END
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「ノイ、なにしてるのよ、傘もささないで」
彼は一人、雨の中、夏みかんの木に立てかけた梯子の上にいた。
「夏みかんは毎日もらう約束だろ。コレットが起きないから自分でとってるんじゃないか」
「雨の日は梯子がすべって危ないのよ」
そう呼びかけても、ノイは降りてこようとしない。傘どころか雨具も何も身に着けず、全身ずぶ濡れになりながらひたすら残り少ない夏みかんを収穫していた。
「今日で全部、なくなりそうだ。明日からもう、取りにこなくていいな」
「まだよ。熟れてないのもあるから、それはとらないで」
梯子を占領されて、私はのぼることもできない。雨ですべりやすくなった梯子を下から支えて、邪魔になった傘を放り投げた。
「ニールに火傷の薬渡しといたから、ちゃんと使えよ。痕が残らないようにいろいろ薬草いれてるからな」
「うん、ありがとう」
けっしてこちらを見ようとしないノイを、私は一方的に見上げることしかできない。しとしとと降り続く雨が身体を濡らして、火傷でひりひりと痛むところが心地よかった。
「ノイは、火傷、大丈夫なの?」
「おれは別に、これくらい平気だよ。火傷なんて薬作ってるときによくあることだし、別に痕が残っても困ることはないし」
不安定な梯子の上はやはり慣れないようで、彼はしっかりと枝をつかんで身体を支えながら、夏みかんの入ったかごを見て自分がどれだけ収穫したかを数える。そしてまだ木に実が残っているのを名残惜しそうに見つめながらも、それ以上収穫するのをやめ、しぶしぶあきらめた様子で降りてきた。
「身体、大丈夫か?」
「うん、平気」
「りんごの木、ごめんな」
「ううん、ノイがあやまることじゃない」
結果的に、被害も少なく済んだ。ニールが撒いたのもただの食用油だから、これからの収穫にも影響はない。燃え尽きて残った灰は、他の木の根元に巻けば肥料になった。
「ノイがああしてくれなかったら、もっとひどいことになっちゃったと思うから。だから、あれでよかったの」
そう、私は自分に言い聞かせる。私がもっと早く、ニールの異変に気づくことができたら、こんなことにはならなかったんじゃないか。もう起きてしまったことなのに、どうしても考えることをやめられなかった。
「……おれ、今日で夏みかんもらいにくるのやめるよ」
「どうして?」
「見ただろ。おれがなにをしたか」
彼の前髪は、焦げてすっかり短くなってしまっていた。いつも隠していた瞳がむき出しになっていて、ノイはすこし落ち着かない様子でその瞳をさまよわせる。
「あれが、おれの太陽の本性だ」
月夜に見た、彼の黒点の太陽。
その意味を、私の銀の瞳は教えてくれた。
人が心に秘めているものを、むき出しにしてしまうのが満月の夜なのだとしたら。私の月の瞳が見てしまうのは、その秘めたものをかたちにしたものなのだろう。
私が今まで見ていた幻覚は、欲望だった。
ノイの黒い太陽もまた、彼の欲望だった。
「なんで、私をこんな瞳にしたの?」
「……コレットには、すべてを見ていてもらいたかったから」
ノイは静かに、そう答えた。
降り続く雨に打たれて、彼の髪からも肌からも、雨粒が伝い滴り落ちていく。けれど彼の瞳の中の太陽は、それで消えてしまうわけもなく、むしろ雨粒を蒸発させてしまうかのように熱く燃えているようだった。
「すべてを知って、それで、自分がどうするべきか考えてほしかったから」
その太陽に、彼はまぶたをおろした。
「だからおれ、コレットの新しい瞳に、月の魔法をかけておいたんだ」
手さぐりで、ノイは私の顔を探す。その手をとり導けば、彼の手は私の頬を包み込んだ。
頬、唇、鼻。彼の指先が、私の顔を確かめていく。髪に触れ、耳に触れ、そしてピアスに触れ、今ここにいるのが間違いなく私だと、何度も何度も確かめていた。
「いつかおれは、コレットのことを、焼き尽くしてしまうかもしれないから」
その指先をたどるように、ノイは顔を寄せ、私の唇に口づけをする。
彼との口づけは、これがはじめてではなかった。
「……私ね、ちゃんと思い出したよ。なんで目が見えなくなっちゃったのか」
私が光を失った時。それは、はじめて彼と口づけを交わした日だった。
「これが、おれの欲望なんだ」
ノイと唇を重ね、見つめあった時。彼の太陽の瞳が、私の瞳に火をつけたのだった。
私の瞳は、ノイの太陽に焼かれてしまった。
「おれ、コレットのことが欲しいんだ」
ノイの太陽の瞳は、むやみやたらに火をつけてしまうわけではない。自分が欲しいと思うものだけを燃やしてしまう、欲望の宿った瞳だった。
そしてその欲望は、ずっと、彼のことを苦しめ続けていた。
「今まではずっと、我慢できたんだ。欲しいものができても、近づかないようにしてた。下手に関わって、太陽が暴れたら大変だから、必ず一歩、距離を置くようにしていた」
彼の指先が、銀の瞳のまぶたに触れる。私はされるがままに、おとなしく、目を閉じた。
