第44話 家督相続
元中三年(一三八六年)正月、千早城の背後に迫る金剛山は、頂に雪を載せている。年が明けて五十七となった正儀も、同じく頭に白いものが混じっていた。
前年に大きな痛手を負った楠木党は、実質、赤坂城から千早城に至る河内の山岳部に押し込められる。正儀は息子の正勝・正元とともに、幕府軍の急襲に備えるために、楠木館を空けて、楠木本城である赤坂城(上赤坂城)に居を移していた。そして、楠木正顕とその息子の正通・正房を、仁王山城から、千早城に移した。
新年を迎えた正儀は、数え十五歳となった多聞丸に元服を執り行うこととする。赤坂城には楠木一族は元より、和田正頼・正平親子らの一門、傳役の和田判官良宗、河野辺又二郎正友、菱江庄次郎忠儀、服部十三成儀ら家臣が集まった。
烏帽子親は正儀の舎弟、正顕。畏まる多聞丸に正顕が侍烏帽子を載せて、頂頭懸を顎の下で結んだ。
続けて、正儀が書き物を手にして多聞丸にかざす。
「お前に正秀の名を与えよう。今日からそなたは、楠木九郎正秀と名乗るがよい」
「大殿(正儀)、ありがとうございます。父(橋本正督)のような立派な武将となれるように励みまする」
そう言って、多聞丸改め楠木正秀は頭を下げた。
後ろに控えた傳役の良宗は、かつての主人である正督を思い出したかのように、じっとその姿を見つめ、感極まっているようであった。
「お前には、楠木正成、楠木正行、橋本正督という武勇名高い名将の血が流れておる。名に恥じぬ武者となるよう、精進致せ」
そう正秀に語りかけながら、正儀は、兄の正行に思いを馳せる。四條畷の戦で討死してからすでに三十八年が経っていた。
思えば、正成、正行、そして正督(正綱)へと続く血脈は、いずれも華々しく戦場に散った。いずれも南朝の公卿が主張した無謀な戦略で、死なずともよい命を落とした。正儀は、元服した正秀を、今度こそは無駄死させてはならないと、よりいっそう思いを強くするのであった。
無事に元服の儀が終わると、正儀は上座から一同をゆっくりと見渡す。
「皆、聞いてくれ。九郎(楠木正秀)が元服した今日をもって、わしは楠木の惣領を小太郎(楠木正勝)に譲り、又次郎(河野辺正友)と供に赤坂城を出る事とする」
そう言って正友と顔を見合わせ、互いに小さく頷いた。
十七年前、正儀が幕府に参じるにあたり、いったん家督を正勝に譲った。だが、正儀が南朝に帰参したことで、舎弟の正顕が朝廷から任じられていた河内・和泉両国の守護の地位、および正勝が持つ楠木の家督は、再び正儀の元にあった。
その正儀の決意に皆がざわつく。
「父上(正儀)、何もこの城を出ることはありますまい」
正勝が慌てて正儀を押し留めた。しかし、正儀は首を横に振る。
「わしは賀名生の楠木屋敷に移り住み、主上(後亀山天皇)の政をお助けしたいと思うておる」
「賀名生に……でございますか」
正元も正儀の唐突な決断に困惑の表情を浮かべた。
「これまで戦で多くの命を失った。思えば無駄な戦、無謀な戦が幾多もあり、失わずともよい命を失ってきた。皆もそう思うであろう……」
その言葉に、皆、亡くなった者の顔を思い浮かべ、口をつむぐ。
「……戦はここ一番のときに行うものじゃ。されど、これまでの強硬な公卿たちは、あまりにも武士の命を、いや、人の命を軽んじておった。わしは参議の役を仰せつかり、公卿として朝議に出られることになった。じゃが、あくまで武士として主上のお側にお仕えし、朝廷が人の命を重んじる政をするよう、力を尽くすつもりじゃ」
正勝が表情を柔らかくして頷く。
「承知しました。父上がお決めになった事じゃ。我らは従うのみでござる。赤坂・千早城はそれがしが守ります。御安堵くだされ」
嫡男、正勝の存在は、正儀にとって心強いものであった。
「それがしも、小太郎の兄者(正勝)の元で力を尽くします」
元服し立ての正秀も口元を引き締めた。
そんな正秀に、正儀は達が生んだ我が子、三虎丸の姿を重ねた。三虎丸も今年で十五歳。元服を行ってもよい歳である。達の父、交野秀則が幕府側に残り、正儀と決別してからは、達にも、三虎丸にも会うことはなかった。正儀は、三虎丸とその母、達を残して南朝に帰参したことに、やはり、心が咎めていた。
その三虎丸も、摂津国正覚寺村の祖父、交野秀則の元で元服の儀を迎えていた。
交野の親族の者が烏帽子親となり、三虎丸に侍烏帽子を載せた後、祖父の交野秀則が名を与える。
「今日からその方は、交野小三郎正長と名を名乗るがよい」
「交野……小三郎……正長」
噛みしめるように三虎丸は呟いた。
楠木の通字『正』が付いた正長の名は、かつて、正儀が三虎丸へと、達に語っていた名であった。一方、名字は交野である。正儀と決別し、幕府に恭順の意を示す秀則の元で、楠木を名乗ることは許されなかった。三虎丸改め交野正長は、心の奥で、父と同じ名字を名乗れない自らの不遇を嘆いた。
一方、母の達は、我が子の元服に笑顔を見せる。だが、それも表向きで、心のうちでは正儀に晴れの姿を見せてやれない事を哀しんでいた。
四月、楠木一門の棟梁となった楠木正勝は、朝廷(南朝)より従五位上、右馬頭とともに河内守に任じられた。一方、正儀は賀名生の小さな屋敷に移り住む。かつて、北畠親房や顕能がそうであったように、息子を領国経営にあたらせて、自身は廟堂で政に専念するためである。
この日、正儀は参議として賀名生の廟堂にあった。今、朝廷(南朝)は大きな問題を抱えていた。紀伊の拠点を失った南朝は凋落著しく、朝廷としての体を維持することさえ難しくなっていたのだ。
「紀伊の年貢は滞り、河内も以前の半分にも満たぬありさまです。今はこの南大和の年貢と、北畠大納言の伊勢半国の年貢しかありませぬ」
二列で向かい合って座る公卿の中から、中納言の六条時熙が窮状を訴えた。
伊勢の南半国を支配するのは先の右大臣、北畠顕能の息子、北畠顕泰であった。顕泰は南朝のために年貢こそ上納していたが、正儀ら和睦派が大勢を占める廟堂からは距離を置いていた。そして、領国経営に力を注ぎ、独自に領地拡大のために幕府方の伊勢守護、土岐頼康と争っていた。
この状況に、関白の二条冬実が唸る。
「ううむ、もはや幕府との和睦しか残されておらぬのか……」
「恐れながら申し上げます……」
末席から正儀が声を上げる。
「……これだけ衰退した今、我らから和睦を乞うては、全て幕府の言いなりにならざるを得ません。今は我慢の時かと存じます」
これに憤慨したのは、春宮権大夫として即位前の帝(後亀山天皇)を内から支えてきた権大納言の花山院師兼である。
「そなたは和睦を欲していたのであろう。変節したのか」
憤る師兼に対して、正儀は首を横に振る。
「滅相もございませぬ。それがしは今も変わらずに和睦を求めております。されど、今の我らには幕府に要求を飲ませるだけの力がありませぬ。さすれば、幕府の要求を一方的に飲まざるを得ません。和睦とは、互いに譲るところがあってこそ。一方的に相手の言い分を飲むのは和睦ではなく降参にございまする」
