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第37話 歌合

 文中三年(一三七四年)六月十四日、京の都は祇園会《ぎおんえ》で賑わっていた。死者の鎮魂で、貞観十一年(八六九年)から始まったとされる御霊会《ごりょうえ》である。山・鉾《ほこ》と呼ばれる大きな山車《だし》が京の大路を練り歩き、公家・武士・町人《まちびと》を問わず、京の人々が皆、町中に出て高揚するひとときであった。

 あちこちの神社では桟敷《さじき》が設けられ、神楽《かぐら》だけでなく、田楽や久世舞《くぜまい》、鷺舞《さぎまい》などが奉納される。そんな中、結崎《ゆうざき》座の観世大夫《かんぜだゆう》(結崎《ゆうざき》清次)は、新熊野《いまくまの》神社の境内《けいだい》で申楽《さるがく》能を奉《ほう》じることになっていた。

 十七歳となった将軍、足利義満が、義母の大方禅尼《おおかたぜんに》(渋川幸子(ゆきこ))、実母の北向《きたむき》禅尼(紀良子)ら女衆と、伊勢照禅(貞継)を連れ立って見物に現れる。

 広大な新熊野《いまくまの》神社の境内も、すでにたくさんの見物人でごった返していた。その中央には舞台が作られ、三方から囲うように桟敷《さじき》が建てられていた。

 中央の一段高い席に腰を据えた義満の隣には、実母の北向禅尼ではなく、前将軍の正室、大方禅尼が当たり前のように座る。

「ここに入道殿が居《お》られぬのが残念でございますね」

 つい、大方禅尼の口を衝いたのは、前年に亡くなっていた京極道誉のこと。生前、結崎《ゆうざき》座の観世大夫を、ぜひ一度見るようにと勧めていた。

 舞台中央で挨拶する観世大夫を指差して、義満が照禅を呼び寄せる。

「あの者が、河内守《かわちのかみ》(正儀)の縁者という者か」

「はい、道誉殿によると、河内守(正儀)の叔母の子ということにございます。されど、京はいまだ楠木を憎む公家や武家も多く、楠木との縁《えにし》は伏せておるとか」

「ほほほ、それは、仕方がないことじゃ。のう義満殿」

 大方禅尼に口を挟まれるまでもなく、楠木へのわだかまりが簡単には払拭しないであろうことは、若い義満にも十分に理解できた。

 結崎《ゆうざき》座の出し物は、大和音曲《やまとおんぎょく》が引き立つ『松風』である。

『松に吹きくる 風も狂じて 須磨の高波 はげしき夜すがら 妄執《もうしゅう》の夢に 見ゆるなり……』

 笛・小鼓《こづつみ》・大鼓《おおづつみ》・太鼓《たいこ》からなる囃子方《はやしかた》の音色の中で、厳《おごそ》かに声を響かせ、時折、足を踏み鳴らし、観世大夫が舞った。義満は、猿楽でも田楽でもない、初めて見る観世の申楽《さるがく》能、大和音曲《やまとおんぎょく》に息を呑んだ。

 演目が進み、義満が食い入るように見るその先には、舞台の上で舞う十二歳の鬼夜叉丸《おにやしゃまる》が居た。

「何と美しい少年じゃ……」

 義満は、観世大夫の完成された雅《みやび》な動きとは異なる、鬼夜叉丸のきびきびした舞いと、色白で妖艶な顔に釘付けとなった。


 不如帰《ほととぎす》の初鳴きも済んだこの年の四月、正儀は足利義満に召し出され、将軍御所の三条坊門第に出向いた。

 将軍の左右には、幕府管領(かんれい)の細川頼之と近臣の伊勢照禅(貞継)が付き従っていた。

 正儀が座るのを待って、義満が前のめりになる。

「河内守《かわちのかみ》殿(正儀)、南方《みなみかた》の様子はどうであるか」

「はっ。賀名生《あのう》に移って半年以上が経ちますが、特に動きは見せておりませぬ。天野を失ったことで北侵への足掛かりを失い、今は閉塞せざる得ない状況かと存じます」