「でも、コレットのことは、あきらめきれなかった」
月の光も太陽の光も届かない、真っ暗な闇の中。ただただ、ノイの声だけが耳に響く。
「おれの太陽で一度傷つけたっていうのに、コレットのこと、どうしても手放したくなかった。でも、これ以上傷つけたくなかった」
彼はまるで懺悔のように、淡々と言葉を紡ぐ。その手は祈りの手を組む代わりに、ずっと、私のまぶたに触れ続ける。降りそそぐ雨の中、彼が与えた銀の瞳に、すべてを語ろうとしているようだった。
「おれはきっと、コレットといたら、身体だけじゃなくコレット大切なものまで燃やしてしまうと思ったから」
「……でもそのおかげで、りんごの木はひとつ燃えるだけですんだじゃない」
あの炎の鎮火は、ノイの欲望があってこそのものだ。
私を欲望の蛇に奪われてしまうと思って、太陽の炎でとりかえそうとした。もし彼が私を奪い返そうとしなかったら、私たちはきっとあのまま死んでいたに違いない。
「でもこれから、また、同じようなことがあったらどうする? もし、コレットの大事な夏みかんの木を燃やしてしまったら?」
「そうしたら、また、新しく植えればいいだけよ」
彼の指先をそっと握り、私は目を開けた。
顔にかかる雨粒が、降り続いていた雨の音が、すこしずつ、小さくなっていく。雨がやんでいくのを感じて、私は空を見上げた。
「ノイ、目を開けて」
うながされて、彼もおそるおそるまぶたを開く。徐々に明るくなっていく空にまぶしそうに目を細める彼は、今日も変わらず陽だまりのようなあたたかなまなざしで私を見た。
「もし大切なものが燃えちゃったら、また新しく大切なものを作ろう」
雨が、やむ。雲の切れ間から、陽の光が差し込んでくる。でもそれよりもあたたかな太陽が、私のすぐそばにあった。
「……コレット」
ノイは包み込むように、私の身体を抱き寄せた。
私はそのまま、彼の腕に身をゆだねる。こうやって彼の胸に顔をうずめると、まるでおひさまに干した布団に包まれているような気分だった。
「こんな瞳を持ってうまれた自分が、いやでたまらない。どうして、欲しいと思うものを、いつも遠くから見ていることしかできないんだろうって……」
「ノイ……」
おそるおそる、私も、彼の身体に手をまわす。なぜだろう。大きなはずの背中が、なぜかとても小さく感じた。
その背中を撫でて、私は彼の鼓動に耳をすませる。まるで彼は小さな子供だ。夜、ひとりで眠れなくて、母親に甘える子供だ。背中を撫で、髪を撫で、私は彼の耳に唇を寄せる。
「ノイになら、私、焼き尽くされてもかまわない」
この身体が炎に包まれる間の、ほんの一瞬でもいいから。私は、彼のそばにいたかった。
「ノイに大切なものが手に入らないなら、私の大切なものをノイにあげる。ノイの大切なものはきっと、私にとっても大切なものよ」
ノイがこの町の景色が好きだと言ったように、私もまた、この町の景色が大好きだった。
ただ一緒に生まれ育っただけの夏みかんの木も、彼が求めてくれるおかげで、もっともっと好きになることができた。
「大切なものを、ふたりで、分かち合っていこうよ」
「コレット……」
こらえきれずに、ノイの瞳からしずくがこぼれる。そして彼はまた、ぎゅっとまぶたをつぶってしまった。
「ノイ、目を開けて」
「目を開けたら、また太陽が暴れそうだ」
「雨がふったばかりだから、火はつかないよ」
いいから、開けて。私はノイにささやく。
うながされるように、ノイは再びまぶたを開く。目を細め、瞳が暴走しないかおびえたようにあたりを見回し、そしてふるえる息を唇からもらした。
「……綺麗だ」
雨上がりの空に、虹がかかっていた。
「どんなに欲しいと思っても、虹みたいに、絶対手に入らないものもあるんだよ」
かすかにふるえている彼の背中を撫でると、その瞳が私のもとに戻ってくる。そしてまた私の瞳を見つめると、彼は驚いたようにまばたきをして、両手で私の頬を包み込んだ。
「コレットの瞳が、虹をうつしてる」
「……え?」
「コレットの中に、虹がかかってるみたいだ」
そう言われても、鏡がないからわからない。戸惑うしかない私の様子を見て、彼はいつもの、あの、太陽の笑顔を見せてくれた。
「コレットはほんとうに、おれのほしいもの、なんでも持ってるんだな」
そう、ノイが笑う。燦々と輝く太陽のように、ひなたぼっこのぬくもりをまなざしに乗せて。そのあたたかな笑顔を浴びて、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれだしていた。
「コレット、ずっと一緒にいよう」
私の大切なもの。
それは、いつもそばで見守ってくれる、太陽。
「ふたりで、大切なものをたくさんつくっていこう」
涙が止まらない私に、彼はまた、口づけをしてくれる。まるで宝物に触れるように、うやうやしく、そして、優しく。何度も何度も唇を重ねてくれながら、彼は私のしずくを受け止めてくれた。
銀の瞳がとけおちるように、しずくは太陽の光を浴びてきらりと輝いた。
END