四十九話
最初に目にしたのは、鍾乳石が延びる岩の天蓋が地下水の蒼い光に揺らめき撫でられている姿だった。寝ていたような感覚はなく、体は今にも木を跳び回り指一本で逆立ちができそうなほどに軽かった。
俺はなにをしていたのだろうか。舞い降りる木の葉の表と裏に描かれた絵を見るように途切れる記憶をゆっくりと手繰り寄せる。
重い石のように腹の底にある鬼を倒す決意。過去の人間シキの記憶を介して体験した鬼への憎しみ。大切なものを目の前で平然と奪われる烈火の怒り。鬼から大切なものを守るために戦うと決めた、今までにないほど熱く輝く信念。そうだ、俺はその信念を示すために脇差で切腹したのだ。
半身だけを起こして、自分が一糸纏わぬ姿であることに気づくも、動揺の波が寄ってくることはなかった。目覚める前の、光の靄を漂うほんの一瞬にも数年とでも思える時間の感覚に比べれば、その問題は砂利よりも小さく、手から滑り落ちる砂の一粒にも満たないと思わせたからだ。
気配を感じて振り返ると、白亜の儀式広間に、カゲツ、ライガ、鬼火が穏やかな表情で俺を見ていた。傍らには巫女の役目は終わったのか、烈刀士が普段纏っている黒い毛皮を多用した戦装束を纏った皇燕将が立っていた。
カゲツ達三人は、皇燕将の纏うものと同じ烈刀士の戦装束を纏っていた。下ろし立てのそれは、皇燕将のものよりも黒く艶やかで、いつぞやのテットウの娘カグヤ姫の髪を思い出させた。三人の戦装束は下ろし立てということもあって、綺麗だが少し堅そうだ。腰と腹周りにはこれまた黒くきめ細やかな毛皮が誂えてある。上に纏う膝丈まである羽織は、前部を開けて異国風の動きの良さを取り入れていて、膝丈の足袋は布と皮で動きやすく丈夫そうだ。
皆が服を纏っているのをまじまじと見ていると、途端に顔が熱くなった。俺は裸なのだ。顔と体の正面を隠すように立ち上がると、肩越しに尋ねた。
「俺達って――」
サンの問いかけに答えたのは、皇燕将だった。高い位置で艶のある黒髪を結わえた男勝りな冷血漢ならぬ冷血女が、心なしか柔らかい視線を投げかけている。
「儀式は終わった。お前達は乗り越えた。よくやった。だが、戦いはこれからである。廉潔なる初志、ゆめゆめ忘れるな。さぁ、着替えろ」
皺一つなく畳まれた戦装束に、サンは深く呼吸をして礼をすると気を引き締めて身に纏う。皇燕将がそれを見ながら丁寧に話す。
「その装束は烈刀士だけに誂えてもらったものだ。生地は銀霊樹の葉から紡いだ銀糸。絹より美しく、鉄より強い。それだけで里の一等地に屋敷を構えられるほどにな」
町の外にあった丘の上の家を借りるのだけでも大変だったことを考えると、想像もつかないほど貴重なものなのだろう。
「心せよ。お前達はもはや子供ではない。守るために戦うモノノフであるということを」
サンは自分の刀、心・通の二本を腰に差して柄を撫でた。そして自分が腹を切ったことを思い出し、傷を探す。だけど、傷らしい傷はどこにもなかった。
「お前達は一度、覚悟によって命を浄化したのだ。戦神の神意により、魂の輝きを増したお前達は烈刀士だ。今、お前達の体中にはあの脇差が入っている。命尽き果てるそのときまで、その脇差がお前達の魂を記憶する。先代から受け継がれてきた伝統であり、モノノフの証だ」
全員が着替え終わると、皇燕将と新人烈刀士四人は妖魔の森の先にある烈刀士ノ砦を目指して出発した。
妖魔の森を二日進むと、ようやく森の姿が変わり始めた。土期の残滓を感じさせるのは、蕾を枝の先につけた落葉樹などの根の影に残る雪だけだ。ここの森は人間が生きる世界だと感じさせてくれた。光を帯びる不可思議で悍ましい木や草、へんてこな顔をした狼や栗鼠のような生き物達も見られない。ああいった動物は妖魔の類だから、普通の森では生きられないのだ。
