五十四話
戦闘区域と呼ばれるその場所は、烈刀士の砦から北に広がる土地を指した。そこにある森は普通の森とは違い〝妖魔の森〟と呼ばれる。狼、熊、鹿などの一般的な獣すら寄りつかず、代わりに一般的な獣に似た形をしながらも、禍々しく神秘的な美しさを持つ妖魔が闊歩する。夜になると地面から這い上がる血管さながらの光脈が淡い緑色の光を放ちながら樹々や草花に絡みつき、幻想的な姿を見せる。烈刀士は戦闘区域に広がるその妖魔の森の脅威からヴィアドラを護っている。
ヴィアドラを何から護るのかは明白だ。漆黒の肌に、人の倍はある背丈と逞しい体。四本の腕をもち、黒い目に輝く虹彩の色は黄金、その体に脈々と流れる血も黄金であり、人ではない者達。ヴィアドラではこれらを〝鬼〟と呼んだ。戦闘区域や妖魔の森は鬼の土地であり、鬼は烈刀士ノ砦より北にしか存在せず烈刀士達は数千年もの間これの侵略と戦ってきたのだ。
「どうだ、何か生き物を感じるか?」
陽が傾き、薄い黄金色の絨毯さながら雪が積もっている森の中で、明水が言った。後ろを歩くサン達四人は、耳を澄ませるように眉間に力を入れて集中したが、やがて首を振った。
明水が歩みを止めて、木々の間を窺うように頭を動かす。
「そうか、お前達にはまだ感じないか。なら教えてやろう。ここから三十歩といった木の影に、妖魔が五体いる」
サンとカゲツが刀の柄に手を添わせる。鬼火は腕を組み、その様子を見て深呼吸した。ライガは腰に手を当てて、何かを考えるように明水の示した方向を見ていた。
「どうするんだ? 俺達であいつらを倒してくるって試験か?」
ライガの静かな低い声に、今は気を配ってほしいとサンは思わず眉を顰めた。ライガは変わらない。今だって何かよくないことを考えているに決まってる。サンは重い息を吐いた。
ライガはサン達の方に視線だけを動かして、大儀そうに言う。
「俺だけでもいいんだけどよ」
明水がライガを振り返る。その顔は眉を上げ愉快そうだ。
「そういえば、お前は戦技大会特選枠で優勝者だったな。助太刀が必要なら叫ぶんだぞ」
明水が意地悪い笑みを作り、短い無精髭を掻いた。ライガは鼻で笑いあしらうと刀を抜いて、腰を落とす。もう片方の空いた腕を腰の後ろに回す変わった構えだ。
森のそれほど遠くないところで、甲高い引き笑いが聞こえてきた。妖魔の鳴き声だ。
「くるぞ」明水が短く、真剣な眼差しで言った。
ライガは構えたままこんな状況で瞑想に入ったようだ。サンはいてもたってもいられずに刀をゆっくりと抜いて周囲を警戒する。カゲツもすでに抜いていて、目が合うと頷いてきた。それに頷き返す。ライガはまだ瞑想している。鬼火の肌から妖気の如き紅色の闘気が渦巻き立ち本人の体を包んだ。白い長衣を纏った賢者と戦った時のような巨人までとはいかなくとも、十分に練られた闘気だ。
サンは体の芯から湧き上がる気を収束させて剣気へと変えると体に巡らせる。音、匂いが肌で感じられるほどに五感が増す。前方、あと二秒も経たないうちに妖魔と接触するとわかったときにはすでに刀に剣気を纏わせていた。
前方から五体の妖魔が跳び上がり、長い前脚を広げてライガに襲いかかる。ライガは瞑想から、片手で持った刀を手首だけでくるりと動かした。斬る動きではないその刀から、空気を破り裂く破壊の音と共に真っ白な閃光が迸り、サン達は目を覆った。
閃光のせいで何が起きたかわからなかったが、地面に五体の妖魔が崩れ落ちているのが見えた。その体には風穴が空いていて、静かに煙が立ち昇っている。
