百四話
サンとカゲツは黒雨に打たれながら北に向かって妖魔の森を駆けていた。戦闘区域であるにも関わらず、そこに妖魔の姿が現れることはない。規模の小さな落雷によって、森の所々で樹々が黒く煤けて煙を上げているのを見ると、落雷は頻繁に起きているようだ。その時、空が光り二人は弾かれたように空を見上げ横に跳び退いた。
薄い桜色に僅かに紫がかった光と、空気と世界を破るかのような轟音とともに二人がいた場所を稲妻が穿ち、木が赤熱した木片となって飛び散る。酷い耳鳴りがするなか、一瞬の本能的な恐怖の呪縛から解放された二人は、禍々しい気を感じて天を仰ぎ見る。唐突に雨が止み、曇天が生き物のように渦巻きながら地面に迫ってくる。荒ぶる風が音を立てて樹木を大きく揺らし、地に根を張った大木までもが軋み悲鳴をあげる。
「竜巻だ!」
無数の葉が空に舞い渦を作る。サンとカゲツは地面に刀を深く突き刺ししがみつく。地面に迫る竜巻は雷を帯びて地上から立ち昇るそれと合体し二人に迫る。二人は羽衣の一部を槍のように尖らせて地面に繋ぎ止め鎖とし体を支える。竜巻は二人を呑み込み、根ごと毟られた木が二人を打つが、羽衣の鎧にてそれに耐えること数秒、ふと風が収まった。竜巻の目に入ったようだった。
二人は頭上を見上げ、蒼穹の丸い窓に雷が光るのを見た。音を感じるよりも早く、体の芯から戦慄くような衝撃が二人を襲い、再び竜巻に巻かれて何度も地面を転がった末に、樹の一つにしたたか背中をぶつけて止まった。
竜巻は何処へ、森には風もなく世界は唐突に凪いだ。あるのは耳鳴と目眩、定まらぬ視界の中に佇む眩い白い光。それが地上に留まった雷だと気付くまでに数秒かかった。
その地上の雷が立ち上がった。人の形をした雷。そこから感じるものに、サンは雷ではないことを理解し、急いで立ち上がり己を掻き抱くような思いで羽衣を纏い直す。
目の前の脅威は自分の内側に眠る龍人達の闇と同じような性質をしていた。だが、龍人としての闇は沼の泥のように重いが、これは触れれば容赦無くつき刺す烈烈な怒り。火などの生易しいものではない、まさに雷だ。近寄るものすべてを問答無用に灰燼と化す。鮮烈にして暴激なる負の感情。
――スベテコワス
雷からそれを感じた。
「サン!」
雷から目を離せば死ぬ。そんな気がして、サンは声のした方に手だけを伸ばしてカゲツに動くな、と叫んだ。
しかし、サンの叫び声は意味をなさず、ようやく聞こえ始めた耳に枝を踏む音が入ってくる。
「お前、ライガなんだろう?」
なんだって?
サンは目を瞠って目の前の雷を見る。人の原型を留めているのは、雷を迸らせながら輪郭も定まらない体だけだ。目も無ければ顔もない。人とも言えず、妖でもないこんなものが人であるはずがない。だけど、感受性の強い性質を持つカゲツがそう言うのだ、疑いたくはなるが……。
「一瞬だけだけど、確かにライガの気だった。サン、間違いなくライガだ」
サン、その音を聞いて雷が僅かに弱まったように感じた。それも束の間、見間違えだったのだろう。撓ませたかのように力を弾けさせ、鞭のような音とともに放電された雷が枝や地面を穿つ。
――コワス
「なんだって?」
サンの問い掛けに答えるかのように強烈な閃光をもって雷がそこらじゅうの一切を破壊していく。それはサンとカゲツの二人にも平等に襲いかかってきた。
雷のように見えるこれは雷であって雷ではない。剣気や闘気と同じものである気だ。魂を力とする技。極度の力を一点に集中させたこの雷型の技は、二人の羽衣を容易く穿つ。刀を翳せば刀に注がれて強烈な熱を持った。刀身が僅かに赤味を帯びて、もはや使い物にならないことを悟ったサンは愛刀を鞘に収めてカゲツと後退した。
雷は頭上高く曇天に昇り、今度は空から雷が降ってきた。ただ逃げ惑うことしかできないでいると、黒く煤けた木に躓き、悪態をつきたい気持ちでそれを見て目を瞠いた。地面に転がる木だと思っていたそれらは、腕が四本、漆黒の体躯を持つ鬼達だった。百はくだらないその骸が、竜巻と雷に燃やされ破棄された森に絨毯を作っていた。
ライガは鬼火の命を間接的に奪った元老院と烈刀士を殺した。その感情は熾烈を極め鬼を手に掛け、今はこの世に向けられている。
これこそがアル=アシャルなのだと理解するのに時間は必要なかった。
「カゲツ、ライガを止める!」
「どうやって止める?」
切羽詰まり顎に筋を立たせて逡巡の後に空を仰ぐ。稲光が雲の中で蛇のように馳けるの感じ、カゲツに答える。
「感じるだろ。ライガはもう人間じゃない。気だけの、怒りを糧とした魂だけの存在だ。それに対抗できるのは、わかるだろ?」
それに屈することのない、魂だけ。
