第38話 楠木討伐
天授元年(一三七五年)初秋、色取月と呼ぶには少し早い頃である。畿内の濃い緑を駆逐するように、二つ引両の印を掲げた大船団が堺浦に入った。
船団を率いるのは細川業秀。幕府管領、細川頼之の一族である。
紀伊攻めを避けたいと思う正儀であったが、頼之の苦渋の決断に反論することもできず、仕方なく堺浦に出向いて業秀を迎えていた。
「総大将殿(業秀)、遠路、ご苦労にござった。それがしは楠木河内にござる」
「これは河内守殿、お出迎えご苦労に存ずる」
船から降りた業秀は、出迎えた正儀に、満足そうに頷き、立ち止まって話を続ける。
「紀伊の様子はいかがか」
「それじゃが、今しばらく、紀伊討伐をお待ちいただけぬか。湯浅党には、幕府への帰順を説いております」
「ん、和睦とは聞いておらんな。管領殿からは紀伊を平定し、守護として当地を治めよと言い渡されておる」
「承知しております。されど、戦をせずに紀伊が平定できれば、総大将殿とても、手間が省けましょう」
「いまだ降るかどうかわからんのであろう。和睦を待って湯浅が降らねば、無駄に時を費やしたわしは、将軍より叱責を受ける」
そう言って、業秀は苦々しい表情を正儀に見せた。
「ならば、討伐までに湯浅が幕府に帰順すれば、戦は避けられましょうな」
「う、ううむ、そういうことになろうが、出陣までに幾何もない。ここまで幕府に歯向かった湯浅が、素直に帰順するとは思えぬがのう」
にやっと表情を緩めた業秀が、正儀の肩を軽く叩いて歩きだした。しかし、数歩のところで振り返る。
「そうじゃ、後で紀伊攻めの布陣を申し伝えるので、そなたから和泉の諸将に伝えていただきとう存ずる」
「和泉の諸将とは、新たに参じた者どもも含めてでござるか」
正儀は、甥の橋本正督のことが気掛かりであった。
「当然でござる。新たに帰順した者たちこそ、幕府への忠節を示してもらう必要があろう」
そう言って、薄笑いを浮かべて立ち去る。
(もう、一刻の猶予もない)
正儀は、その後ろ姿を目で追いながら、眉間に深い皺を作った。
紀伊の湯浅党は藤原北家、秀郷流の大族であった。だが、惣領家の力は弱く、一族の有力者が寄合で物事を決めていた。
阿氐河城(阿瀬川城)の湯浅宗隆はその一人である。宗隆の隆の字は、かつての大納言、四条隆資から偏諱を受けたものであった。多くの諸将が南朝を去るなかでも、湯浅一族は隆資の跡継ぎである四条隆俊を支え、正儀に幾度も戦を仕掛けていた。
宗隆の父、湯浅定仏(宗藤)は、その昔、楠木正成の赤坂城奪還の手際のよさに惚れて楠木党の与力となった。そのような縁もあり、正儀も知らぬ仲ではない。
その宗隆に会うべく、正儀は聞世(服部成次)と嫡男の服部十三成儀の先導で、わずかな近習を従えて鍋谷峠から紀伊に入った。成儀はまだ十八歳の若者で、父、聞世の元で楠木の諜報を手伝うようになっていた。
湯浅宗隆は、正儀の求めに渋々応じ、紀伊国の粉河寺まで出てきていた。正儀らは、敵である湯浅の郎党たちが囲う本堂に入る。そこで宗隆が、あぐらを掻いて待っていた。
中は扉を閉ざすと薄暗い。正儀は目を慣らしながら、宗隆の前に座る。
「これは湯浅殿、このようなところまで、申し訳ござらぬ」
労いの言葉にも、宗隆は無愛想に応じる。
「楠木殿、このようなことは、これ限りにしていただきたい。知らぬ仲ではないので応じたが、すでに敵味方として戦をした間柄じゃ。わしとて一族に知れたら、困るのでな」
「申し訳けない」
宗隆が、詫びる正儀の隣に座った男に、ふと目を向ける。
「民部大輔ではないか」
目を丸くして、宗隆は声を上げた。
そこには、南朝の民部大輔であった橋本正督がいた。しかし、正督は北朝でも民部大輔のままである。正儀に気遣った細川頼之の計らいであった。
驚く宗隆に、正督が頭を下げる。
「しばらく振りです」
「幕府に降ったと聞いておったが、おめおめと正儀殿に付いて参ったか」
自らの前に座ろうとする正督に、宗隆は厳しい言葉を浴びせた。続けて、正儀に目を移す。
「楠木殿、わしは幕府に降るつもりはない。今日は、わしの口からそなたに直接伝えるために来たのじゃ」
「湯浅殿、聞いてくれ。我らがここに来たのは、なぜ我らが幕府に参じたのか、その理由を知ってもらうためじゃ」
いきり立つ宗隆に、正儀は冷静に呼びかけた。
「理由じゃと」
「そうじゃ。このままでは滅びゆくであろう朝廷(南朝)と帝(長慶天皇)をお助けしたいのじゃ」
「幕府に降っておいて、朝廷を救いたいとはどういうことじゃ」
片眉を吊り上げ、宗隆は訝しがった。
「早かれ遅かれ、南方の生き残る道は和睦しかないと思うておる。されど、わしの目的は和睦したその後じゃ。そのために湯浅の力は必要なのじゃ」
不審な顔つきの宗隆へ、正儀は委曲を尽くす。
南朝方の諸将を討伐せず、幕府に帰参させることこそが重要であった。それは、南北両朝の統一後に、南朝の帝を支える勢力を幕府の中に作り、両統迭立が反故にされないようにするためである。
「ううむ」
話を聞いて宗隆は唸った。
その様子に、正督も誠意を持って訴える。
「湯浅殿、それがしとて迷った。北畠右大臣(顕能)と叔父上(正儀)、どちらの言うことが、真に帝を御救いすることになるのか。後醍醐の帝の血筋を守っていくことができるのか。それがしは叔父上に反抗しておった。されど、どう考えても、叔父上(正儀)の言う事を認めざるを得なかった。湯浅殿、これは帝のためでございますぞ」
「むう……」
宗隆は暫く沈黙した後、冷静になって口を開ける。
「そなたたちのいうことはよくわかった。理にかなった話じゃ。されど、わし一人では決められぬ。一族に諮りたい」
「急いで下され。時はない。細川|業秀が兵を進めるまでに」
正儀は期待を込めて応じた。
紀伊は内大臣、四条隆俊の影響下にあったが、その隆俊が討死したことで、諸将の箍は外れた状態にあった。正儀にとって、紀伊の諸将を取り込む最初で最後の機会である。
幕府側の条件を受け、宗隆は郎党たちと粉河寺を後にして、湯浅党の拠点、紀伊の有田に戻っていった。
これを正儀は、希望を持って見送った。
九月、未だ湯浅宗隆からの返事を得ることができない中、総大将の細川業秀は堺浦から紀伊へ、正儀の楠木軍とともに進軍した。途中、美木多助朝、橋本正督を含めた和泉の軍勢を糾合する。
業秀は、正督の忠誠心を試すように橋本勢を先陣に立て、正儀の楠木勢を殿に配して、紀伊に入った。
湯浅党の本拠地である紀伊国有田郡まで進んだ幕府軍は、長い隊列のまま、それぞれに宿営の陣を張る。正儀の楠木軍は、殿として本軍より後方の寺に入った。
直後に、早馬が境内に駆け込む。と同時に陣を構えた食堂の外が騒がしくなった。
「父上、湯浅宗隆殿より書状が届きました」
津田正信が書状を持って食堂の中に駆け込んできた。正儀は手渡された書状を素早く広げて目を通した。