森の小さな崖の上に出ると、広がる景色に言葉を失った。茫洋と見える東の海岸から、西の山の白い頂まで延々と走る小さな山ほどもある岩の壁。壁から続く西側の鋭い峰々は、太陽の光を存分に浴びて蒼い天空との境界線を創り出している。
自然の雄大で溜め息を洩らす姿に全身を圧倒されて呼吸を忘れたのは短い間だけだった。新人烈刀士の四人は、東の沿岸から西の峰まで建てられた長大な構造物に改めて目を奪われていた。
目の前に大地を横切り世界を分断する濃い灰色の壁は、高さも長さも蒼龍ノ國の玄関である港町にあった防御壁と同等かそれ以上のものだと思わせた。その壁を皇燕将が海側から山までを手で指し示す。
「我らの家。烈刀士ノ砦だ。東の壱ノ砦から、西の白き山脈の肆ノ砦までを守る。この長大な壁は鬼と人の世界を分けるもの。アルヴェ暦以前からあった、モノノフのあるべき姿を物語っている」
あるべき姿。鬼は人語を話し意思疎通ができるというのに、俺達を食い物だと思っている。そんなやつらからこのヴィアドラを護るのだ。ロジウスおじさん達や俺に微笑みを向けて受け入れてくれたみんなを殺すような真似はさせない。
「あの狼煙はなんだ?」ライガが目を細めながら、下に広がる森の一部を指差した。
皇燕将は刹那の重い沈黙から、鋭く「ついて来い」と言って十メネンはある崖を飛び降りて森へと消えてしまった。
三人は互いの顔を見合わせ、誰が先に飛び降り自殺をするのかを待っている。
ライガが苛立ったように組んだ腕の指を小刻みに動かした。「ちっ。気でも使えばなんとかなるんじゃねぇか!」
ライガが雄叫びをあげながら飛び降りて、岩肌を跳んで落ちていく。
サンもそれに続いた。脚に、体に気を纏わせる。感覚が研ぎ澄まされて考えて動くよりも体が反応し、わずかな出っ張りを利用してあっという間に崖を降りた。振り返ることもなく、そのまま森の中を獣じみた速さで駆け抜ける。カゲツと鬼火もすぐ後ろについてきているのを感じる。
「皇燕将はどこにいる!」
サンの問いかけに、カゲツが前方を指差した。
「大丈夫、前にいる! 感じるんだ!」
前方の森が赤みを帯びた光を発した。直後、熱風が木々の枝を震わせて身を包んだ。熱い空気が肺に入り込み四人はむせこんだ。
熱風襲う前方から、炎が空気を破る音とともに天高く昇り収束して線となり空を舐める。それは鞭の動きにそっくりだった。サンとカゲツは眉を寄せた険しい顔を見合わせる。
「あれはシーナさんの……」カゲツが囁くように言う。
忘れるはずがない。修行をつけてもらっていたときに何度も相手にした炎の鞭だ。だけど、あんな規模の大きなものは見たことはなかったぞ。
まさか、皇燕将と戦っているのか?
走る足から伝わってくる振動よりも激しい鼓動を感じながら木々を縫って走ると、色の濃さが違う炎と炎がぶつかり合っているのが木々の間から見えてきた。
その全貌が見えたとき、四人は熱風に思わず腕で顔を覆った。
シーナの四体の巨大な炎狼が地面を滑るように走り、空気を焼く鞭が宙を切って猛り唸った。
それと対峙するのは、羽衣の巨人の鎧を纏った皇燕将。鬼火とは比べ物にならない濃度の赤黒い闘気を纏い、その大きさは森の木よりも大きく、禍々しいほどに隆起させた筋肉を象り、六本ある腕を振るっては空間を焼き払い、炎狼を叩きのめし、炎の鞭を弾いていた。
なんという戦いか。
四人は信じられない光景に言葉を失い、ただ見ていることしかできなかった。
四体の巨大な炎狼が巧みに動き炎の巨人を圧倒する。巨人の中に立つ皇燕将に焦りは見られないが、炎の巨人の体の闘気が削られていくのがわかった。後方でシーナの炎の鞭が光輝いていく。やがて赤から虹色にも見える白色の強烈な閃光を帯びると、シーナは杖を振るってその鞭を半月型の刃として炎の巨人に放った。