ライガが何事もなかったかのように刀をくるりと回して鞘に収めると、抑え込めない感情を漏らすように喉の奥で笑った。
「やっぱりな、間違いねぇ。あの儀式から何かが違うと感じてたんだ。今までこれほどの力を操るのは難しかったけどよ、今じゃ大したことねぇな」
明水がライガの肩に手を置く。ライガの血走って興奮した顔を見て、真顔のまま握った手に力を籠める。
ライガは興奮した様子のまま、自分の肩を握っている明水の手に視線を移す。
「そう興奮するな若造。あの儀式はただの儀礼的なものじゃない。あの儀式は信念を戦神に示すためのものだが、体を改変するものでもある」
ライガを含め、サン達の疑問に満ちた表情を見て明水は続ける。
「戦う者には力がいる。力を扱うにはそれなりの体が必要だ。あの儀式で生き残ったお前達の体は、今までの普通の人間とは違うってことだ。今まで以上に気を感じられ、剣気、闘気を扱える。力は気持ちがいいもんだ。だけどな、使い方を誤っちゃいかんぞ」
そう言ってライガの肩をぽんぽんと叩いて、体に風穴を空けて倒れている妖魔達に視線を移した。
「こいつらは餓鬼と呼ぶ。狡猾で獲物を弄ぶことを知っていて人の顔も覚える。そして、餓鬼は鬼の支配下にある」
餓鬼。初めて見た時は鉱山で奴隷として生きていたときだ。侵入した餓鬼一体に親達が雄叫びを上げて戦っていたのを覚えている。ライガも覚えているだろうか? 皆が恐怖する中、ライガだけは「あんな面白いものが外の世界にはある」なんて目を輝かせていたっけ。師匠の家に向かうときにも襲われたのを覚えている。師匠はあっけなく斬り捨てたけど。
「ってことは、近くに鬼がいるってことですか?」
カゲツの言葉に、サンは明水を見る。
明水は猿にも見える餓鬼の首元にある何かを探すように覗いていた。それから警戒するように目を細めて森を見渡した。
「あいつらはいつもどこかで俺達を見張っている。ここはあいつらの家の玄関みたいなものだ。この餓鬼は斥候。無論、鬼も人の顔を覚えるからな、お前達の腕を確かめたのかもしれんな」
サン達は改めて周囲に目を走らせる。
五爪城で見せられた鬼の驚異的な強さは忘れるはずがない。烈刀士将の羽衣と対等に戦う強さを持っているのだ。もしかしたら賢者と同じくらい強いかもしれない。だとすると、四人でも鬼一体に勝てない可能性だってある。
明水が笑った。
「なんだその面は、お前は龍人様だろう」そう言うと、明水は砦を指差した。「今日はこれくらいにしておこう」
サンは森を振り返った。雪に覆われて淋しさが横たわるただの森が、今では自分達のいてはいけない場所なのだと感じさせる不気味な重みを湛えている。
ここは人の住む場所ではない、鬼達の家なのだ。
砦への壁に戻るために梯子を上がり梯子守に挨拶をすると、狭間に寄りかかっている少年がいた。つんつんした髪に切れ長の目、線の細い体をしたこいつは風斬真だ。冷たい勝気さを漂わせ、腕を組む姿はどこか背伸びしているようで可愛い。ライガが頭をくしゃくしゃと撫でると、明け透けに嫌がり、緑色が混じった蒼龍将と同じ珍しい目で睨みつけて距離をとった。
真はあらためて腕を組み直すと、顎を上げてサンを見る。その目は残念そうに苛立っていた。
「なんだよ生きてんのかよ」わざとらしく肩を落とし呆れて見せる。こんな子供の挑発にはのらないぞ。サンは静かに腕を組んで続きを待った。「ピカって光ったから、龍人になんかあったのかと思ったんだけどな」
サンは小さく笑みを湛える。「なんだ、心配してくれたのか?」
