三十九話
「お前、よくやったな」
ジゲンのその言葉に「はい」と上の空に応えたサンは、無色流道場稽古場の庭に積もった雪の上に寝転びながら、オニビとの戦いで感じた相手の心を思い出していた。
「ジゲンさん。俺、最後に相手の心を知りました」
「なんだ、青春か?」
サンは跳ね起きてすぐさま否定した。
「なぁ、カゲツ、お前が相手の練り上げた気を感じるのと一緒かな?」
カゲツは茶を啜ってから首を傾げた。
「いや、そういう感じではないかな。俺は相手が膨張するというか、そうだな、太陽の光が広がる感じ。相手の気の量が増えていくのがわかるのさ」
確かに違うかもしれない。俺は確かに感じたんだ。オニビが誰に対してかわからないけど途方もない劣等感を抱いていたことを。あれは一時的なものじゃなくて、長い間抱き続けていたに違いない。そして、それに屈せずに戦ってきたんだ。だからこそのあの強さがある。サンは身を起こすと縁側に腰掛けているカゲツを見た。
カゲツは手を握り、人差し指と中指を揃えて顔の前に立てて念じている。いきなり目を開き、その手を払う。
すると、庭の雪だるまが粉々に砕け散った。
サンとカゲツは戦技大会で順調に勝利をおさめていた。カゲツも皇燕の者を相手にしたが、オニビほどの者ではなかったらしく、辛勝ではあったものの勝利をおさめたのだ。
サンは雪だるまを無慈悲に粉々にしたカゲツの構えを見て腕を組んだ。
「それが印ってやつか」
カゲツは再び手を振るう。すると雪面に穴があいた。
「俺が戦った皇燕のやつが闘気を使う前にやっていてね。指の折る数で技が違ったんだ。指の折る数にどの技を出すか、自分の意識と体の両方に記憶させて、即座に技を繰り出すためのものらしいね。鍛錬の賜物がなせる技のようだけど、思わぬ収穫だったかな」カゲツはちらりとサンを見た。「ところで、お前もなんかすごいことしたんだって?」
サンは思い出すが、特に変わったことはしていない。なんだろうか。
ジゲンが唸ってから、なぜかカゲツの問いに答える。
「ありゃあ、剣気の先ってやつだ。サン、あの一点突き、羽衣を纏ってたぞ」
「羽衣?」
「剣気っていうのは純粋な気の力を使ったものだ。気は扱いが難しくて大抵は形を想像して顕現させる。それが闘気だ。闘気はある程度技の型がある。オニビってやつは、何度か同じ技を使ってきただろ? あれはあいつが稽古と鍛錬を重ねて身につけた技だ。だが、剣気は純粋な気であるがために、闘気のような形に縛られることがない。変幻自在ゆえに扱いが難しく、大抵は身体能力向上止まり。だがな、秘術を極めている者、それこそ烈刀士将とかはそれで自らの体を纏い鎧とする。色は十人十色、それは鋼を防ぐ鎧でありながら、研ぎ澄まされた刃である。その様はまるで炎のように揺らめく鎧として、神が纏っていた衣服と似ていたことから羽衣と呼ばれている。おそらく、師範も使えないだろうな」
「たぶん、俺見たことがあるかもしれない。師匠が真っ白な、太古の戦の時代に着られていた鎧にそっくりなものを纏っていたんです。すごい気で全身の毛が逆立ったのを覚えてる。師範が全く追いつけなくて圧倒されてたんだ」
「キリ師範が?」カゲツが顔を顰める。ジゲンも同じように唸りをあげた。
「どちらにせよ、サン。それを覚えておけ、最強の武器となる」
そう言うと、ジゲンは稽古場を後にした。カゲツがその背中を目で追いながら腕を組んだ。そして印を結んでみせる。
「おかしいな。なんで俺にはなにも言わないんだろうね。次の準決勝、俺とお前の戦いなのに」
サンは笑った。
「お前が優秀なんじゃないの?」
「よく言うよ」カゲツは印を解くと伸びをした。「でもさ、サン。俺はお前のこと、正直すごいと思うよ」
「な、なに言ってんだよお前」
カゲツは笑うと稽古場の縁側に寝っ転がり黙ってしまった。
サンはもう一度雪の上に寝っ転がり実感のない事実を噛みしめる。俺はこいつと戦うことになるのだ。全力で。