「左様か。それで、南主と弟宮《おとみや》の関係はどうじゃ」

 長慶天皇が熙成《ひろなり》親王への譲位を反古にしたことは、義満の耳にも入っていた。

 一瞬、正儀が口籠ると、すかさず頼之が代わる。

「南の帝(長慶天皇)と東宮《とうぐう》(熙成《ひろなり》親王)の関係は、もはや修復不可能な状況かと存じます。それぞれの後立てである北畠右大臣(顕能《あきよし》)と阿野大納言(実為《さねため》)は、抜き差しならぬ関係とか。のう、河内守殿」

「あ、いや、真偽のほどは……南主は弟宮《おとみや》様を廃太子とされたわけではなく、そこは以前と変わらないようにございます」

 伏し目がちに正儀が応じた。やはり、南朝の恥態を曝《さら》されることには抵抗があった。

「では、南主が退位し、弟宮《おとみや》にさえ践祚《せんそ》すれば、まだ、和睦は成る状況には変わりないということですな」

 噛んで含めるように、照禅が念を押した。

「御意。されど、南の帝(長慶天皇)の後立てとなっている北畠軍の力は侮《あなど》り難く。北畠卿(顕能《あきよし》)の跡を継いで伊勢国守となった嫡男、顕泰《あきやす》は、伊勢で活発な動きを見せております」

【本作では権限のない名目的な他国の国守と区別するため、北畠家の伊勢守《いせのかみ》は伊勢国守(こくしゅ)(国司)と記載する】

 細川の守護国でもある伊勢の話に、頼之が頷く。

「左様、北畠軍は上皇様(後光厳《ごこうごん》上皇)の喪も明けぬ二月十九日に、伊勢から南都(奈良)の般若寺まで兵を進め、我らが兵を差し向けると、三日後には伊勢に退きました。まるで我らを挑発していたかのように」

「おそらくは幕府の威信を落とし、諸将の乱れを誘うのが目的」

 正儀の解釈に、義満が興味深く頷く。

「左様か。武蔵守(頼之)、大軍を送ることができるか、一度検討してみよ」

「御意」

 深謀遠慮とは言えないが、若い将軍を立てて、頼之は頭を下げた。

「河内守、他の南軍はどうじゃ」

「河内・和泉の豪族たちへ、幕府に帰参するよう説得を続けております。昨年九月には淡輪《たんのわ》光重の兄、淡輪《たんのわ》忠重が幕府に従うと申してきました。この先も、幕府に降る者は続くと思われます」

「うむ、南方《みなみかた》の攻略は引き続き、河内守に任せるが、余は早く結果をみたい。急いで事にあたるがよかろう」

「ははっ」

 傍らの頼之や照禅の顔色を窺《うかが》う事もなく、義満は命《めい》を下した。


 山々の緑も濃くなった五月、橋本正督(まさただ)は、近臣の和田良宗とともに、数人の供廻りを連れて、雨山土丸《あめやまつちまる》城へ馬を進めていた。そろそろ真夏を思い出すような日差しの中、道の両側に広がる畑では、百姓たちが汗を流し、鍬《くわ》で土を耕している。どこにでもある光景であった。

