百五話
ライガの魂を纏っていた愛刀〝心〟はなにも話さない。ただ、いつもの愛刀だった。
地面に突き立つそれを抜いて鞘に納めて、サンはふと背後に視線を感じて振り返った。
木が倒れ、泥が巻き上がり地面が所々ひっくり返った惨澹たる森の中に、まるで一輪の花がたった今咲いたかのように神楽が佇んでいる。その黒髪の簪がそよぐ風に揺れて冷涼な音を転がした。嵐の去った空を覆わんと斑模様を描く雲の隙間から射す陽光、惨憺たる森に散りばめられた光は儚げで、救いのないウラドとライガへの弔いに見えた。
「いこう」
その静かな声に、神楽は絹の紗のように慎ましく目を伏せた。
森を進んで間も無く、木陰からウラドが現れた。人の倍はあろうかという体躯に、人とは決定的に相容れぬ存在だと思わせる、逞しい四本の腕。漆黒の肌に、黒目に黄金の瞳。銀色の牙を覗かせて、鬼は笑った。よくぞ助けてくれたと、そう言った。サンはその鬼の笑みに応えることなく横を通り過ぎた。
いたるところに鬼がいた。そしてハワラビイがいる。きっとカグラが話してくれたのだろう。人との共存を望むウラドの氏族、アイラ=リーフの者達が、少なからず感謝の念を湛えた視線を送ってくる。人間の真似をしてか、首をぎこちなく下げる者もいた。
「カグラ、俺はカゲツを探さないと」
「なぁに。カゲツのことなら儂らが面倒を見ておるぞ」
神楽の代わりに答えたハワラビイが不似合いな笑顔を見せながらサンと肩を並べた。
「ところで、若き人間サンよ。話は聞いた。だが、良いのか」
その窺う声音に、サンは苦笑した。
「みんなにそこまで心配してもらえるなんて、俺は果報者だ。龍人としてのことはなにもできなかっていうのにな」
龍人としての威厳、ヴィアドラの象徴、ヴィアドラの守護者。体を壊し責任を果たせず、光明を見出して進むも戦いに負ける。龍人と呼ばれるも、その存在は無いも同然だった。それでも、俺にできることがある。
「死ぬって決まったわけじゃない。それに、死んだらカゲツに殺される。俺だってやることがあるんだからな。ウラドの襲撃がなくなれば烈刀士はそこまで重要じゃなくなる。そしたら貼り紙業でもやって町に下りるさ。会いたい人がいるしな」
ロジウスおじさん、ツバキおばさん、キリ師範、ジゲン師範代、〈無色流〉道場のみんな。
山ほどの高さを誇る〈大霊樹〉を心臓として麓に広がる黒い森。森たらしめる樹木の幹は黒い金属質な艶を纏う。その森には緑がない。空を見上げても終わりが見えないほど背の高い樹木の下には、鮮やかで燐光を帯び、光を閉じ込めた水晶のような草花が地面を覆っていた。夜になると地面から吸い上げる養分をその身に張り巡らせて、さながら血管のように巡った光脈が森の中を照らす。人が住み、糧を得る森とはかけ離れた姿をするその森を、人は妖魔の森と呼んでいる。そして、妖魔の森はウラドの家だった。
アイラ=リーフのウラドは木の上に住む。〈大霊樹〉から生まれたウラド達は森の支配者であり、〈大霊樹〉を心臓にした森の中で生きる彼らは植物を操ることができた。ゆえに、樹木そのものを曲げ、捻り、樹の上に足場を設けて住処を形成していた。
住処の一角の部屋にサンはいた。見たこともない虫が発する暖色の灯に包まれ、精巧に編まれた細い葉の褥が敷かれて、そこにカゲツが静かに横になっていた。カゲツの左腕に目を落とすサンは苦痛な表情に歪む。ライガの一撃に喰われてしまったのだ。それでも幸いか、寝ている顔の血色はいい。
アイラ=リーフの〈大霊樹〉の赦しによってカゲツは生かせれているのだ。カゲツの気は大地と繋がり平穏を得ているらしい。ウラドの技らしいが、そんなことはどうでもよかった。命が助かり、目覚め、家族の元に戻ってくれればそれでいい。カゲツの傍に膝をつき、その右手を握る。
「俺は行ってくる。帰ったら〈鬼目郷〉の酒場で一杯やろう。お前の息子、与鶴に剣を教えてやってもいい。って言っても、剣を握るにはあと十年は待たないとな」
答えないその手に力を籠めて、サンは部屋を後にした。部屋の外で見守っていた神楽がサンの肩に触れる。サンはその手に己の手を重ねると、行こう、と挑戦的に笑む。
アイラ=リーフの〈大霊樹〉、その足元にある岩のように隆起し地面に潜り込む根の前にウラド達は集まっていた。これからなにか大きな集会でも開かれるのだろうか。そう考えて近づいていくと、ウラドの暗い壁が割れて道が開く。根に向かって一直線に開かれた道が自分のためなのだと理解し、集会も同義なのだと理解する。なら、少しは龍人らしくしよう。サンはふとそう思い姿勢を正して歩み出す。
ウラドが立ち並ぶ壁の前の広場に踏み出す一歩、足を動かす度に思い出したのは、龍人祭での出来事だ。目に浮かぶように憶えている。白鬼ノ國の地面から切り立つようにしてある高台。その頂上が仰ぎ見る夜空の下で、真が初めて「兄さん」と呼んだこと。帰ったらあいつにも稽古をつけやらないといけない。怒るだろうな、今までなにやってたんだって。
