百二話
大切なものを守りたい。その心があるのに相対するのはなぜなんだろうか。派閥、商売、友達、家族、始まりは誰かのためであっても、いつの間にか他者を傷つけて、受け入れない。
――すべては守りきれん、そういうこった。良くて自分自身、周りの者を守れて上等。
なぜ、手を取り合えないんだろうか。
――誰もが辛いってわけだ。誰もが助けて欲しくて、見て欲しくて、それは叶わないって知ってて、遂には攻撃しちまうもんなのさ。
それじゃあ、いつまでたっても心が繋がらない。
――甘いなぁ龍人。そんなんだから……。
空を焼き雲が波打つほどの戦いは熾烈を極めた。雌雄を分けたのは、炎魔の焔の巨人が投げた岩漿の如き剣。サンの白緑に輝く炎龍が剣を砕かんと顎を掲げるも、剣はそれを上回る巨大な燕へと変化し、空を焼き水面を熱で沸かせ、その翼をもって炎龍の鎧ごとサンを斬ったのだった。
炎魔の闘気の技は、サンの羽衣をもってしても超えることは叶わなかった。技だけではない。何よりものがいったのは、炎魔の確固たる意志だった。炎魔もまた、サンと同じように皆を愛する気持ちがあった。だが、それは炎のように情熱的で、冷淡。冷淡に、心を揺らさずに人を想い、斬る。それは鋼の信念、まさに剣だった。それに対峙したサンの剣は藁のようなもの。
だからこそ、こうして水底に沈んでいる。
背負うものの重さを知り決意するも、敗者はこうして川底を削り岩を叩いていく水の厳かな鳴りを耳で感じながら、光が粒になった水面を見て流されていく。どこまで沈んでいくのかもわからず、耳鳴りと共にやがて顔が破裂しそうなほどに脈が打ち、咳込むと同時に水が肺を襲い、意識が茫洋とした熱に魘されて掻き消えていった。
目を開けて、自分が生きているのだと気が付いた。眠りから覚めたようでもなく、ただ瞬きをしたかのように自然な感覚。そして、自分が立っていることを認識し、サンは目を瞬いた。目の前に広がるのは奥行きもわからない白い空に、黒く底の見えない凪の海だけ。
俺はこの世界を知っている。
自分の足元から鼓動のように波紋が生じて、黒き凪の海に広がっていく。かつて、龍人の力を無理に引き出そうとして、怨嗟に呑み込まれそうになったときに、ここにきた。あの時は白い光を纏った老人に助けてもらったが。
自分の足から広がる波紋が打ち消えた。向かってくる波紋があったのだ。咄嗟に視線をあげると、そこにいた。
「ここに入れるようになったのか、はたまた偶然かの?」
老人は以前と変わらない姿をしている。雪のように白い長髪に、膝まで届いている顎髭をたくわえ、眼は燐光を放つかのようにはっきりとわかる透き通った翡翠の水晶のよう。光で象られた姿は以前よりもしっかりと認識できる。声を聞くのは初めてかもしれない。
「偶然だと……思います」
「そうだろうとも。じゃが、ほぉ、儂の声が聞こえるのだな。殊勝殊勝」
「あの、ここは、俺……」
そう言って、サンは息を呑んだ。
俺はなぜここにいる。そうだ、炎魔との戦いで。
「俺……また負けたのか」
老人は演技でしか見たことがないような、いかにも老人らしい笑い方をした。
「なに、お前さんは原石としては悪くはない。安心せい。然し、もっと時間があれば」
老人は言葉を切って、慈愛に満ちた笑みを垂らす。
「時間がない?」
「お前さんが心に決めておることじゃ。それがお前さんにとってどういうことか、本人が知らぬとは思わぬが」
サンはなんとなく理解した。ウラドのアイラの種になる、そのことを言っているのだろう。カゲツに言えば怒られる話題だ。
「種の話を言ってるのか。なんで貴方が知ってる? ここは、俺の心の中か、それとも夢なのか」
「儂が拵えた箱の中じゃ。此処なるは我に選ばれし魂と悲劇の庭」
この老人はなにを言っているんだ?