真はあからさまに目を開き抗議してくる。
「誰がお前なんか心配するかよ! 龍人になるのは俺だ!」真が自分の胸を叩いて見せる。「お前が死ねば龍人様の刀が祠に戻る。そうすれば俺が戦神に選ばれて、俺が龍人になるんだ! なんでお前なんかが……」
そう言って真はずかずかと大股で去って行った。
明水が歯切れ悪く笑いを垂らし、頭の後ろを掻いた。北から海に向かって吹く風が、五人と与り知らぬ顔で北を見る梯子守を撫でていく。鬼火がぶるりと震えて手を白い息で温める。
「すっごく寒いんですけど」
明水が砦に続く扉を顎でしゃくって入るように促した。
砦の中はすでに提灯に明かりが灯されて、無機質な岩の空間が暖色の毛布に包まれたかのような柔らかさを帯びている。任を交代した烈刀士達が酒と肴で一日を労う中を掻き分けて五人は食堂へと向かった。
食堂は賑やかだ。雑士が作ってくれた温かい食事を五人は囲んで、焼きたての魚を箸でつついた。
「あの真って奴は、戦神に選ばれるは我が魂って言ったけどよ、龍人の魂を自分に宿すなんて気味が悪くて俺にはわからねぇな」ライガが魚を頭から囓り、音を立てて食べながら言った。
「戦神に選ばれるってことは、それはヴィアドラの信念を貫く者って証明で、何よりも誇り高いことなんだよ。わからないのかい?」カゲツが呆れたように魚を頬張る。
「でも、エンマ兄もそんなこと言ってたらしいわ。強い人は自分の力しか信じないからだろうけど、あんたは別だわ。ただの自惚れ」
ライガが鬼火の言葉を味わうように笑い、背中を叩く。鬼火は頬張ろうとしていた魚を落としてライガを睨んだ。ライガはその視線に挑戦的な目で応える。
「ところで龍人様。選ばれた本人はどんな心境なんだ?」明水の突然の質問に周囲の喧噪が一段下がった気がして、サンは湯呑みに口をつけて固まった。「実際、この百年龍人はいなかったからな、意識危うい祖父のあやふやな記憶で語られた姿しか俺達は知らんのだよ。それも危険な認識しかない。皇燕から選ばれた龍人が狂い、護るべきヴィアドラに牙を剥いた。話ぐらいは聞いているだろう? 四國の軍がたった一人の龍人相手に必死になった話くらいは」
サンは静かに湯呑みを置いて、明水の目を見据える。視界の端に見えるライガや鬼火、隣に座るカゲツとの間の空気が冷たく色褪せたように感じる。その色は俺を俺と描いていない。
「何も感じません。声も何も。力も今では感じないんです。賢者と戦ったときは身を委ねて見ているだけでした。必死に自分の意識を離さないようにしがみつくだけで精一杯。ただ、仲間を守る気持ちと怒りが結びついて、それを力の源にしているようなそんな感覚です」
明水はいつの間に頼んでいたのか、酒の入った徳利を傾けて自分の湯呑みに注いで一口呷った。
「なにはともあれ、早くその力を使いこなしてほしいもんだよ。最近、鬼が今まで以上に統率のとれた戦い方をしてきて手を焼いてるんでな」
辺りの喧噪が元に戻ったような気がした。ライガやカゲツ、鬼火の相手を挑発するようなやりとり、それを見て笑う明水。だが、いつも通りのその空気に薄い偽りの幕を感じて、サンは苦笑いと共に魚を流し込む。
求めた力を手に入れても、使いこなせなければ意味がない。俺は期待されているのか、恐怖されているのか。砦から全てが見晴らせる迎陽の間で烈刀士将達と話した時も、あの人達の目はどこか距離があった。
サンは再び苦笑を洩らして、茶で流し込む。
考え過ぎだ。疲れているんだきっと。