 だが突然、十数人の百姓たちがいきなり、鍬《くわ》を刀に持ち替えて、一行の前後を塞いだ。

「百姓ではないな、何者だ」

 良宗が叫ぶと、百姓たちは頬かむりをとって顔を晒《さら》す。正督《まさただ》にとって見知った顔が何人も居た。

「わしじゃ、太郎(正督《まさただ》)。久しいのう」

 その頬かむりの下から現われたのは、正儀の顔であった。

「お、叔父上……」

 正督《まさただ》にとって、こうして正儀と対面するのは、およそ十年ぶりである。刀を抜いた良宗も正儀に驚き、刀を下げた。

 正儀の左右には聞世(服部成次)とともに篠崎正久が立っている。

「太郎兄者、このような形でお会いすることになり、申し訳けござらん」

 義弟が、神妙な顔で頭を下げた。

 橋本党の若い供廻りたちが応戦しようと刀を抜くが、良宗が両手を広げて間に入る。

「やめよ、やめよ、刀を収めよ」

「そうじゃ、この者どもはわしらに危害は加えぬ。安心しろ。この者と話がある。お前たちはしばらくここで待っておれ」

 供廻りの者たちを良宗に預け、正督《まさただ》は正儀と聞世、それに正久を伴って、少し先にある無人の御堂《みどう》へと歩いた。

「叔父上(正儀)の話はわかっております。されど、それがしは帝(長慶天皇)より、河内・和泉の守護を任じられている身の上」

 御堂《みどう》に入るなり、不遜な表情で正督《まさただ》が口を開いた。これまでも、正儀からたびたび幕府への帰参を促《うなが》す書状を受け取っていたからである。

「太郎、そう結論を急ぐな。しばらくぶりじゃ。そなたとゆっくり話がしたい」

 ひょうひょうとした口調で言葉を返しながら、正儀は腰を据えた。そして、続いて腰を下ろす正督《まさただ》の顔をしげしげと見入る。

「それにしても、兄者(楠木正行(まさつら))に似て参ったな」

 そんな正儀の態度に、正督《まさただ》は苦笑いを返す。

「叔父上、美木多《みきた》助氏殿にも、この様にして会われたそうですな」

「助氏殿が、そう申されたか……」

「その折、四條畷《しじょうなわて》の戦で助氏殿の祖父、美木多助家が幕府に通じておった事も……それに、父、助康殿が我が父(楠木正行(まさつら))の命《めい》で討たれたことも……」

「そうか、聞いたか……」

 二人の間に沈黙が生じた。

 一方、後ろに座った聞世と正久は、驚いて顔を見合わせている。二人とも知らぬことであった。

【注記:大中臣《おおなかとみ》氏系の「美木多《みきた》」は本来「和田《みきた》」と書くが、本作では楠木一門の「和田《わだ》」との混同を避けるために「美木多《みきた》」と書く】

「されど、叔父上が我が母とそれがしの間を割いたことに変わりはありますまい。それを聞いたところで、それがしの叔父上に対する思いは変わりませぬ」

「うむ、それで構わぬ」

 義姉《ぎし》、内藤満子(みつこ)のことで抗弁するつもりはなかった。むしろ、満子を助ける手立てを思いつかなかった若き日の自分を責めていた。だが、当時、正儀は数えの十八歳とあまりにも若すぎた。

「それがしは助氏殿を恨みはせぬが、その祖父、助家が幕府に通じていなければ、父(正行《まさつら》)は死なずとも済んだと思うと、悔しくてなりませぬ」

 そう言うと、正督《まさただ》はぎりっと拳を握り締めた。

「いや、兄者はいずれにせよ、討死したであろう。それは、兄者自身が討死を決意していたからじゃ。兄者は戦場《いくさば》から逃げようと思えば逃げられたはず。現に助氏殿は負傷した者を連れて脱出した」

「父は、自ら討死を望んでいたと言われるか」

「お前の父ばかりではない。次郎兄者(楠木正時)や従兄弟の賢秀《けんしゅう》(美木多正兄(まさえ))・賢快(けんかい)(正朝《まさとも》)も、いったん戦場《いくさば》から逃げおおせたにもかかわらず、舞い戻って討たれたのじゃ。四條畷《しじょうなわて》の戦は、皆が死地を求めるような戦であった」

 当時を思い出すように、正儀は目を閉じた。

「なぜ、そのような事を」

「自らの死を見せつけたい相手がおった……ということか」

 意外な返答に、正督《まさただ》は顔を歪《ゆが》める。

「いったい誰に」

「わしはお亡くなりになる前の北畠准后(じゅごう)様(親房)を訪ねた。少なくとも北畠卿は兄者の討死を、自分への当て付けと思われたようじゃ。兄者は無理な軍略を武士に求める北畠卿らに反発しておった。自らの死をもって、朝廷の政《まつりごと》を正したいという気持ちがあったのであろう。それはわしとて同じじゃ」

「父は公卿《くぎょう》らに不満を持っていたと……」

「いったい誰のための戦であったか。先帝(後村上天皇)の御為《おんため》になったであろうか。民のためになったであろうか。されど、兄者は先帝への忠節、思い深き武将であった。先帝の勅命《ちょくめい》には従わねばならん……お前の祖父、正成の死もしかりじゃ」

 御堂《みどう》の窓越しに、正儀が遠くに目をやる。格子の間には眩しいばかりの緑が溢れていた。

「それで、負けると判った戦に出陣し、無理を強いた公卿《くぎょう》に己の死を見せ付けたと……」

 正督《まさただ》は己の迷いに対する答えを探していた。天野陥落以降、進むべき道がわからなくなっていたからである。確かに賀名生《あのう》は、武士を道具として見ている。自然と廟堂への足も遠のいていた。