正儀の言葉に一同は頷き、師兼はばつが悪そうな顔で目を反らした。
「橘相(正儀)の言い分はわかるが、ではどうすべきか、麿はそれを知りたい」
廟堂を仕切る立場の冬実は、行き詰まった南朝の行末を考えあぐねていた。
「まずは、大和、河内、紀伊で少しでも勢力の回復を図りつつ、時期をお待ちいただきとう存じます」
「時期……時期とは何ぞや」
師兼が不安げな表情で正儀に問いただした。
「我らは北河内に畠山基国、和泉に山名氏清、そして紀伊に山名義理、さらには伊勢の土岐頼康と、いずれもこの朝廷(南朝)を滅ぼし、自らの領地拡大に固執する者どもに囲まれております。さらに幕府管領は、朝廷に強硬な態度を示す斯波義将。今、幕府と和睦するとなれば、これらの者を相手にせねばなりませぬ」
「うむ、それは承知しておる。じゃが、そちの言うように、待てば状況が変わると申すのか」
「朝廷(南朝)との戦で得をしたのは、所領が増えた先の者ばかり。それがしが京に放った透っ波の知らせでは、これに対する不満が幕府の中から生じております。いずれ不満は足利義満を動かすでしょう」
それまで沈黙していた内大臣の阿野実為が口を開く。
「関白様、橘相殿は常久(細川頼之)の復帰を待っておるのです。先の幕府の者どもはいずれも管領、斯波義将と歩調を合わせる者たち。常久が管領に復帰すれば、その者たちは失脚すると。特に、山名一族は六分の一衆などと呼ばれ、全国の六分の一の国を我がものとしております。これは幕府将軍の足利義満にとっても、放っておくことはできないでしょう」
得心した表情で冬実が頷く。
「なるほどのう、さすがは橘相よ」
「ははっ。ただそれまでしばらく時を要すかと存じます。我らはこれ以上、力を削がれないよう守りを固め、力の回復に務めなければなりませぬ。近隣の豪族に働きかけ、味方に引き入れたく存じます」
正儀の意見に、今度は右大臣の吉田宗房が懸念を抱く。
「橘相の申すことはもっともじゃが、はたして豪族どもが我らの力になろうか。今、南大和の豪族でさえも、幕府に降る者が後を絶たぬ。どのように我らに引き込むか、その点はどのように考えておる」
「はい、それには南軍にまだ力があるところを見せねばなりませぬ。挙兵して我らの存在を示します。ただし、我らの力では山名や畠山とまともにやり合っても勝てませぬ。討って出て、逆に敵が討って出てくれば、さっと兵を引き上げます。敵を倒すことが目的ではありませぬ。あくまで我らの存在を示せばよいのです」
冬実が宗房に目配せして頷く。
「橘相、相わかった。内府殿(内大臣/阿野実為)とよく相談して事を運ばれるよう頼みます」
「承知つかまつりました」
正儀は、軽く実為を一瞥してから、冬実に向けて平伏した。
さっそく正儀は参議として河内、紀伊、大和の諸将に出兵を促した。しかし、正儀の下知に応じたのは楠木正勝が率いる楠木党と、和田正頼・正平親子が率いる和田党、そして橋本正茂の孫である橋本正賢、和泉を追われて紀伊に逃れていた淡輪光重くらいであった。
出陣した楠木軍の中には、元服したばかりの楠木正秀の姿もあった。正秀の騎馬の両側に、正勝と正元が馬を付ける。
「九郎(正秀)、お前にとっては初陣じゃ。無理をすることはない。わしや小次郎(正元)の後に着いてくればよい」
「そうじゃ。此度の戦は、勝つことが目的ではない」
正勝と正元の言葉に、正秀は威儀を正す。
「承知っ。されど、それがしとて楠木の男。単に後ろに下がっていることはできませぬ。今日まで鍛錬してきたのです。機会があれば、それがしにお任せくだされ」
気負う正秀に、正勝は正元に目を見合わせて、苦笑いを浮かべる。
「判った。機会があれば、お前に任せよう」
「か、かたじけのうございます」
正勝の言葉に正秀は喜び勇んだ。そして、その後ろから馬で従う傳役の和田良宗は、正秀の凛々《りり》しい姿に目を細めた。
大和五條に集結した南軍は、紀の川沿いに西に進み、桂木の幕府代官所を襲い、さらには紀伊国府に向けて進軍した。
突然の南軍の動きに驚いたのは、紀伊国府の守護館に居た幕府側の紀伊守護、山名義理である。前年の三ヶ谷砦での戦や、大旗山の篠ヶ城攻めで、山名軍は圧勝していた。駆逐したはずの南軍が、今更、出兵してくるなど、考えてもいなかったからである。
義理は重臣の話に苦々しい表情を浮かべる。
「南軍の数はどのくらいじゃ」
「はい、二百余騎ばかりかと」
「わずか二百じゃと……ううむ」
その数で仕掛けてくるとは、正気の沙汰と思えない。逆に、何か罠があるのではないかとさえ疑った。
重臣が、そんな義理の顔色を窺う。
「殿、いかが致しましょうか」
「ううむ、すぐに討伐軍の支度を急がせよ。用意ができ次第、お主が率い出陣せよ」
「承知致しました。それではさっそく……」
重臣はそう言うと義理の元を立ち去った。
「ここは、我が領地、南軍が罠など仕掛けられるはずはないか……ふふ」
薄ら笑いで、義理は不安を払拭した。
出陣の用意を整えた義理の元に、南軍の元へ放っていた斥候が戻ってくる。
「申し上げます。南軍は紀伊国府を目の前にして急に反転。大和へ向けて兵を引き上げました」
「何、引き上げただと。いったい何なのじゃ」
義理は唖然とするほかなかった。
南軍を率いる楠木正勝は、南軍がいまだ健在であることを世の中に示すだけでよかった。
それから三月後。今度は楠木正通や和田正頼ら百五十余騎が、かつての楠木の拠点である龍泉寺城を通過し、河内石川、河内平尾へ進軍した。ここでも、河内石川の幕府代官を威圧して追い出すが、幕府の河内守護、畠山基国が動きはじめる前にさっさと撤退した。
楠木党は一年間、こうした動きを辛抱強く繰り返す。初陣を飾った正秀にとって、この軍事行動は、正勝や正頼から戦の手解きを受ける場として、ちょうどよかった。
南軍のこうした動きは、尾ひれが付いて噂が広がる。京に伝わる時には、南軍が二千余騎で山名義理や畠山基国に一矢報いたという話に変わっていた。服部成儀が透っ波を使って積極的に噂を流したためである。
結果、息を殺していた南朝寄りの豪族たちの中から、噂を聞き付けて、正勝らに呼応する者たちが現れた。
元中四年(一三八七年)七月、正儀は南軍の状況を賀名生の帝(後亀山天皇)に奏上するために、行宮に参内した。内大臣の阿野実為や中納言の六条時熙も同席する中、正儀は仰々しく頭を下げる。
「右馬頭(楠木正勝)の動きに呼応して、近隣で朝廷(南朝)に復す者たちが出て来ております。これまでの者たちと合わせると、河内国の八尾や福塚。紀伊国の貴志に贄川。そして、大和国では三輪、秋山、真木などが御味方となりました」
一つ一つ豪族の名前を上げて、正儀は帝を勇気づけた。
「橘相(正儀)、祝着である。この先も朝廷に復す者が続けばよいのう」
「はっ」
正儀は再び深く頭を下げた。
傍らから時熙が、正儀の顔を窺う。
「橘相殿、和泉の美木多はどうじゃ。そちとは縁があるのであろう」
