第5章 支配の痕(しはいのあと)
第5章 支配の痕
支笏湖へと続く国道230号、千歳市の郊外にあるセイコーマートの駐車場。
絵美は運転席のドアを開けたまま、助手席から出てきた久利恵に手を振った。
「待った?」
「ううん。むしろ私が早すぎたかも」
二人はホットシェフの唐揚げとアイスを手に、店舗前のベンチに腰を下ろす。朝の空気はまだひんやりとしていたが、峠道に向かう前のひとときには十分な静けさがあった。
「連続事故。最近増えてるやつ?」
「うん。妙に集中してるの。特定のポイントで、連続して」
絵美はスマホを取り出し、何枚かの写真をスライドして見せた。そこにはフロントを大破し、ガードレールに突き刺さった車の画像が並んでいる。
「現場はどれも“単独事故扱い”だけど……やっぱり変なのよ。ブレーキ痕が無いっていうのが」
「確かに単独事故にしては妙すぎるね。偶然の重なりってレベルじゃないよね」
「でしょ? まあ、あのエリアは昔からちょいちょい事故があるって話だけど……最近は異常ね」
「事故車両は峠を攻めるような"いかにも"って車ばかりみたいね」
「そう。それもほとんどが地方ナンバー。地元ではないの。昔、地元の走り屋が支笏湖をホームにしてた時代はあったけど……今はもう、避けられてるみたい」
「避けられてる? なんで?」
「理由は分からない。ただ、忌み嫌われる何かがあるだろうとボスが言ってた。」
「なるほどね。で、外から来た連中が目をつけ始めたと」
「うん。あそこは夜間照明が少ないわりに舗装は良好。昼間は観光地だけど、深夜は空くから“都合がいい”ってわけ」
「……事故の連鎖には、他の要素が絡んでる可能性が高いね」
「それで調査ってわけね」
「ボスが受けちゃったのよね」
「公的機関からの依頼?」
「おおやけにはされないけどね。イギリスと違って日本はこういうのは後進国だからね。たまにあるらしいわ」
「つまり、最後は霊感頼みと……」
「サイコメトリーの需要は、意外と現実的なのよ」
そして絵美は唐揚げをひと口かじると、ぼそっと付け加えた。
「今日、午後から降るって予報だったよ」
「えっ!? マジ!?」
久利恵の一言に、絵美の表情が一気に焦りに変わった。
見上げた空の雲は厚く、ゆっくりと色を深めつつある。
「……天気もちゃんと読まなきゃね。探偵さん」
「リーディングミスっ」
ふたりの笑いが、朝の空気に溶けていった。
* * *
赤いエクストレイルが、国道230号から453号へと滑るように走り抜ける。
ハンドルを握る絵美は、出発前に聞かされた“あの言葉”を思い返していた。
——特別なチューニング、施しておいた。
例のぬいぐるみ、“ボス”が画面越しに言った言葉だった。
「君のマシン、あれにひとつ隠し球を入れておいた」
「またレッドマスクに変な改造したの?壊さないでよ?」
ボスの口元は吊り上がっていた。
「使えば、一時的にエンジン出力が上がる。ただし五秒限定。それ以上は……車の寿命が縮むかも」
「は? 私のほうが縮みそうだわ」
絵美は呆れてモニターを閉じた。
そしてもうひとつ、手渡された奇妙な物体——『グランツーリスモ6』のPS3ソフト。
「私の車、ゲームに出てないっての……」
そうぼやきながらも、理屈を超えた依頼と機材に慣れきった彼女は、やがて笑っていた。
* * *
道道78号。朝の冷気が漂うその峠道に、エクストレイルは静かに停車する。
目の前には緩やかな左カーブ。ガードレールは曲がり、アスファルトの端にはスリップ痕がかすかに残っていた。
「……急がなきゃ」
十玲流 絵美、現地到着。
舗装の継ぎ目に膝をつき、指先を滑らせながら、彼女は目を閉じた。
次の瞬間——視界が、揺れ始めた。
風は微かに鳴いている。山あいの冷気が、肌を刺す。
「……来る」
絵美の額から汗が一滴、ゆっくりと落ちた。
手のひらから伝わる、アスファルトの“記憶”。
何重にも重なった輪跡の下に、たった一夜の出来事が残されていた。
──ギィィィ……ンッ……ヴォォォォォ……
視界が、揺れる。
ノイズ混じりに始まる残像の映像。暗い夜道。深く沈んだ森の匂い。
白いヘッドライトに照らされた、細く曲がる峠道。
「……来た。昨日の映像」
視点は、180SXのドライバーのそれだった。
黒い車体が、ヘアピンへと突っ込んでいく。ステア操作、ギア操作、そして加速。
「いや、これは……」
絵美の眉がぴくりと動く。
後方から、追いつく“何か”がある。
──ゴォォォォ……!