「どう思うかはお前の勝手じゃ。されど、わしは兄者や父上の死を無駄にしたくないと思うた。是が非でも、君臣和睦を実現し、兄者や父上、そして先帝の墓前に報告したいと思うておる」

「それが叔父上の君臣和睦……」

 その思いに、正督《まさただ》は口を閉ざす。

 二人の間に格子を通してじわじわと蝉の声が通り抜ける。

 しばらくの沈黙の後、正儀が立ち上がる。

「太郎に会って語りたかったのはそれだけじゃ。では、わしは戻る」

「叔父上、それがしに幕府への帰参を求めぬのですか」

「わしが言いたいことはすでにお前には伝わったはず。後はそなたが考えることじゃ」

 そう言うと、正儀は聞世とともに外に出て陽ざしを受ける。正久は義兄、正督《まさただ》に目を合わせ、ゆっくりと頷いてから、正儀のあとを追いかけた。


 南朝側の河内・和泉の守護であった橋本正督(まさただ)は、正儀を通じて幕府に帰降した。さらにこれに続くように、美木多助氏・助朝(すけとも)親子も幕府に帰参する。

 正儀は、強硬派の和田正武こそ、河内との国境《くにざかい》近くへ追い払わざるを得なかったが、田代顕綱(あきつな)、淡輪《たんのわ》忠重《ただしげ》・光重(みつしげ)兄弟、美木多助氏・助朝(すけとも)親子、そして橋本正督(まさただ)ら、他の和泉国諸将には幕府への帰参を説き、血を流すことなく、ほぼ和泉全土を幕府の勢力下に置いた。無駄な殺生を好まない正儀らしいやり方である。

 また、河内においても、天野《あまの》行宮《あんぐう》から帝(長慶天皇)が動座したことで、既に南河内の過半が幕府の勢力下に置かれていた。

 両国の年貢や、堺浦など交易の拠点も失い、南朝の財政はよりいっそう厳しいものとなる。畿内の他の領国といえば、伊勢半国と紀伊国、あとは吉野郡など山深い大和南部のみであった。

 正儀と細川頼之の次なる狙いは紀伊国である。南朝の台所事情は、いまや紀伊の年貢にその大半を頼らざるを得ないからであった。紀伊の諸将が幕府に帰参すれば、さすがに強硬な帝(長慶天皇)といえども、和睦せざるを得ないであろうと考えてのことである。

 早速、正儀は紀伊の南朝方、湯浅党の湯浅宗隆(むねたか)らに幕府帰参を求める書状を送った。


 同じころ、賀名生《あのう》の行宮《あんぐう》では、橋本正督(まさただ)の幕府帰参に、公家たちがうろたえていた。正儀の時と同じである。たとえ天野行宮(あんぐう)の戦で出兵を拒否したとはいえ、最後の一線を越えて幕府に付くことはないであろうと高《たか》を括《くく》っていた。正督《まさただ》は、南朝武士の精神的な支柱である楠木正成の嫡孫《ちゃくそん》であり、日和見な土豪の裏切りとはわけが違った。

 この事態に、右大臣の北畠顕能(あきよし)は、河内と和泉との国境《くにざかい》、仁王山城に居た楠木正澄(まさずみ)を、賀名生《あのう》の行宮《あんぐう》に召し出した。

 冠に束帯《そくたい》姿の正澄が顕能《あきよし》の前に進むと、すでに、和泉守、和田正武も座っていた。

 顕能《あきよし》が正澄を睨み付ける。

「伊予守《いよのかみ》(正澄)、民部大輔《みんぶのたいふ》(正督《まさただ》)が裏切って幕府に降ったぞ。この不始末、どうしてくれる」

 一見、見当違いのようではあるが、正澄も正督《まさただ》の叔父である。

「はっ。それがしも昨日聞いたところです。おそらく我が兄、正儀が幕府に引き込んだのでしょう。身内の不祥事、まことに申し訳ありませぬ」

「まさか、そなたも我らを裏切るのではあるまいな」

 頭を下げる正澄に、顕能《あきよし》が追い打ちをかけた。

「右府《うふ》様(右大臣)、それはあまりにも……伊予守殿は、裏切りを前提に、この場にのこのこと来るような男ではありませぬ」

 見かねた正武が口を挟んだ。

「そなた、本当に兄と通じておらぬのじゃな」

「御意《ぎょい》」

 ならばと顕能《あきよし》が話を切り出す。

「河内・和泉の守護を早急に決めねばならん。御上《おかみ》(長慶天皇)は伊予守(正澄)にと仰せじゃ。困惑するであろう諸国の武士に、一刻も早く、楠木の者が両国の守護となったことを知らせねばならん」