言葉に出さずとも、顔に出ていたのだろう。老人は頷いて笑みを刷く。
「儂が選定し、力を授け、其の者が道を拓く」
選定、力。なら、この人は……。
「貴方が戦神?」
老人が微笑みながら頷き、純白の空を見上げ、やれやれと愉しげに言う。
サンもその視線に倣うと、薄い緑の線を引く光が、純白の空から一筋光の尾を引いて空から落ちているところだった。さながら彗星の光はこちらに向かってきている。サンは思わず腕で顔を覆う。来たる水飛沫と衝撃に備えたが、飛沫の一つも立てずにそれは着地した。
「漸く。おいそこの小僧! 我の姿が見えるか、声が聞こえるか?」
「聞こえるけど」
男が浮かべる興奮の笑みは火季の入道雲が盛り上がる様を彷彿させた。その男は老人と同じように燐光を帯びていて、物体というよりは羽衣と同じような気の塊のように見える。その光の色は白緑で、サンはどこか親近感を覚えた。力強い長髪を背中に流し、熱血漢な眼差しを持ち、戦装束を纏っているように見える体の輪郭は火のように揺らぎ定まっていない。
「我は死鬼と申す。なにかと我の記憶を覗いておったのだから、知っておるだろう。なんだその腑抜け面は」
死鬼。烈刀士を創り束ねた男だ。烈刀士になるための試練で見た記憶の主。親を目の前で鬼に家畜のように捌かれ、鬼を殺すことを決意した者。その人が、なぜここにいるのか。
「この莫迦者はお前さんと心を交わしたがっておったが、それが漸く叶ったゆえに昂ぶっておるのだ。大目に見てやろうぞ」
死鬼を尻目に、サンは狼狽するように戦神に一歩踏み出す。
「ここはどこなんだ? なんで俺はここにいる」
「それは重要たらん。おい小僧、子供は拵えんのか? もう女子の一人や二人と懇ろにあってもよいというのに」
サンは怪訝な顔にできる限りの〝余計なお世話だ〟を籠めて死鬼を見る。
「小僧は紛うことなき我の血筋。儀式で我の記憶を見、鬼の元で己が血脈の過去を見たゆえ誠の真実よ。なんと我ながらあっぱれ、死鬼の血筋は絶えておらなんだ!」
死鬼の血筋。俺は初代烈刀士の血筋だったってことなのか。そんなことはどうでもいい。サンは首を振って戦神に顔を向けた。
サンの心の内を読み取ったかの如く、戦神が顎鬚を撫でながら神妙に頷く。
「この莫迦者のせいで話がとんでおったわな」莫迦者とはなんだ、と言う死鬼を無視して、戦神は続ける。
「命が一つ鉄涙命、鍛冶一切を司る神。それと儂とで拵えた一振りの刀、これを幻鏡羅心という。魂を織った一振りで、世界に十しかない秘霊剣が一つ。幻鏡羅心は儂の魂を織った秘霊剣であり、ここは儂が創り出した世界。姿を剣とし、実を魂の園とする」
「剣の中ってことか? 魂を剣に……?」
「森羅万象が魂と時の織物であるように、ルヴァは剣を織る。それなる技を神秘と名付けヴィアドラは秘術と呼ぶ。アスロスの文明とは異なる儂らの技。理解せんでよい。畢竟、お前さんは儂の拵えた幻鏡羅心という世界の民だと思えばよい。そして、魂がこの世界に馴染んできたがゆえに、儂と話し、死鬼を認めることができておる」
自分の中に別のものがあることは感じていた。それが龍人としての力であると認識していたが、それはどうやらこの世界のことだったらしい。
「なら、この世界はずっと俺の中にあって、俺はやっとこの世界を認識できるようになったってことか。知らなかった自分自身を見つけるように」
「さよう。儂に魂を渡すことを許し、儂が憑代としてお前さんの魂をこの世界に招いた時からな」
サンは首を傾げた。
