄さん、行けるの?」
「やるしかないだろ」
体が動く動かないということを考えている暇はなかった。そんなことよりも、頭の中は鬼が砦を越えたらどうなるか、任に出ていた烈刀士はどうなってしまったのか、ライガ達は無事だろうかということが、鼓動と一緒に頭の中で膨らんでいく。
石造りの砦の中は詰まった蟻の巣のようだった。通路には矢を抱えた雑士や、起きたばかりなのだろう、戦装束を荒々しく着た烈刀士達が険しい顔で肩をぶつけ合い通路を進んでいる。
命令や号令が飛び交う慌ただしい中をどう進もうかと、サンは一瞬たじろいだ。だが、羽衣状態のサンに気付いた者達が、慄いた様子で壁際に寄ったためにサンの周りに空間ができた。
龍人様と言う言葉があちこちから上がってくる。雑士の中には心から嬉しそうに目を輝かせる者もいる。
一人の烈刀士が怒鳴るように声をあげた。
「龍人様、皇燕将は迎陽にいます! 皆の者、道を空けろ、龍人様がお通りになる!」
人々が壁に身を沿わせ、迎陽までの廊下と階段が開かれ、サンは飛ぶように砦の中を駆けて迎陽に上がった。
迎陽の真ん中には大きな篝火が音を立てて燃え盛っている。迎陽の端に立ち、篝火の明かりを背で受けて立っている影が三つ。皇燕将と明水、あと一人は梯子守だった。
皇燕将が俺の気配に気付いたのか、素早く後ろを振り返った。その目は驚愕に見開かれたが、すぐにいつもの鋭い目に戻った。そして顎をしゃくった。呼んでいると察したサンは皇燕将の横に並んだ。
明水が、サンの頭からつま先までをたっぷり二往復見ると、皇燕将に明るく躍動に満ちた目を向けた。皇燕将は明水を見ないで、南の戦闘区域に目を向けたまま応えるように頷いた。
「龍人のサン、理由はのちに訊くとして、やれるのであろうな?」
皇燕将の言葉に、サンは刹那の不安に口を噤む。皇燕将が横目で見てくるのを感じて、サンは黙って愛刀を鞘から放つ。
「戦況はどうなってるんですか」
「んだぁ、てぇへんだ。鬼百、餓鬼三百、陣形組んでやってくっさ」
「第一陣はすでに我等で滅した。梯子守が言ったのは第二陣のことだ」
サンは暗闇で見えない北の戦闘区域に目を凝らした。空を見上げれば、今日は二つの月のどちらも空にはない。それに、どうやら真夜中らしい。最悪の状況だ。
「俺は今の状態では一時間も保ちません。どこまでやれるか、俺にもわかりません」
皇燕将は薄い唇の片方をゆっくりと小さくあげた。
「なら、機先を制するのが得策か」皇燕将はそう言って、鴉ほどの大きさもある炎の燕を顕現させて、戦闘区域に飛ばした。
サンは気を解放させて周囲を探ってみた。前線で待機している烈刀士の数は百近くある。それだけの数を巻き込まずに戦うのは至難の業だ。もしも、全力で暴れるのであれば、他の烈刀士は邪魔になるだろう。
だが、烈刀士の気配が砦の方へと下がってくるのを感じた。
「前線は下げた。廉潔なる初志、そなたの全力をもって示せ」
皇燕将は、どうやら俺のために前線を下げてくれたようだった。その期待に応えられるだろうか。どこに隠れていたのか、途方もない大きさの不安が背中に張り付いてきて、体が重くなった気がする。
「行ってきます」
サンは深呼吸をして腰を下げた。羽衣の光が一層強くなり、周囲に熱が漂う。次の瞬間、迎陽の堅い床を陥没させて、サンは白緑の光の筋をひいて森に向かって飛んでいた。