 すると、正澄は神妙な顔つきで頭を上げる。

「それがし如きに守護など……この上もなきありがたき話なれど、楠木正成の血筋を重んじるのであれば、どうか、東条の少輔《しょうゆう》(楠木正勝)を任じていただけないでしょうか」

【注記:本作の東条は、佐備川流域の旧東条村一帯だけではなく、当時、指し示していたとの説もある東条川(千早川)流域の赤坂や水分までを含む西条川(石川上流)東側の広域としている】

 しかし、顕能《あきよし》は首を横に振る。

「それはならぬ。正勝は憎き正儀の嫡男じゃ」

「されど、それがしとて正儀が舎弟。少輔《しょうゆう》(正勝)は、己の父、正儀とも縁を切り、こうして南方《みなみかた》を支えております」

「いや、正勝の母は新待賢門院《しんたいけんもんいん》(阿野廉子)の侍女であった伊賀局(篠塚徳子)。決して御上《おかみ》は、正勝の守護職を許すまい。そなたが受けぬのであれば、公家の誰かを任じてもよいのじゃぞ」

 かつて、一の宮の寛成《ゆたなり》親王(長慶天皇)を押しのけて、熙成《ひろなり》親王の践祚《せんそ》に動いていた新待賢門院《しんたいけんもんいん》と、正儀を結び付けたのが徳子であった。

 そもそも、顕能《あきよし》としては、東宮《とうぐう》(熙成《ひろなり》親王)寄りの楠木家を守護とすることには抵抗があった。しかし、諸国の動揺を抑えるには、楠木正成の血筋に頼らなければならない。そこで、妥協点として見出したのが楠木正成の末子で、分家筋である正澄であった。

 甥の任官が無理だと悟った正澄は、話を受けるしかない。

「承知つかまつりました。慎んでお受け致します」

「うむ、殊勝な心掛けじゃ。御上《おかみ》は、そなたの任官に際し、新たな名を授けたいと仰せで、麿によい名を考えるように命じられた」

「名……でございますか」

「そうじゃ。正澄という名は、憎き正儀が付けた名であろう。斯様《かよう》な名のまま、守護に任じる訳にはいかぬ」

 最初の諱《いみな》、朝成《ともしげ》を、楠木の通字《とおりじ》、『正』の字が入った正澄《まさずみ》に変えたのは正儀であった。

「我が諱《いみな》の『顕』の字を、そなたに与えることにした。御上《おかみ》の前では『正顕《まさあき》』の名を、ありがたく受けるがよかろう」

「は……ははっ」

 橋本正督(まさただ)の時と同じである。正督《まさただ》も、正儀が付けた正綱の名を捨てて、除目《じもく》を受けなければならなかった。

 兄が与えてくれた名を捨てることは、正澄には辛いことである。しかし、この場においては、その命《めい》を、ただ受けることしかできなかった。


 正澄が退席しても、正武は顕能《あきよし》の前に残っていた。

「小太郎殿……いえ、少輔《しょうゆう》殿(楠木正勝)では本当に駄目だったのですか」

「将来のことを考えてのことじゃ。正勝が守護となれば、伊予守は正勝を支える。楠木家は正勝の子の代となっても安泰じゃ。逆に伊予守が守護となった場合はどうなるか。伊予守にも子がおろう。伊予守が亡くなった後は、必ずや伊予守の子と正勝との間で争いが起こる。楠木は大国河内と和泉二か国の大名じゃ。あまり力を持たせ過ぎぬよう、今からでも火種は残しておくべきなのじゃ」

 北畠親房譲りの権謀術策《けんぼうじゅっさく》に、正武は何ともいえぬ恐ろしさを感じた。


 翌々日、楠木正澄は早くも賀名生《あのう》に出仕して『正顕』の名を賜《たまわ》る。そして、南朝方の河内・和泉二か国の守護に任じられた。結果、河内・和泉の二か国は、血を分けた兄弟が、南朝と北朝の異なる朝廷からそれぞれ守護を任じられるという皮肉な事態となった。


