第42話 即位
弘和三年(一三八三年)六月二十六日、その日、京の町は朝早くから蝉の声に包まれていた。
里内裏には、将軍、足利義満の姿があった。武士として平清盛以来、二百年ぶりに准后の宣下を受けるためである。
准后は正式には准三后といい、三后(皇后・皇太后・太皇太后)でない皇女や帝の生母に与えられる称号である。かつて、阿野廉子も宣下を受けていた。また皇族ゆかりの女性ばかりではなく、摂関家や朝廷の有力者も宣下を受けることがあった。南朝では北畠親房・顕能の親子、北朝では先の関白、二条良基である。
京の内裏には、玉座の上に前年、即位したばかりのわずか七歳の帝、後小松天皇の姿があった。北朝の先帝、後円融天皇は、朝廷の政に口を出す義満に対抗するべく、幼い我が子に譲位し、上皇として院政を敷いたからである。
義満は蔵人が読み上げる准三后の宣下に対して、仰々しく頭を下げて、これを拝受した。
後日、足利義満は、花の御所で公卿や大名を招いて、盛大な祝賀の宴を開いた。
「御所様(義満)、此度は、まことにおめでとうございます」
次から次へ、守護大名が義満に祝辞を述べた。
「これは越前守殿、御苦労にございます。今後もますますお勤めに励まれるように」
義満の傍らでは、大方禅尼(渋川幸子)が、自らへの祝辞であるかのごとく振る舞っていた。
義母の態度に、少々、憮然とする義満の前に、新たに河内守護と成った畠山基国が祝辞を述べに現れる。
「御所様、此度は、まことにおめでたく、御意向はあまねく日の本に広がることでございましょう」
恭しく頭を下げる基国に、禅尼が声を描けようとした時、義満自らが口を開く。
「楠木が金剛山から東条に戻ったと聞いた。南方を平伏せるのは、そちの役目ぞ」
「ははっ。承知しております」
「武功のあった山名を押しのけて、畠山に大国河内を与えたのじゃ。必ずや、河内国に幕府の威光を知らしめるのじゃ」
「御意」
基国は赤面し、頭を下げたまま後ろに下がっていった。
不機嫌そうに義満が、政所執事の伊勢照禅(貞継)を手で招く。
「照禅よ、陸奥守(山名氏清)は来ておらぬのか」
「はい、南軍への備えをおろそかにできぬとの理由にございまする」
「河内の守護に成れなんだことに憤慨しておるのか」
「そのようにお見受けします」
「山名は全国に数多の所領を得ておきながら、欲望に際限がない。山名の力は借りたいが、力を与えすぎないよう注意が必要じゃ」
義満は山名一族に対して、強い警戒心を持ちはじめていた。
七月、正儀は大納言の阿野実為によって賀名生に召し出される。
このとき、事実上の執柄として南朝の実権を握った熙成親王は、右大臣の吉田宗房ら公卿たちによって、吉野山から賀名生の御所に迎え入れられていた。
大和国では、興福寺衆徒の筒井順覚ら幕府方の勢力が伸長し、吉野に近い越智家高らとの争いが、激化の一途にあったことも理由である。
実為が、参議の六条時熙とともに、御所の広間で待ち受ける。
「河内守、よう参った」
南朝帰参に際して正儀は、元の左兵衛督と河内守、河内・和泉両国の守護に復していた。
「此度のお召し、何事でございましょうや」
「うむ、病の床にあった北畠准后(顕能)が亡くなったのじゃ。そちの耳にも入れておこうと思うてな」
正儀は息を飲む。
「いつのことにございますか」
「三日前のことじゃ」
亡き内大臣の四条隆俊とともに、最も正儀を苦しめた政敵が亡くなった。正儀は安堵とともに、自らの理想を実現できなかった顕能を憐れんだ。
「これで、御上(長慶天皇)は心の支えを失われた……」
顕能に思いを巡らす正儀を、時熙の言葉が現実に連れ戻した。
「……右大臣様(宗房)は、時機をみて栄山寺の御上(長慶天皇)に譲位を促される」
「正儀殿、長い年月でありましたな」
実為が互いの苦労を思い返して正儀に声をかけた。先帝(後村上天皇)が崩御から、すでに十五年の歳月が経っていた。
君臣和睦、南北合一に向けて、やっと南朝側の懸案が解決に向かおうとしていた。しかし、そんな南朝とは裏腹に、今度は幕府が、細川頼之路線を否定する管領、斯波義将によって南朝討伐に変わっていた。正儀にとっては、まことに皮肉な状況であった。
「話はそのくらいにして、さ、参りましょう。東宮様(熙成親王)がお待ちかねでございます」
時熙に促された正儀は、奥へと進み、熙成親王に見参する。春宮権大夫の花山院師兼とともに、右大臣の吉田宗房が、親王の傍らで正儀を待っていた。
上座に向かって、正儀が畏まる。
「東宮様(熙成親王)、ご機嫌麗しゅうございます」
「阿野大納言からすでに聞いたであろう。北畠准后が亡くなった。これからは、我が幕府との和睦の道を考えていこうと思う」
「君臣和睦は、長きに渡るそれがしの夢でございました」
正儀が応じると、熙成親王はゆっくりと頷く。
「されば、幕府との和睦に向け、何か手立てはあるか」
親王の問いかけに、正儀は難しい顔を返す。
「我らにとっては由々しき事態にございます。管領の斯波義将は、朝廷(南朝)を滅ぼさんとしております。我らは和泉や紀伊の兵馬を失いました。伊勢で武力を誇る北畠大納言(北畠顕泰)は、御上(長慶天皇)が御退位されるとなると、我らとは距離を置くでしょう。南軍の武力は、今や幕府からみれば、なきに等しい状況かと存じます」
伊勢国守、北畠顕泰は父の顕能が病に倒れた隙に、阿野実為ら和睦派が実権を握り、正儀を南朝に復帰させたことに反発していた。
正儀の見立てに熙成親王はううむと唸り黙り込んだ。
これを見て、正儀が微かな希望を口にする。
「されど、見込みがないわけではございませぬ。斯波義将が退き、細川頼之が管領に戻ることにございます」
意外な話に、一同がざわついた。花山院師兼が不思議そうに正儀を見る。
「河内守、細川頼之は幕府諸将の反感を買い、追われるように四国へ逃げた。足利義満からも追討が下知されているという。そのような者が、いかにして管領に復すことができるのじゃ」
「細川頼之の舎弟、頼元は、罪を許され、すでに上洛を果たしております。その頼元は、近頃、摂津守護に返り咲きました。これは、将軍(義満)が斯波義将の反発を押えてまで、細川頼之を活かそうとしている布石に相違ありませぬ」
しかし、師兼は疑念を払拭できない。
「頼之を孤立させるために、舎弟を取り込んだということではないのか。古今東西、よくある話と思うが」
「いえ、将軍が赦免して細川頼元が上洛した後、斯波義将はこれに激怒して管領を辞任しようとしたと聞きます。やはり、将軍も管領も、頼元の背後に細川頼之を見ております」
熙成親王は、やや前のめりになって、興味深く耳を傾ける。
「なるほど、そのようなことがあったのか」
「はっ。もともと将軍にとって細川頼之は、父ともいえる存在です。これまで斯波義将ら諸将による頼之排除の動きを将軍が抑えることができずに、追討を追認しておりました。されど、将軍の威厳が高まるにつれて、徐々に自身の考えを押し出しております。いずれ細川頼之を赦免するときが参りましょう」