炎の巨人は全ての腕を使ってその輝く刃から身を守ろうと腕を前方で構えた。
強烈な爆発音と衝撃に、サン達は吹き飛ばされて地面を転がった。急いで顔を上げると、シーナの炎狼も、皇燕将の羽衣も消えていた。皇燕将がシーナを見定めるように見つめ、シーナは困ったというように腰に手を当てて見つめ返している。
「わたしは本当のことを伝えたまでで、こんな遊びをしている暇はないの」
シーナは有無を言わせない、それでいて苛立ちが見える声で言った。
「ならば問おう。お前達が来る以前、鬼がこちら側に侵入することなどなかった。手引きしていない証拠がどこにあるというか」
なんだって? サン達は顔を見合わせる。鬼をこちら側に手引きしたとはどういうことなのか。サンはシーナを見る。
シーナは心底呆れたと言わんばかりに額に手を置いて、自分を鎮めるように堅く目を瞑った。
「いい? わたしはね――」
そう言ったシーナの目が焦りに瞠いた。シーナが向けた視線の方、龍人の祠に近い森から、火柱が上がっていた。続いて爆発音がやってきて空気を震わせる。
皇燕将が再び羽衣の巨人の鎧を纏う。その視線は火柱ではなく、サン達の後ろだった。
サンは振り返ると、真っ白な長衣を纏い、頭巾を目深く下ろした人間が立っているのを見て訝しんだ。目元だけ白い仮面で覆い、覆っていない口は固く一文字に閉じられ好意的には見えない。
おそらく男であろう長衣の者は、蛇の吐息のような音を立てて口から藤色の炎を吐いて、口の前に広げた手にその炎をためていく。藤色の炎は燃える水の水晶の如き妖しき姿となり、長衣の者が手を払うと、巨大化してサン達を呑み込まんと地面を穿ち飛翔する。
思いもよらぬ強襲に、サン達四人は為す術もなく立ち尽くす。藤色の燃える水の炎に焼き尽くされる寸前、紅の腕がサン達を守った。続いて炎の鞭が長衣の者を切り裂かんと宙を切り、長衣の者が翻って離れた。
「今度はなんだというのか。お前もモルゲンレーテの者か! 異人めが!」皇燕将の怒号と共に、纏う赤黒い焔のように揺らめき立つ巨人も炎の叫びで空を焼く。
「あれは違うわ! 本当に存在していたのね……」皇燕将の視線に、シーナは早口で答える。「自分達を〝賢者〟と呼ぶ組織。世界平和を謳い、巨大な力を集める者達」
皇燕将は目を細めて、巨人の炎の腕で賢者を指差す。
「おい、そこのお前。戦神の力を奪いにきたのか」
賢者は口角を片方だけ上げると、再び炎の息を両手にためる。
シーナの張り詰めた声が響く。
「君達は下がってて! わたしとこの人でやる!」
サンは自分の意思を見せるために刀を抜いた。だが、カゲツがその手を握りゆっくりと首を振る。
なんだかわからない力に体を鷲掴みにされて、体をもがこうとするが、まるで土の中にでも埋まってしまったかのように動けない。俺は恐怖などしていないというのに。そして自分の体が紅い気に纏われているのを見てサンは悟った。皇燕将が羽衣の腕で四人を掴みあげたのだ。
「お前達は、龍人の祠に戻り、御神体をお護りせよ。初陣だ。心してかかれ。守るために戦い、その廉潔なる初志を見せてみよ」
そう言って、赤黒い焔の巨人はサン達を投げ飛ばした。三人は互いを確認できないまま森の上を飛んでいく。
周りを見る余裕もない中、サンはとっさに気を練り上げて体の表面に纏わせる。羽衣とまではいかなくとも、多少は衝撃を緩和させられるはずだ。
木の枝が体を打ち据えていくのに悲鳴をあげそうになりながら、衝撃とともに地面に落下して日陰に残った雪の上を転がった。呻き声を漏らしながら、授かったばかりの戦装束が汚れたことと、したたか地面に打ちつけた尻の痛みを嘆いた。一先ず骨折がないことに安堵の溜め息を洩らしながら立ち上がった。