美木多助氏・助朝の親子は、正儀が南朝に帰参した時、正儀から離れて幕府に残っていた。
「書状を送っておりますが、返事はありませぬ。美木多の所領は和泉。しかも、山名氏清の居城からも遠くはありませぬ。我らに帰参すれば、滅ぼされるのは必定。和泉の所領を捨ててまで、こちらに帰参するのは難しいかと存じます」
正儀の説明に時熙は溜息をついた。
実為が空気を読んで、話題を変える。
「ところで橘相殿、畿内以外の地でも、朝廷(南朝)の勢力の回復が必要じゃ。そちの意見を聞かせてくれ」
「はい。それがしは九州のてこ入れが急務と存じます。征西大将軍の懐良親王様が亡くなられ、跡を継いだ良成親王様も苦戦されているご様子」
「昨年、幕府方の今川了俊が、征西府の宇土城を攻めたのであったな」
正儀の説明に、時熙はううむと唸った。
「げにも。宮様(良成親王)は近隣の豪族の力を借りて何とかこれを追い払ったようにございます。されど、もはや九州の朝廷勢力は風前の灯。彼の地で宮様が孤立することがないよう、朝廷より側近として御支えできる御方を送るべきかと存じます」
帝は大きく頷き、自ら口を開く。
「内府(内大臣/阿野実為)、橘相の進言、さっそく朝議に諮ってみるがよい」
「御意」
実為は居住まいを正し、深く頭を下げて畏まった。
続けざま、帝が直接、正儀にたずねる。
「橘相、して、関東はどうじゃ」
「ははっ、関東は幕府の中から謀反が続いている様子。しばらくは様子をみてはいかがかと存じます」
正儀の話に、納得顔で実為が帝に顔を向ける。
「確か、幕府の小田孝朝が、謀反人の小山義政の遺児、若犬丸(小山隆政)をかくまったことが発覚し、鎌倉で捕えられたとか」
「御意。内大臣様(実為)の仰せの通りにございます。これに乗じて、幕府の関東管領、上杉朝宗が小田城を攻め、孝朝の家臣らは城を捨てて男体城に立て籠りました。その小田を討伐する鎌倉公方の足利氏満も、将軍、足利義満との対立が深まるばかり。関東は幕府の者同士で今後も争いが起きることと存じます。我らが自ら兵を挙げなくとも、いずれ帝の権威にすがろうとする者も出て参りましょう。そのとき、幕府討伐の綸旨を与えるだけでよろしいかと存じます」
「なるほど、橘相(正儀)の申す事、よく判った。では、関東はしばらく様子をみるがよかろう」
帝の言葉に実為、時熙、そして正儀は平伏した。
後日、朝議で正儀の意見は決議された。南朝は権大納言の花山院師兼を左近衛大将に任じ、一軍を付けて九州に下向させた。師兼は肥後国宇土城に置いた征西府に入り、征西大将軍の良成親王を補佐することになる。
その数日後、懐成親王の室となった正儀の娘、楠木式子が、大望の男児を産む。生まれた子は淳義王と名付けられた。
正儀は知らせを受けて、宮邸に馳せ参じる。式子は産後で、いまだ横になったままであった。
「よくやった。式子」
「父上(正儀)、わざわざお越しになり、申し訳ありませぬ」
「いやいや、そのままでよい。産後は無理をしてはならん」
起き上がろうとする式子を手で制しながら、枕元に座る。
「伊賀(徳子)にも見せてやりたかったものじゃ」
そう言って、式子の隣で、すやすやと眠る淳義王に目を落した。
亡き母の名に、一瞬、顔を曇らす式子であったが、我が子を見守るその表情は、すでに母の顔になっていた。その芯の強い瞳は徳子に重なり、正儀は思わず柔らかな表情を浮かべる。
かつて、後村上天皇と交わした言葉が思い出された。正儀は、幼い式子のお転婆ぶりを、徳子に似たからと言って、帝を笑わせた。天皇は正儀に、その式子と、自らの皇子である懐成親王との婚儀を約束して崩御された。当時、まだ公卿でもなかった正儀の娘を、宮妃に迎えるなどあり得ないことであった。いかに後村上天皇が正儀を信頼していたかを示すものであった。
「どれ、爺様が抱いてやろう」
正儀が淳義王に手を延ばすと、すかさず侍女が止めに入る。
「橘相様(正儀)、なりませぬ。宮様は生まれたばかり。首も座っておりませぬ」
「ううむ、抱けぬのか……では、明日はどうじゃ」
「父上、今日も明日も同じでございますよ」
「ううむ、致し方ないのう」
しぶしぶ手を引っ込める正儀に、式子は微笑む。孫を前にした正儀は、只のありふれた祖父の顔を見せた。
平和で穏やかな時が流れる中、式子の表情が一瞬、曇る。
「父上、この平穏な日々はいつまで続くのでしょう。兄上(楠木正勝)はたびたび、兵を出していると聞きます。また戦になるのでしょうか」
「小太郎(正勝)が行っているのは戦をせぬための戦じゃ。必ずや南北合一を行って、そなたを京に連れていってやろう」
そう応じる正儀に、式子は首を横に振る。
「父上、私は賀名生のままで十分に幸せでございます。このひと時がずっと続けばよいと思うております。そして、この子が戦乱に巻き込まれることがないことを祈るばかりでございます」
「そうじゃな……ほんに」
式子の願いに、正儀は淳義王に目を落として、小さく呟いた。
七月の終り、賀名生の楠木屋敷に、河野辺正友が出仕していた。
「又次郎(正友)、もう、身体の方は大事ないのか」
正友は体調を崩して、ここしばらく寝込み、正儀の元に顔を出していなかった。
「風邪をこじらせただけにございます。ご心配をおかけしました」
「そうか、わしもお前ももう歳じゃ。無理はするな」
「承知しました」
そう言って、正友は笑いながら頷いた。嫡男の正国が、篠ヶ城で篠崎正久とともに討死してからも、努めて変わることなく勤めに励んでいた。だが、その悲しみは癒えたわけではなかった。
「それはそうと大殿、菱江忠儀からの知らせにございます。石見に隠遁していた足利直冬殿が亡くなられました」
「何、直冬殿が……いったい、いつのことじゃ」
「七月二日に、自らの館で息を引き取ったとのことでございます、予てから身体を壊して臥せていたようです」
正儀と同じ時代を生きた武将が、また一人亡くなった。
直冬は、実父の足利尊氏に愛されず、叔父、足利直義の嫡養子となった。そこからは、実父の尊氏に認めてもらわんと、ただ一心に将としての勤めに励んだ。だが、尊氏は直冬を認めることはなかった。その思いは、いつしか尊氏への憎しみに変わり、生涯、幕府を敵に回して戦う羽目になる。
そして、幕府と対立していた山名時氏、大内弘世らに担がれて南朝に降る。正儀ら南軍とともに京に攻め入り、尊氏を京から追い落としたこともあった。
しかし、直冬を担いだ山名時氏、大内弘世は、伺いを立てることなく勝手に幕府に帰参する。孤立した直冬は窮した挙句、幕府に降参を申し出た。最後は石見の国人、吉川氏の監視を受けながらの生涯であった。
三回目の京への侵攻で、正儀は初めて直冬に会った。正儀からみれば、直冬はやはり足利の御曹司。直冬の戦は、将軍の座を実弟、足利義詮と競っているようにしか映らなかった。その生い立ちを知ったのは、後のことである。さらに山名や大内に裏切られたとの知らせに触れると、同情を禁じえなくなっていた。