正儀は、賀名生の公卿たちにはわからぬ、幕府内側からの視点で説明した。
康暦の政変で頼之が四国に逃れた際、幕府は南朝側であった伊予の河野通直、阿波の細川正氏を懐柔して幕府に帰参させ、頼之・頼元の兄弟を討伐させた。特に正氏は、頼之に討たれた従兄の細川清氏の息子でもあり、頼之を深く憎んでいた。
しかし、知略と人徳を兼ね揃える頼之に対して、一族郎党は誰も頼之を裏切らなかった。さらに阿波、讃岐、土佐の武士たちも頼之を慕って幕府に対峙してしまった。これは、頼之の四国経営が在地の武士たちに受け入れられていた証である。
頼之は、逆に伊予の河野通直に奇襲をかけてこれを討ち取り、阿波の細川正氏の動きも封じてしまった。
さらに山名惣領で、幕府から頼之追討を命じられた備後守護の山名時義も二の足を踏んだ。圧倒的に頼之が有利なこの状況に、わざわざ瀬戸内を渡って兵を四国に送るのは、貧乏くじを引くようなものだからである。
将軍、義満はこれをよい機会と頼之との和睦を模索した。しかし、管領の義将はこれに反発して管領を辞そうとした。このため、義満は、赦免は舎弟の頼元だけのこととして、頼之に対しては厳しい態度をとり続けるしかなかった。
しかし、ここにきて、頼之に対する幕府の態度に変化がみられるというのが、正儀の見立てである。
右大臣の宗房が、興味深そうに正儀の顔を窺う。
「して、具体的にはどのように進めるのか」
「はっ。まずは、摂津守護に復した細川頼元との繋がりを保ちたく存じます。それがしの元で摂津住吉郡の守護代を務めておりました渡辺左衛門尉(択)を、そのまま頼元の下に留め置きます。まずは細川頼元を助け、頼之の管領復帰と、幕府の我らに対する和睦の機運を育てたいと存じます」
一同は正儀の考えに、互いに顔を見合わせて頷いた。
「よかろう。その方が思うようにやってみよ」
熙成親王は幕府対策を正儀に任せた。
摂津守護に復帰した細川頼元の京屋敷に、かつて正儀の配下であった摂津国住吉郡の守護代、渡辺択がたずねていた。
「左衛門尉殿(渡辺択)、此度はよく幕府に残られる決心をされた」
「はい、それがしも大和の越智(家高)殿、和泉の淡輪(光重)殿と同じく楠木殿に従い南方に復しようと思いました。ですが、右京大夫様(細川頼元)が摂津守護に復されると知り、残る決心をした次第です」
口上に頼元は喜ぶ。
「それは何よりでござる。では、楠木殿の時と同じく、摂津住吉郡の守護代をお任せしたい」
「こっ、これはありがたき幸せにございます」
渡辺択は年老いた顔をくしゃくしゃにして喜んだ。それを見て、思わず頼元は笑みを浮かべる。
「楠木殿も貴殿が離れることになり、淋しいことであろう」
頼元は正儀を憐れんだ。
「実は、それがしに幕府に残るよう勧めたのは、楠木殿なのです」
「何と、楠木殿が……なぜ、そのようなことを」
「楠木殿は、右京大夫様に期待しておるのです」
択の話に頼元は、正儀の自らへの期待の大きさに考え込む。
「ううむ、楠木殿は君臣和睦、南北合一を諦めておらんのですな。されど、残念ながら今は時期ではござらん。我ら細川でさえ討伐を受け、滅亡を覚悟した身。それがしも将軍(足利義満)にやっと許しを得て、摂津守護に返り咲いた直後じゃ。管領殿(斯波義将)は、将軍(足利義満)の命を無下にはできなかった。じゃが、それがしの復帰にはえらく不満で、隙あれば滅ぼそうとしておる。まして兄(細川頼之)の復帰は当分難しかろう」
申し訳なさそうな頼元に、渡辺択は首を横に振る。
「いえ、楠木殿もそのあたりはよく存じておられます。じっくりと時期を見計らいたいと申されておられました」
得心した頼元が頷く。
「いずれ楠木殿ともお会いして、南北合一に向けて話をしとうござる。貴殿が居ってくれれば、正儀殿とて安心されましょう」
「それがしも、このまま楠木殿と袂を分かつのは心苦しく思っておりました。ぜひ南北合一のこと、よしなに」
「わかりました。ただそれまで、正儀殿が持ちこたえてくれるとよいのだが……」
一旦目を伏せてから、頼元は難しい顔を上げる。
「……まずは、兄に会うてもらおう。今度、夢窓疎石様の三十三回忌法要に上洛することになっておる」
択は目を見開いて驚く。
「上洛でございますか。まだ赦免も受けておらぬのに、京に戻られて大丈夫でございましょうや」
「うむ、それがしも諭したのじゃが、何やら兄にも考えがあるようじゃ。そこで、貴殿に、兄と楠木殿が会えるよう手配を頼みたい。もちろん内密にじゃ」
「承知しました。密かに会える場所を考えてみましょう」
択はそう言って、任せてくれと胸を叩いた。
九月三十日、細川頼元が言った通り細川頼之が上洛し、嵯峨野の景徳寺で行われた夢窓疎石の三十三回忌法要に参列した。頼之が京の地に足を踏み入れるのは、康暦の政変以来四年ぶりであった。
法要に参列した法衣姿の頼之は、遠くに将軍、足利義満の姿を見つけると、少し笑みを浮かべてから、仰々しく頭を下げた。大方禅尼や幕府管領の斯波義将をはじめ、反頼之派の諸将の手前、できる事はこれが精一杯であった。
一方、細川頼之上洛の話を渡辺択から聞き付けた正儀は、篠崎二郎正久と河野辺真次郎正国を連れだって、頼之と会うために北河内、仁和寺荘にある観音寺へ入った。観音寺はかつて正儀が、授翁宗弼に頼んで建立した寺で、渡辺択が会談の場として手配していた。
しばらくして、頼之は数名の供廻りを連れてやってくる。正儀はすでに金堂の中で、如意輪観音に向かい合っていた。
「正儀殿、久し振りです」
声の方に振り返ると、法衣姿で剃髪しているものの、変わらぬ顔がそこにあった。二人は観音立像を前にして、上下の立場なく向き合った。
「常久殿もお達者で。それにしても、まだ赦免が出ておらぬというのに上洛とは、危ない事をなさる」
常久とは頼之の出家後の法名である。
「幕府の間合いを量っておるのです」
「なるほど。将軍が、細川殿に反発する諸将の代表たる管領を、どこまで押さえられるかということを見極めようということですか」
問いかけに頼之は満足そうに微笑む。
「さすがは正儀殿。よくわかっておいでです。今日のところは運よく生き長らえました。今後も間合いを量りたく存じます」
にやりと笑う頼之に、正儀も頷いた。
「早く復帰される事を祈っております。南方のためにも」
頭を下げる正儀を見つめ、頼之は真顔に戻る。
「正儀殿、なぜ、もう少し我慢して、幕府に留まろうとなされなかったか。正儀殿ほどの御方であれば、今は時期ではないことくらい、わかっていたはずであろう」
問われた正儀が、頼元の目を見返す。
「いや、今が時期なのです。南方の楠木が赤坂・千早を追われることとなれば、南の朝廷は滅亡を免れませぬ。今は南方を滅ぼそうとする管領、斯波義将から、何としても南の朝廷をお守りせねばならぬのです」
「されど、楠木家にとっては……」
掌を掲げて、正儀は頼之の言葉を制する。
「元より承知しております。楠木の家名を上げるのが目的であれば、ここは我慢して幕府に残ったことでしょう。ですが、楠木は後醍醐の帝の毘沙門天として、その血脈をお守りするのが使命なのです」