「ヴィア=ドラ。儂らルヴァの言葉で〝争いを望まない〟を意味する。この地に来た儂らはその言葉で繋がっておった。儂らヴィア=ドラのルヴァは争うことをせず、争いの権化である戦をしない。ヴィア=ドラは与える。アスロスの中から力を授けるに値するものを選定し、これを未来という家を成す一つの用木とした。これを龍人という。龍人の使い方は人次第。それでも指標は必要であった。ゆえに、儂は人が歩く夜道の星となるべく幻鏡羅心に魂を織り込み、術を施した。龍人に選定された其の者の魂が、儂の信念に沿うようになればなるほど力を傍受するようにな」
サンは黒く底の見えない鼓動の波紋に揺れる海に目を落とす。
アスロスとは俺達人間のこと。ルヴァは俺達が神や命と呼ぶ種で、俺達人間には計り知れない知と力をもっている。神であるルヴァに中にも戦わない者がいて、ヴィアドラが主神として祀る戦神や、武の神と謳われる千雷千手命、人と神とを繋ぐ慈愛の天星命、鍛冶一切を司る鉄涙命、人々に平穏あれと憲律を敷いた慧鷹言命の神々はルヴァという種族で、彼らの言葉で〝争いを望まない〟を信条として集まったルヴァ、そういうことだろう。
目の前にいる戦神は、魂だというがそれはもう地肉をもつ人間にしか見えない。肌は新雪のように白く、透き通る銀のように白い髪、宝石に命を与えたかのように美しい眼、そのどれもが俺達とは違うものだと語っている。
戦わないが、人に力を与えることを選んだ神は、人智を超えた技にて魂を剣に封じて、この力を人に授ける。授けられた者を龍人と呼び、神の御心に添えば自ずと力が増していいく。
「なら、俺はあんたの世界に閉じ込められているんだろ? 俺はやることがあるんだ。炎魔と戦って、その後がどうなったか見届けないと、氏族がどうなったか……」サンは戦神に懇願するように言う、ここから出してくれと。
「小僧、戻ってどうする。氏族の無事を噛み締め、それで? 國を導くか? 小僧にできることとは思えんぞ。それとも、あれか。砦に戻り、恋しい仲間と酒を酌み交わそうとでもいうか」
その言葉は、戦神とは違い白緑の炎で人間のなりを象る死鬼の言葉だった。まさに魂だけの存在——羽衣の見た目と同じ——は腕を組んで朗々と言い、白い空と黒い海の地平線を指差した。
「小僧、貴様はあれも受け入れると申したな」
死鬼の示す遥か彼方に何かがいた。それは黒い油の塊のようで人の形を成すが定まることを知らず、湧き出る水のように表面を移ろわせてかろうじて人の輪郭を見せるのみだ。その黒いものはガラスを砕いたかのような彩光を散りばめた輝く鎖に縛られている。あれは以前ここにきた時に、俺を呑み込もうとしたやつだ。
瞬きすると、歩いても進んでもいないのにそれが目の前にあった。顔であろうものが千の苦しみに絶えず変化し、男か女とも区別がつかない。
「儂が人を選定したのはお前さんを含めて六人だけ。然し、二千年以上の歴史で龍人の数はいくつか。それは数十を超える」
選定されていないのに、この世界に入り龍人となる。それは妙な話だ。
「お前さんの前に選んだ者は、二百年も前の話になる。幻鏡羅心は秘霊剣と先ほど申したが、秘霊剣はいわば魂の箱。魂は不滅ではなく、それはお前さん達が神と崇めるものも変わりない。魂を失えば入れ物は文字通りただの箱に過ぎなくなる。然し、力を失った幻鏡羅心に価値はない。ゆえに、価値を永劫に望む輩もおった」
戦神は深くため息をつき語った。
