五十話
剣気に満ちた体は、熱くちくちくとした感覚と共に常人では成し得ない感覚と身体能力が発揮される。その脅威的な力を一歩に賭けて、サンは数十歩の距離を風よりも速く疾走し賢者に迫る。
ありったけの剣気を一斬りにこめた。こんな量の剣気を一度に放とうとしたことはない。暴れようとする空気を意識で一点に抑え込むような感覚。これが弾ければ自分の剣気に腕が吹っ飛んでしまうかもしれない。攻撃にもならないただの空気のように荒れ狂うだけかもしれない。そんな失敗の恐怖が、藁にもすがる思いで成功の記憶を手繰り寄せる。戦技大会での鬼火とカゲツに放ったあの一撃を。今もできるはずだ。ここで失敗すれば仲間が死ぬ。絶対に負けられない。
暴れそうだった力が、氷柱のように収束して鋭くなるのを感じ、その気配を抱いたまま宙を切り裂く。翡翠の色をした透明な羽衣の刃が賢者に向かって飛翔する。
その渾身の羽衣の刃を、賢者は両手を広げただけで顕現させた硝子のような金色の盾で取るに足らないと言いたげに防いで見せた。
これでも駄目なのか。体の内に握る力が見つからないサンは、悔しさと苦しみが入り混じったものを顔に浮かべながら、透き通る翡翠色の羽衣の刃が黄金の光り輝く盾を前に金切り声のような音とともに霧散するのを見た。
だが、黄金の盾にはびっしりと皹が走っている。賢者の黄金の盾が音もなく雪のように崩れ落ちる。サンは刹那の達成感を覚えるも、それは曇天に射す太陽の光の如く刹那のうちに消えてしまう。
霧散するかと思われた賢者の金色の盾は、消えることなく溶け合うと槍へと姿を変えたのだ。光り輝く槍は罪の片鱗すら赦さぬ天つ日の烈光のようだった。その切っ尖は俺に向けられていた。
黄金の光でできた槍は、見えないなにかに引き絞られてその身を震わせると、後ろへ飛びすさろうとしたサンの体を焼き貫いた。
サンの目の前に遅れて現れた揺らめく藍色の盾、これはカゲツの羽衣だ。あいつも本気で俺を守ろうとしてくれたのか。うまくいかなかった連携に苦笑しながら、サンは背中から崩れ落ちた。
お前らだけはなんとか助かってくれ。逃げてくれ。俺達じゃ勝てない。
サンは心の中で叫びながら、貫かれた体の膨張し続ける痛みと衝撃に呼吸ができずに喘いだ。
目の前のカゲツの藍色の羽衣の盾が、一瞬揺らぐと空気に搔き消える。同時に世界を破るような雷鳴とともに白を超えて桜色にも見える強烈な雷光が辺りを照らす。ライガのあんなにも強烈な雷撃を今まで見たことがあっただろうか。
耳鳴りが響く中で、朦朧としてきた意識を保とうとなんとか空気を吸い込んだ。そしてライガの雷に撃たれたであろう賢者の無惨な姿を探す。今度こそ倒したはずだ。
黄金の眩い小さな砂のような光の風を渦巻かせて、真っ白な長衣に汚れひとつ付けずに賢者は変わらず立っていた。
瞬時に悟った。俺達は負けたのだ。
無念に呻きながら賢者から目を剥がし、後ろを振り返り皆を探した。その光景に全ての力が抜けていく。そこには腹に風穴を空けて仰け反ったカゲツと、同じ槍に貫かれたのだろう鬼火の姿。二人の目は開いているものの、何も見ていない。
こんなことがあっていいのか。
背骨の一つ一つが震えて怒りが滾る。臓腑さえ震え立ち復讐果さんと体が咆哮をあげて灼熱の痛みが全身に迸る。
こんなことが、こんなことがあっていいはずがない。
サンは地面を引っ掴み身を起こす。聞こえてきたのはライガの怒りの咆哮。
逃げろライガ、逃げるんだ。
ライガのその咆哮が切りとられたように聞こえなくなった。
首をもたげて見えたものは、賢者に首を掴まれて持ち上げらたライガ。
サンは出ない声をあげる。やめろ、やめてくれ。ライガの心臓に、賢者の黄金の光の短剣が突き刺さり、血は清められるかの如く音を立てて蒸発する。ライガの体が痺れたように痙攣し地面に落ちる。
ふざけるな。
こんなところで。
ふざけるな。
サンは怒りに体が砕けてしまいそうなほどに叫んだ。溢れる涙も声も震える体も弱い自分に憤悶し、心が叫ぶ。
なんでもいい、力を、魂だって売ってやる!