「父上、何と書かれております」
「うむ。湯浅一族は幕府に帰順する決心をしたようじゃ。これで戦は避けられる」
四条隆俊が討死して以降、紀伊の諸将に威令を下す者がいなくなったことも、湯浅党が幕府帰参を決めた要因である。
気負いを払った正儀は、ふうっと息を吐き、肩の力を抜いた。そして、自ら馬を駆って総大将、細川業秀の元に急いだ。
討伐軍が本営とする陣屋に入った正儀は、業秀の前で腰を据える。
「細川殿、湯浅一族が、幕府に帰参すると書状を届けて参った」
「まさか……本当か」
その一報に、業秀は困り顔を浮かべ、渡された書状に目を落とした。
そこに、正儀が釘を刺す。
「これで、戦は避けられましょうな」
「うむ……まあ、仕方ないのう」
業秀は渋い顔で正儀に答えた。
総大将の回答を得た正儀は安堵し、ひとまず自軍の宿営に戻った。
その日の夜のことである。有田郡湯浅荘にある湯浅氏の本城、湯浅城で火の手が上がる。
後方に配した正儀の宿営にも微かに怒声が届いた。
「いったい何があった」
寺の食堂を飛び出した正儀らは、湯浅城の方角を見て、微かに空に映る赤い炎に立ちつくした。しばらくして、正儀が放った斥候が戻ってくる。
「申し上げます。橋本大輔様(橋本正督)が湯浅城に夜討ちをかけ、湯浅勢との間で戦が始まっております。細川殿の本軍も、城攻めに加わり、戦場が拡がっております」
正儀は愕然とする。戦は避けられたはずであった。だが、現実は戦いが始まってしまった。
事は正儀の知らないところで起こっていた。討伐軍の総大将、細川業秀は和睦を無視し、正督に湯浅城への夜討ちを命じていた。そして、続いて、自ら率いる本軍も湯浅城に突撃した。湯浅一族を討伐して紀伊を領国として欲したためである。業秀は、細川頼之を糾弾した畠山基国ら諸将と、何ら変わることはなかった。
先陣を正督に命じたのは、幕府帰参を求めた湯浅一族と戦をはじめたことの責任を負わせるためである。己が率いる本軍は、いったん戦が始まれば、味方を助けるために加勢したとすれば大義名分が立つと考えてのことであった。
一方、湯浅城には、湯浅一族に和睦を促すために、阿氐河城(阿瀬川城)から出向いていた湯浅宗隆の姿もあった。
自らが抜いた短刀に、宗隆は鬼の形相を写す。
「和睦は我らを油断させるための策であったのか。おのれ、橋本正督。おのれ、楠木正儀」
湯浅一族と正儀の間を取り持った宗隆は、一族に対し面目を失った。もはや自分自身でけじめをつけるしかなかった。
翌二十五日の朝が明ける。橋本正督は郎党たちを率いて落城した湯浅城に入った。
「殿(正督)、居られましたぞ」
近臣の和田良宗の声に、正督が振り向く。そこには、大勢の湯浅の兵の亡骸とともに、喉を突いて横たわる宗隆が居た。
「宗隆殿……すまぬ……すまぬ……」
正督はその場に座り込み、手を合わせた。
和睦を結ぶつもりで、少しの守備兵しか配置していなかった湯浅党は、突然襲ってきた圧倒的な幕府軍の前に、成す術はなかった。湯浅城は落ち、湯浅党は百余名が討死した。生き残った一族と郎党らは、山間部に追い払われる。湯浅党は、こうして本拠の紀伊国有田郡の大半を失った。
亡骸を前に立ち上がった正督は、腰に差した太刀、雲切の柄をぎゅっと握りしめた。
天授二年(一三七六年)、年が明けて十五歳となった正儀の次男、如意丸は、赤坂の楠木館で元服し、楠木小次郎正元と名を改めた。
元服式が終わり、正元は母、徳子らの前で、両の拳を床に付き、頭を低くする。
「楠木の名に恥じぬよう、精進致します。皆、よろしゅう頼みます」
「小次郎、これであなたも一人前です。期待しておりますよ」
そう言って、徳子は顔をほころばせ、諭すようにゆっくりと頷いた。
傍らに座る侍女の妙は、早速、目を潤ませる。
「ほんに立派な小次郎様。この晴れ姿を殿様(正儀)にお見せしとうございましたな」
「妙、悲しむことはありませぬ。殿(正儀)はいずれ戻ってこられます。今日のことをしっかり覚えて殿に教えて差し上げましょう」
この日、徳子は努めて笑顔を絶やさなかった。
夜、徳子は燭台のもとで、この日の正元の様子を手紙に認め、郎党に託して正儀の元に届けさせた。
その手紙が平尾城の正儀の手元に届く。久方振りに見る徳子の文字に、正儀は愛しそうに目を落し、何度も何度も読み返した。
この年、桜の咲くころを待って、帝(長慶天皇)が、先帝(後村上天皇)の九回忌法要を行うべく吉野山に行幸する。わざわざ、聞きなれぬ九回忌を行うのは、宗良親王たっての希望からであった。
幕府軍との戦や、帝と東宮(熙成親王)の対立で、七回忌法要が執り行われていなかったというのが表向きの理由である。しかし、親王には意図があった。分裂した朝廷を一つとすべく、賀名生から帝の動座を促し、吉野山に行宮を移すのが狙いである。
だが、東宮が居る吉野山に赴く兄帝の面子を立てることが必要であった。そこで、先に東宮を、五百番歌合で賀名生に足を運ばさせた。次に、後村上天皇の法要を後醍醐天皇の塔尾陵の御前で行うこととし、大義名分を作ったという次第である。
吉野山に入った帝は、二十八年ぶりに金輪王寺を再び行宮として定めた。すでに寺院は再建されていたが、以前の伽藍に比べ、小さく質素な造りであった。
仲介役の宗良親王が、東宮の熙成親王と権大納言の阿野実為を伴って参内する。
「御上におかれましては、此度の御還幸、まことにもって祝着にござりまする」
そう言って、七つ年下の弟が、兄である帝の前で、ゆっくりと頭を下げた。
「熙成も、つつがなく過ごしておるようで何よりじゃ」
東宮と帝は、ともにぎこちなかった。言葉とは裏腹に、互いに目を合わせることもなく、儀礼的に挨拶を交わした。
方や、帝の傍らに控えた右大臣の北畠顕能と大納言の葉室光資は、実為に冷たい視線を向けて牽制する。宗良親王の顔を立てて双方が融和を演出していたが、真の和合にはほど遠いものであった。
そして桜が満開となった三月十一日、吉野山の如意輪寺で、先帝(後村上天皇)の九回忌法要が営まれた。
親王は法要の実現に向けて奔走し、施主を、先帝の側近で先の大僧正、日野頼意とする。遠く信濃の地から、和歌を通じて知己を得ていたからであった。
法要には、帝と東宮の他に、右大臣の北畠顕能、大納言の葉室光資ら強硬派の公卿たちと、大納言の阿野実為、参議の六条時熙ら和睦派の公卿たちが参列した。
たくさんの僧侶たちによる譜経(御経の合唱)が終わると、帝は先帝を偲んで歌を詠む。
『四つの時 九かへりになりにけり 昨日の夢と驚かぬまに』
続いて宗良親王も、弟宮でもあった先帝(後村上天皇)のために歌を詠む。
『幾春と散りて見すらん つらかりし花も昔の別ながらに』
これに、施主である頼意は、宗良親王の歌への返歌を詠む。
