七十七話
人力車に揺られながら、昔なら長時間座り続けて尻が泣いていたのにな、と陽射しを遮る革張り屋根を見つめていた。
「烈刀士さん、もうすぐ肆ノ砦につきますぜ」
迎士が陽に焼けた顔に白い歯を輝かせて、振り返りながらそう言った。半日揺られ続けた人力車の旅がようやく終わるのか、と昔なら喜んだだろう。だけど、今はここで折り返して、再び壱ノ砦に半日かけて戻って欲しいと切実に思っていた。数日前、船の中であんな役目を押し付けられなければ、こんな感情にはならなかった。
いや、それは違う。と心の中で声がした。
この体では立つことも刀を握ることもできず、下の世話まで手伝ってもらわなければならない。そんな混沌とした深淵に落ちるような未来から逃げたくて、ずっと絶望と恐怖を渦巻かせているのだ。自分自身がどれほど無力なのかを突きつけられて、現実のありとあらゆるものを逃げる理由にしてるんだ。
それでも、俺は頑張ったんだ。だからもうほっといてくれ。もう何もできやしないんだ。だけど、進みたい、進まないといけない。そんな支離滅裂な炎と氷の感情の糸が繋がってはこんがらがり、冷たい炎に切られていく。
その永遠と繰り返される混沌の中にちらつく想いの匂いを感じて、サンは鼻に皺を寄せて唇を歪めるも、すぐに力なく眉を下げて目を瞑った。
ちらつく想いは、かつては俺の光だった。生きる指標で、これから磨いていくはずだったもの。大切なものを守るために戦うという信念、受け継ぐと決めて背負った信念、そいつらが忘れられてたまるかと混沌の嵐の中に匂いを残しているのだ。
だけど、もう無理なんだよ。俺には何かをする力はないんだ。だから、もういいじゃないか、ほっといてくれ。
それなのに、蒼龍将はこれからのことを決断しろと言ってきた。
烈刀士が描くヴィアドラか、元老院が描くヴィアドラか、どちらを選ぶのかと。蒼龍将は元老院と戦う決意を固め、ヴィアドラをあるべき姿にする戦いを始める気なのだ。
龍人祭が行われている間に、元老院が蒼龍ノ國と東の妖魔の森の境界に軍を敷いたのだ。龍人祭巡りの旅をしていた蒼龍将と俺達は、寝耳に水だった。
軍を國境いに張った名目は、昨今増え続ける妖魔への対処だった。納得できる判断だった。四國より東側にある妖魔の森の管理は烈刀士達が行っているが、今は深刻な人手不足によって管理は万全ではない。異国のモルゲンレーテ星教国の援助を受けてしても力不足だ。そして、龍人祭のために最大戦力である蒼龍将と龍人が欠けているのだから、防衛のために軍を張るのは当然だ。妖魔との戦いをすべて烈刀士に任せるのではなく、國も自衛しようという意図だと俺は感じた。
そんな俺の見方を受け入れつつも、蒼龍将は険しい顔で続きを話した。
龍人祭の裏で行われていた國境の軍配備。それと同時に行われていたのは、東の妖魔の森の資源開拓だったのだ。元老院がミュルダス将軍と取り決めた条約に、妖魔の森の銀霊樹の提供がある。その資源の調達場所は各國の妖魔の森だったのに、元老院は國の力の及ばないはずの東の地域を開拓して渡そうというのだ。
四國からしたら、自分達の國の外の資源を掘り出して渡すのだから美味しい話だろう。だけど、東の地域は四國に属さない古くから存在するヴィアドラの氏族の土地だ。
〈鬼目郷〉を見ればわかるが、烈刀士は古より氏族と深い関係にあり、それはこれからも続く。そんな仲間の家が勝手に荒らされるようなことを、烈刀士は――特に彼らに慕われている蒼龍将は――見過ごせるはずがない。
元老院が軍を敷いたのは、氏族や蒼龍将率いる烈刀士が納得しないと知っていたからだ。烈刀士が仮に黙っていたとしても、家を荒らされる側である氏族は武器を手に取り振るうだろう。そうなれば、戦争になる。
烈刀士はヴィアドラを守る存在であり、それは四國だけではなく氏族達も含まれる。戦争を回避すること自体がヴィアドラを守ることに繋がると、蒼龍将は元老院と対立する決意を固めたのだ。
それはわかるのだけど、だからと言ってどちら側につけと迫るのは難がある。どちらも守りたいし、守るのが龍人だ。