どれほどの怒りを抱いても抜けていってしまう力が悔しい。どれほど叫んでも声は出ず、体は感覚を失っていく。唯一自分の意識を繋ぎ止めている怒りだけが、まだ死なぬと惨憺たる光景を目に焼き付ける。
殺してやる。俺の仲間を殺したお前も、すべてを。
それでも、まるで生きることを剥奪されるように視界が、世界が暗くなっていく。世界を業火で呑み込まんとする怒りが戦慄いた。本当の強さを知らぬまま、弱いまま誰も守れず、報いることもできずに死んでいく。そんなのは嫌だ。守りたかった。守るだけの力を……俺に。
暗くなっていく視界が白い閃光に埋め尽くされる。死は光になることなのかと、遠い意識が感じていると、体を貫いた槍の傷の部分が灼熱と激痛に泡立ち意識を引き戻す。
視界が戻り、呼吸を感じた。体を動かして力を使わなければ自らが焼き殺される力の大きさに跳ね起きる。畏怖の眼差しで白い焔を纏う自分の腕を見て困惑する。これは、師匠と同じ羽衣の焔?
体の芯を力が沸騰させていく。この力が自分のものではないことを本能が悟っていた。この力を制御しようとしては駄目だ。それは荒れ狂う大波を素手で押さえ込もうとするようなもので、跡形もなく自分というものが散ってしまう。
自分の心を離した瞬間、体の感覚がなくなった。
感じるのは水中を漂っているような感覚。五感すら失われ、自分の目を通して硝子越しに世界を見ているようだった。
自分の体が羽衣を使った猛烈な技を使い賢者を圧倒していく。賢者の金色の盾が新たな形を創る前に白い羽衣の刃がそれを掻き消した。賢者の唯一見える無表情な口元が、初めて苦く歪んだ。
賢者が創り出す槍と剣の雨を、羽衣を纏った自分の体がことごとく打ち砕いていく。形を成さない白い羽衣の剣が空気を切り裂き賢者を襲う。
そしてついに、その刃が賢者を斬り裂いた。賢者は叫ぶ間も無く体が真っ二つになり、刃が触れた体の部分だけが光の砂となって空気に消えていく。
終わったのだ。勝ったのだ。仲間を殺した奴に復讐を果たした。
違う、俺は守るための力を求めたんだ。これは守るための力。
殺す。殺す。赦しはせぬ。
まずい、意識が戻ってこない。
体が西の方角、ヴィアドラ四國がある空を見上げる。勝手に暴れる力は、固まりきらない赤い鉄のような嫌な感情で俺を喰おうとしている。これはなんだ。
体が勝手にヴィアドラ四國の方角に向かって歩き始める。硝子の体に閉じ込められたサンは叫んだ。
待ってくれ、ライガ達のために助けを呼ばないといけないんだ。
目の前の森から皇燕将とシーナが息を切らしてやってきた。二人とも衣服に煤をつけてところどころ焼き切れている。だけど、なんとか勝ったのだろう。表情は疲弊しているが、敗北の闇は見られない。
皇燕将は憔悴した目に畏怖を浮かべて震えると、その場に正座をして両手を突き深々と頭を下げた。
シーナは身の危険を察知したのか、銀色の細い長杖を体の前に構えて巨大な炎狼を二体顕現させて壁をつくった。
駄目だ、戦う様子を見せたら……。
俺の体が勝手に二人の元へ跳躍する。
やめろ!