鋭く切り返したカーブの先。ミラーに映ったのは、片目だけが光る白銀のGT-four。
その挙動は、異様だった。
常識外れの突っ込み角。後輪の滑り。だが収束は……美しい。
「煽られてる……!? この俺が……ッ」
ドライバーは叫ぶ。
『ちっ! ハイビームがうぜえ……!』
180SXが反応。加速する。
だが、背後のGT-Fourはそれを上回る勢いで迫る。
抜かれまいと焦った180SXの男がアクセルを踏み抜く。
続いて──
ハザード2回。
右側ライトが、道を穿つように点く。
『バトルサインだと!?』
絵美は息を呑んだ。
あのGT-Fourは、確実に仕掛けている。意図的に──誘っている。
『ふざけんな……! 道南最強チームの実力、見せてやる!』
視点が一気に加速する。エンジン回転数の上昇、G、ブレーキング。
『絶対に前は……とらせねぇ!』
タイヤが悲鳴を上げ、2台の距離が詰まる。
そのときだ。
──視界の片隅で、白銀のGT-fourが一瞬、左へフェイントを入れた。
『アウトからっ……!? いや、違う!』
右に切り返す。まるで、インを刺すように。
──ギャアアアアァァァッ!
『ゼロカウンターだと!? うそだろ……』
ドライバーの視線が揺れる。体の芯に、冷たいものが走った。
『化け物か……!? な……なんだ……!? か、体が動かねぇ……ッ』
ステアリングを握る手が震え、固まる。
──体が動かねぇ。
その瞬間、絵美の脳裏に、狐の尾のようなものがはためいた。
『お、おいっ……!? やば……ッ』
ステア操作が遅れる。反応がズレる。
──そのまま、車体はコースアウトし、ガードレールに激突した。
絵美の体がびくりと震えた。
「……ここで、終わった」
現実へと引き戻される感覚。
彼女の視界に、灰色の空が戻ってくる。
乾いたアスファルト。崩れたガードレール。そして、音。
──ポツ、ポツ……
「……まずい」
雨が、降ってきた。
「視界が揺れはじめた。急いでもう少し前の様子から確かめなければ…」
絵美のサイコメトリーが、昨夜の事故現場を越え、時をさかのぼる。
——十五分前。
月の下、少し先の停車帯。
180SXの男が、缶コーヒーを片手に仲間と談笑していた。隣に停められたのは、シビックとエボⅢ。どうやら三人は、遠征先での“腕試し”の算段を練っているらしい。
リーダー格の男、百八十が言う
「フラノラベンダーズとの交流戦、いよいよ来週だな」
「ああ、オレたちラッキーピエラーズも気合いが入るぜ」
エボIIIの男、革三はやる気満々の表情をみせる。
「ここはお互いの中間地点でちょうどいいぜ」
とシビックの大市が、吸っていた煙草を投げ捨てながら返す。
「だけどよ、なんで支笏湖には地元の走り屋がいねぇんだ? いるのはジムカーナかゼロヨンのチームばっかりだ」
革三の素朴な疑問に、大市が苦笑しながら返す。
「たいした理由じゃねえよ、もうここには峠道を攻めるような度胸のあるやつらがいないんだよ。いやむしろ、ホームコースにしてるチームがいないってのは、俺たちにとっては都合がいい。挨拶する手間も省ける」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
缶コーヒーを手にした百八十が話を続ける。
「そういえば帯広のブードンナイツも、近々ここで他チームと交流戦をやる予定だったらしい。けど、メンバーそれぞれが練習走行に来て、みんな車をオシャカにしたって話だ」
「なんだよそれ、バトル前にみんな自爆してたらチーム壊滅じゃん、それ。ただヘタクソの集まりだったんじゃね?」
笑いながら、大市が突っ込む。
「確かにこのコース、簡単じゃない。難所もいくつかあって舐めると痛い目に合う、腕が悪いと事故る」
百八十が、真剣な目で言い切った。
「だがその辺りは、俺たちは昼間の走行で十分にチェックしてある。そこらの野良チームとは違う」
彼は缶コーヒーの空き缶を投げ捨て、車に乗り込み、キーを回す。
「明日あたり、富良野の連中も下見に来るだろう。とりあえず一本流してくる。夜のコースをチェックしておく」
エンジンが唸りを上げ、車は闇の中へと消えていった。
「さすがリーダー、準備に余念がないぜ」