正儀は立ち上がり、縁に出て遠くに目をやる。
「直冬殿、安らかに眠られるがよい」
静かに目を瞑り、手を合わせた。
故人を偲ぶ静かなひとときが、突如、壊れる。
「ごほっ……うう、ごほ、ごほ……うう」
ただならぬ背後の呻き声に正儀が振り返ると、正友が苦しそうに掌で口を押えて咳をしていた。
歩み寄って正友の背中を擦る。
「又次郎、どうした」
正友の掌に血痕が見られた。正友はしばらく苦しがった後、次第に落ち着きを取り戻す。
「大殿、もう、大丈夫でございます。心配をおかけしました」
「無理をするな。館に戻って、しばらく療養せよ」
只事ではないと悟った正儀は、郎党に正友を送らせた。
京、室町にある花の御所。征夷大将軍、足利義満の元に、幕府管領の斯波義将が出仕する。傍らには、いつものように、政所執事、伊勢照禅(貞継)の姿があった。
「慈恩寺殿(足利直冬)が亡くなられ、御所様(義満)の御代はますます盤石。喜ばしいこと、この上ないことにございます」
義将は義満に祝辞を述べた。
「管領殿、仮にも慈恩寺殿は御所様の叔父にあたります。そのような言葉は御遠慮なされませ」
義満の前で照禅にたしなめられた義将は、こほっと咳払いをして態度を変える。
「これは申し訳ありませぬ。慈恩寺殿の冥福を祈りたいと存じます」
不遜な顔を隠すように、義満に向かって深く頭を下げた。義満は冷めた表情で義将を一瞥してから、照禅に顔を向ける。
「照禅、直冬の死に安堵することなく、後世に憂いが生じないようにするのじゃ。たしか嫡男は冬氏とか申したな。一応は余の従兄じゃ。不穏な者どもが旗頭として担ぐかもしれん」
「承知致しました。目付の吉川に命じ、厳しい監視を続けましょう」
そう言って、照禅は軽く頭を下げた。
「御所様、憂いを除くために、いっそ討ち取ってはいかがかと。御所様の命あらば、すぐにでもそれがしの手勢を送って、憂いを取り除いてご覧に入れまする」
強硬な義将は得意顔で義満に提言した。
「降参した直冬は余の名で赦免をしたのじゃ。なのにその子、冬氏を、謀反を企てた証拠もなく討ってしまっては、将軍の権威に傷を付けよう。今、そのような言葉は聞きとうはない」
「も、申しわけございませぬ」
義将は強張った表情で、抗弁を呑み込むようにして頭を下げた。
以前は、義将ら有力諸将を抑えることに苦慮していた義満であった。が、今では将軍としての威厳を備え、諸将は義満の顔色を窺うようになっていた。一癖も二癖もある諸将との駆け引きを制することが出来たのは、細川頼之による善導と、持って生まれた天賦の才である。
「ところで、越前守(義将)、今日は何用じゃ」
義満が問いかけると、義将は再び気を取り直す。
「近頃、河内の楠木が、たびたび、出兵を繰り返し、幕府の領地を脅かしております。早めに討伐したく、お許しを得ようと参りました」
「楠木か……そのことは照禅からも聞いておる。じゃが、たかだか百や二百。兵を出しても、その地を維持するだけの力はなく、すぐに兵を引くありさまと聞いておるが」
義満は義将から目を逸らし、面倒くさそうに答えた。
「されど、楠木の挙兵に呼応して、南軍に走る者たちも出て来ております。これこそ、早いうちに後世への憂いを取り除きたく存じます」
義将は、政敵、細川頼之・頼元の兄弟が、いつまた結びつきを深めるかもしれない楠木を、今のうちに完全に滅ぼしておきたかった。
「楠木正儀はもう老齢であろう。自ら出陣をしておるのか」
「いえ、すでに嫡男の小太郎正勝に家督を譲っておるようです。おそらく兵を率いているのは正勝ではないかと思われます」
「楠木正勝……か。歳は幾つじゃ」
「それは存じ上げませぬが……」
「正儀の年齢からして御所様と同じような歳かと存じます」
義将に代わって照禅が答えた。義満は、顎を触りながら思案した後、口を開き直す。
「よかろう、楠木討伐に出陣するがよい。正勝の将としての器を量ってやろう……」
義満は、これまでの楠木との縁に思いを馳せるかのように、口元に笑みを浮かべる。
「……じゃが、此度の討伐は、南方を滅ぼす戦ではない。決して南主(後亀山天皇)を追い詰めてはならん。楠木の動きを封じさえすればよい。千早の城攻めとなると、こちらも相応の痛手を負うことになろう」
義満としては、千早攻めで失態が晒され、幕府の威厳に傷が付くことを嫌った。そして、南朝との和睦の可能性を失いたくはなかった。
対して義将は、楠木軍の動きを封じるだけでは不満であった。だが、将軍の機嫌を損ねてはならないと畏まる。
「承知しました。では、楠木を封じてご覧に入れまする」
「越前守(義将)よ、一つ条件がある。山名には頼らぬようにせよ」
六分の一衆と呼ばれる山名一族が、これ以上、手柄を上げることがないようにするのは当然のことであった。しかし、河内に隣接する和泉の山名氏清と、河内の背後から兵を動かせる紀伊の山名義理を使えないことは痛手でもあった。
義将は一瞬、声を詰まらせる。だが、照禅の目配せに気づくと、すぐにその場で平伏する。
「御所様、承知致しました。討伐軍は畠山を中心と致しましょう」
内心は忸怩たる思いであったが、将軍の機嫌をそこねては元も子もない。具体策は後に回し、兎に角、義将は命に復した。
八月、ここは賀名生にある南朝の行宮。紀伊へ出陣しようとする楠木正勝が、帝(後亀山天皇)に拝謁していた。
御殿の下には、正勝と舎弟の楠木正元、それに千早城の楠木正通・正房兄弟らの姿があった。もちろん楠木正秀も、傳役の和田良宗とともに従っていた。
正勝は兵を後ろに座らせ、自らは正元ら一族とともに、具足(甲冑)姿で、階の前に両ひざ付いて頭を下げた。
殿上には御簾向こうの帝を中心に、関白左大臣の二条冬実、右大臣の吉田宗房、内大臣の阿野実為、中納言の六条時熙ら公卿が居並ぶ。その一番端には参議である正儀も座っていた。正儀にとっても、正勝にとっても、晴れがましいひと時であった。
帝が蔵人に命じて御簾を巻き上げさせ、正勝に声をかける。
「右馬頭(正勝)、出陣大儀である。勇ましい兵を見ることができ、朕は満足じゃ。南軍の存在を十分に示してくるがよい」
「はっ。承知つかまつりました」
帝の引見が終わると、正勝は深々と頭を下げて立ち上がる。
「者ども、いざ、出陣じゃ」
「おお」
後ろに控える兵たちとともに、正勝は気勢を上げた。
行宮の外に出た正勝は、郎党から手綱を受け取り、馬に跨がる。その両脇には、馬に乗った舎弟の正元と正秀の姿もあった。
「わしがお前たちを見送る側になろうとは……歳をとったものだ」
階を降りて外に出てきた正儀が、そう言いつつ、馬上の頼もしい息子たちに頬を緩めた。
「では父上(正儀)、出立致します」
一礼をして、正勝は軍を大和五條へと進めた。
いったん五條に出た楠木正勝は、紀の川沿いに伊勢街道を西に進み、紀伊国府に向かう考えであった。しかし、事態が急変する。
南軍の元に、河内から早馬が駆け付けた。息を切らせた伝令が正勝の前で馬から飛び降りて、片ひざを付く。赤坂城に留守居役として残った菱江忠儀が差し向けた使いである。