『慕えども 見し世の春は移りきて 徒なる花に残る面影』
宗良親王が頼意と諮った演出である。こうして、先帝を歌で偲んだ法要は、恙なく執り行なわれた。
法要が終わると、右大臣の北畠顕能が熙成親王の元に歩み寄る。口元に笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
「東宮様(熙成親王)、御尊顔を拝し、恐悦至極にございます」
「右府(右大臣)も、元気そうで何よりじゃ」
当たり障りのない会話であった。
「御子息、北畠伊勢守殿(顕泰)の中納言御受任、真に祝着にございます」
傍らに控えた大納言の阿野実為が顕能を祝った。
かつての准后、北畠親房と顕能の関係がそうであったように、右大臣の顕能が宮中で政治力を保ち、嫡男の顕泰が領国伊勢の経営にあたっていた。
「これは、大納言殿(阿野実為)、思いもよらずそのような祝の言葉をいただき、嬉しい限りじゃ」
表面上の言葉とは裏腹に、互いの目は相手を厳しく牽制していた。そんな顕能に向けて、熙成親王が無表情に問いかける。
「紀伊の湯浅城に幕府の細川何某が守護として入ったようじゃな。紀伊の収入が途絶えることは朝廷(南朝)にとって一大事。今後、どうするつもりであるか」
「直に、幕府方の守護は紀伊から居なくなるでしょう」
口元に笑みを浮かべ、顕能は答えた。
すると、実為が目を細める。
「麿のように、政から遠ざかっているものは、右府様(右大臣)のお考えを存じませぬゆえ心配をしております。どのような御算段がおありか、お教えいただきとう存じます」
ふふっと顕態が頬を上げる。
「先月には、東国の脇屋義則が結城を見原で破り、霊山城へ入りました。これは吉兆にございます。九州も懐良親王の後を継いだ後征西将軍宮様(良成親王)が、直に勢力を盛り返すことでしょう。地方の勢いはいずれ畿内にも伝わり、紀伊や和泉で旗を上げる者も出て参りましょう」
特段、根拠のある話は出て来なかったが、知謀の顕能が言うと、何か策略を隠しているかのように聞こえた。
熙成親王はこれには応じず、顕能を見据える。
「また歌合が行われるようじゃな」
「はい、来月、新しい内裏で百番歌合を行います。さらに六月には千首和歌会を開く予定で、花山院中納言(長親)が支度を仰せつかりました。御上は、朝廷は文化の担い手であらねばならぬと申されます。麿も、その通りと思うております。東宮様(熙成親王)も、ぜひまた、源資氏殿として、御臨席を賜わればと存じます」
五百番歌合で変名を使ったことを、やんわりとあげつらった。
「今度は、どのような名が良いかのう。右府も考えておいてくれ」
親王は平静を装い、切り返した。
これに顕能は、意味ありげに薄く笑みを浮かべ、頭を下げてから立ち去った。
苦悩の紀伊討伐から解放された正儀は、瓜破城からもほど近い、摂津国正覚寺村、交野秀則の館に居た。
五歳になった三虎丸が、筆の練習をした経木(薄く剥いだ木の皮)をたくさん持ってくる。
「父上(正儀)、これを」
「殿様(正儀)、褒めてやってください。この子は、父上(正儀)が次に来られる時までに字が書けるようにと、たくさん練習をしたのです」
「うむ、たくさん書いたのう。これなどは、なかなかのものじゃ」
三虎丸の頭を撫でながら、正儀は自らの幼い日々を思い出す。父、楠木正成に見せるため、自らも一生懸命に書を書き溜めて、父の帰りを待っていた。
南朝対策に奔走する正儀がこの館に顔を出すのは、月に一度であった。達も、幼い三虎丸も、正儀が館を訪れるのを、いつも首を長くして待っていた。
顔に墨を飛び散らし、硯を擦る三虎丸に頬を緩めつつ、正儀は達に顔を向ける。
「すまぬのう。わしが平尾城に移ってから、そなたにも三虎丸にも、淋しい思いをさせてしもうた」
「よいのです。殿様(正儀)は、われらのことをお忘れになることもなく、こうして来ていただけますもの」
達は笑顔を返した。控えめでいじらしい女であった。そんな達と、三虎丸の成長が、唯一、正儀から南北朝の騒乱を忘れさせた。
夏も盛りの七月、正儀は近習を連れて、幕府管領、細川頼之の京の屋敷を訪れる。観林寺(善入山宝筐院)にある楠木正行の首塚に手を合わせた帰りであった。
頼之が、先に部屋で待っていた正儀の前に座る。
「河内守殿(正儀)、石見の佐殿が、幕府に降参を申し入れて参りましたぞ」
石見国の佐殿とは足利直冬のことである。大内弘世、山名時氏に担がれ、さらには南朝から惣追捕使に任じられ、幾度となく幕府と戦った。
しかし、頼之の計略で、大内と山名が幕府に帰参すると、直冬は孤立し、幕府の追討を恐れて石見国を転々としていた。
「そうですか、あの直冬殿が幕府に降参を申し出るとは……」
人の世の無常を感じざるを得なかった。幕府に、並々ならぬ憎しみを抱いていた直冬が、降参したことだけではない。南朝の武力の担い手であった正儀自身も、幕府に服することになろうとは、二十年前であれば考えられないことであった。
「管領殿、して、直冬殿の処分はどのようになされるおつもりか」
「御所様(足利義満)にはそれがしから、死罪を免じ、そのまま石見に蟄居隠遁させるよう、奏上しようと思うております」
「それはよいお考えです」
正儀は胸を撫でおろした。直冬の生涯に同情を禁じえなかったからである。父の足利尊氏に愛されず、認めてもらおうとただ一心に将として励んだ。だが、いつしかそれは父への憎しみに変わった。
できる事ならば、幼き日の虎夜刃丸に優しく接してくれた尊氏を、直冬にも会わせてやりたかったと思った。
「河内守殿……」
直冬に思いを馳せていた正儀は、頼之の問いかけで現実に戻される。
「は、何でございましょう」
「このところ、南方の攻略からそなたを外しておること、申し訳ないと思いましてな」
湯浅党の攻略以降、正儀は南方諸将の攻略から外されていた。幕府内では、南朝討伐を主張する畠山基国ら強硬派の主張が次第に幅を利かせていたからである。
それに伴い正儀は、頼之から河内・和泉の領国経営にのみ、力を入れることが求められていた。領国経営とは言っても、横領する者の取り締まりなどである。正儀は、命を賭して取り組んできた南北和睦に関与できないことに、焦りが募っていた。
「これも、それがしが板挟みにならぬようにと管領殿の心遣いであることは存じております。されど、武力で事を急げば、帝(長慶天皇)の御心はますます閉ざされてしまうでしょう。どうか、それがしに、今一度、南方の調略をお命じいただければと存じます」
正儀は頭を下げた。しかし、頼之は申し訳なさそうな顔で、正儀から視線を外した。
年が明け、天授三年(一三七七年)の正月。三条坊門の将軍御所は、色とりどりの袿を羽織った女房衆も姿を見せる、華やかなものであった。