正儀の動じない姿勢に、頼之は黙り込むしかなかった。
「常久殿の管領復帰に向け、我らで役に立つことがあれば、何なりと申してくだされ」
正儀は珍しく力んでいた。その焦りに戸惑いながら、頼之は南朝の危機的な状況を汲み取る。
「貴殿の思いは判りました。そのときがくればお願い致そう。されど、今は時期ではござらぬ。その時期がくるまで正儀殿は、いや、南方は何としてでも持ちこたえなければなりませぬぞ」
「承知しておりまする。されど、和泉は山名氏清に完全に制圧されました。紀伊は山名義理が、河内は畠山基国が、それぞれ勢力を延ばしております。特に紀伊の義理が南侵すれば、朝廷には米さえ入って来なくなります。まずは山名を叩いて勢力を少しでも盛り返し、朝廷(南朝)が生き永らえるようにせねばなりませぬ」
「うむ、山名は排除しなければなりませぬ。南の朝廷のためだけでなく、幕府にとっても害なのです。今や山名一族の領国は十一か国にもおよびます。全国の六分の一を占め、六分一衆とも呼ばれておる。さらに問題なのは山名が新田の支族ということ。つまり、将軍家や我ら足利一門と同じく、八幡太郎(源義家)の血筋ということじゃ」
頼之が言わんとすることは正儀にもわかっていた。
武士たちの間では、平安後期の清和源氏の英雄、源義家の血統であることが、武家としては征夷大将軍の条件とみられていた。義家の直系である源頼朝の血統が途絶えた後、次に嫡流に近い足利尊氏と新田義貞が後醍醐天皇の元で戦った。これは結果的に、清和源氏の嫡流家を競う争いでもあった。
山名はその新田の支族であったが、早くから新田本家を見限って足利に加担した。そして、紆余曲折を経て今に至っている。新田本家が没落した今、新田の血統から次に将軍に成るのは山名であるとの強烈な自負を持って、将軍の座を虎視眈々と狙っていた。
「特に、和泉守護の山名氏清は、父、時氏に似て、兄弟の中で最も野心を抱いておる。早いうちに取り除くに限る。幕府に復帰し、山名を除くことがそれがしの使命でござる」
頼之は、幕府から追討を受けてもなお、足利義満のことを心配し、足利幕府の安寧を願っていた。やはり正儀とは似た者同士である。だからこそ、従兄の細川清氏のように南朝に帰参することもなく、四国の幕府方の武将を味方に付けることができた。
「承知しております。目的は違えど、山名は我らの共通の敵ということですな」
「その通りです。山名が手強いことは、そなたもよく御存知のはず。山名義理が紀伊を完全に掌握する前に、早く軍勢を立て直し、紀伊へ討伐軍をお送りなされ」
「ううむ……」
頼之の言葉に、正儀は正久・正国に難しそうな表情を見せてから、ゆっくりと頷いた。
十月、右大臣の吉田宗房と大納言の阿野実為は、賀名生を出て学晶山栄山寺の行宮に参内していた。皇位を東宮、熙成親王に譲ることに同意した帝(長慶天皇)から、三種の神器を受け取るためであった。
帝の前で、実為は、宗房とともに申し訳なさそうに畏まる。
「東宮様(熙成親王)の元、我ら一同で朝議を行いましてございます。御上(長慶天皇)におかれましては、これまでの前例に習い、恐れながら太上天皇(長慶上皇)の称号を贈らせていただきます。なお、東宮様(熙成親王)は即位の後、引き続き賀名生の仮宮を行宮とされて政を行われます。よって、ここ栄山寺の御所は、上皇院としてお使いいただきとう存じます」
玉座の前の御簾は下ろされたままで、帝の表情は窺い知ることはできなかった。
帝は自ら声を発することはせず、伝奏役の葉室光資を手で招いた。
光資が帝の意を伝える。
「御上におかれましては、気遣いは無用とのことにございます。この行宮を出られ、十津川に住まわれることになされました」
光資の話を聞いて、宗房と実為は顔を見合わせた。
十津川は、賀名生のさらに南に位置する山深い村である。河内と賀名生の間の要所、栄山寺の行宮を退去されることはありがたいことではあった。しかし一方で、十津川と聞いて、両人とも自分たちの目に届かないところに隠れようとする、帝の心緒をおもんぱかった。
数日後、上皇(長慶上皇)の行列は、十津川に向かうために学晶山栄山寺の行宮を出立した。上皇が乗る輿とその担ぎ手、その回りに、大納言を辞した葉室光資ら側近が数名という、行列ともいえぬほどに寂しいものであった。
上皇の一行は、しばらくすると賀名生に差し掛かる。
「御上、賀名生にございます」
輿の隣を歩く光資から声をかけられると、上皇は輿に掛かった御簾を少し上げて外の景色を見渡した。
「信濃宮(宗良親王)とともに開いた歌合が懐かしい。朕は再びこの景色を見ることができるであろうか」
上皇が漏らした言葉に、光資ら、従う側近らは悲しそうな表情で俯いた。
一行が賀名生を通り過ぎようとした時である。上皇の目に、少し離れたところで両ひざ付いて頭を下げ、一行を見送る武士の一団が映った。菊水と非理法権天の旗を掲げた正儀と嫡男、正勝が率いる楠木党であった。
上皇は光資に、正儀を呼び寄せるように命じた。
声をかけられた正儀は、正勝を連れて上皇の御輿に近づいてひざまづく。
「楠木三郎正儀にございます。御見送りに参上つかまつりました」
敢えて、官職名は名乗らなかった。上皇の心中を察してのことである。
父に続いて、正勝も見送りの言葉を口にして神妙に控えた。
しかし、上皇の御輿は、御簾が垂れたままである。
「歳をとったな」
御輿の中から上皇の声だけが聞こえた。正儀はすでに齢五十五歳となっていた。
「朕はそちを許したわけではない。朕とそちとは考えが違うのじゃ。死ぬるまで交わることはないであろう……」
沈黙するしかない正儀に、さらに上皇は続ける。
「……そちは言うであろう。いまのありさまから朕の考えは間違っておると。さりながら、幕府に屈して得た帝の地位など何になる。ならば朕は死を選ぶ……」
御輿の声が一瞬、途切れる。
「……じゃが、皇統は残さなければならぬ。熙成の血を絶やさぬようにしてやってくれ。そのためには、悔しいがそちに頼らなければならぬ。後醍醐の皇統を守ってやってくれ。頼む」
上皇は努めて冷静を保たれていた。
頭を垂れたまま、正儀が声を上げる。
「承知つかまつりました。それがしの命に代えましても……上皇様もお達者で……」
「もうよいぞ。参ろう」
上皇は光資に出立を命じた。一度も顔を現すこともなく、再び行列は進み出す。
正儀と別れた上皇は、十津川郷の湯之原に入った。御輿を降りて、これから暮らす粗末な古い屋敷の前に立ち尽くす。
『しづかなる心は尚ぞなかりける 世を思う身の山の住居に』
昔の歌を思い出し、上皇は思わず口ずさんだ。まさに今の心情である。上皇はこの山の住処で、光明と号して歌を詠んで暮らすのであった。
この年もあとわずかとなった十二月。熙成親王は、賀名生で三種の神器を受け継ぎ、新帝(後亀山天皇)として践祚した。しかし、大勢を集めて、新帝の座についたことを天下に知らしめる、即位の礼は見送った。もはや南朝の財政は破綻しており、先例に習った礼式を執り行うことは不可能であった。