守りたいと思ったはずの心が、守りたいものを傷つける。ライガと鬼火は、龍人となって自分のことしか見なくなった俺を見捨てることなく、気に掛けてくれていた。それに礼の一つも言うことができずに、鬼火は死に、ライガは怒りそのものに、二人の未来も守るはずだったのに。
なんと侘しいのだろう。
「サン、どうするつもりだい?」
「ライガは雲の中を動き回ることで力を保ってる。自らを留めるには、留める力も必要なはず。ライガは雲の中を飛び廻ることで火起こし棒と同じことをして力を蓄えているんだろう。だから、力を使ってすぐに空に戻る」
「それなら雲を晴らさないとってことか」
サンはカゲツの刀を顎でしゃくって示した。
「叢雲斬だろ?」
「さすが龍人様、御聡明であらせられますね。そうなんですよ、額面通り雲を払うんですこの刀」しっかり皮肉を効かせた言葉にサンは笑みを佩く。カゲツは首を捨てるように一つ振る。「今回ばかりはサンの出番。空の雲を晴らせるのは一瞬だけ。冷え切ったライガに温もりを与えるのはお前の役目だ」
カゲツの言葉にサンは眉を顰める。
「友である俺達、だろ」
「お前は俺の太陽だって言っただろ。俺だけじゃない。ライガだって同じだったんだ。行くぞ」
眉を顰めたままのサンに、カゲツは眉を柔らかくして微笑んだ。そして、刀の柄に手を添えて凛とする。
「この一度で決めてくれよ」
カゲツの羽衣が刀に収束し、次の瞬間、カゲツは地面を蹴って空に馳せる。天に向かって居合を一太刀、藍色の半月の光刃が空気を裂いて甲高く鳴きながら雲の中に入り、突如雲が円形に割れて蒼穹の窓をつくり、世界に光を突き立てる。
その荘厳さに、サンは口をあんぐりとさせて惚けた。青い空に黒い影が一つ、戦装束をはためかせて落ちてくるカゲツを認め、サンは思い出したように刀を抜いた。
カゲツの後ろで、太陽ではない、青空に輝く星のようなものがまっすぐとカゲツに迫る。カゲツが空中で身を捩ってその光とぶつかってあらぬ方向へと飛ばされる。刀を落としたのだろうか、いや、と理解してサンは息を呑む。刀とそれを握ったままの腕がカゲツの体から裂かれたのだ。
光はカゲツを射抜いた余勢をかってサンに落下する。空中で拠り所を求めるかのように不規則に折れながら、なんとか立っている樹に落ちた。
樹が雷を纏い、その雷が堪りかねたように激しい音を立てて地面を伝いサンを目指す。サンは宙に飛び上がり、後悔に顔を歪めた。雷は弾かれたように地面から離れ、一本の雷撃となってサンを貫かんと迫る。間一髪身を捩り振るった刀に雷が纏わりつき、サンはそれを手放した。サンが地面に着地するのと同時に、刀が地面に突き立つ。
刀に纏わりついた雷は定まる場所を見つけたかのように勢いを弱まらせた。
雷に奪われた〝心〟に目を離さずに、サンは〝通〟を右手に持ち変えて、一刀流の吊り劔の構えをとった。
「ライガ、なんだろう?」
その声に反応したかのように雷が一つ弾けた。
きっと、感じているのだ。俺の声に何かを——。だけど、どう止めればいいのだろうか。もはや人ではないライガを。話し合うことができれば、もっと心で話し合っていれば。サンは呼吸を鋭く均す——魂でぶつかればいいのだ。
サンは鋭い呼吸とともに身体中に感覚を張り巡らせる。
〝すべては守りきれん、そういうこった。良くて自分自身、周りの者を守れて上等〟
そうかもしれない。それでも諦めきれない。守りきれなかったものには、いくら謝っても足りない。だからこそ、噛み締めて足掻くんだ。ライガ、今度こそ俺は逃げない。
〝心〟に纏った雷が迸る。昂ぶる雷に耐えかねて刀は赤味を帯びる。
来る。
サンは羽衣を纏い、稲光を見た瞬間に刀を一閃させた。周囲の音が消え、視界は白く染まり、地面はなくなり、見えるものが与える感覚の一切が消えた。
刀に心を乗せてぶつけた後に感覚が消滅した。それでも意識はあり、自分がいる場所を認識する。それは、戦神と話した空間よりも居心地が良くて、朧げな空間だった。室内の溢れる陽射しの柔らかさに満たされた感覚は儚くて、長くは続かない。それでいて、心底落ち着ける。
背後に気配を感じ、ライガだとわかった。奴隷のとき、休憩してはならないはずなのに日陰でこうして背中を合わせて、会話もない時間を過ごしたことがある。そのときも、こんな感覚だった。
――ライガ。
――わりぃ、サン。迷惑かけた。
声ではない会話。振り向きたかったが、世界が壊れてしまいそうでやめた。かわりにサンは微笑んだ。
――それは、俺の言葉だ。
何も音のない間。しかし、しっかりと感じる。ライガの微笑みが。
――俺さ、結局、なにも守れなかった。
――驕りだな、そりゃ。
――え?