年賀の挨拶で朝から押し寄せた、たくさんの公家や守護大名が、広い控えの間を埋め尽くしている。侍所頭人の畠山基国もその一人。やっと自分の番となった基国が、将軍、足利義満の前で畏まる。
「新年おめでとうございます。御所様(義満)におかれては御機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」
「うむ、基国も息災で何よりじゃ」
素っ気ない受け答えであった。延々と来訪者の挨拶を受ける義満も大変である。基国の番にもなると疲れ果て、特に話題を振ることもしなかった。
「いえ、それがし、最近、身体が動かなくなり、困っております」
「どうかしたのか」
意外な返答に、義満の瞳に微かに正気が戻った。すると、基国は待ってましたとばかりに頬を緩める。
「いえ、身体が鈍っておるのです。戦に出ることもめっきり少なくなりましたゆえ。されど、戦しか能のない男はやることがなくて困ります。いっそ、関東にお戻しいただけぬかと思うたりもしております」
そう言うと、基国は義満の傍らに座る義母、大方禅尼(渋川幸子)に視線を移した。
「畠山殿、何を仰せじゃ。若い御貴殿には、まだまだ働いてもらわなければなりませぬ。南方との和睦も成っておりませぬからな。この先、畠山殿の戦働きが、おおいに役に立つことでしょう」
先代、足利義詮の正室であった禅尼は、この年賀の場でも、しっかりと存在感を示していた。
「年も明け申したが、南方は相も変わらずでございますな。摂津へ攻め上がる気配こそみられませぬが、南主(長慶天皇)は和睦を拒み、今も討幕への執念は消えておらぬと聞きます。これも、管領殿の中途半端な攻略が招いた事。それがしであれば、一気に南の楠木や和田を攻め滅ぼし、有無も言わせずに南主と三種の神器を京へお戻しすることでしょう」
勇ましい言葉に、大方禅尼が感心する。
「何とも頼もしき言葉じゃ。のう、照禅殿。どうも、管領殿(細川頼之)や河内守殿(正儀)は、南方に優しすぎる」
そう言って、傍らに控えた伊勢照禅(貞継)に目配せする。
「本当にそのようなことができまするか」
「お任せあれ」
芝居がかった照禅の問いかけに、基国は当然といった表情を見せた。
幕府内では頼之らの和睦派と、大方禅尼を後ろ盾とした強硬派の争いが日増しに酷くなっていた。
強硬派の基国は畿内の大国である河内国を虎視眈々と狙っていた。元々、幕府側においては畠山家の守護国である。しかし、河内国を手中に収めるためには、守護の正儀は当然として、後ろ楯の頼之も邪魔な存在であった。
また、照禅は将軍の近臣に甘んじている伊勢氏の地位を上げることを欲している。禅尼に煽られた照禅は、頼之と正儀への批判的な態度を隠さなくなっていた。
平清盛と同じ伊勢平氏(桓武平氏の一流)の系譜である照禅は、征夷大将軍を輩出する河内源氏(清和源氏の一流)と並び立つ、かつての名族の血を受け継いでいる。照禅に残された道は、幕府内部から権力を握ることである。源頼朝のもとで力を蓄え、執権政治を行った北条義時のごとく権力を得るには、幕府管領として実権を握る頼之の存在は邪魔である。この点に関して、照禅は基国と志を同じにしていた。
「御所様、どうでしょう。南方攻略はこれまで管領殿と河内守殿の専任事項のごとくなっておりました。されど、畠山殿に一度任せてみるのもよいのではありませぬか」
「なるほどのう。管領殿への刺激にもなり、存外ことが進むのではありますまいか。のう、義満殿」
照禅の誘い水に、大方禅尼が口裏を合わせた。
まだ若い義満であったが、頼之と強硬派との間に緊張があることは十分にわかっており、慎重に様子を観ていた。が、南方の攻略が速く進むのであればとも考える。
「わかった照禅。管領に相談して、畠山(基国)を河内攻略に加えるがよかろう」
「はっ。承知つかまつりました」
「ありがたき幸せにございます」
薄く笑みを浮かべる大方禅尼の前で、照禅と基国は、義満に深く頭を下げた。
二月、幕府管領の細川頼之は、舎弟の細川頼元を大将に、畠山基国らを加えて河内国へ送る事を決める。すでに将軍、足利義満が、基国に出陣を下知してしまった後であった。頼之は、自らが育てた義満の威厳を守るため、己の意に反して義満の命を遂行した。ただし、南軍楠木の殲滅が目的ではない。痛手を与え、動きを封じさえすればよかった。
平尾城の正儀の元には、細川頼之から河内討伐に至った経緯と、伊勢照禅(貞継)の進言を制せなかった事を詫びる書状が届いていた。
これを見て正儀は腹を括る。河野辺正友をはじめとする家臣や猶子の篠崎正久らを広間に集め、出陣の命を伝えた。
もう一人の猶子、津田正信が曇った表情を返す。
「父上、本当に我らは小太郎兄者(楠木正勝)らを攻めねばならんのですか」
「六郎(正信)、そうならないよう、父上はこうして皆を集めたのじゃ」
すかさず、義兄の正久が正儀を代弁した。
「うむ、二郎(正久)の申す通りじゃ。されど、事はそう簡単ではない。一に小太郎(楠木正勝)らと戦う事なく、二に千早城が落とされる事もなく、三に河内国を欲する畠山(畠山基国)に手柄を上げさせる事なく、四に我らが表立って幕府に反逆せぬよう、事を成さねばならん」
指を折って、正儀は課題を明らかにした。
しからばと、正久が進言する。
「仁王山城の叔父上(楠木正顕)を通じて、幕府への帰参を促してみてはいかがでしょう」
「ううむ、四郎(正顕)が了承しても、小太郎(楠木正勝)や小次郎(楠木正元)が納得せぬであろう。それに、楠木がこうして双方に別れて河内国にいるからこそ都合のよいこともある」
正儀の言葉に、津熊義行は腑に落ちない表情を浮かべる。
「どういうことにございます」
「我らの大儀は君臣和睦、南北合一じゃ。南方にも幕府にも通じる楠木こそが南北両朝の橋渡しをするのじゃ。そのためには、南方に残った四郎らの役目が重要になる」
「されど、殿、この危機をどう乗り越えてよいものか、皆目、検討がつきませぬ」
家臣の筆頭、河野辺正友が諦め顔で項垂れた。南方の楠木を、紀伊湯浅党のようにするわけにはいかない。正儀もううむと唸り、その場で考え込む。
目を閉じて腕を組んだその姿を、正友らは固唾を飲んで見守った。窮地の時、正儀は必ず答えを出してくれる。皆、期待して言葉を待った。
「よし」
くわっと正儀の目が開いた。一同は正儀の策を食い入るように聞いた。
二月中旬、畠山基国が兵を率いて河内国に進軍する。正儀は、基国が陣を布いた河内国若江の寺に出向いた。
床几に腰を下ろした正儀が軽く礼をする。
「越前守殿(基国)、遠路、ご苦労でございます」
「河内守殿(正儀)、此度は、そなたの身内を討伐せねばならなくなった。貴殿も心苦しいことであろうが、これも御所様の命なれば、心を鬼にして、事に当たっていただきたく存ずる」
若く血気盛んな基国であったが、ここはやんわりと正儀に対した。