「殿(正勝)、大変でございます。畠山軍が南河内に侵攻しました。その数およそ三千余騎」
「何じゃと」
正勝は驚きの声を上げた。舎弟の楠木正元が馬を寄せる。
「赤坂城や千早城の者たちは無事か」
「はい、いずれの方々も御無事です。畠山軍は仁王山城を落とし、紀見峠へと向かおうとしている由。兵庫助様(菱江忠儀)の考えでは、千早城に籠られると逆に厄介と考えて、殿(正勝)が出陣したところを討たんと兵を進めたのでは、とのことでございます」
「どうする、兄者(正勝)」
正元に問われ、正勝は苦渋に満ちた表情を浮かべる。正勝には、楠木軍のみならず、賀名生の帝(後亀山天皇)を護るという務めがあった。
翌日、幕府の河内守護、畠山基国は自ら兵を率い、紀見峠を越えて紀伊橋本に入ろうとしていた。楠木軍が賀名生から進発したという知らせを受けての出陣であった。
その基国の元に、南軍の様子を窺うために放っていた斥候が戻る。
「報告致します。楠木を中心とする南軍三百は、昨日、賀名生を発って、五條に入りました。ですが、反転して賀名生に戻っていったようです。おそらく我らの動きを知ったためと存じます」
「うむ、ご苦労であった」
斥候を労った基国が、重臣に振り返る。
「我らはこのまま進軍する。五條を抜けて、賀名生へ向かうのじゃ」
「殿、管領殿(斯波義将)は楠木を追い払うようにとの下知でございました。将軍(足利義満)や管領殿の断りもなく、南主(後亀山天皇)を襲ってよろしいのですか」
「我らに南主を攻める意志はないが、楠木討伐の際に巻き添えをくらったとなると致し方のない事じゃ」
基国は薄ら笑いを浮かべながら答えた。
将軍、義満の意思とは別に、管領の義将からは、状況によっては、南の帝に向けて兵を挙げても致し方なしとの内諾を得ていた。
基国は、細川頼之が幕府管領に復帰し、南北合一が成ることを危惧していた。合一が実現すれば、再び楠木が、畠山を押しのけて河内守護の座に着く恐れがあった。そこで、楠木の息の根を止める機会を窺っていた。そのためなら、南朝を滅ぼすことも厭わなかった。
畠山基国は国境を越えて紀伊橋本に進んだ。さらに、これを追って後駆の軍勢も続々と国境の紀見峠を越えようとしていた。
「敵襲じゃ」
「南軍が襲って来たぞ」
兵たちから声が上がった。
畠山の本軍を急襲したのは、南軍の橋本正賢らが率いる二百騎である。楠木軍と合流すべく、紀伊橋本に兵を集めていた。これが畠山軍に矢を射かけたのである。
「こしゃくな南軍め。討ち取れ」
基国の怒声で、兵たちが手に手に弓を持って反撃の矢を放つ。兵力で圧倒する畠山軍が襲い掛かると、南軍は多くの死傷者を出して大和五條に向けて敗走した。
「これは好都合じゃ。この先には賀名生がある。者ども、敗軍を追って、賀名生を襲うのじゃ」
南帝(後亀山天皇)に兵を挙げるきっかけを得た基国は、後駆の軍勢を待つこともなく、五條、そして賀名生に畠山軍三千を進ませた。道々、南軍の抵抗を平らげて、楠木正勝が軍を引き返した賀名生へ攻め込む。しかし、楠木軍の反撃はない。行宮はすでにもぬけの空となっていた。
南軍の様子を窺いに近隣に散った側近の一人が戻ってくる。
「殿、百姓を掴まえて口を割らせたところ、楠木がたくさんの御輿を守って公家衆とともに南に向けて落ちていったとのことでございます」
「南……十津川か……よし、皆の者、我らは急ぎ南軍を追撃する。御輿を担いでの敗走なら、すぐに追いつくであろう」
基国は絶好の機会にほくそ笑んだ。
畠山軍が過ぎ去った賀名生の山の中に、正儀の姿があった。
「御上(後亀山天皇)、今のうちでございます」
正儀の呼びかけで、帝が阿野実為ら公卿とともに、木々を掻き分けて現われる。
「危ないところであったな」
帝は大きく息を吐いて、安堵の表情を見せた。
正勝の南軍が護って十津川郷に向かったのは帝の空の玉輦(天皇の御輿)と、中宮(皇后)たちの空の御輿であった。畠山の急襲で、賀名生へ引き返した正勝と正儀が話し合い、南軍を囮に帝を逃がすことを即断したのである。
正儀は、馬を用意して帝や中宮(皇后)、皇子たちを背に載せ、自ら帝の馬の轡をとる。そして公卿や近衛の兵たちとともに、東の天川郷に向けて落ちていった。
一方、南軍の後を追った畠山基国は、馬上で首を傾げる。
「おかしい。なぜ南主(後亀山天皇)たちの御輿を担いで進む南軍に追いつかぬのじゃ」
その時、軍勢の先頭から伝令を乗せた馬が引き返してくる。
「殿、この先にたくさんの御輿が放置されております。目撃した百姓の話では、南軍はここで四方に霧散した模様です」
「何、ここで消えたじゃと……」
基国は、報告を聞いてあたりを見渡した。あたりは深い山である。たかが二、三百程度の兵が霧散して山の中に入っていったとすれば、探しようがなかった。
「くそ、逃げられたか」
基国は臍を噛んだ。
後日、京の室町第に、畠山基国が賀名生の南まで南軍を追撃したという報告がもたらされる。
将軍、足利義満は、自慢の庭で池の鯉に餌をやりながら、政所執事、伊勢照禅(貞継)から報告を受けていた。
「誰が、賀名生まで襲えと言うたか。三種の神器がなくなりでもすれば、たいへんな失態じゃ……」
義満は照禅の報告に、怒鳴り声を上げる。
「……余は主上(後小松天皇)に顔向けができぬようになる。勝手な振る舞いをしおって。管領(斯波義将)はこのことを許しておったのか」
「そ、それは定かにはわかりかねますが、おそらくは成りゆきで畠山殿(基国)もそうなったのではないかと思います」
「ふうむ。それで南主の行方は」
義満の逆鱗に、照禅は額に浮き出た汗を手で拭う。
「後で知り得たことですが……南軍とともに南に向かったと思わせ、実は賀名生に留まっていたとのこと。畠山軍が南軍を追って十津川に向かっている間に、奥吉野に逃げていったと聞きました」
「ううむ。南軍を指揮していたのは正儀の倅、楠木正勝であったな。知略は父譲りか……楠木はやはり侮れぬ相手よ。諸将が勝手に奥吉野を攻めぬよう、余が申し渡そう。すぐに管領を呼び寄せるのじゃ」
「ただちに」
義満は、その場を下がっていく照禅の背から池の鯉に視線を戻し、餌を手にする。
「楠木正勝か……」
楠木家の跡継ぎの名に、にやりと口元を緩め、池の中に残りの餌を投げ入れた。
天川郷に入った帝(後亀山天皇)は、月登山河合寺を行在所として難を凌いだ。
そして数か月後、南朝は畠山軍が撤退した賀名生に戻る。もちろん、そこには正儀の姿もあった。
賀名生で落ち着きを取り戻した正儀の元へ、千早城の舎弟、楠木正顕がたずねてくる。
「兄者(正儀)、美木多助氏殿が亡くなった。病だったそうじゃ」
「助氏殿が……そうか……」
一時代をともに駆けた武将が、また一人亡くなったと知り、正儀は茫然とする。
助氏は楠木の与力として、正儀にとって心の通じ合う心強い武将であった。しかし、袂を分かって敵となる。その後、復縁して正儀の元に戻ってくるが、最後は幕府側に残り、その後は正儀と言葉を交わすこともなかった。