――守りてぇもんが守れることなんてそうそうないってこった。守れた、そう思うなら、それは自分自身の心しか守れてねぇ。自己満足だ。
そうかもしれない。だけど、実際に俺は……。
――それでも、お前は守れなかったと悔やみ、それでも歩いてる。なにかは守れてる、安心しろ。
――それは、気休めだライガ。
――そうか? 俺は助けられたぞ。お前のそのまっすぐな姿にな。雲に隠れても、僅かな隙間から光を射す太陽みたいなお前の諦めない姿にな。俺も諦めない人間だ。でもな、種類が違う。お前と奴隷だった時も、離れ離れになった後も、俺を生かしたのは世界への怒りだけだ。なんで俺がこんな目にあわなきゃならねぇ。それに、同じような境遇で諦める奴も腹立たしかった。なんで諦めやがる、悔しくねぇのか、目に物見せてやろうじゃねぇかってな。
ライガは、俺のように師匠がいなかった。だから闘うしかなったんだ。
――それで成り上がったとき、お前が現れた。師匠を持ち、仲間に恵まれたお前がな。悔しかった。俺は自分の師匠を、友も殺して、それでようやくお前と同じかと。お前も苦労しただろうが、やっぱり人間自分が可愛い。俺はそう思った。でもよ、龍人になったお前は辛そうだった。それなのに、真っ直ぐで折れても立ち上がる。俺も、そうなりたいと思った。だから大切なものができて、本当に守りたいと、そこで初めてお前の気持ちがわかった。俺がやっと見つけた、手に入れた大切なものだった。
ライガが溜息をついたように感じた。
――だけどよ、俺は世界に嫌われてるみてぇだ。世界は俺に試練を与え、俺は必死に闘い、ようやく手にれたその大切なものも、世界は奪いやがる。
――それで、元老院側の兵と烈刀士、両方とも手にかけたのか。
――あぁ、許せるはずがねぇだろ。だが、今ならわかるが、己と闘うことを諦めたんだろうな。
サンは独り首を振る。
――ライガは強い。その姿を覚えてる。俺がライガを見捨てたとき。ライガは俺を見捨てなかった。
鉱山奴隷だったころ。ライガと共に逃げたあの夜あの森で、ライガは時間を稼ぐために大人達に立ち向かった。
――死ぬってわかってたのに、それでも助けてくれた。
ライガが木に凭れて顔も判別できないくらいに腫らせた姿を、もうすぐ十年になろうとしているのに鮮明に憶えている。
――俺ぁ、死ぬなんて考えてなかった。外の世界もしらねぇのに、あの時、近くの村への距離を考えた。なにも思い浮かぶはずがねぇ。絶望したぜ。でもよ、ついてきたお前が泣いてた。それで、気が付いたら雄叫び上げて突っ込んでた。俺は、ただの莫迦だったんだよ。
――あの短い時間で、よく犠牲になることを決意したと、すごいよライガ。
――犠牲? そんな大層なもん、頭にはなかったな。
そういうことか、とサンは目が覚めた気持ちだった。師匠はかつて、ライガは本当の強さを持っていたと言った。ライガと会ったことがないのに、ライガがなにをしたかを話しただけでそう言った。ライガがあのとき見せた力は、己の犠牲を考えることすらなく守ろうとする力。心のままに通り、守るために行動を起こした。
――そろそろか。
世界が色を持ち始めていた。世界の色。ライガが遠くへ行ってしまう。
――ライガ、俺。
――皆まで言うな。またなにか背負ってんだろ。お前の選択は間違ってねぇだろう。俺を照らしたように、お前にならできる。それこそ、世界の太陽になっちまえ。
サンは俯き、噛み締め、笑った。
――ありがとう。