ヴィアドラは昔から戦神を主神と崇め、戦神がヴィアドラを守っていると広く信仰されていた。その信仰心を利益に変える者達が現れる。信仰の道を言葉で捻じ曲げ、民から金銭労働を搾取する者達。そしてその者達は儀式すらも捻じ曲げた。捻じ曲げられた秘術は人の気――すなわち魂を吸い取り、それを箱である幻鏡羅心におさめる。魂を取り入れた幻鏡羅心は絶えず気を纏い、はたから見れば戦神が宿っているものと変わりなく見える。それがうまくいった者達は、人を騙し、魂を搾取し、それによって繁栄を続けてきた。
サンは愕然とした。戦技大会で戦った誰もが、本気で戦神に選ばれることを望み武の研鑽に励む。戦神が守っていると信じて烈刀士は廉潔なる初志を貫く。それが私欲を肥やすもの達に踊らされていると知らずに利用されてきた。
戦神の語りに、サンは吐き捨てるように目を落とす。なんて汚い。なんて醜い。目の前にある黒い塊がなんなのか、サンは理解した。今ままで感じた怨嗟や怒り悔恨は、そういった欺瞞に殺され幻鏡羅心の贄となった魂なのだ。
「だけど、変だろ。ここに入れるのは、戦神の心に沿った者達だって」
「贄となったのは、いずれも真の武士達であった。モノノフの心を持つ誠の者達よ。しかしながら、儂も一介の生き物にすぎん。心の強弱あれば永劫でもありはせぬ。儂は捻じ曲げた秘術に対抗するほどの力はもはや残されておらず、魂を受け入れるしかなかった。然しながら、彼らは死を前に裏切られたことに気づく。ここにやってきた頃にはもう遅い。最初の裏切りに気づいた者が闇を生み出し、次の者を呑み込んだ。そこからは数珠繋ぎの如く巨大になっていった。お前さんも最初は呑まれそうになったであろう。百年前の龍人は、儂が選んだわけではなかったが、闇に呑まれる前に闇を助けようとした。闇の心を救うために、唯一救えると信じたそのすべが、ヴィアドラへの報復となった。闇の想いを背負い、ヴィアドラに力を振るう。あやつは、狂ってなどおらんかったよ。優しい男であった」
「小僧。貴様はこの闇を受け入れると申したな。己のうちにもある闇だといい、闇もまた己の一部だと。して、貴様はどう決着をつける」
ヴィアドラの闇。そのすべてを俺が払拭することは叶わない。暁光が山に影を落とすように、照らせる場所は限られている。言い訳だと自分でも思う。いい面だけを見て、逃げようとしているのかも知れないと思う。それでも……。
――すべては守りきれん、そういうこった。良くて自分自身、周りの者を守れて上等。
炎魔の言葉が、痛かった。守りたいものがあるのに、そのすべては守れないという現実に、自分のの力不足に、それを認める自分に。
それでも自分のやるべきことは決まっている。俺にしかできないことがある。ヴィアドラには、炎魔、カゲツ、それにみんながいる。俺は大切なものの未来を築くことはできないが、場所を均すことぐらいは、草を刈るぐらいはできる。あとは、皆が未来を築くと信じる。
「俺には俺にしかできないことがある。戦神。貴方は、だから俺をお選びになった」
戦神は愉快そうに長い顎髭を撫でる。
「誠。ヴィアドラでは初めて見る心であった」
「死鬼、貴方や先代の龍人達には申し訳ないことをする。俺は、鬼と人の未来のために力を振るう」
死鬼は神妙に頷いた。
「まぁ、我は飽きるほどに奴らを斬ったゆえ、鬼への憎しみも擦れた本のよう。貴様の道に小言はあらぬ」
戦神が深く頷く。サンは深く腰を折った。死鬼は興が移ったのか、すでに戦神の方に顔を向けていた。
——ところで戦神、神の御身の目に叶うものがヴィアドラ以外にとは、寝耳に水。
——あの者、リーデルは実に殊勝な男であった。
二人の会話が間遠になっていく。あぁ、俺は戻るんだなとサンは一人笑んで二人にもう一度頭を下げた。