「お心遣いありがたく存ずる。されど、これはそれがしにとっても、契機にござる。越前守殿(基国)と右京大夫殿(細川頼元)という援軍を受けて、一気に河内国を我が手に取り戻したいと存ずる。我が領国を取り戻す戦じゃ。楠木党が先陣を承る。畠山殿は、どうか背後から我が軍を支えていただきとうございます」
「い、いや……」
自ら先陣を申し出た正儀に、基国は慌てる。基国にとって、この度の戦は、河内を己のものとする一里塚である。先陣の正儀に手柄を取られては、戦の意味がない。
「……楠木殿を身内と戦わせるのは忍びない。先陣はそれがしが承ろう。楠木殿は逆に我が軍の背後から支えていただきとうござる」
「いや、されど、それは……」
納得しかねる表情を作って正儀は反論を試みる。が、最後は基国に押し切られる体で、畠山軍の背後に回ることを了承した。ひとまず正儀は、千早城の舎弟、楠木正顕や、嫡男の正勝らと直接戦うことを免れた。
次に正儀は、平尾城に戻って戦支度を整える。すでに楠木正勝は、赤坂の楠木館や本城(上赤坂城)を捨て、一族郎党とともに再び千早城に入っていた。
畠山基国は、摂津を南下してきた大将の細川頼元、赤松光範ら諸将と合流し、赤坂を無視して一気に千早城に進軍する。この日は時折、千早城から兵が出て幕府軍を制する動きがあったものの、さしたる戦に発展することもなかった。
気をよくした基国は千早城を取り囲むが、堅固で険しい山城は、畠山勢に付け入る隙を与えなかった。
畠山基国が、大将の細川頼元を促して軍議を開く。そこには、ともに攻め手に加わった正儀の姿もあった。
陣幕の中、床几に腰を据えた頼元は、正面に座る正儀を凝視する。
「さて、どのように攻めるかじゃが……ここは千早をよく知る河内守殿の話を聞こう」
「千早城は我が父、正成が造った難攻不落の山城にござる。元弘の戦のことは、おのおの方もよく存じておられよう。鎌倉幕府はこの数のおよそ十倍の兵で取り囲み、それでも楠木軍五百は数カ月持ちこたえました」
「そのようなことはわかっている。どうやって攻めるのかを聞いておるのじゃ」
元来、楠木嫌いの基国は苛立った。
「楠木の者しか知らぬ城内へと続く山道があります。ここから攻めればもしかすると……いや、されど、危険もあるゆえ……やはり、ここは取り囲んで長期戦で攻めるのが得策かと存ずる」
悩み顔を浮かべた正儀が、消極的な意見を口にした。
「そのように悠長なことはやっておれん。城内に続く山道があると申したな。そこを攻めようではないか」
「罠も多く仕掛けられておるので、よくわかった者でないと危のうござる。であれば、われら楠木勢が攻め込み、城内を崩してご覧に入れましょう」
「おお、河内守殿(正儀)、それはよい。身内との戦で辛かろうが、ここは楠木殿の領国じゃ。河内守殿(正儀)にお任せしよう」
すぐに頼元は正儀の意見に賛同した。
しかし、河内を我がものにしたい基国は慌てる。
「い、いや、楠木殿を身内との戦に巻き込まぬよう、我が畠山勢がその道を通って攻め込むことにしよう。河内守殿(正儀)は、それがしに、抜け道と罠を教えていただきたい」
正儀はためらう素振りを見せた後、折れて基国に役目を譲った。
畠山基国は精鋭三百を、城への抜け道に送り込んだ。しかし、千早城の楠木勢はあざ笑うかのように、その抜け道に兵を集中して、畠山勢に襲い掛かった。結局、畠山の精鋭は、千早城の防御を崩すことができず、多くの負傷者を出して撤退せざるを得なかった。
本陣に戻ってきた畠山の郎党が、片ひざ付いて味方の被害を報告した。すると、基国は、ぎろっと大きな眼を正儀に向ける。
「抜け道ではなかったじゃと……河内守殿(正儀)、我らをたぶらかしておるのではなかろうな。本当にこれが抜け道なのか」
対して、正儀も怪訝な顔を作る。
「少なくとも、わしが知っていることは全てお話した。抜け道はその後に変えたのでありましょう。もともと危険の多い策じゃと申し上げたはず。それを押して兵を送ったのは畠山殿ではござらぬか」
正儀の態度に、基国もいきり立った。
すると、細川頼元が二人の間に割り込む。
「双方とも慎まれよ。いがみ合っている場合ではござらん。ここは城を囲み、河内守殿(正儀)が言われたように、兵糧攻めで様子をみたらいかがか」
頼元の提案に、基国は苦々しい顔を見せるも、反論は呑み込む。その結果、軍議は兵糧攻めで決した。
兵糧攻めに同意した畠山基国であったが、ただ千早城を取り囲んで手をこまねくのは東夷の名折れと、独自の行動を興す。畠山の兵を半分ほど割いて西の天野山に軍を進める。南河内の奥深くに点在する楠木正顕の仁王山城や、楠木正近の烏帽子形城など、楠木の砦群への攻略に向かうためであった。
対して、南朝側の楠木は、正顕ら主力が千早城に入っていたため、わずかな留守居兵だけで、砦に籠って応戦するしかなかった。これに和泉と河内の国境に拠点を移していた和田正武と息子の正頼が和田軍を率いて駆け付ける。
しかし、弱体化した南朝方の楠木・和田の兵力では、圧倒的な数の畠山軍に持ちこたえることはできない。正武は、楠木の兵を逃がすと、早々に砦を放棄して兵を引き揚げた。
南河内の城を幾つか落とした畠山基国は、再び、千早城攻めに戻る。憂さを晴らした基国は、陣幕に入るなり、正儀ら諸将を見下すように視線を向けた。
「千早城はまだ落ちぬのか。いつまでも取り囲むばかりでは脳がないのう」
そう言って、どがっと床几に腰を下ろした。
傲岸不遜なその様に、赤松光則が憮然とした表情を返す。
「越前守殿(基国)、千早城は時をかけて兵糧攻めと決まったではないか」
「何事も、臨機応変な対応が必要じゃ」
ここで時がかかれば、せっかくの南河内の平定に味噌が付く。基国は、自らの手柄が古びぬうちに事を急がせたかった。
「では、最初にそれがしが進言した通り、千早城をよく知る我らが、抜け道を通って城内に攻め入りましょう。城の中でひと暴れしてから我らが手引き致しますゆえ、おのおの方はそれを受け、攻め入っていただきましょう」
「そうしてくださるか」
正儀の提案に、大将の細川頼元は安堵の表情を浮かべて快諾し、一方の基国は渋々と承知した。
千早城攻めに百人の選りすぐりを集めた正儀は、指揮を篠崎正久に託すとともに、津熊義行を目付として付けた。
「二郎(正久)、全ては手筈通りじゃ。難しい役目じゃが任せたぞ」
「わかっております、父上(正儀)。それがしにお任せあれ」
一行は千早城と、その東側の山の端との間に流れる風呂谷に沿って山に入っていった。そして、途中で千早の山陵に取り付いて、急峻な獣道を城に向かって登った。
一行が崖下の草木を掻き分けながら進んでいたときである。
「何者じゃ」
頭上から怒声が降り注いだ。早くも一行は、千早城の見張りに見つかってしまった。