蒼龍将は、氏族が戦争を起こさないように、元老院と氏族の間を取り持つために砦を離れると言っていた。
〝白蟻に食われた家は建て直す〟
蒼龍将のあの言葉を確かに覚えている。もしかしたら、氏族達と蒼龍将につく烈刀士を集めて元老院と戦争すら起こしかねない人だからだ。
そんなことを考えながら、俺は蒼龍将の烈刀士につくか、元老院につくかという選択に沈黙で答えた。俺は烈刀士で四國に生きる大切なものを守るために戦うと決めたのだ。選べるはずがない。
選択に黙る俺に、仕方がないと言いたげに蒼龍将は役目を言ってきた。
北では今も鬼との戦いが続いている。烈刀士を取り纏める人望をもつ蒼龍将がいなければ士気は下がる一方で、近年強くなる鬼に対処できなくなってしまう。そこで、蒼龍将は士気を高めるためにヴィアドラの象徴として砦を支えろと言ってきたのだ。こともあろうか、体も動かず、民の前で異国の戦士に敗北した俺を。
こんな状態で誰が俺を象徴として認めるだろうか? 俺なんかが皆の目に留まっていいはずがないのだ。それなのに蒼龍将は――。
人力車が停まり、遮光用の薄い革の屋根が跳ねあげられて迎士が覗き込んでくる。サンは睡眠を妨げられたかのように顔を顰めた。この人は俺の悩みなど知りもしないのだろう、陽に焼けた浅黒い快活な笑顔に胸焼けがした。
「さっ! 着きましたぜ」
サンは硬い表情のまま迎士の顔から目を逸らすと頷いた。
カゲツとライガが持つ担架に載せられて砦の中に入ると、ひんやりとして少し重みを感じる懐かしい空気が鼻腔を突いてきた。刹那の喜びに口角が軽くなるも、皆の非難の目を想像して心は鉛色に染まり、口は重くなった。声まで重くなりそうで、咳払いをしてからカゲツの背中に話しかける。
「カゲツ、俺をあまり人目につかせないで部屋まで連れて行ってくれ」
震えそうに、搔き消えそうになる言葉をしっかりと届けるようにサンは言った。
ライガは何が楽しいのか、意地悪いもので口の端を上げて俺の顔を覗き込むと、再び視線を前に戻した。
「そんじゃ、我らが皇燕将様に御御足を運んでもらうとするか」
ため息混じりのその言葉に、サンは重い唾を飲み込んで口を挟む。
「いや、今は、頼む。一人にしてくれ」
ライガの目が掌を返したように不快を湛えて細くなる。
「いつまで辛気くせぇ態度してんだ。甘えてんじゃねぇ。報告はしなきゃならねぇだろうが。お前は俺達の班長なんだぞ」
サンは逸らしていた目に刃を抜いてライガを睨む。
「これで班長が務まるわけないだろ!」埃達が縮み上がったかのような静けさが廊下に響き、居た堪れずライガから顔を逸らした。
ライガは、苦悶に顔を歪ませて顔を背けているサンに険しい視線を垂らし、耳まで走る左頬の刀傷を一瞬引き攣らせて担架から手を離した。
担架が落ちて地面に頭を打ったサンが悪態をついて、カゲツが振り返る。険しく冷徹な目でサンを見下ろすライガに肩を大きく落として、首を振って二人を睨みつけた。
「なぁ、二人ともどうしてお互いの気持ちを考えないかな」カゲツはサンを見る。「サン、お前の気持ちもわかるよ。抱えるには大き過ぎる不安だと思う。一人で抱えたいならそれでもいい、お前の不安だからね。でも、自分だけがヴィアドラや仲間を守りたいと思ってたりしないよね?」カゲツは顔を背けているサンに瞬きもしないで言葉を投げかける。「俺達だって大切な人や場所を……俺達より強いお前のことだって守りたいって思ってるんだ」
カゲツは、腕を組んで鼻を鳴らしたライガをちらりと見てから、再びサンに目を落として柔らかい声で続けた。
「ライガだってそうなんだよ。鬼火だって、お前を兄さんって慕う真だってね。それを忘れないで欲しい。自暴自棄にならないほうがおかしいけど、他人を傷つけるのは――」
「そんなことわかってる」練り上げた赤黒い怒りをサンは吐く。「だったら、好きなようにすればいい。なんだってやってやるさ。広間や食堂にでも運んで俺を晒せばいいだろう。手足の動かない生きた人形を誇りだなんだって飾り付けてな! 今までだってそうだった。自分で選んだ道だと思い込んできたけど他に選択の余地なんてなかったんだ。龍人になることだって、一度たりとも願ったことなんてないんだからな!」