リーダーを見送る二人が言葉を交わした、その時だった。
「全く、反吐が出そうだ」
「ん⁈」
「何故、お前たちのような輩共は次から次へとボウフラのように湧くのか……」
突然、闇の中から声が響く。二人が振り返ると、いつの間にか、一人の女がそこに立っていた。そして奥には白銀のgt-fourが停車していた。
白いシャツ、眼帯、無表情の女。まるで音もなく現れたかのようだった。
彼女は足元に転がる吸い殻と空き缶を見下ろし、軽蔑の眼差しを向ける。
「ここ湖畔は——お前達の遊び場ではない」
月明かりに照らされた彼女の姿が、夜の空気を切り裂くように、冷たく静かに浮かび上がっていた
「な、なんだお前? どっから……」
面食らった二人
彼女は静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「帰れ……ゴミ共」
「おいおい、こいつ……いつからそこにいたんだよ? でも、お姉ちゃん、ちょっとカワイイじゃん」
「藪から棒に、ご挨拶じゃないの~?」と大市が茶化すように続ける。
彼女は無言で一歩近づき、大市に何かを差し出した。
それは、先ほど大市がポイ捨てしたはずの煙草だった。
「これはお前の落とし物だ。拾ってやったぞ」
「……あ~、それ、もうオレのじゃないんで。そこで大丈夫ッスから」
大市が軽く流そうとした瞬間、彼女は無表情のまま、静かに言った。
「そうか」
次の瞬間、彼女は煙草を大市の口に放り込み、大市の頬を挟み、無理やり顔を上向かせた。
足が地面から離れ体がリフトアップされたままになる。
無抵抗に驚く大市に、彼女は冷たく続ける。
「十年だ……そいつに含まれるセルロースアセテートが自然分解されるまでの歳月だ。長いだろ」
さらに力を込めて言い放つ。
「そんな汚れ仕事、自然界に押し付ける前に、お前の体内でやったらどうだ?」
大市の目が怯えたように揺れた。
隣いた革三も突然の状況に腰を抜かす。
彼女は続ける。
「そいつは有害物質を含んだまま、長年残留し、やがて雨水に溶けて湖や川に流入する。最終的には海に行く」
「時には、誤って口にした動物たちを死に至らしめることもある」
「お前たちの軽率な行動が、湖畔の自然や生態系に確かに影響を与えているんだ」
そして、視線を隣の革三にも向けた。
「あわわ…」
驚愕し、腰を抜かしたままの革三。
「自然環境や、そこに棲む生き物を脅かす行為は、巡り巡って人間に返ってくる」
「その代償を、何の落ち度もない人間が払うなんて理不尽だろう」
「なのに、なぜお前たちはこんなにも無責任でいられるんだ?」
彼女はそう言いながら、先程180SXが走り去った方向を見やった。
「たとえコタンカラカムイが許しても……私はこれ以上、お前たちの侵入を許さない」
男が言い訳を吐こうとしたが、彼女は容赦なかった。
「それとも、まだ湖畔で走り屋漫画のマネごとを続けるか?」
ドスン。
彼女は、革三の前に大市の体を突き飛ばした。
「罪を数えて、この場から引き返すなら……見逃してやる」
背を向けながら、彼女は捨てられたコーヒーの空き缶を手に語る。
「これはさっきの180SXのやつのだったな。悪質なやつには、きっちり詰めさせてもらうぞ」
歩き去るその背に、彼女は一言、鋭く告げた。
「支笏湖に来る走り屋は……全て潰す。これは警告だ。よく考えるんだな」
そして――振り向きざま、声を低く落とす。
「うらめしや――」
そして彼女はGT-fourに乗り込み、闇の中へ消えていった…。
ーー
視点は変わった。
大破した車から百八十が崩れ落ちながらドアを開ける。
携帯が震え、着信音が車内に響いた。手を伸ばして端末を取ると、画面には「着信」とだけ表示されている。
「……ああ、オレだ。」
百八十は静かに応答した。
「後ろからGT-Fourが来なかったかって?」
彼はしばらく沈黙した後、重い口調で答えた。
「ああ……来たぜ。バトルサインを出してきてな。受けてしまったが、訳が分からんうちにクラッシュだ。」
彼の声には悔しさと戸惑いが混じっていた。
「え? 何? 白い女の子? どういうことだ?支笏湖に来る走り屋は……全て潰す?」
「そのとおりだ。」
と、そこに、背後から女の声が割って入った。