践祚の儀式は賀名生の廟堂でひっそりと行われた。参列したのは、二条摂関家から二条冬実、右大臣の吉田宗房、大納言の阿野実為、参議の六条時熙、春宮権大夫の花山院師兼ら公卿たち。そして、末席には正儀の姿もあった。
践祚した新帝は、さっそく新たな除目を披露する。
関白左大臣は二条教頼に代わって甥の二条冬実が任ぜられた。父の二条教基は、長慶天皇の内意で関白職を弟の教頼に譲った。しかし、熙成親王が践祚したことで、今度は教頼が退き、教基の子である冬実がその座についたという次第である。
これまで新帝を支えてきた阿野実為は内大臣となり、六条時熙は中納言となった。さらに、花山院師兼は権大納言に出世した。
最後に蔵人より、正儀にも除目が告げられる。左兵衛督と、河内守および河内・和泉両国の守護に加えて、新帝は正儀を参議に任じた。落ちぶれた南朝からとはいえ、ついに正儀は、朝議にも出席することのできる公卿の身分となった。
「それがし如きに、参議とは、もったいなきことにございまする」
平伏したまま、正儀は謝意を伝えた。すると、新帝が御簾を上げさせる。
「河内守(正儀)よ、そちには長きに渡り苦労をかけた。さりとて、参議を任じたのはこれに対する褒美ではない。幕府との和睦の道を探り、京の朝廷との合一を目指すには、そちの力が必要なのじゃ。頼んだぞ」
「はっ。必ずや、君臣和睦、南北合一を成し遂げたいと存じます」
新帝を前に、正儀は決意を新たにした。
年が明け、弘和四年(一三八四年)正月。赤坂の楠木館では、正儀の参議就任を祝って、ささやかな宴が催された。
正儀は、実子の正勝と正元、猶子の篠崎正久と津田正信、それに養子に迎えた多聞丸に囲まれた。
他には舎弟の楠木正顕とその息子の正房・正通。従弟である楠木正近の跡を継いだ嫡男の正建。さらには和田正武亡き後、和泉守に任じられた和田孫次郎正頼と息子の新兵衛正平が一堂に会した。いずれも、今や息子・孫たちの世代が主役である。若い世代の者たちを見て、正儀は自分も歳をとったものだと改めて思った。
家臣では、先の除目で兵庫頭に任じられた河野辺又次郎正友を筆頭に、その息子の河野辺真次郎正国、菱江弥太郎忠元の息子である菱江庄次郎忠儀、聞世(服部成次)の息子、服部十三成儀、さらに恩地左近満信や和田判官良宗らが顔を揃え、楠木党に久しぶりの明るさが戻った。
しかし、この場に居ない者も多い。出家して僧の空信となった従弟の美木多正忠に、同じく僧の正寛となった猶子の熊王丸。正久の姉、菊子は尼となっていた。
従弟の楠木正近と聞世(服部成次)、忠臣の菱江忠元や津熊義行、神宮寺正廣らは戦で命を落とし、和田正武は病でこの世を去った。さらに正儀が最も悔やむのは、兄、正行の嫡男、楠木正綱こと橋本正督の討死であった。
にこやかに酒を飲むそれぞれの息子たちに、正儀は一人ひとりの顔を映しながら冥福を祈った。
「河内守殿(正儀)、参議への御就任、まことにめでたいことじゃ。正儀殿が公卿とは、恐れ多くて、これからは話もできんのう」
そう言って一同の笑いを誘ったのは、和泉の淡輪光重であった。光重は正儀に従って南朝に帰参していた。
「左近将監殿(光重)、わしは何も変わらん。これからもよしなに頼みます。それより、そなたまで、わしに付き合わせてしまい、申し訳のう思うておる」
「河内守殿、やめてくだされ。それではまるで南に帰参したことは失敗だったように聞こえるではないか」
頭を下げる正儀に、光重は笑いながら答えた。
すると、もう一人、南朝に帰参した大和の越智家高が、正儀の前に銚子を持って座る。
「そうじゃ、河内守殿、そう頭を下げられたのでは、我らの面目が立たぬ。我らは河内守殿が南北合一をしてくれると思い、貴殿にかけたのじゃ」
そう言って、家高が正儀に酒を注いだ。
正儀に従って南朝に帰参した者がいる反面、幕府に留まった者もいる。正儀が幕府との仲介を期待する摂津の渡辺択や、和泉の美木多助氏・助朝の親子らである。
説得して幕府に帰参させた助氏は、すでに家督を嫡男の助朝に譲っていた。棟梁となった助朝は考えを巡らせた挙句、そのまま幕府に残ることにした。美木多の所領は、南朝の諸将と比べると最も北に位置していた。幕府側の和泉守護である山名氏清と、河内守護である畠山基国の支配地域に点在していたため、所領安堵のためには幕府に残った方が得だと判断した結果である。正儀は、助朝の判断を尊重した。
厨からは女たちの楽しそうな声が聞こえていた。徳子の侍女、妙が女衆とおしゃべりをしながら酒や肴の用意をしていた。
この日、最も喜び、張り切っていたのが、奥を仕切る正儀の妻、徳子である。
「さっ、殿方がお待ちかねですよ。早く料理を運びましょう」
徳子は娘の式子を急かした。
賀名生の行宮で、式子は帝(後亀山天皇)の母、嘉喜門院こと阿野勝子に仕え、今では河内局と呼ばれるようになっていた。今日は特別に父、正儀のために賀名生の行宮を下がり、楠木館にて宴の支度を手伝っていた。
式子とともに、正勝の妻、文子と、正顕の妻の信子が膳を運び、酌をして回った。
年が明け、数え八つになった正勝の娘、照子も料理を運ぶ。
「御爺様、料理をお持ちしました」
「おお、これは照姫自らのお手持ちでござるか。かたじけのうござる」
愛らしい照子の仕草に、正儀は目を細め、おどけて見せた。正儀も、可愛い孫娘の前では、単なる一人の祖父であった。
嫡男の正勝は、義兄弟の篠崎正久・津田正信と車座になって酒を酌み交わしていた。
正久の目が少し潤んでいる。
「こうして楠木が一つになれる時が来ようとは……まことにうれしいことじゃ」
「分かれている間に、二郎兄者(正久)は涙もろくなった。のう、六郎(正信)」
「ははは、二郎兄者は、つかえが一つとれたのでのであろう」
弟として常に傍にあった正信は、その心情を思いやった。正久が涙を拭って、正勝の肩を叩く。
「そうじゃ。楠木はまた一つに戻った。これからは次の棟梁たる小太郎(正勝)が一族を纏め、父上を助けるのじゃ。よいな」
その言葉に正勝は姿勢を正し、真面目な顔でゆっくりと頷いた。
一方、正儀の次男、楠木正元は、和田和泉守正頼・正平親子とともに、橋本正督の遺児で十二歳となった多聞丸を、その傳役、和田良宗とともに囲んでいた。
「多聞丸もあと三年もすれば元服じゃな。太郎兄者(正督)に見せてやりたかった」
正元は、残念そうに目を閉じた。
多聞丸は正元を真っすぐに見返す。
「いずれ、それがしが父の仇を討ちまする」
「おお、その意気じゃ。楠木の男は、やはりこうでなければならん」
正頼が嬉しそうに酒を口に運んだ。
―― がちゃん ――
突然、広間の外で、御膳がひっくり返る音がした。
「母上様、母上様」
式子の声に驚き、正儀が広間を出てみると、徳子が倒れていた。すぐに正儀が徳子を抱きかかえる。
「伊賀(徳子)、どうした。伊賀、気をしっかりと持て」
「殿……」