ライガが無表情に黙って担架を持ち上げる。
「おいカゲツ、食堂に持ってくぞ」
「ライガ……」カゲツは諌めるようにライガを見据えて言う。
「今こいつが自分で言ったんだぞ。食堂でも広間でもってな。今までと同じように自分で〝決断〟したんだ。それをこいつは忘れてるみたいだけどな」
「ライガ、そんな言い方はないと思うけどね」
「いいやあるんだよ。腐ったもんには焼入れねぇと気づかないもんなんだよ」
ライガの皮一枚の下に憤怒を抑えつけた無表情を見つめたカゲツは、サンに目を落とした。呼吸を荒くしながらも、顔を背けて壁を睨んでいるサンの姿を見て、緊張した様子で唇を舐めると「わかった」と頷いた。
サンは自分の個室の寝台の上に仰向けになったまま、締め付ける胸の痛みに耐える代償が枕を濡らすのをそのままに、天井を見つめていた。
カゲツの報告を聞いて俺の姿を見た烈刀士達の多くは、情という眼差しで撫でるように労ってくれた。そのいくつかの目の中には期待を裏切られた落胆の影がよぎったのを俺は見過ごさなかったが、確かな暖かさがあったのも事実だった。
俺は、皆が日々を生き抜き民の知らぬところで積み重ねてきた烈刀士の誇りを伝えることもできず、こともあろうかそれを燕宗熾の計略の薪にしてしまった。
龍人祭で燕宗熾にしてやられたのは、俺の力不足に他ならない。そんなどうしようもない俺を労ってくれるその言葉の一つ一つが苦しかった。
もちろん、労いではない然るべき声もあった。
〝龍人様も大したことねぇな〟
〝俺達はどうするんだ!〟
〝蒼龍将殿がいてくだされば〟
食堂の中に洩れた数人のあの言葉が、本当は皆の心の真実かもしれない。
部屋の扉が開き、咄嗟に顔を背けて枕に擦り付けようとしたが間に合わなかった。覗き込んできた真の顔に、弱った動物を見るような柔らかい哀がかかる。
真の宝石のような緑色が混じった目から逃げるように、蔀窓に嵌められた夜空に目を向けた。
「なんだよ。もう船酔いは治ったのか?」サンは顔を外に向けたまま素っ気なく言った。
真は、俺達が皇燕ノ國から船で逃げ出してから壱ノ砦に着くまで、別の船室で船酔いと闘い続けていたらしい。だけど、俺を心配する余裕があるようだからもう大丈夫なのだろう。
「そっちこそ」真が部屋の静けさに負けたかのように小さな声で言った。寝台に腰掛けて、サンの視線を追って開けられた蔀窓の外を窺った。「みんな、本気で心配してるよ」
「そりゃそうだ。大事な戦力がなくなったんだ」
真が眉に力を入れてサンを振り向いた。
「そうじゃなくって」
真の語気が強いことに、サンは心に棘が刺さったように目と口を強く閉じて、すぐさま開けられたままの部屋の扉を見た。
「開けたら閉めろよな。叔父さんに教わらなかったのか」
真が手を払い、部屋の空気が風となって勢いよく扉を閉めた。
「なにも教えてなんかくれないよ。蒼龍将様は忙しいんだ」
真がいとも簡単に気を操って風を起こしたことにサンは目を丸くしたが、真の擦れた影を宿す顔を見て咳払いをした。
「修行つけてやれなくてごめんな」
真はまたも眉に力を入れて、一重の目に槍をのぞかせる。
「修行を見ることくらいはできるじゃんか」
サンは自分の首から下の体を見ながら、道に倒れた木でも指すように顎をしゃくった。
「こんなんじゃ何も教えられないぞ」
真は何を考えているのか、じっと俺の体に視線を落としてからぼそっと吐き捨てる。
「叔父さんと同じだ」
真はサンに背を向けて寝台から立ち上がると、扉に足を向けてしまう。大股で歩くその小さい背中にサンは口を開けるが、言葉が出ないまま見つめることしかできないでいた。
真が扉を開けて立ち止まる。
「そうやって理由をつけるんだ」
小さな背中が螺旋階段に消えていく。サンは枕に頭を預けると息を重く吐いた。
「理由をつける……か」サンは一つ微笑んだ。「開けたら閉めろって、さっき言っただろ」