振り向き驚きの表情を浮かべた百八十の前に、白い服を着た女が現れる。彼女は静かに答える。
彼女の声には冷酷さがあった。
「お前達のようなゴミ共は、排除するということだ。」
血を流しながらも立ち上がった男に、彼女は容赦なく言葉を叩きつけた。
「特にリーダー格のお前は始末が悪い」
「お前に峠を走る資格はない」
百八十の頭に、彼女が持ってきたエメラルドマウンテンの空き缶が落とされる。
「くだらない交流戦などやらないことだ。車が潰れればここに来る理由も無くなるだろう」
百八十が目をそらしながら呟く。
「……俺らが悪かったってことかよ」
彼女は冷静な声で言い放った。
「その昔この辺りの走り屋を一掃してからは、支笏湖は長年平和を保ってきた」
「だが目を離している間に、お前たちのような田舎者がよくちょくちょく来るようになってしまった」
「どいつもこいつもお祭り騒ぎをしてはまた無責任に汚していく」
百八十の背後には、クラッシュで大破した180SXが無残な姿を晒している。
「覚えておけ。音速の番人と張った者は、必ず事故る」
「抜かれまいと無理をすれば己の限界を超えて終わる」
「前を奪われれば…お前の身に起きた現象が全てだ。どのみち終わる」
「私はこの現象をまだコントロールできていないがな」
そして彼女は静かに付け加えた。
「運が悪かったと思わないことだ。全てはお前の行動の結果」
「他所でも同じ事を繰り返していただろう?そのツケが回ってきただけだ」
彼女はくるりと背を向ける。
「それまでポイ捨てされた空き缶の気分でも満喫するといい」
百八十が膝をつく中、彼女は小さく笑った。
「ちなみにアルミ缶は自然界で分解されるのに80年かかる。とても長いな」
「お前の寿命と比べてどうだ?」
「80年経つ前にレッカーがくるといいな」
百八十は力なく項垂れる。
そして彼女は最後に振り返りもせず、静かに夜の闇へと消えていった。
「うらめしや――」
ーーー
……「うらめしや」
その声を最後に、映像はぶつりと途切れた。
黒く、冷たい闇が一面に広がり、絵美の視界はふたたび現実の雨と風に覆われていく。
濡れた髪が頬に貼りつき、湿った息が白く揺れる。地面から染み上がってくるような空気が、絵美の心にまで侵食してくる。
「……雨……ここまでか」
そう呟きながら、絵美は手のひらをそっと地面から離した。
気づけば、スニーカーのつま先から雨が染み込み、雨音が全身を包んでいた。
先ほどまで絵美が追っていた“何か”の残滓は、もうそこにはなかった。
あの女の、背に宿っていた強さと怒りだけは、確かに感じ取った。
「“支配の痕”。あれが、彼女の痕跡……」
だが、奇妙なほどに――その存在に“生命の気配”が、なかった。
絵美の眼差しは、にわか雨に濡れる舗装路を追いながら、どこか空虚さをたたえていた。
(……この近くで亡くなっている??)
いや――と彼女は首を振る。
(“何か”が宿っている……走り屋を、聖域を侵す者として排除し続けてる……)
「音速の番人……」
しかし、視えたその存在からは、まるで生命の気配が感じられなかった。
──支笏湖。
美しいコースと自然が織りなすこの場所には、不思議な磁場のような魅力がある。
地方の走り屋たちが、その魅力に惹きつけられ、きっと秋に向けてどんどん集まってくるだろう。夜な夜な“音”が走る。
しかし……そのなかに、確かにいるのだ。
マナーの悪い連中が。
ゴミを捨て、無謀な運転を繰り返し、事故を呼ぶ者たちが。
「だけど──」
その行為を止めるために、人やモノを傷つけていい理由にはならない。
忘れちゃいけない。
「状況を変えていく方法は……他にあるはずだ」
すべての走り屋が悪ではないのだから。
絵美の視線が雨粒越しに車のフロントガラスを貫く。
「……やめさせなければ」
その声は静かだが、芯が通っていた。
「ターゲットに接触する必要があるわ」
今、絵美の中には明確な目的が宿っていた。
彼女は一体何者なのか、なぜ、支笏湖の制裁を担っているのか”
“それは本当に亡霊なのか、あるいは――何かへの憑依なのか”
そして、何より――
彼女という存在が、今なおどこかで“生きて”いるとしたら――。
物語は、さらに深く、その核心へと進もうとしていた。
(つづく)