か細い声で、徳子は正儀の直垂の袂を握った。
正儀は、自らの手で徳子を抱き上げ、寝所に運んだ。よほど調子が悪いのか、すぐに深い眠りに入った。
娘の式子、侍女の妙とともに、正儀が付き添う。
「伊賀はこれまで変わるところはなかったか」
自らが不在の間の徳子の様子を、娘の式子に問うた。式子は、横たわる徳子に目を落とす。
「特に持病など、心当たりはありませぬ。ただ私は賀名生に出仕したため、その後のことはわかりかねます」
そう言って、徳子の侍女である妙に目を向けた。すると、妙は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「実は……奥方様は、このところお身体の加減が悪く、時折、立ち上がれなくなることがありました」
「妙、なぜ早う言わなんだ。伊賀に無理をさせてしもうた」
「奥方様から、皆に言わぬようにと口止めをされておりました。相済まぬことでございます」
そう言って、妙は項垂れた。
正儀は言葉を失う。不在の間、徳子は当主、正勝の母として、楠木家を内側から支えていた。そんな徳子が、皆に気を遣わせぬよう、妙に口止めしたことは、容易に想像できた。
「奥方様は大殿が帰ってこられたことを大そうお喜びになられ、気丈に振る舞っておいででした。大殿がこの館に戻って気兼ねなく過ごされるためには、以前の伊賀局様(徳子)のままでおられることが一番であろうと」
「そうか、伊賀はそのように思うておったのか……」
正儀は妙から話を聞き、静かに眠る徳子の手を無言で握りしめた。
二月二十日、正儀は猶子の篠崎正久、河野辺正友の嫡男、正国を伴って北河内、仁和寺荘の観音寺を訪れた。再び細川頼之と会うためである。
頼之は、京の景徳寺で営まれた父、頼春の三十三回忌法要のために、再び上洛していた。奇しくも、その細川頼春を討ったのは正儀が率いた楠木党である。
「討ったそれがしが言うのはおこがましいが、御尊父の御冥福をお祈り申す」
観音寺の金堂で、頼之を前にして、正儀は深々と頭を下げた。
「戦場で亡くなるは武門の誉れじゃ。顔を上げてくだされ。もう、三十年以上の年月が経ったのです」
その言葉に、正儀は悄然とした表情で顔を上げる。
「とにかく、ご無事に法要を終わられ、安堵しました」
幕府管領の斯波義将が、頼之の命を狙うのではないかと、心配していた。
「将軍(足利義満)の御前でございますれば、おいそれとは手を出せぬでしょう。されど、法要が終われば一目散に寺を出て、京を後にして参った」
はははと頼之は笑ってみせた。
「じりじりと間合いを詰めておるという訳ですな」
「その通りです」
考え通りにことが運んでいるようであった。
「して、正儀殿の方はいかがか」
「ううむ、紀伊の山名討伐でございまするな。河内の武士に、紀伊出兵を促しておりますが、芳しくはありませぬ。河内の備えも疎かにはできず、ただちに紀伊へ出兵できるのは三百といったところ……」
「正儀殿、三百とは少ない。最低でも三千は必要であろう」
「わかっており申すが、なかなか思うたようにいかぬのです。北河内は畠山(基国)に侵食され、幕府に帰参した者が多い。後は野伏たちなのじゃが、それも……」
正儀は残念そうに呟いた。
楠木党は、大軍を擁するときは父、楠木正成の時代から金で雇った傭兵を加えるのが常であった。だが、南朝の凋落で南軍に加わろうとする野伏や百姓も、めっきり少なくなっていた。
「とにかく紀伊を完全に奪われないことが肝要かと存ずる」
遠慮しつつも、頼之は渋い表情を浮かべた。
後ろに控えていた河野辺正国が口を挟む。
「常久殿(頼之)、紀伊は広く南部はまだまだ侮り難う存じまする。きっと山名義理も手こずることでしょう」
「うむ……されど、北には和泉の山名氏清が控えている。このままでは、いずれは山名兄弟が紀伊を制圧する……」
そう言って、頼之は顎に手を添えて考える。
「……今のうちに山名義理を紀伊の北部に釘付けすべく、紀伊に拠点を作ってはいかがか」
正儀はううむと唸る。
「山名義理の南侵を止めねばならんのはわかります。それがしもそうしたいのは山々じゃ。されど、河内で兵を集める事さえままならぬのです。今の我らには、紀伊に拠点を造るほどの余裕はござらん」
「左様か……確かに、ある程度の軍勢を擁しなければ、容易に山名義理に潰されましょう」
渋る正儀の様子に、頼之は沈黙した。その沈黙を篠崎正久が破る。
「父上(正儀)、そのお役目、それがしにお任せくださらぬか」
「二郎(正久)、お前の気持ちは嬉しいが、いかんせん、我らには兵が居らん」
反対する正儀に、正久は食い下がる。
「いえ、何も最初から大軍を送る必要はありませぬ。それがしが手勢を率いて紀伊に入り、密かに紀伊の朝廷勢力を結集します。紀伊には橋本党や湯浅党の残党が多く、生地や牲川、貴志などもおります。拠点を作りながら徐々に兵を募ればよいかと存じます」
「相手が居るのじゃ。お前が兵を集める前に、義理に発覚すれば潰される。悟られぬように大軍を集めるのは難しかろう」
正久の提案にも、正儀は難しい表情を崩さなかった。
言われるまでもなく、難しい仕事であることはわかっていた。しかし、紀伊の勢力を盛り返すにはこれしかない。
「正儀殿、やってみる価値はあるのではありますまいか。問題は義理に気づかれずに兵を集められそうな山城があるかじゃが」
頼之は正久の意見を肯定した。
これを受けて、正国が思い出したように、ぽんと手を打つ。
「それなら大旗山はどうでしょう」
「大旗山とは……」
頼之が首を傾げる。
「かつて、紀伊の朝軍(南軍)が砦を築いたところにございます。大旗山は、山名義理が拠点とする紀伊府中の南。山深い割には、北に高野街道、南に龍神街道があり、南北を繋ぐ要所です。兵を集めるのに適しているかと存じまする。さらに東の尾根伝いに山道が続き、高野山にも繋がっております」
正国の提案に正久はひざを打つ。
「そうか、いざとなれば、高野の僧兵をも味方に付けられるやも。父上、それがしに、ぜひ大旗山の拠点造りをお命じくだされ。紀伊の残党を集め、山名の南侵を食い止めてみせましょう」
正久の提案に、頼之が正儀に目を配って決断を促した。ううむと唸った正儀が、再び正久に顔を合わせる。
「よかろう。やってみるがよい」
「父上、お任せあれ」
その表情には、強い決意が現れていた。
四月初め、京の都である。聞世こと服部成次が花の御所に侵入して以降、大方禅尼から疑いの目を向けられた観阿弥は、御所から遠ざけられていた。しかし、その後も気落ちせずに大和音曲の更なる高みを目指し、観世座はますます人気を博す。だが、禅尼にはそれが不遜に映っていた。
そんな中、その観阿弥の息子である藤若大夫(観世元清)が花の御所を訪れる。いまだ義満は、寵する藤若大夫については御所への出入りを認めていた。
藤若大夫が、上座に座る将軍、足利義満の前で頭を低くする。
「此度、観世座は駿河守護、今川様(今川泰範)の招きにより、富士の麓へ興行に参ります。しばらく京を留守にしますゆえ、そのご挨拶にまかり越しました」