「兄者、聞くところでは、助氏殿は、最後に兄者に従って朝廷(南朝)に帰参できなかった事を悔やんでおられたようじゃ。兄者と敵味方に分かれたままで死を迎えたくはなかったのであろう」
「助氏殿の本居は山名氏清の館のすぐ北。朝廷(南朝)に降れば、確実に滅ぼされる。自らの一族を守るためには致し方がない事じゃ」
「されど兄者は、いざというときには、山名を北から攻めるための大事な戦力とも考えておったのであろう。それも助氏殿が亡くなったことで潰えた。嫡男の助朝殿は曾祖父の美木多助家殿に似て現実的な男じゃ。情では動かぬであろう」
正儀は苦笑いを浮かべる。さすがに弟の正顕は、正儀のことをよく理解していた。
「ところで四郎、又次郎の具合はどうじゃ」
河野辺正友は、正儀の前で吐血してから、南河内の自身の館で養生していた。
すると正顕は難しい表情を正儀に見せる。
「それが、見るたびに痩せ細っておる。今日はそれもあって兄者を訪ねたのじゃ。一度、見舞ってやるがよい」
「そうか……わざわざ、すまなかった」
正友の様子に、正儀は元気なく応じた。
二人は特別な関係であった。まだ幼かった正儀が、東条を離れ津田範高の館に迎えられた時からの近習で、津田武信を加えた三人は固い絆で結ばれていた。武信が討死してからは、正儀は全てを正友に頼った。二人の仲は、弟の正顕でさえも嫉妬するほどあった。それだけに正顕は、正儀を気遣った。
後日、正儀は国境を越えて河内に入り、河野辺正友を見舞った。館に入った正儀は、正友の妻に案内されて奥間に入る。そこには、生気を失った正友が横になっていた。
「これは大殿(正儀)、お見苦しい姿を……」
起き上がろうとすれども、身体に力が入らないようであった。その様子から、もう幾ばくもない命と、正儀は悟る。
「いや、そのまま」
その言葉に、正友は申し訳なさそうに、そのまま横になった。
正儀は感情を抑えつつ、手にした笊を差し出す。
「珍しいものが手に入ってのう。これは雉の卵じゃ。精をつけねばな。粥にでもかけて食べるがよい」
そう言って、卵が入った笊を、後ろで控えていた妻に渡した。
「今朝、朝議が開かれた。わしは二条様(冬実)に、幕府との間で和睦の糸口さえ掴めぬことへの叱責を受けた」
枕元で正儀は残念そうに語った。これに正友は、寝たままに呆れ顔を返す。
「公家とは勝手な者たちにございますな。これまで大殿がたびたび作った和睦の機会を反古にしてきたのは、御自分たちだというに……されど、大殿は、それでも君臣和睦を貫くのでございましょうな」
「無論じゃ。常久殿(細川頼之)が幕政に戻れば、再び和睦の話が進むであろう。そのときまでの辛抱じゃ」
すると、正友が微かに首を左右に振る。
「大殿はあまりにも常久殿を信頼し過ぎです。常久殿とて、利なくば楠木を見限るでしょう。それがしは心配でござる」
「大丈夫。常久殿はきっと我らを助けられる。又次郎(正友)、君臣和睦の暁には、一緒に京に入ろうぞ」
もちろん、正儀も南北合一は簡単ではないことをよく解っている。まだ、ひと山ふた山越えなければならない。それでもそう答えたのは、正友の心の負担を除きたかったからである。
「大殿、それがしはそれまで持ちますまい。あの世で南北合一を見届けることに致します」
そう言って正友は笑みを浮かべた。
「いや、駄目じゃ。わしと一緒に京に入るのじゃ。これはわしの命じゃ」
正儀は涙をこらえて正友の手を握る。しかし正友は、ただただ微笑みを返すのみであった。
正友が亡くなったのは、それから一月後のことであった。
年が明け、元中五年(一三八八年)二月、将軍、足利義満は和泉守護の山名氏清を従えて高野山詣と紀伊見物に出かける。しかし、単なる遊覧ではない。
一つめは、表向き中立を保つ高野山に対し、幕府に反抗しないよう釘を刺すこと。
二つめは、紀伊の豪族に対して将軍権威を見せつけること。将軍が紀伊を遊覧するほどに紀伊は幕府の治める地となった事を、地の豪族らに知らしめ、南軍に馳せ参じるかもしれない潜在的な南軍戦力を削ごうということである。
そして三つめは、山名を探ること。山名は一門で全国の六分の一に当る十一カ国の守護で、六分一衆と呼ばれた。和泉の山名氏清だけで、他に丹波、但馬、山城の守護を兼ねる大名である。さらに紀伊で足利義満を迎える山名義理も、紀伊の他に美作の守護も兼ねていた。
義満は、乱世の梟雄として山名の家名を一代で上げた、山名時氏の性格を引き継ぐ四男の氏清を最も警戒していた。八幡太郎(源義家)を同じく祖先に持ち、袂を分かったとはいえ征夷大将軍を夢見た新田義貞の分家筋でもある。そこで義満は、自ら山名の懐に入り、氏清を探ろうとしていた。
義満の輿が和泉国の守護館に到着する。館の前では氏清が家臣を並ばせ、頭を低くして輿から降りる義満を待ち受けていた。
「陸奥守(氏清)、出迎え、ご苦労であった」
「紀伊への道中、この陸奥守が命に代えて南軍よりお守り致しますゆえ、御安堵召されますよう」
「うむ、頼もしき限りじゃ。高野山への案内も、よしなに頼むぞ」
「はっ。紀伊では、我が兄、修理大夫(義理)も合流して高野山へ御供致します。高野山も幕府の力を思い知り、南軍に味方しようなど、思う事さえなくなるでしょう」
氏清は、義満に要らぬ疑いをかけられまいと注意し、よい印象を与えることに終始していた。
翌日、義満は、氏清を従えて紀伊に出立した。
将軍、足利義満が紀伊に入ったことは、賀名生の朝廷も把握していた。さっそく関白の二条冬実が、正儀も含め公卿たちを廟堂に集める。
「義満は、今日にも紀伊に入るようじゃ。このまま、義満の好きにさせておいてよいものか。皆の意見を聞きたい」
強硬派が威勢を失った廟堂においては、この冬実が、最も幕府を警戒していた。
右大臣の吉田宗房が、公卿らの不安を代弁する。
「義満の動きは、紀伊の豪族たちへ自らの力を見せるためでありましょう。せっかく右馬頭(楠木正勝)を出陣させて、紀伊・大和で力の回復を進めておるというのに……このまま、紀伊で義満に思うようにされては、またも幕府に走る者が出てくるのではないか」
由々しきことと気色ばむ宗房に対し、中納言の六条時熙が応じる。
「右大臣様の仰せは最もな事なれど、義満に対して兵を挙げるとなると、幕府に朝廷(南朝)討伐の口実を与えてしまうことになりませぬか。そうなると、山名や畠山だけでなく、諸国から集められた幕府の大軍が押し寄せて参りましょう。御上(後亀山天皇)の身を危険にさらしてしまうことにもなりかねまする」
この後、公卿たちから、双方の発言に対して闊達に意見が交わされた。しかし、賛否両面から一通り意見が出尽くしたところで沈黙が生じる。列席した公卿たちも互いの意見はよくわかっており、皆、心の中で葛藤していた。
関白、二条冬実が溜息をつく。
「義満を討ち取る算段がつけば出陣を考えられるが、負ければ朝廷の立場はますます悪くなる。難しいのう」