サンは搔き消えそうな意識で叫んだ。だが止まらない。体は白い羽衣の刀を手に顕現させると、二人を斬り払おうと刀を振るう。
皇燕将は深々と頭を下げたまま動かない。シーナの炎狼が白い羽衣を纏うサンの足と刀を持つ手に喰らいつく。
サンが動けないでいる間に、シーナは杖の先の宝珠から鋭く空気を貫く七色の光を放つと、言葉よりも歌のような音を唱える。それに呼応して光がくねくねとした線を描き流線的な模様で紡がれた鎖の姿を象っていく。
術式のような文字。龍人の祠の白亜の広間に描かれていた模様を彷彿させた。その七色に輝く白い光の鎖が、俺の体に巻きついて地面に引き倒した。シーナさんは莫大な気を扱っているのだろう、気品のある小さな顔は恐怖から引きつっている。
俺の体から暴れる力が抜かれていくのを感じた。同時に端に追いやれていた意識が体に広がっていき、貪るように呼吸を繰り返した。
「シーナさん。俺は、一体……」
「それよりも……早く彼らを!」
シーナさんは逃げたいような顔のまま、自分の胸の前で杖を固く握って自分に言い聞かせるように言った。その手は震えている。シーナさんの横にいる皇燕将は相変わらず頭を下げたままだ。だけど、その顔は血の気がなかった。
体にはすでに眩い光の鎖から解き放たれていた。サンは仲間の方へ走るシーナの背中を追うように顔を向けると、目を逸らしたくなる光景が無慈悲に横たわっている。重なって倒れたカゲツと鬼火。痙攣していた時のまま、俯せに倒れるライガ。
俺は誰一人守れなかったのだ。とめどなく溢れて視界を奪う情けないものを拭い、地面に感情の刃をぶつけ、自分の髪を抜けそうなほどに引っ掴む。
ごめん、ごめん、ごめん。
シーナは犬くらいの炎狼を一体創り出しライガの方に向かわせると、カゲツと鬼火の息の無い体に飛びつくように腰を落とす。状態をしっかりとした目的をもった素早い手つきで容態を確認していく。
炎狼がシーナと視線を合わせて搔き消えた。シーナは立ち上がり杖を掲げ、歌のような音を唱えながらゆっくりと杖を回す。その杖の先から七色の光が煙のように宙に漂い、鎖を創りだしたときと同じ文字が綴られていく。そしてその光が蜂蜜のようにゆっくりと落下して混ざり合い、カゲツと鬼火の体に空いた穴へと流れ込んでいく。
サンはその光景をあやすように体を前後させながら眺めていた。カゲツと鬼火の体に空いた風穴がみるみる塞がっていくのを見て、とめどなく溢れる涙をそのままに笑い始める。
その笑いに応えるように、カゲツが跳ね起きて世界の空気全てを吸い込むんじゃないかと思わせる勢いで呼吸を貪る。続いて同じように鬼火も息を吹き返した。二人とも自分の体の傷を探って、何かを理解しようと必死に考えいているようだった。
続いてライガが立ち上がった。短剣を刺された場所を恐る恐る触り、傷がないことを知ると途端に怒りに顔を染めて、体を真っ二つに裂かれた賢者の骸に唾を吐いた。
シーナはその場に小さな女の子のようにへたり込んで、ほっとしたように空を見上げた。
「死ぬかと思ったわ……。もう暫くは神秘は感じたくないわね」
サンはカゲツ達の方へ走ると、勢いそのままにカゲツと鬼火の二人を抱きしめた。
「俺達、槍に貫かれた——」カゲツがはっと顔をあげてサンを見る。「サン、お前死んだんじゃ……」
サンは言葉にならない幸せを笑顔で噛み締めて頷いた。
「俺はお前ら三人が逝っちまったと思ったけどな」ライガが短剣の刺さっていた場所を撫でながら、訝しむように周囲を見回して言った。そしてシーナの方を見る。シーナがその視線に気付くとライガは視線を外した。「あんたが、助けてくれたのか」
「そうよ。女狐がね」嫌味のない憔悴した声でシーナは言う。
「助かった」ライガが目を伏せて珍しく頭を下げた。
シーナは手を伸ばしライガを見上げる。その表情に敵意はない。ライガがその手を取ると軽々と引っ張り上げて立たせた。シーナは立ち上がりローブの裾を叩いて汚れを落としながら、これだから長衣は嫌いなのよと鼻を鳴らした。
シーナはサン達三人の顔を見てから腰に手を当てて、真面目くさって眉に力を入れた。「毎回こんな奇跡みたいなこと起こせると思わないことよ、あなたたち。サンのあの力がなければみんな死んでたわ」
「サンの力?」カゲツが呆れた怒りを湛えてサンに訊く。「また隠れて力をつけてたっていうのかい」
カゲツは調子が悪いのか、重そうに頭を抱えながら地面に崩れるように座り込んだ。サンは慌てて手を差し伸べながら、そんな力あるわけないだろと言って首を振る。
サンが説明をしようと口を開くと、それを皇燕将の珍しく棘と冷たさのない声が遮った。
「龍人であらせられる」
全員が眉を曲げて皇燕将を見る。皇燕将は同じ言葉をもう一度繰り返した。そしてサンの目をまっすぐと見据える。指示を待つ忠実なしもべのような光を湛えて。
「戦神様の化身であらせられる龍人よ。この百年、ヴィアドラはお待ちしておりました」