ライガ達はどこだろうか。あたりを警戒するも、静かな森が広がるだけで音がしない。龍人の祠を目指して走り始めてすぐに森が開けた。その空間がさっきまでは森だったとを根元から燃えて炭となり、失った命の輝きを嘆くような細い煙を昇らせる木々が語っていた。
「おい、見ろよ」
突然の声に驚いて刀の柄を触れながら振り向くと、何事もなかったかのように無事なライガが、再会を喜ぶでもなく足元に転がる白い何かを見ていた。
ライガがその丸身を帯びた物に空いた二つの穴に指を引っ掛けて持ち上げる。
あれは髑髏だ。ここは火柱が上がった場所……。
「あんた誰だ?」ライガは話すはずもない髑髏と目を合わせて首を傾げた。「間違いなく人間のだなこりゃ。それよりも龍人の祠に行かねぇとまずいな。ここに人間の骨があるってことは――」
「鬼は祠に向かった可能性が高いってことか」
ライガはサンの言葉に頷いて、二人は走った。飲まず食わずで二日は走ると思われたその追跡は、すぐさま終わることとなった。走り始めて間もなく、二つ目の火柱が上がったのだ。それは二人のすぐ近くで、サンとライガは一度顔を見合わせると、今まで以上の速さで走った。
「カゲツ達だと思うか?」
「どうだかな。だとしたらもう死んでんじゃねぇか」ライガの小さな笑いを無視してサンは走った。
まだ熱気が残る広場に踊り出ると、白い長衣を纏った賢者と膝を突いたカゲツと鬼火がいた。賢者は両手に青い炎を滾らせて二人を焼き殺そうと腕を掲げる。
サンとライガは頷き合うと、雷撃と剣気の刃を賢者に向けて放った。賢者が飛びすさり、サンとライガの攻撃が派手に地面を穿つ。二人は、今しがた穿たれ舞い上がった土埃をかぶりながら膝を突いているカゲツと鬼火の前にでた。
「君達、随分と早かったね」
サンはカゲツの苦しそうな言葉を背中越しに笑った。
「あんた、あたしが守ってなきゃ死んでたのに。情けない」鬼火が震えた声で気丈にも威張ってみせる。
カゲツの弱々しい笑い声を背中で聞いたサンは、少しの安堵を覚えると同時に気を引き締めた。
「賢者がこっちにもいるのか」
「あたし達がついた時にはモルゲンレーテの星官もいたんだけどね。さっきの攻撃で全員骨になったよ」
周囲を見ると髑髏が数個転がっているのが目に入る。
「目を離すな阿呆!」
ライガの叫び声に賢者へと視線を戻すと、そこには煌々として地面を揺るがす青白い炎の塊が迫ってきていた。
剣気を振るいその炎へとぶつけるも、炎の塊の輪郭を撫でたくらいで力を削ぐこともできない。
死んだ。
丘の上の家、ロジウスおじさんの診療所の薬品の匂い、ツバキおばさんの淹れる紅茶、配達先でよくしてくれる街の人、とめどなくその顔が脳裏によぎった。だけど、衝撃の一つも訪れなかった。眼前に炎の巨人の腕が突き出てきて俺達を守ったのだ。紅の腕にぶつかった青白い炎の塊が砕けて、四人を守る巨人の体をあざ笑うように舐め回す。
鬼火の炎の巨人がなければ、今ここで全員が髑髏になっていたに違いない。俺は今、走馬灯を見ていたのか。唾を飲み込んで、汗で湿った手を拭い刀を握り直す。
「もう、無理……!」
鬼火の絞り出すその声の直後、炎の巨人は跡形もなく消え去った。運が良かったのか、砕けた炎の塊の残滓も消えて、静寂の熱気の中に四人は立ち尽くした。鬼火を囲むようにサン達は立ち位置を変えて刀を構えた。
「俺の雷撃は一点集中だ。面と向かってじゃ分が悪い。お前ら良い手はねぇのか」
「もしかしたらだけど、剣気で壁をつくれるかもしれない。ただ、一瞬なんだよね」
ライガとカゲツの会話を聞いて、サンは必死に脳みそを働かせた。だが、良い手が出てこない。いや、待てよ。
サンの提案を聞いたライガが挑戦的な笑みを一つ見せて刀を手首で回して見せた。カゲツは一瞬不安そうな色を目に宿らせたが、決意の炎に変わり小さく頷いた。
そしてサンは駆け出す。。
勝負は一度きり。これで負けたら、今度こそ死ぬ。