「しばらくとな」
大夫の挨拶に、義満は傍らの伊勢照禅(貞継)と顔を合わせ、ふう、と軽く息を吐いた。
藤若が照禅に向け、小首を傾げる。
「いかがなされましたか」
「うむ、御所様(義満)は近く、摂政二条様(良基)様をはじめとする公卿の方々を招き、宴を開きたいとお考えです。そこで、藤若殿の申楽能をと考えていた矢先でした」
二年前に京の後円融天皇が退位して上皇となり、当時わずか六歳の幹仁親王が皇位を継いだ。その幼い帝(後小松天皇)を補佐するために、元関白の良基は摂政となり、廟堂に復帰していた。
照禅の話に義満が言葉を足す。
「うむ、そなたの大和音曲で、花を添えようかと思うておったのじゃが、残念じゃのう」
肩を落とす義満に、上目遣いに藤若がたずねる。
「それはいつのことでございましょうや」
「五月の終りを考えております」
傍らから照禅が答えた。
興行も五月である。以前から支度を進めていたことでもあり、いかに将軍の願いとはいえ、簡単に取り止めるわけにはいかなかった。また、藤若大夫は今や観世座の花形でもあり、一人で抜けることも難しい。藤若大夫はどうすることも出来ず、申し訳なさそうに頭を下げた。
「致し方ありませぬ。御所様、ここは犬王と致しましょう」
「うむ、そうじゃな。犬王であれば、二条様も満足するであろう」
その名に、義満は気を取り直した。
犬王とは、かつて観阿弥も一時師事した田楽師、一忠の弟子で、藤若大夫ら大和猿楽と並ぶ近江猿楽の旗手である。観阿弥が義満と引き合わせたことで、犬王も義満の庇護を受けるようになっていた。
「犬王殿ですか……」
その名を聞いて、藤若は少々残念そうにうつむいた。
四月二十八日、新たな帝(後亀山天皇)を戴いた南朝は、元号を元中に改元する。
その直後、正儀の猶子、篠崎正久が率いる一隊が紀伊国の大旗山に赴く。重臣、河野辺正友の息子、河野辺正国も同行していた。
正久は、かつて、紀伊の南軍が造ったという大旗山の砦に立ち、傍らの正国に声をかける。
「この砦を修復して、ここに陣屋を立てよう」
「そうでございますな。それにしても、篠竹ばかりでございますな。まずはこれを切り倒して平地を造らなければなりませぬ」
正国の言葉通り、あたり一面を背の低い篠竹が覆っていた。正久は目の前の篠竹を力任せに引き抜き、目を落とす。
「そうじゃ、ここを篠ヶ城と呼ぶことにしよう。我が名も篠じゃ。篠竹がわしをここに導いたのかもしれん」
「なるほど、篠ヶ城……これだけ、篠竹があれば、矢が尽きることはありませぬな。もっとも、鏃までは生えておりませぬが。ははは」
正国の冗談に、正久も笑った。
「さて、陣屋を建てるとしても、まずは人じゃ。山名に知られぬように、橋本や湯浅の残党に声をかけていかねばならん。できるか」
「お任せあれ。橋本や湯浅の残党が籠る場所は、父から聴いて、察しがついております。お味方は直に集まるでしょう」
「うむ、頼んだぞ」
そう言って正久は、手にした篠竹を正国に手渡した。こうして正久の、紀伊の拠点造りが始まった。
その頃、観阿弥は藤若大夫(観世元清)とともに、駿河守護の今川泰範の招きに応じ、一座を上げて駿河に来ていた。泰範は、九州探題として九州の南朝勢力を駆逐した今川了俊(貞世)の甥である。
五月四日、観阿弥は静岡浅間神社で申楽能を奉納する運びとなる。神社には、泰範と今川の家臣たちだけでなく、貴賎を問わず多くの観衆が集まった。
観阿弥に先立って舞台で申楽能を奉納するのは藤若大夫である。観阿弥の大衆受けする親しみやすい能に加えて、藤若大夫はさらに優雅な美しさや奥行きの深さ、いわゆる幽玄を求めていた。将軍、足利義満や摂政の二条良基との付き合いの中で、自然と格式の高さを意識せざるを得なくなっていたからである。この時、藤若大夫は二十二歳。観阿弥は、舞台の袖から息子の成長を食い入るように見つめた。
藤若の舞台を簡潔に表すなら静と動。静は何もしないのではない。ぴんと背筋を伸ばした若い大夫によって作り出されたものである。この静の中で、扇を持つ手がぶれることなく右へと開き、足がつうぅと滑るように前に出る。無駄が削ぎ落された藤若の動は、計算され尽くした静によって際立つよう仕組まれていた。
演舞を終えて袖にはけた藤若大夫を、観阿弥が留める。
「うむ、よいできであった。一座の主役として、十二分なでき映えであった」
めったに誉めない観阿弥に認められ、藤若大夫は照れ笑いを返す。
「主役などとは、とんでもありませぬ。今日の主役は父上ではございませぬか」
「いや、わしも歳をとった。今後、観世座は、そなたを中心に回したい。わしは引き立て役として、そなたの背中を押してやろう」
「父上、何をおっしゃいます。皆、父上を見に来ているのです。さ、早う舞台へ」
藤若大夫は観阿弥を促した後、いつになく弱気な父を、舞台の袖から見守った。しかし、いざ舞台が始まると、藤若大夫の心配は杞憂に終わる。
観阿弥は、若い一座の者に主役の仕手方を任せ、自らは脇方である若女を、動きを押さえて控えめに舞う。それでもなお、隠しきれない色香が匂い立ち、かえって技量を際立たせる。観阿弥は擬態にひと際、秀でていた。若女だけではない。童子、翁、鬼、何をやらせても、本物がそこにいるように見えた。ゆっくりと動く若女の手先は恥じらいを持っている。それが段々と激しくなり情念を放つ。そして、最高潮に達したところで観阿弥の動きがぴたりと止る。観客は目を奪われざるを得なかった。
結局、その日の観阿弥は従来にも増して華やかで、身分の上下を問わず見物の者たちは一様に称賛した。藤若大夫は、そんな偉大な父を、改めて感心する。
舞台が終わった観阿弥を駿河に残し、藤若大夫は観世座の若者たちと一足先に京への帰路につく。摂政、二条良基らを招いて開く、足利義満の宴席が気掛かりだったからである。
もちろん、目的は犬王の猿楽。自身の申楽能に幽玄さを求める藤若は、同じ志向の犬王が気になって仕方がなかった。摂政らを前にした大舞台でどのような舞を見せるのか、ぜひ、自身の目に焼き付けておきたいと思っていた。
このあと、京に戻った藤若は、犬王の、媚び諂いを一切排除した舞に、感銘を受けることになる。
一方、駿河に留まった観阿弥は、今川泰範に守護館での酒宴に招かれ、大盛況の能舞台を労われる。
観阿弥は上座の泰範から隣を勧められ、恐縮しながら腰を落とした。すかさず、泰範が銚子を持って観阿弥の盃に酒を注ぐ。
「観阿弥殿、先般の舞台はまことに感動致しました」
「お褒めに与かり、光栄でございます」
観阿弥はそう言って盃をぐいっと飲み干すと、返盃しようと銚子を持った。
「いや、わしは今、胃の腑を悪くしており、酒を断っておる。返盃は不要じゃ。気にされるな。それにしても、さすがに将軍の覚えめでたい京一番の猿楽師じゃ」
そう言って、もう一度、観阿弥の盃に酒を注いだ。しかし、義満の名が出ると、観阿弥は少し顔を曇らせる。