ハワラビイが開かれた場所に立って手を差し伸べていた。その傍にいるのは見知らぬウラドで、俺を見る目は厳しい。その横にいるのはいつぞや相見えた旗印だった。白銀の骨の鎧を纏う姿は、憎い。
サンの背後に光剣が揺らぐ。周囲のウラドが慄く声が聞こえてきた。旗印は、目の前で仲間を殺した。國にいる疎遠の娘から、孫ができたという手紙をもらい希望に満ちたガマドウを無残にも殺した。
旗印の横にいるウラドは初めて見る。鼻を鳴らして威圧する旗印を、視線だけで制するところを見ると、旗印の主人のようだった。
「己はアースィンジャル、アイラ=ハーリトの長老なり。人に殊勝の者ありと耳にし参った」
ハーリトの長老、アースィンジャル。その力強い黄金の双眸を見返すサンは頷いた。
「人の俺にできることがあると考えてここにきた。俺の力を糧に、かつて人がハーリトから奪った森を返す」
アースィンジャルは、切り裂いたかのようなのっぺりとした鼻で息をつく。サンをまじまじと見つめ、やがてゆっくりと噛み締めるように目を伏せる。
「感謝しよう。だが、これは始まりに過ぎぬ。人の一面を己に見せただけのこと。うぬらが放った世界の業火は未だ衰えず、うぬらを焼く。人は誰しもがアル=アシャルでありうる。欲を抱き、憎しみを抱き、怒りを抱き、連鎖を起こしその輪で全てを焼き尽くす。まさに天災の申し子」アースィンジャルの厳しい目に、ふと柔らかなものが現れる。「が、その輪の綻びが其方であることを願う」
サンは少し悲しげに笑む。
「俺もそうであることを願うよ」
ハワラビイが指し示すのは〈大霊樹〉の根元近くにある縦の切れ目だった。その奥は白い光に包まれていて、入ったら帰ってこれない、そんな気がした。サンは、自分でも驚くほどに重く感じる足で根を登っていく。
「サン様」
鈴を転がしたようなその声に振り返り、サンは鼻を擦った。
「ここまで連れてきてくれてありがとうな」
「わたくしもお伴致します」
問い返す怪訝な顔をするサンに、神楽は近づいていく。
「魂には役割がありまする。サン様が貫く者であったように、わたくしは繋ぐ者。最期まで、おそばに」
その言葉が鋭く胸を刺した。自分がなにをしようとしているのか、それを突きつけられたようで。
「わかった。美人が隣にいれば心強いからな」
サンの笑みに、神楽は静かに一つ笑いを零した。
〈大霊樹〉の幹の中は淡い純白の光に満たされていた。頭上にはまるで太陽があるのように遥か高くから光が降り注いでいる。優しく、目を瞬かせることもなく、どこまでも包んでくれそうなその光に、サンは暫く見惚れていた。綿毛のように降り注ぐ光を掌で受けて感じる温もりに、なぜか涙が出てくる。背後から回された白く細い腕に頬を預け、サンは神楽を感じた。
羽衣の気はいずこへ、サンの体を纏う戦装束は、黒く染めて織られた銀糸を綻ばせて肩から滑り落ちていき、衣の一糸までもが無垢な姿へ変わり白銀の褥へと転じた。
純粋無垢。世界に生まれ落ちたそのままの姿で二人は向き合う。神楽の紅い眼は、光降る空間にて唯一の色だった。サンはその目を見つめ、溢れ出す今までの記憶と感情に息を震わせた。
「貴方様の愛は、世界を変える波の一つとなりましょう」
神楽は舞う。風のように優雅に、水のように艶やかに、火のように力強く、土のように静かに。世界を廻る四つの季節のそれを、神楽は人の持てるすべてをもって舞う。
俺の愛が世界を変える。そんな大層なものではない。愛を考えて感じるのは怒りだ。ずっと一緒に居たかった、どんな暮らしでも良かったと思っていたのに、勝手に夕黒という人斬りとなって勝手に死んだ師匠。その師匠は金を稼ぐべく、そうなったのだ。病だったためにそう長くはない、自分で感じていたのだろう。あのときの師匠は日に日に痩せていくようだったのを覚えいている。それでも選び貫いた夕黒の道は、なんのためか。
それの答えを知っていて、それでも怒りを抱く己の未熟さに苦笑いする。師匠が夕黒となって弟弟子にまで斬られたのは、紛れもなく俺のためだった。
囲炉裏を囲み、朝の深深とした空気の中で飲む味噌汁、二人でほぐしながら食べた一本の焼魚、庭で鍛錬に励むなか感じた師匠の眼差し、火季の茹だる暑さのなか一緒に歩いたこと。そんな些細なことが心を駆け巡り、今になって師匠の不器用な愛が漉されて見えてくる。あの頃に気付けていたら、師匠の愛の形に気付けていたら、もっと話をすることができただろうか、もっと一緒に過ごせただろうか。もうその愛に報いる術はない。
だけど、今こうして俺がすべての力を捧げようとしているのと同じように、師匠は師匠なりに全力で俺のために生きてくれたのだ。
なるほど、とサンは神妙に首を傾げた。
愛は犠にあらず、されど犠により愛を知る――。
ライガや師匠、ガマドウや蒼龍将、大切なものを守ろうとするとき、そこに己はなかったのだ。
――愛を為す者の中に、己を犠牲にする考えなどないのだ。