蒼龍ノ國〈龍流京〉は連日ごった返しているようで、京に再びやってきて三日も待機しなければならないというのに観光すらできなさそうだ。その上、この場所では稽古や鍛錬に打ち込める場所もなく、夜も遅くまで町は起きている。幸い、泊まっている旅籠屋は大きく静かだったが、露天風呂、按摩師、食事、睡眠、こんなていたらくな過ごし方はひやひやするし、何よりも体がなまってしまったのではないかと不安になる。
木刀を振ることなく三日が過ぎ去り、旅籠屋の欄に腰掛けて、二つの月の光を浴びる庭のたいそう立派な松を意味もなく見下ろした。
突如、後頭部に衝撃を感じ、火花の如く咲いた怒りを露わに振り返ると、そこにはジゲンが立っていた。いつもの悪戯に満ちた目だ。
「辛気臭い顔してるなぁ若いのに。遂に、明日だな。どうだ、気分は」
どうだ、ってわかっているだろうに。サンはあけすけにため息をついてみせた。
「昨日と変わりません」
「焦って今からなんかやったって変わりはしない。それよりも、動じない心を持て。いつものようにな」
そのいつもは稽古や鍛錬に打ち込んでいたんだ。いったい、あいつはこの歯がゆくて、さっさと飛び込んでしまいたい気持ちをどうしているんだろうか。
「カゲツは冷静だったぞ」
「そうですか」ジゲンから思わず目を逸らす。
「お前たち二人のことを応援している。同じ門の下で磨きあってきた者同士、楽しみじゃないか? 俺はカイロウさんやシブキと手合わせするのが楽しみで仕方がなかった」
サンを見下ろすジゲンの目には生き生きとしたものが宿っている。
そうだ、なんだかんだあいつとはいつも肩を並べていた。今では常に横にあって当然のような存在だ。
「そうですね。楽しみかもしれないです。ありがとうございます」
「まぁ、昨日よりかはマシな顔になったな。それじゃあな」
いつもの俺か。なんだかわからないけど、負けない。それだけだ。「師範代」ジゲンが振り返る。サンは立ち上がると自分の腰に手を当てる。「俺は負けません」
ジゲンは思わずといった様子で笑いを吹き出した。サンは失礼な、と目を丸くした。
「いや、すまん。カゲツも同じことを言ってたもんでな。じゃあな」
あいつもそんなこと言ってたのか。なら、なおさら負けられないな。湧いてくる心の躍動をもどかしい思いで握りしめ、自分の部屋に戻った。
戦技大会の大詰め、準決勝戦は先行きの見えない戦いに大いに盛り上がっていた。上位三名の俺、カゲツ、特選枠のテンライは一様に名門の流派からの出ではないことから、誰の落とし子だとまで噂が立ったほどだった。テンライは巖亀ノ國からの特選枠であるにも関わらず、巖亀ノ國の他の道場の門下生はおろか、その出生を知られていない人間で、まさに彗星の如くで注目の的だった。
サンは無色から蒼龍に見出された天才と謳われ、新聞には彗星の如く現れたテンライと比較されて、空に浮かぶ二つの月に比喩されていた。
カゲツは蒼龍ノ國の田舎からでた数百年に一度の原石と呼ばれて田舎者から人気を得ていた。
戦の願掛けで、強者の手形を持つと武運に恵まれるという迷信があるヴィアドラならではなのか、三人の利き手の手形を印刷された高級な和紙をお守りとして売り出す屋台なども出る人気っぷりだった。
サンはそうやって並ぶ屋台を見ては、いつ俺の手形をとったんだろうか、看板に「本物の手形見せます」など、よくそんな嘘を自信満々に振りかざして商売ができるなと眉を顰め、それを買う子供達を見て無邪気さに理解を示しながらも、その無邪気を金に変える大人は本当に怖いなと嫌悪しながら試験会場へと向かった。
試験会場についてもカゲツの姿はなかった。案内役のおじさんにカゲツのことを尋ねると、カゲツはすでに会場入りして朝から体を温めていたと教えてくれた。まったく、殊勝なことだなぁという感心で焦りを覆い隠すと、サンは木刀を振るって体をほぐし始める。
会場の観客席の下に張り巡らさられた薄暗い通路は、以前ほど騒がしくはなかった。案内役のおじさんは霊通石で打ち合わせをしている。もうすぐ準決勝が始まるというのに、頭上にある観客席は和やかなものだった。準決勝に興味はないのだろう。