「もったいないお言葉でございます。されど、最近は花の御所への出入りを許されておらず、将軍様の覚えめでたいというのは少々、憚られます」
「そうであったか。これほどまでの猿楽師を……それはもったいないことじゃ」
そう言って、観阿弥の盃にさらに酒を注いだ。それをぐっと飲み干す観阿弥を見て、泰範は心底、残念そうな顔を浮かべた。
夕刻前には酒宴が終わり、観阿弥は泰範に礼を言って守護館から下がっていった。
その後、泰範は館の縁に出て、銚子を逆さにして、残っていた酒を庭に捨てる。
「本当にもったいないことじゃ……されど、上意であれば致し方なし」
庭に捨てた酒を見つめ、泰範は一人呟いた。
その翌日から、観阿弥は体調を崩す。高熱が出て十日ばかり苦しんだ後、息を引き取った。
五月十九日、享年五十二歳であった。
観阿弥は、正儀の幕府降参に伴って京へ進出する機会を得た。そして、正儀の南朝帰参によって、その生涯を終えることになった。
正儀の選択は、自身の与かり知らぬところで、一人の猿楽師の人生を翻弄していたのである。
六月、正儀は帝(後亀山天皇)に召し出され、賀名生の行宮に参内した。傍らには内大臣の阿野実為と中納言の六条時熙が待ち受けていた。
正儀は、宮中で何か起こったのではないかと胸が騒いだ。
「御上におかれてはご機嫌麗しく存じます。さて、此度の用向きは何でありましょうや」
「橘相、よく来た」
ひれ伏す正儀に、帝は御簾も降ろさず、蔵人も通さずに声をかけた。橘相とは、楠木の本姓である橘に、参議の唐名である宰相の相の字を付けた、廟堂での正儀の呼名である。
「橘相、そちは覚えておるか。我が弟宮の懐成と、そちの娘、河内局(楠木式子)との縁組みの話を。我が父(後村上天皇)がそちに約束をしたのであろう。そちが朝廷(南朝)に戻ったことで、母(嘉喜門院/阿野勝子)より、婚儀を催促されてのう」
帝の言葉に正儀は、はっと顔を上げる。
「は……はい」
正儀は再び帝に対して畏まった。
忘れるはずはない。後村上天皇が、自身をそこまで信頼してくれていたのかと、心奮える思いで御言葉を承った。あの日のことは、今でも昨日のように思い出される。
懐成親王は帝の末弟で、後村上天皇の第六皇子であった。名目上ではあるが、親王任国である上野国の太守(親王任国の国守)となっていたために、上野宮と呼ばれていた。
一方、正儀の娘、式子は、徳子の伝手で宮中に出仕し、女官となって嘉喜門院(阿野勝子)に仕え、河内局と呼ばれていた。
恐縮する正儀に対して帝自らが話を続ける。
「橘相、懐成も河内局もすでによい歳、朕が父に成り代わり、今こそ約束を果たそう」
正儀は、幕府に降ったときから、いや、先帝(長慶天皇)が即位した時から、この話はなかったものと考えていた。それを後村上天皇に代わり、目の前の帝が果たそうと言ってくれたのである。正儀にとって、この上ない喜びであった。
平伏して正儀は目頭を熱くする。
「それがし如きのために……身に余る光栄でございます」
「宮様との婚儀の前に、花山院大納言様(師兼)の養女と致し、花山院家からの輿入れとなる。橘相殿、よろしいな」
実為はすでに養女縁組の手配を整えていた。花山院家は摂関家に次ぐ清華家の家格を有する。宮妃となるには相応の家格が必要であり、いくら正儀が参議に成ったとはいえ、宮中からみれば、楠木家は一介の地方武士の枠を出るものではなかった。
「万事、仰せのままに致しとうございます。内大臣様(実為)におかれては、何から何まで、お心遣いをいただき、真にありがたく存じます」
正儀は実為に向き直して、改めて頭を下げた。
その足で正儀は、阿野実為とともに、嘉喜門院こと阿野勝子の元を訪ねた。正儀の訪問を受けた嘉喜門院は、河内局こと式子を傍らに連れていた。
正儀は恐縮する。
「嘉喜門院様、此度は何とお礼を言ってよいものやら。上野宮様(懐成親王)とのこと、正直、なくなったものと思うておりました」
「橘相殿(正儀)、そなたの苦労は、内大臣殿(実為)からよく聞いておりました。必ずこの日がくると信じて、上野宮様にも、河内局(式子)にも待ってもらうておったのです」
「そうでありましたか……」
嘉喜門院の心遣いに、正儀は胸が詰まる思いであった。そして、式子に向けて小さく頷く。
「式子、本当によかった。これまで、この父を恨んだことであろう。すまなかった」
「父上、お顔をお上げください。父上は朝廷のことをいつも第一に考えて参ったのです。そんな父を誇りに思う事こそあれ、恨むことなどありましょうや」
頭を下げる正儀に、式子はにじり寄って手を添えた。
「上野宮も河内局に心を寄せております。河内局は、伊賀局(徳子)に似て見目麗しい。宮も好んで待っておったのでありましょう」
「まあ、御院様」
嘉喜門院の言葉に式子が笑い、釣られて正儀と実為も微笑んだ。
賀名生を後にした正儀は楠木館に戻り、病で伏せる徳子の元に急いだ。
「伊賀、よい話じゃ」
館に戻って部屋に入るなり、正儀が声を上げた。
夫の帰りに気を遣った徳子は、妙の手を借り、ゆっくりと上体を起こす。
「殿様、お帰りなさいませ」
「徳子、大事ないか。無理をするな。そのままでよいぞ」
手を差しのべて、徳子の身体を気遣った。
「その嬉しそうなお顔、よほどよいことがあったのでございますね」
「そうじゃ。式子の輿入れが決まったぞ。後村上の帝の遺言の通り、上野宮様(懐成親王)の妃となるのじゃ」
「ほ、本当にございますか」
青白い徳子の顔に、薄い紅が差した。
「わしが幕府に降ったことで、式子にはすまぬことをした。長年、喉に何かが痞えていたようであった。じゃが、これでやっと痞えが取れた」
「本当に夢のようにございます」
宮中への思いが強い徳子は、俯いて両手で顔を覆い、嬉し涙を溢した。正儀は、そんな徳子に寄り添い、背中に手を添えた。
「大殿様、奥方様、本当にようございました。御上(後亀山天皇)と嘉喜門院様のお陰でございますね……本当に……よう……ございました」
徳子の涙する姿に、妙も涙を止めることができなかった。
同じ頃、京の室町にある花の御所。足利義満が奥御殿の大方禅尼の元を訪れていた。
「母上、観阿弥が亡くなりましたぞ」
「ほう、観阿弥が。それは残念なこと」
特に驚くでもなく、禅尼は淡々と応じた。
「どのようにして亡くなったか、お聞きにならぬのですか」
「そうですね……病ですか」
なおざりな受け応えに、義満が顔を曇らせる。
「やはり、母上でございましたか。なぜ、観阿弥の命を」
感情を隠し、静かに問う義満に、大方禅尼はかん高くあざ笑う。
「おほほ、まるで、わらわが観阿弥の命を奪ったかのような、もの言いですね」
「駿河の今川泰範は、叔父の了俊(今川貞世)が領する隣国遠江を、予てから欲しておりました。遠江を餌に、母上が命じたのではありませぬか。甥子(渋川義行)のことで、母上は、弥九郎(細川頼之)とともに了俊をも苦々しく思われていた」
「さあ、何のことだか」
冴えた推理をみせる義満にも、大方禅尼は動じることはなかった。