「関白様、我らの今の兵力では山名兄弟には勝てませぬ。そうであろう、橘相殿(正儀)」
内大臣の阿野実為が正儀に目配せした。
「御意。この一年、豪族の帰参を促し、兵を増やして参りましたが、我らが集められる兵は、以前の朝廷(南朝)とは比べるまでもありませぬ。それに対して山名の兵は幕府屈指の強兵。万に一つも討ち取ることはできませぬ。それに……仮に義満を討ち取ることができても、我らにとって、起死回生の一手となることもないかと存じます」
「それはどういう意味じゃ」
実為が怪訝な表情を浮かべた。
「それがしが見るところ、すでに幕府は、将軍や管領の力量だけで成り立っているのではなく、幕府という器で成り立っているものと存じます。たとえ将軍や管領が討たれても、幕府という器がある限り、新たな将軍を立てて幕府の権威は続くものと存じます」
この正儀の言葉に、関白の冬実は苦々しい顔をする。
「では橘相は、義満を放っておくしかないというのか。それでは朝廷(南朝)の権威を保つことは難しい。右馬頭(楠木正勝)を出陣させてきた、そなたの苦労も無駄になろう」
「御意。そこで、義満を討たずとも、朝廷(南朝)の威厳を保つ事を考えればよいかと存じます。それがしに一つ、考えがございます」
廟堂の公卿たちざわつく。
「そのようなことができるのか」
右大臣、宗房の問いに、正儀はゆっくりと頷いた。
紀伊国に入った将軍、足利義満は、紀伊守護の山名義理に迎えられて高野山へ詣でる。和泉守護の山名氏清も一緒である。義理・氏清の兄弟を従えて真言座主、長深に会ったのは、高野山の僧兵や紀伊の豪族たちに向けての幕府の示威行為であった。
その後、一行は紀伊府中の守護館に入る。ここで義理は、義満のために宴席を開いた。
「御所様(義満)、これにて紀伊における幕府の権威は確実なものとなりました。それがしもこれで領国経営にいっそう励めまする」
義理は銚子を持ち、上座に腰を据えた義満の盃を酒で満たした。これを義満が一気に飲み干す。
「紀伊国は上国じゃ。気候も温暖で雨もよく降る実り多き国。この国に幕府の支配がおよぶことになったことは、まことに喜ばしいことである。修理大夫(義理)よ、この国を、南方の手からしっかりと守るがよかろう」
「ははっ」
義満の言葉に義理は大げさな身振りで答えた。
律令国の格式は、上から大国、上国、中国、下国であり、大和や河内は大国、紀伊は上国、和泉は下国であった。
酒が入って一同がよい気分になった頃、義満が氏清を呼び寄せ、酒を勧めた。
「御所様、南方の領国は、南大和と河内・紀伊の一部、それと、伊勢の南半国のみでございます。伊勢の北畠(顕泰)は新たな南主(後亀山天皇)とはそりが合わぬとも聞きまする。もはや南方は税源も立たれ風前の灯。我らも働き甲斐があったというものでござる」
義満の酒を呷った氏清は、気分よく話しかけた。
「かつての南方の和泉・紀伊国は、そなたたちの領国となった。南方あっての山名じゃ。そなたたちは南方に頭があがらぬな」
そう言って義満が大笑いすると、氏清は顔を強張らせて閉口した。そんな氏清の態度を、義満は冷静に観察しながら話を続ける。
「されど、六分一衆と呼ばれるほどに山名が大きくなったのも、そなたたち兄弟の働きがあってこそじゃ。さぞ、惣領の弾正も、さぞ喜んでおろう」
弾正とは亡き山名時氏の五男、山名時義のことで、義理・氏清の弟である。時氏が亡くなった後、惣領はいったん嫡男の山名師義が継いだが五年後に亡くなった。このため、同じく正室の生んだ五男の時義が他の兄弟を押えて惣領となっていた。このことに、腹違いの兄、氏清はおおいに不満を抱いていた。
弾正時義の名に、氏清は憮然とした表情を浮かべる。
「惣領などと申しても……我らが苦労して手にした領国が、あやつのものになるわけではございませぬ」
「そうか、陸奥守(氏清)は、弾正(時義)が嫌いか」
そう言って笑いながら、義満は銚子を持って氏清の盃に酒を注いだ。
「まあ、何と言えばよいか……」
氏清が返答に困っていると、会話を聞きつけた兄の義理が、慌てて二人の間に割り込む。
「御所様、酒が不味くなりますゆえ無粋な話はそれまでとされて。さ、一献、参りましょう」
義理は義満の盃に酒を注ぐとともに、氏清に厳しい視線を送って窘めた。
「そうじゃな、余としたことが迂闊であった。せっかく紀伊の美味に与かれるのじゃ。今宵は楽しく飲もうぞ」
そう言って義満は口元を緩めた。
義満は翌日以降も紀伊を遊覧し、二十日ばかり紀伊に滞在した。
三月十三日、将軍、足利義満の一行は、和泉守護、山名氏清の護衛で紀伊国の府中から、京に向けて出立しようとしていた。
紀伊守護の山名義理に見送られて、義満が御輿に乗ろうとしたまさにその時のことである。義理の近臣が駆け寄り、片ひざを付く。
「修理大夫様(義理)、申し上げます。南軍が雨山城を占拠したとのことにございます。その数およそ三百」
「何、南軍が……」
将軍の面前で面子を潰された義理は、苦虫を噛み潰したような顔を近臣に向けた。
南朝方の公家武将、広橋修理亮が、橋本正賢、淡輪光重らを率いて雨山土丸城を奪還したのである。雨山は、紀伊国から和泉国に繋がる粉河街道の要所にあり、神通峠を抜けて和泉国に入ろうとしていた義満一行を狙ったものであることは明らかであった。
氏清は鼻で笑う。
「御所様(義満)、兄者(義理)、なあに、相手はたかが三百。蹴散らして御覧に入れましょう」
「いや、万が一のことがあってはならん……御所様、粉河街道は止めて、鍋谷峠を通ってはいかがでしょうか」
念には念を入れて、義理が義満に進言した。
「うむ、そうするとしよう。されど、南軍を恐れて将軍が迂回したなどと思われては恥じゃ。修理大夫(義理)はすぐに兵を出して、雨山を取り戻すのじゃ。よいな」
「ははっ」
折角の紀伊見物の最後を汚された義満の声は、誰が聞いても不機嫌そうであった。
三月十六日、楠木正勝・正元の兄弟は、河内国平尾に楠木軍を招集する。義弟の正秀は元より、千早城の楠木正通・正房の兄弟、和田正頼・正平親子が、騎馬隊を率いて続々と集まった。正勝は正儀の命を受け、河内平尾に集められるだけの南軍の騎馬を集めた。
正秀は焦りを隠しきれない表情で、正勝に対する。
「小太郎兄上(正勝)、騎馬隊ばかり三百は集まりました。されど、足利義満は三千の兵を従えております。しかも、ここは平地でございます。いったい、どのように戦うのですか」
「九郎(正秀)よ、刃を交えるばかりが戦ではないぞ。戦わずして勝つのじゃ」
「戦わずしてどうやって将軍(義満)の首を取るのですか」
「首は取らぬ。こたびは朝廷(南朝)の威厳を保つのが目的じゃ」
そう言うと正勝は、納得がいかぬ正秀を残して兵たちの元に戻った。
将軍、足利義満の軍勢は鍋谷峠を越えて和泉に入り、北進する。南軍は楠木正勝の命令の元、河内平尾の森の中に隠れていた。正秀も息をひそめて義満の一行を待ち受ける。