「おい、君、君」声をかけてきた案内役の男を見た。案内役の男はにたにたと笑っている。「無色からの出とは、面白い宣伝文句を見つけたもんだ。ま、なにはともあれ盛り上がればそれでいい。さぁ出番だ、行った行った!」
勢いよく開け放たれた入場扉の先の闘技場を指差して男は言った。わずかな不愉快さを感じながらも、扉の開放とともに押し寄せてきた歓声に思わず竦みそうになる。短く息を吐き捨てて、あえて胸を張って足を踏み出した。
俺たちは本気で戦っているんだ。こんな歓声、ただの冷やかしだ。そう思い込むと、急に気が楽になった。怒りがちょうどよく緊張を相殺させてくれたのだ。
同じように胸を張り、堂々と入場してくるカゲツを見据える。カゲツも真っ直ぐ俺を見据えて入場してきた。
二人は向き合って立ち止まると、慇懃に礼を交わした。審判が静かながら厳格な目で二人を交互に見る。
「両者共々、戦神に選ばれると思って励んで戦いなされ。では」審判が扇を高々と掲げる。
「はじめ!」
振り下ろされた審判の開始の声に、サンとカゲツは震える息を吸い込んだ。
カゲツめ、お前も武者震いなのか? サンは思わず笑みを見せた。そして木刀二本を体の脇に垂らし、吊り劔の構えをとった。
カゲツも笑みを作ると、一刀流吊り劔の構えをとる。突如、花びらのように腰を落とし剣技を叩き込んでくる。
観衆は始まった無色流の剣技を考察するようなざわめきに色だった。だがそんな観衆のことなど二人の世界には存在していないも同じことだった。
剣戟に次ぐ剣戟に精神は研ぎ澄まされ、何も聞こえていないようで全てを聞き読み取る戦いに、サンは身震いをした。呼吸を見せるのですら抵抗を感じる張り詰めた戦いは初めてで、この感覚に酔ってしまいそうだった。
剣気を纏わせて閃く両者の剣技は互角、かつ剣気も互角、サンは鍔迫り合いの力の危うい拮抗の中、苦いものを感じて笑った。それを見てカゲツが歯の間から漏らすように言う。
「笑っている場合じゃないと思うけどね」
確かにそうだ。こっちの気の大きさを感じて、比例するように気を練り上げるカゲツは剣気を纏った剣戟から察するに、俺と同じくらいの気を練り上げて温存しているはずだ。なら、どんな技を使ってくるかわからない。剣気を剣に乗せて戦い続けるのは針に糸を通すような繊細さを続けなければならず、ゆくゆくは太刀筋のぶれで決着がつく。だけど、剣ばかりに気を取られて剣気を放たれれば反応が遅れ手痛い一撃をもらうことになる。
この鍔迫り合いの後が別れ道だ。
おそらくカゲツもそう思っているのだろう。なかなか離してはくれなかった。互いの力を利用されればあっという間に地面に転ばされてしまう。突き放し方を間違えればそれで終わりだ。
サンは気づかれないように同じ感覚で息を吸いつつ、一回だけ量を多く吸った。続いて一気に気を練り上げて剣気として相手を弾こうと押し出す。
まるで不動の壁でも相手にしているのか、全く同じ力が返ってきて弾かれたように後ろへ飛ばされ、転がるところをなんとか体勢を立て直し、カゲツの追撃を見切るべくサッと目をあげる。
なんと、カゲツも同じように飛ばされていた。だけど、まだこちらの状況を知らないようだ。カゲツが顔をあげてこちらを確認するよりも早く、サンは剣気を体に張り巡らし、矢のように地面をかけてカゲツに近づく。カゲツが顔をあげてそれを認識した時には、すでにサンは目前まで迫っていた。
カゲツが腰につけた木刀の柄に手を添える。その手はまるで地面に落ちたての花弁のように静かだった。
居合か。
飛び込むのは危険だったがもう止められない。迷いは微塵も見せずに矢のままにサンはカゲツの元にたどり着き一閃を放つ。カゲツもいつ抜いたのか見切れぬ速さで横に一閃する。
見事じゃないか。
胸から腕にかけて熱く痺れる感覚に顔を歪めながら態勢を立て直し、振り返ったサンは、追撃に向かおうとしているカゲツの構えを見て悔しさを噛み殺す。
負けてたまるか。
鳴り響く痛みが走る腕には力が入らない。折れている。やけに息が苦しく咳き込むと、口から血が出てきて驚いたが、そんなことはどうでもよくなっていた。この戦いは終わってない。まだだ!