「母上が知らぬというのであれば、話を変えましょう。観阿弥に同行していた藤若大夫は、一足早く駿河を発ったので、難に会わずに済みました。余は……いえ、それがしは、藤若を何としてでも守ってやりたいと思うております。例え、楠木の血を引いていようとも」
「将軍ともあろう者が、そこまであのような者に御執心とは……藤若とて、もう、よい歳ではありませぬか」
このとき、藤若大夫は数えて二十二歳、義満は二十七である。
「母上は何か誤解をされておられるようです。それがしは、あやつの申楽能に惚れ込んでおるのです。これは日の本の宝となるもの。もし、藤若の命を狙う者がいるのなら、それがしは、その者を除かねばなりませぬ」
「ほほほ、怖い、怖い。されど、その者を除いて、義満殿の政は成り立ちますか。細川頼之はもういないのですよ」
今度は、目を据えて憫笑する禅尼を、義満がじっと見つめる。
「確かに、父とも慕う弥九郎を追いやった斯波義将らには怒りを覚え、庇ってやれなかった自身を悔いておりました。されど、今となっては、よかったことと思うております」
思いがけない義満の反応に、大方禅尼の微笑が消える。
「どういうことですか」
「将軍の威厳を保つには、見せしめが必要。弥九郎が身を持って教えてくれました。力を持たせて、その力を奪う。力を奪うためには、その者に敵対する者も育てておかねばなりませぬ」
さらっと老獪なことを口にする義満に、大方禅尼は眉間に皺を寄せて目を閉じた。しかし、次に目を開けたとき、強顔は消えている。
「ふうぅ……いつまでもわらわの子のままで、というわけはいきませぬな。そなたはもう立派な将軍。今の貴方なら、きっと自身の政ができるでしょう」
「母上……」
「そなたのためと思うておりましたが、いつの間にか……女だてらに、政に口出しするのも疲れました。これからは、御所の奥で好きな歌詠でもして過ごしましょう。遠慮はいりませぬ。貴方の政をされるがよろしかろう。されど、困った時は、いつでも、この尼を頼りなされ」
禅尼の言葉に、義満は少し色を取り戻して静かに頷く。
「将軍の育ての父は弥九郎(細川頼之)。育ての母は貴方様。よい、父と母に巡り合うたと思うております」
義理の子の言葉に、大方禅尼は付き物が落ちたかのような穏やかな微笑みを見せた。
九月、賀名生の行宮で、正儀の娘、河内局こと式子と、上野宮こと懐成親王の婚儀が執り行われることとなった。
正儀とともに、病を押して徳子も賀名生の行宮に参内した。徳子にとって行宮は、伊賀局として勤めていたとき以来のことであった。
徳子は正儀と侍女の妙に支えられ、行宮の御殿に入った 幾度も焼け落ちた行宮だが、その度に再建されてきていた。
「どうじゃ、懐かしいであろう。高師直に吉野山が焼かれ、賀名生に逃れてきたのであったのう」
正儀は足取りのおぼつかない徳子を支えてゆっくり歩いた。
徳子が正儀に寄り添う。
「あの時は、必死で新待賢門院様(阿野廉子)をお連れし、時には背負ってこの地に逃れました。それが今では、一人で歩くのも難しくなってしまいました」
寂しそうに足元に目を落とす徳子に、正儀はわざとにやにや笑みをたたえる。
「おお、そうであったな。何でもそなたが大木を引き抜き、川に渡して橋にしたのであろう。凄い怪力じゃと皆が驚いたとか……」
しんみりとする徳子を見るのが辛かったからである。
「殿までそのような戯れ言を。私は橋をかけるように指図したまでのこと。まさか、殿は本気で信じているのではありますまいな」
「さあ、どうであるかな」
口元を緩め、とぼけてみせた。
「妙、何とか言ってください」
「ええと、どうだったでございましょう。ほほほ」
妙はいたずらっぽく笑い、正儀と徳子も釣られて笑った。
「みなさま、楽しそうでございますね。されど、そろそろ、河内局様(式子)のお出ましでございますよ」
嘉喜門院(阿野勝子)お付きの侍女が外に出て来て声をかけた。
宴に出席することのできない妙はそこで立ち止まり、その侍女に頭を下げて、徳子の介添えを頼んだ。
行宮の中は、上に帝(後亀山天皇)の玉座、その手前に懐成親王と式子の主座、その下に、左右に別れて公卿が列席していた。正儀は徳子を支えるようにして下座に座った。
帝が顔を出す婚儀の宴に、本来、皇族でも公卿でもない徳子が顔を出せる筈はない。しかし、帝は徳子が病気と聞いて、伊賀局としての過去の働きを労うため、前例を厭わずに参列を求めていた。
しばらくすると、婚儀の礼を終えた懐成親王と式子が現れ上座に座わる。その後、帝(後亀山天皇)の御出ましとなり、宴が始まった。
十二単を着た式子の姿に、徳子の瞳から大粒の涙が溢れる。その様子に正儀も目頭が熱くなった。
宴もたけなわ、皆の顔が赤らむ中、徳子の顔だけは青くなっていった。
「伊賀(徳子)、あまり無理をするな。部屋を借りておる。疲れたら横になって休むがよかろう」
「いえ、殿。今日は大丈夫でございます。式子の晴れ姿を今しばらく、この目で見とうございます」
「そうか……わかった。では、よく見ておくがよい。我らの子じゃ。しかと二人で見届けようぞ」
つつがなく披露の宴が執り行われた。かつて自らも宮中で過ごした徳子にとって、至極のひと時が過ぎていった。
十月十三日、式子の婚儀から一月を経て、徳子は重篤となった。すでに水を飲むのさえ困難な状況となっていた。
一族が徳子を囲む。
「母上様、お気を確かにお持ち下され」
「ありがとう……最後にあなたに会えて良かった」
「最後だなどと……」
そこには、心配そうな顔で徳子を見守る尼僧の姿があった。正儀と徳子の猶子として育った菊子である。若くして出家し、今は篠崎禅尼と呼ばれていた。義母が今際の際にあると知った禅尼は、取るものも取り敢えずここに来ていた。
そんな禅尼に向けて、徳子は優しく微笑みを返した。
続いて正儀に目を向ける。
「殿(正儀)……お勤めに……お戻りください」
自らの命が潰えようとしているにもかかわらず、徳子は正儀を気遣った。
その手を正儀が優しく握る。
「いや、伊賀(徳子)のそばに居りたいのじゃ。長い間、淋しい思いをさせてしもうた。済まなかった」
「君臣和睦のためにございましょう……淋しいなどと……楠木の宿命を……わかって嫁いだのです」
「伊賀……」
正儀の目に涙が浮かぶ。
「御婆様……元気になってください」
孫の照子が徳子のもう一方の手を優しく撫でた。
「式子のように……宮中でお努めできるとよいですね……きっと……美しい局になることでしょう……」
徳子の声に、照子とその母、文子が、我慢しきれずにすすり泣いた。徳子に仕えた侍女の妙は、小袖を顔に当て声を押し殺していた。
「殿……」
「何じゃ、伊賀」
「……南北合一……ぜひ実現……ください」
徳子はそう言うと、涙に溢れた目を閉じる。
静かな最期であった。正儀の瞳から大粒の涙が流れる。一同は徳子にすがって、いつまでも嗚咽した。
この後、徳子と一番長い時を過ごした侍女の妙は、出家して尼となる。そして、徳子を供養しながら、余生を過ごすのであった。