「来たぞ、義満の一行じゃ」
正元の声で正秀はあたりを見渡す。だが、軍勢の姿はどこにもない。
「小次郎兄上(正元)、将軍はいったい、どこに」
正秀の問に、正元が遥か西を指差す。
「あそこじゃ。微かに土ぼこりが舞い、鳥たちが飛び立つのがわかろう」
それは南軍から一里も西を北上していた。
「あんなに西を……」
てっきり、一行の通り道で待ち伏せしているものと思っていた正秀は驚いて、目を白黒させた。
「足利義満は紀見峠ではなく鍋谷峠を越えて来ているのじゃからな。我らより西にあるのは当たり前じゃ」
「されど、あのように遠くでは、戦はできませぬ。しかも、今から駆けても、敵に逃げられてしまいませぬか」
あせる正秀に、正元はただ笑みを浮かべるだけであった。
義満が北上したのを見定めて、正勝が馬に乗る。
「皆の者、出陣じゃ。幕府軍を追撃する」
続いて、楠木正通や和田正頼らもそれぞれの兵に下知した。南軍の騎馬隊三百は、土煙を上げて、義満の一行に迫っていった。
驚いたのは将軍、足利義満に従い行軍する山名軍である。後方から報告に駆けあがった兵に山名氏清が問いただす。
「何事じゃ」
「一里ほど後方に、南軍と思しき騎馬隊が駆け上がって参ります」
「何じゃと……敵の数は」
「土煙でよくわかりませぬが、たいした数ではありませぬ。反転して討ち取りますか」
「ううむ……」
氏清は思案する。
「……いや、御所様(義満)が御一緒じゃ。万が一のことがあっては山名は潰される。幸い敵はかなりの後方じゃ。急ぎこの場を通り過ぎよう」
氏清は義満の御輿に近づき、事の次第を報告した。すると、義満は輿の中から御簾を手で払い上げる。
「何、南軍が……」
「恐れながら、御所様におかれては、馬に御乗換えいただき、急ぎこの場を通り過ぎられますようお願い致します」
氏清の奏上に義満は頷き、すぐに馬に乗り換える。そして、氏清の先導の元、急いで軍を進めた。
追撃する楠木正勝は、将軍一行が行軍を速めて楠木軍を振り切ろうとするのを見定める。そして、河内の国府あたりまで進軍すると、兵たちに向けて声を張る。
「止まるのじゃ。もうよい。深追いは止めよ」
正勝の命を楠木正元や和田正頼が次々と伝えた。
「よし、将軍、足利義満は我らの勢いに恐れをなして、逃げていったぞ。それ、小次郎(楠木正元)、勝鬨を上げよ」
「承知、我らは将軍を追い払ったぞ。えいおう。えいおう」
「えいおう、えいおう」
正元の勝鬨に兵たちも続いた。
楠木正秀は、一矢も射ることなく戦が終わったことに呆然とする。
「さ、若様も」
「あ、ああ……えいおう、えいおう」
正秀も傳役の和田良宗に促され、訳もわからぬままに勝鬨の声を上げた。
国府のあたりは人通りも多い。人々は突然現れた将軍の行軍と、跡を追い駆けてきた楠木軍に驚き、物陰に隠れて様子を窺う。そして、楠木軍が勝鬨を上げて引き上げていくのを見届けた。一段落すると、隠れていた者たちが通りに出てくる。
「あれは、菊水と非理法権天の旗印。楠木軍じゃ」
「初めに通り過ぎたのは、二つ引きの旗印であったぞ。まさに足利将軍家の軍勢か」
「ということは、南軍が将軍の軍勢を敗走させたということか」
人々が言葉を交わした。
楠木正勝は、わざわざ人通りの多いところを選んで勝鬨を上げていた。楠木軍の活躍が商人や旅人を通して河内、和泉、大和、紀伊に伝わっていくことを狙ったものである。南朝の支配地域に、南軍が将軍の一行を追い払ったという噂を流し、南朝の面子を保つ事さえできればよかった。
雨山で南軍が兵を上げれば、必ずや将軍一行は鍋谷峠を通る。そう算段の元、河内平尾に兵を置いて待ち伏せし、将軍一行を敗走させたように見せかけたのであった。一方、雨山の南軍は、山名義理が討伐の兵を上げると、役目は終わったとばかりに、早々に城を放棄して引き上げる。
全ては正儀が正勝に授けた策である。ここまでは正儀の計算通りであった。
だが、この直後、予期できぬことが起きる。南朝方の桜井光幸が、楠木軍に続けとばかりに、河内国八尾で将軍、足利義満の一行を襲った。勝ち戦に乗じようと思ったのである。
しかし、護衛である山名氏清の兵は無傷のうえ、出迎えに出てきた畠山基国の軍勢も加わる。桜井党はいとも簡単に幕府勢に取り囲まれ、光幸は敢なく討死する。
せっかくの謀も、最後に光幸が討たれたことでけちが付く。結局、将軍を追い払ったという噂は、すぐに打ち消されることとなる。
正儀の良策も功を奏さず、意気消沈する楠木の人々を、更なる不幸が襲う。楠木正勝の妻、文子が病に臥せ、一月の闘病の後、正勝とこどもらに看取られて息を引き取ったのだ。
「母上、母上」
九歳の金剛丸と十三歳の照子は、母、文子の亡骸に縋り付いて泣いた。正儀は、次々と見舞われる不運に言葉も出なかった。
楠木の菩提寺である檜尾山観心寺に、正儀や楠木正顕らをはじめとする親族が集まった。そして、観心寺の金堂で厳かに文子の葬儀が執り行われる。読経の中で正勝は項垂れ、金剛丸と照子は涙に暮れた。
葬儀には、懐成親王の妃となった正儀の娘、式子の姿もあった。
葬儀の後の観心寺中院。こどもらが居ないことを確認して、式子が項垂れる楠木正勝の前に座る。周囲には正儀の他、正顕や正元、津田正信の姿もあった。
「兄上(正勝)、少しよろしいですか」
「ああ、式子か。わざわざ賀名生から来てもらい、すまなかった」
正勝は無理をして、妹に笑顔を見せた。
「兄上、あまりに早く文子殿が亡くなり、こどもらのことが心配です。どうでしょう、照子だけでも私に預からせてもらえませぬか。賀名生の刑部卿様も御心配されておられます」
刑部卿とは、文子の父、紀俊文のことである。
「照子を……」
「私が母代わりとなりましょう。そして一年の後に官女として行宮に出仕させれば、姫としての礼儀作法も身につけることができます。私も、我らが母(徳子)も、そうして参りました。器量よしの照子であれば、一廉の姫になることでしょう」
河内の南部においても攻勢を強める畠山に対して、若い娘を河内に留めるのは、正勝にとっても気掛かりなことであった。
ふうむと言って腕を組んだ正勝が、正儀に顔を向ける。
「父上(正儀)はどのように思われますか」
「そうじゃな、照子にとってはその方がよいかのう。伊賀(徳子)も生きておれば、きっとそうしたであろう」
「母上も……」
「うむ、かつて女官であった伊賀は、宮中に強い想い入れがあった。昔、幼い式子に、いつかは出仕できるようにと、宮中での礼儀作法を教えておったぐらいじゃ」
「左様にございましたなあ」
式子も、記憶を手繰る様に、目を閉じた。
父の言葉に、正勝も照子を賀名生に送る決心を固める。
「では式子、照子のことをよろしく頼む」
正勝の言葉に、正儀も胸を撫で下ろし、徳子の喜ぶ顔を思い浮かべた。
ふと中院の外に目を配ると、開け放たれた障子の向こうから、新緑の頃を過ぎた濃い緑が目に飛び込む。初めて正儀が徳子と出会ったのも、ちょうどこの頃であった。