「者ども、出会え、出会え」
見張りの声に続々と城の兵が集まってくる。一行に緊張が走った。
そこで正久は、予て用意していた菊水の旗を、城の見張りに見えるよう頭上に掲げる。
「わしじゃ。二郎正久じゃ」
すると、千早城の中から声をあがる。
「雲っ」
すかさず正久が応じる。
「海っ」
さらに応答が続く。
「空っ」
「谷っ」
正久が問いかけに全て応じると、千早城の兵たちから歓声が湧く。
「おお、味方じゃ。お味方じゃぞ」
「確かに、あれに見えるは二郎殿(正久)じゃ」
「津熊殿もおるぞ」
「さあ、皆を上に引き揚げるのじゃ」
城の者たちが垂らした縄によって、正久ら百人は崖上に無事、引き揚げられた。
「皆、久しぶりよのう。元気であったか」
「二郎殿もおかわりなく」
守備を指揮する神宮寺正廣が笑みを浮かべた。正久らの行動は、正廣らには承知の上の行動であった。
双方の兵が、久し振りの再会で歓喜に沸く中、楠木正勝が恩地左近満信を連れ立って現れる。
「二郎兄者、元気そうじゃな」
「小太郎(正勝)こそ、息災で何よりじゃ。母上(徳子)もか」
正勝は白い歯を見せて頷いた。
遅れて楠木正顕が現れ、正久の肩を軽く叩く。
「二郎、よく参った」
「叔父上(正顕)、お達者で何よりでございます。これは、父上(正儀)からの書状です……」
そう言って、襟元に隠していた書状を渡す。
「……兵の配置など、こちらの内情が認められております」
「そうか、それはありがたい」
さっそく正顕は書状に目を落とした。
一方、正廣らの前では、津熊義行が胴丸を外し、中から何やら取り出す。
「少ないが食い物じゃ」
胴丸の中や兜の中に仕込んでいた芋や牛蒡を取り出した。さらに服を脱ぐと米が身体に括りつけられていた。義行だけではない。同行した百人の兵が皆、身体に何か食い物を仕込んでいた。集めるとそれなりの量になる。
「おお、これはありがたい」
食料を見た兵たちが喜びの声を上げた。
周りの兵たちが、胴丸や兜を付け直すのを待って、正久が義行の傍に歩み寄る。
「三郎殿(義行)、そろそろはじめよう。でないと怪しまれる」
「おお、そうですな。では」
義行が手をあげると、同行の百人の兵がいっせいに気勢を上げて、刀や薙刀を岩に叩きつける。すると、千早城の兵も同調して声を上げ、合戦が始まったように見せかけた。
次に、正久や義行ら十人が自らの胴丸や鎧袖に矢を何本か突き刺し、服を刀で割き、あらかじめ用意した鶏の血を身体に塗りたくる。
「叔父上、精鋭百の兵を残していきます。必ず、幕府軍を撤退させますので、それまで、どうか持ちこたえてください」
「うむ、兄者(正儀)によろしく伝えてくれ」
互いに目を見て、ゆっくりと頷く。そして、刀傷や矢傷を施した正久らは、千早城を駆け下って行った。
千早城の麓では、城攻めの支度を終えた畠山勢や細川勢が今は遅しと、正久が率いる楠木勢の手引きを待っていた。
「楠木殿、微かに聞こえておった合戦の気配が消えたぞ。どうなっておる」
畠山基国が苛立ちながら正儀に詰め寄った。
「しくじったか……いや、もう少し様子を」
正儀も、苛立つ素振りを畠山基国ら諸将に見せつけた。
その正儀らの元に、畠山の兵が駆け込んでくる。
「河内守殿の者たちが千早城から戻って来ました」
「なにっ」
その兵の報告に、正儀は精一杯、驚いた表情を見せて立ち上がる。
兵に案内された正儀が、畠山基国・細川頼元らとともに駆け付けた先には、鎧袖や胴丸に矢が刺さり、手や背中から血を流した篠崎正久や津熊義行ら十数名が、息絶え絶えに座り込んでいた。
「二郎(正久)、何があったのじゃ」
背中を支えるように正儀は手をかけた。
「父上(正儀)、罠が至るところに仕掛けられております。千早城の兵に見つかり、合戦におよびましたが……無念にございます」
「他の兵はどうしたのじゃ。易々とやられる者どもではない。楠木の精鋭じゃぞ」
気が動転したように、正儀は正久に詰め寄った。
「御味方は全滅。生き延びた者も居ったと存じますが、我らも逃げるのに精いっぱいで……申し訳けございませぬ」
悔しそうに肩を震わせる正久に、正儀は責めるに責められず苦悩する己の様子を演じた。
「河内守殿、心中、お察し致します」
人の好い頼元は、素直に同情を示した。
しかし、基国はちっと舌を鳴らしてその場を立ち去る。戦が長引くことを嫌っていたからである。城攻めが長引けば長引くほどに、和田正武らを河内から追い払って南河内を平定した実績が薄らいでいく。それでも、正顕や正勝の息の根を止めることが確実であれば、そのまま千早城攻めを続ける選択肢もあった。しかし、正久の敗退を見せつけられたことで、城攻めの気持ちが萎えてしまったのだ。
そもそも、南軍楠木の殲滅を命じられたわけでもない。結局、幕府諸将は正儀を残し、京へと退却していった。これによって、正儀の計略は滞りなく完了した。
幕府軍が去った南河内は、管領、細川頼之の命で、改めて正儀が支配することになる。すると、畠山が攻略した砦群も、表向きは北朝方楠木の支配となるが、実態は南朝方の楠木が領したままであった。
京に戻った畠山基国は、将軍近臣の伊勢照禅(貞継)の取り次ぎで、足利義満に拝謁する。
「御所様(義満)におかれましては、ご機嫌麗しく、恐悦至極に存じまする」
深々と頭を下げる基国に、義満が鷹揚に頷く。
「越前守(基国)、此度の河内征伐、ご苦労であった」
「はっ、お言葉、ありがたき幸せに存じまする。南軍の楠木・和田など、それがしにとっては赤子の手をひねるようなものでございました」
その言葉に、照禅はほほうと頷き、義満に代わってたずねる。
「越前守殿(基国)は頼もしき限りでございますな。して、右京大夫殿(細川頼元)は、如何様でございましたか」
「千早城に敵を追い詰めた後は、右京大夫殿(頼元)に城攻めを託したのですが……それがしが南河内で和田の軍勢を討伐して戻っても、残念ながら城を落すことはできておりませなんだ」
これに照禅は頬を緩める。
「では、河内守殿(正儀)の働きはいかがでした」
「それがしが叱責すると、河内守殿は慌てて千早城に手勢を送って攻め立てました。されど、己の身内に歯が立たず、すぐに撤退する羽目となりました。まったく役に立たない武将でございます」
基国は、自らの武功を声高に訴えるとともに、頼元や正儀のことは貶めて伝えた。殊更、正儀に対しては厳しかった。
「越前守(基国)の武勇、まったくもって頼もしき限りにございます。この際、河内守護を畠山殿に任せて、楠木殿には和泉守護に専念させてはいかがでしょうか」
照禅の推挙にも、義満は眉ひとつ動かさず、基国に視線を合わす。
「して、三種の神器はいつ戻るのか」
「あ、いや……」
基国は言葉に詰まった。
「余には、此度の河内討伐が、南主(長慶天皇)を追い詰めたようには見えぬのじゃがな」