サンは噛み殺した怒りの後に残った冷たい熱を手放す。手放されたそれは急速に膨張し漲っていく。それを全身に纏うとカゲツを迎え討つべく再び矢の如く飛び出した。
サンとカゲツは会場の真ん中でぶつかり鬩ぎ合う。剣気がぶつかり衝撃の波となって地面を振動させた。
カゲツは驚きに目を瞠いていた。口は一瞬いがむように歪んだ後、諦めたような笑みに変わった。
「ったく、お前には敵わないね」カゲツらしくないその言葉に、サンは漲る冷たい炎を抑えそうになった。「いつだってそうだった。無色からやってきた何もない奴のくせに、勝利を掴むんだからね。ムカつくよお前が」
二人の剣戟が衝撃波となって地面を揺さぶる。
「今だって、腕も折れてれば血も吐いてるっていうのにさ」カゲツは物悲しげな苦しそうな顔をして目を瞑る。そして開いた目に敵意は見られなかった。「あの時から俺はお前の背中を追ってたんだ。でも、わかった。俺は光なくば輝かぬ月で、光なくば咲かぬ花。お前は俺の……」
カゲツの言いたい言葉が、ぶつかり合う気から伝わってきて、月の光を浴びて地面から空を見上げる花びらのようなカゲツの微笑みを、サンは包むような眼差しで見つめた。
目に映るカゲツは別人のようだった。最初はただの嫌味ったらしい奴だと思っていた。学校を卒業して離れられると思ったら道場まで一緒で、道場でも何かと突っかかってきて面倒臭い奴だった。だけど、いつからだったっけ、そうだ、あの初めて二人で蒼龍軍見習いをしたときだ。あのときからあいつとは少しずつ何かが変わっていった。
「カゲツ、お前がそんなふうに想ってくれてたなんて思わなかった。俺は、ただがむしゃらだっただけだ」俺の中の理解できない怒り、触れようとすると逃げてしまう怒り。ライガ、師匠の死への怒り、その怒りがなんだったのか。ただ怒り任せに走ってきただけなんだ。「俺は親友の死、師匠の死、二つとも自分を犠牲にしたものだった。俺はその犠牲が悔しくて悲しくて、憎んでた。だけど、それは犠牲と向き合うことなく、自分の弱さを見ないためにしてたことなんだ。臆病なだけなんだ。お前のおかげで、今になってやっと理解できた。だから俺のことを——」サンは最大の剣気を纏う。二刀が揺らめく翡翠の焔の羽衣を纏い、撫でるように広がり身体を包んでいく。「——お前の太陽だなんて言ってくれるな」
カゲツは優しく首を振った。
「気は魂だというけど、相手の言いたいことまでわかるなんてね。でも、やっぱりお前は太陽だ」
二人は同時に飛びすさり構える。カゲツの一刀流吊り劔の構えは藍色の焔に包まれていた。カゲツの目にも止まらぬ一閃から、強烈な気による藍の刃が飛んでくる。サンはそれを羽衣の刃で打ち消す。
「お前もかよ」
「言ったろ、俺は月で花だ」
カゲツの羽衣は藍の焔だった。二人はとめどない剣戟を繰り返す。まるで戦いを楽しむように。言葉はなくとも、互いの心を知った二人は交わす笑みを最後に、全ての力を一刀にかけて放った。