事実、河内討伐で南軍の楠木・和田に大きな痛手はなかった。幕府軍が去った南河内では、早くも仁王山城に楠木正顕が入り、南河内の各砦には、南軍楠木の兵が戻っていた。そして、楠木正勝の姿は、再び、赤坂の楠木館にあった。
義満は、傍らに控える照禅に顔を向ける。
「守護の仕置きは管領(細川頼之)に任せてある。そちに思うところがあれば、管領に直接、話してみるがよい」
「い、いえ、失礼つかまつりました」
照禅は赤面して頭を下げた。若い義満といえども、照禅と基国の考えていることなど百も承知である。基国もばつが悪そうに、平伏してから、肩を落として広間を下がっていった。
その後ろ姿が見えなくなると、義満が話を変える。
「そんなことよりも照禅。去る二月十八日の火事のことじゃ」
興味はすでに別のところにあった。照禅は気を取り直して応じる。
「はい、かつて崇光院様が住まわれた室町御所の隣にある菊亭(今出川公直の邸宅)までが類焼したと聞きおよびました」
「うむ、その菊亭じゃが、その跡地、手に入らぬであろうか」
「はて、その跡地、いかがされますか」
「隣の室町御所の土地と合わせ、幕府に似合った御所を造営したい。あの地は京の中心で、内裏にも近い。将軍の威厳を示すにはもって来いじゃ」
「なるほど……承知つかまつりました。では、さっそく公卿どもに諮って参りましょう」
照禅は頭を下げて部屋から出て行った。
少しずつ義満は、自らの意思で歩みはじめていた。
八月、吉野山では宗良親王が嘉喜門院(阿野勝子)を訪ねていた。女院の傍らには、後見役の叔父、大納言の阿野実為も付き添っていた。
「その後、御上(長慶天皇)はいかがですか」
簡潔に、嘉喜門院は親王にたずねた。
「はい、それはもう、たいへんなお嘆きで。近習の者たちも涙に暮れております」
去る七月十日に帝の第一皇子、世泰親王が、突然十八歳で薨去したのであった。世泰親王への東宮(皇太子)宣下を諦めていなかった帝の落胆は大きかった。対して、熙成親王を支える阿野実為は内心安堵していた。
一方、嘉喜門院は、我が子である東宮、熙成親王の座を脅かす世泰親王の薨去にもかかわらず、心底、帝に対して同情していた。
「それは御可哀想なこと……」
「御上以上にお嘆きなのが、中宮様(皇后)です」
宗良親王の言葉に、御院はさもあらんと大きく頷いた。中宮とは世泰親王の母である従二位局こと二条教子のことである。
「中宮様は一の宮様の御廟が造られた如意輪寺に籠り、動こうとなされませなんだ。御上は心配されて歌を贈られ、中宮様も歌を返された」
帝と中宮の歌を、宗良親王がそらんじる。
『松陰を思ひやるこそ悲しけれ 千世もといひし君が心に』
『思はずよ 松は千とせの友ならで 絶ぬなげきの陰と見んとは』
ともに我が子を思いやる慈愛に溢れた歌であった。
嘉喜門院が袖で涙を拭う。
「何と、悲しい歌でございましょう」
「歌というのは不思議なものでございます。直接、話をするよりも、心根が伝わりまする。御院様も歌合にお越しいただければよきものを」
親王の誘いに、嘉喜門院は無言で首を横に振る。我が子、熙成親王の手前、歌合への出席は遠慮していたからである。
帝と熙成親王の溝は、宗良親王の努力の甲斐もあり、表面上は取り繕われた。だが実際のところは、いっこうに溝は埋まっておらず、女院は二人の間で苦悩していた。隣では、実為も難しい顔をして目を瞑っていた。
場の空気を察して、宗良親王が話題を変える。
「おお、そうじゃ。今日はこれを届けに参ったのでした」
思い出したように、嘉喜門院に書冊を差し出した。
「これは……」
「歌集でございます。これまで詠んだ歌などを集めて作りました。我はこれを李花集と名付けました」
「まあ、それはよき事を」
嘉喜門院は李花集を手にとって、ぱらぱらと中を捲る。
「実は、ひとつお願いがあるのです。御院様のこれまでの詠歌をいただけないかと存じます」
「わらわの歌を……でございますか。どうしてでございますか」
「実は、李花集を帝に献上したところ、大そう喜ばれ、もっと大掛かりに歌集を作って欲しいとの仰せでございました。ならば、父帝(後醍醐天皇)の御代から今日まで、朝廷の全ての歌を集め、そこから選りすぐりたいと申しましたところ、帝(長慶天皇)も快く承知なされました。それで今日はここにまかりこした次第です」
嘉喜門院の顔が、ぱっと頬紅を差したように明るくなる。
「わらわの歌も載せていただけるのですか。まあ、何と素敵なことでしょう。大納言殿(実為)、構いませぬか」
「信濃宮様(宗良親王)が編纂される歌集でございます。御院様さえよろしければ、麿がお止めするようなことではありませぬ。それはそれ、これはこれで、ご協力あそばせばよろしいかと存じます」
実為の言葉を聞いて、宗良親王は胸を撫で下ろす。
「それを聞いて、安心して信濃に戻れます」
思わぬ親王の言葉に、嘉喜門院は実為と顔を見合わせる。
「何と。せっかくこれから歌集を作ろうというときに、なぜでございましょうや」
「息子、尹良が信濃に残り、我の代わりに東国の後始末をしていたのですが、病になりました。長くは生きられぬやも知れませぬ」
「左様でございましたか……それは、さぞ、御心配でしょう」
堅い表情で嘉喜門院は目を伏せた。心配したのは和歌集のことだけではない。宗良親王は帝(長慶天皇)と東宮(熙成親王)、強硬派と和睦派の間を取り持つ唯一無二の存在だからである。親王が居なくなることに、南朝のゆく末を案じずにはいられなかった。
実為が気遣わしげな表情を親王に向ける。
「宮様にそのようなご事情があろうとは……では、歌集の撰定も進まぬのではありますまいか」
「花山院中納言(長親)が我に代わって撰集を行うことになりました。歌詠みの才は目を見張るものがあります。何というか、二条流の枠を超えたあの者独自の歌です。中納言が撰集を行うのであれば、我も安心して信濃に戻れます」
歌に関しては、帝にさえ厳しい評を呈する親王だが、花山院長親に関しては手放しに誉めた。それだけ長親の才を信頼していた。
そして、秋になると、宗良親王は、十人ばかりの供を連れ、皆に惜しまれつつも信濃に下向していった。
季節は変わり、この年の冬。初雪が舞う日のことである。橋本正督が拠点とする雨山土丸城を、兄弟の名乗りを上げた池田十郎教正が訪ねていた。
雨山土丸城は尾根伝いに雨山城と土丸城が繋がり、両城が一体となった千早城にも匹敵する天然の要害である。雨山の山頂が本丸(主郭)、土丸山の山頂が三の丸となり、幾重にも郭が巡らされていた。
元は北朝方の日根野時盛が支配する土丸城であった。だが、橋本正高が奪取し、土丸山に連なる雨山の城を一体化して、後詰めの城としていた。
教正は土丸山の陣屋で、兄の正督と対座する。
「兄上、それがしは此度、管領殿(細川頼之)の命を受け、安芸国に下向することになりました。今日はその挨拶にまかり越した次第です」
命じられたのは、当国の南朝勢力の牽制であった。中でも高井の五葉院慈恩寺は、元弘の変の折、比叡山の僧兵三千を先導して後醍醐天皇に味方した道場坊祐覚を輩出した寺院である。言わば、安芸国における、南朝方の精神的な支柱といえる。幕府管領の頼之は、教正を送り込んで城を築かせ、その五葉院に睨みを効かせようとしていた。
「そうか、安芸国か。遠いのう。せっかく兄弟として名乗り会えたのに、残念な事じゃ」
そう言って、正督は目を曇らせた。
「兄上にそのように残念がっていただけるのは、それがしにとっては嬉しきことにございます」
「父上と母上の血を受け継いだ実の弟が居ようとは、思いもよらぬことであった。そなたとこうして会えたことは、我が人生で一番の出来事じゃ。この先、何があろうと……たとえ敵味方となることがあっても、兄弟の血の繋がりは変わるものではない」
真剣な眼差しで語る正督に、教正は一抹の不安を覚える。
「敵味方とは……」
弟の問いかけに、正督は頬を緩めて笑顔を作る。
「いや、たとえじゃ。どのようなことがあっても、兄弟の絆は絶やすまいぞ」
戸惑いを見せる教正に、正督が話題を変える。
「ところで十郎(教正)、母を楠木家から追い出した叔父上(正儀)を、今も恨んでおるのか」
「それは……ずっと恨んでおりました。されど、近頃は、その気持ちも、揺らいでおります」
「正直じゃな。わしも同じじゃ。近頃は、叔父上の胸のうちもわかるようになってきた。叔父上が家督を継いだのは二十歳にも満たぬ歳であった。その直後に北畠卿(親房)の命と、我らが母を救おうとする気持ちの板挟みとなり、苦渋の決断で母を能勢に送り帰したのであろう。わしは叔父上を許そうと努めておる。そなたも許してやってくれ」
そう言って、正督は頭を下げた。教正は兄の態度に驚き、思わず手を差し出す。
「兄上、頭をお上げください。言葉で許しても、気持ちは簡単には参りませぬ。長い間、恨んで参りましたから。されど、兄上のためにも努力してみようと思います」
「うむ、それでよい」
その返事に、正督は安堵の表情を見せた。
その一月後、摂津の池田教正は、兵を率いて安芸国高井に下向していった。
年が明け、天授四年(一三七八年)正月。久方振りに、正儀は戦のない平穏な日々を送っていた。河内の平尾城を本拠としながらも、時間を作っては瓜破城に出向く。正覚寺村の交野秀則の元で暮らす側室の達と我が子、三虎丸に会うためである。
この日、正儀は、その母子の元から、平尾城に戻ってきたところであった。
帰って早々、河野辺正友が書院に顔を出す。
「殿(正儀)、少々、よろしいですかな」
ちょうど、正儀が部屋に入って腰を落としたところであった。
「又次郎(正友)、いかがした」
「妙心寺玉鳳院より、和泉国宮里の領地を横取りしている者が居ると、訴えが上がっております」
申し訳なさそうな顔で正友が、上目遣いに正儀を窺った。
「またも訴えか。最近、多いのう」
「左様でございますな。昨年暮には高野山の僧侶から和泉国大泉荘の年貢米のことで訴えがありました。堺浦の商人どもからは勝手に荏胡麻油の商いを行っている者たちを処罰して欲しいとの申し出もございました」
「ああ、そうじゃな。結局、渡辺択殿に取り締まってもらったのであったな」
「殿は訴えを放置せず、必ず御裁きくださるので、領民どもは殿を頼って訴状を上げてきておるようです。されど、これ以上、訴えが増えるのはいかがなものかと」
「うむ、それだけ困っている者が多いということか。領民のためにはやむを得ん。領民あっての我らじゃからな。幸い、幕府より戦の下知もないことじゃし」
そう言って正儀は苦笑を返した。対して、正友は不思議そうな表情を浮かべる。
「そういえば、このところ戦がなくなりましたな」
「うむ、幕府も新たな将軍御所の造営で、戦どころではなくなっておるのであろう」
その言葉に、正友が思い出したようにひざを打つ。
「大そうな屋敷だそうですな。我ら畿内の守護へも人足の割りあてがありましたし」
楠木党も、割り当てに応じて人足を京へと送っていた。
「まあ、戦がないことは結構なことではないか」
そう言って、正儀は朗色の表情を正友に見せた。
三月十日、将軍、足利義満が、三条坊門第から新しい御所、室町第に移った。室町北小路の室町御所と隣の菊亭の跡地に造営していた新しい将軍御所のうち、菊亭部分の南殿が落成したからである。庭内には鴨川から水が引かれ、四季折々の花木が植えられていた。色とりどりの花が咲くここを、人々は花の御所と呼んだ。
この年は、京に進出して成功を収めた観世大夫(結崎清次)が出家した年でもある。
隠居ではない。俗世とのしがらみを捨て、新たな高見を目指すためである。観世は法名である観阿弥陀仏の名で舞台に立つようになり、人々は略して観阿弥と呼んだ。さらに結崎座の屋号も観世座に改める。このことで、息子の藤若大夫こと結崎三郎元清も、観世三郎元清と名乗りを代えた。
六月、京の祇園会で、その藤若大夫と花の御所の主、足利義満が京の人々を驚かせる。
観阿弥は息子の藤若大夫とともに、将軍、足利義満の招きに応じて山鉾見物に随行していた。
輿から降りた義満が、あたりを見渡す。
「おお、今年も賑わっておるな」
「御所様は、あちらに造った桟敷に登って山鉾を御覧あそばせ」
将軍近臣の伊勢照禅(貞継)が手で示したその先には、幾つかの桟敷が設けられていた。手前の桟敷が将軍、義満のために用意されたもので、他の桟敷は内大臣ほか公卿たちのものであった。
「藤若をこれに」
義満の命で、近習が藤若と観阿弥を連れてくる。
「御所様にはご機嫌麗しゅう……」
「藤若、一緒に参れ」
観阿弥の挨拶を遮るように、義満が藤若を手招きする。そして、さっさと藤若を連れ立って桟敷に登り、傍らに侍らせた。
これには照禅ら、将軍の近臣たちが慌てる。
「御所様、藤若殿の席は別に設けてあります。皆の面前でもありますゆえ……」
義満の跡を追った照禅が耳打ちをした。その慌て振りに藤若は赤面して席を立とうとする。
「いや、構わぬ。藤若はここに居よ」
周囲の視線など、まったく気にすることなく、義満は藤若とともに山鉾巡行を見物した。かつての京極道誉の如き振るまいであった。
人々は、猿楽師を伴った義満の姿に驚くとともに、観阿弥・藤若親子の隆盛を感心する。しかしそればかりではない。将軍、義満から寵愛を受ける藤若に、嫉妬や嫌忌の感情を抱く者もいた。
通りを挟んだ向かいの桟敷からその様子を窺っていた先の内大臣、三条公忠もその一人である。
「出自の知れぬ猿楽師の子を可愛がるとは……将軍の気が知れぬ」
公忠は近習に溢して眉をひそめた。