 正儀は、幕府に伏した橋本正督(まさただ)を、平尾城に招いた。本丸(主郭)に建てられた館の広間で、二人が向かい合う。

「ここが叔父上の新たな城ですか」

「うむ、いまだ、瓜破《うりわり》城との通いではあるがな」

 正儀は久方ぶりの笑みを正督《まさただ》に見せた。だが、正儀の元を出奔して今がある正督《まさただ》は、いまだ、どこかぎこちない。

「叔父上(正儀)は、それがしや美木多助氏殿に対しては積極的に幕府に帰参を求められました。なのに、持国丸、いや、小太郎(楠木正勝)に帰参を求めていないのはなぜにございますか」

「小太郎と相対するのは真に辛い事じゃ。小太郎や四郎(楠木正澄改め正顕)が一緒に居《お》ってくれれば、どれだけ心強いことか。されど、小太郎らは南方《みなみかた》に残って、わしができなかった事を務めてくれておるのじゃ」

 正督《まさただ》が不思議そうな表情を浮かべる。

「……というと」

「わしは先帝(後村上天皇)の血脈をお助けするために、幕府に伏した。されど、常に、南方《みなみかた》に留まり直接、帝(長慶天皇)や東宮《とうぐう》様(熙成《ひろなり》親王)をお守りしたいという気持ちとの葛藤であった。その一方の役割を小太郎らは引き受けてくれておる」

「では、なぜ、それがしにその役目、求めませなんだ」

 その問いに、正儀は正督《まさただ》の隣に置かれた太刀《たち》に目を落とす。長慶天皇に下賜された雲切《くもきり》である。

「もし、そなたが南方《みなみかた》に残れば、そなたとは本気で殺し合わねばならなんだであろう……」

 正儀は、正督《まさただ》が小首を傾げるのを待って話の先を続ける。

「……小太郎には四郎がいてくれる。あやつなら、必ず、我が意を酌んで、骨肉相食《こつにくあいは》むようなことは避けるであろう」

 正督《まさただ》にも思い当たる節があった。瓜破《うりわり》城や榎並《えなみ》城の戦で、正儀と正澄は手を抜いているようには見えなかった。だが、なぜかすんでのところで直接戦うことはなかった。二人の間には阿吽《あうん》の呼吸があったからである。

 壮大な芝居に付き合わされていたのかと、正督《まさただ》は苦笑いを浮かべた。


 ―― ひーひん、ぶるる、ひん ――

 館の外に馬の嘶《いなな》きが聞こえる。何やら外が騒がしくなった。

「うむ、来たようじゃな」

「叔父上、客人でござるか。何方《どなた》でございます」

「うむ、もう直わかる」

 そう言って、正儀は正督《まさただ》を焦《じ》らした。

 しばらくすると、篠崎正久が客人を連れて、正儀らの前に現れる。

「父上、お連れしました。では、太郎兄者、それがしはこれで」

 正久は、軽く正督《まさただ》に目配せして出て行った。

 そこには、一人の侍が残された。

「そなたは……」

 見覚えのある顔に、正督《まさただ》は思わず声を上げた。目の前に、能勢《のせ》の池田兵庫助(ひょうごのすけ)十郎教正(のりまさ)が立っていた。ともに、楠木正行(まさつら)を父、内藤満子を母に持つ兄弟の対面である。四條畷《しじょうなわて》の戦の後、不幸にも互いの存在を知らずに育ち、戦場《いくさば》で敵として相見《あいまみ》えた二人であった。

 教正《のりまさ》が正督《まさただ》の前でかしこまる。

「兄上、それがしが兄上とお呼びしてもよいのでしょうか」

「教正《のりまさ》……と申したか。そうか、わしには弟がおったのじゃな」

 血を分けた兄弟の、四半世紀を隔てた名乗りであった。

「こうして会うのは初めてであろう。ゆるりと話すがよい」

 そう言うと、正儀は立ち上がって広間を出て行った。

 その後姿を目で追った教正《のりまさ》が、正督《まさただ》に向き直す。

「これまで、敵味方として戦場《いくさば》で相見《あいまみ》えることしかなかった兄上と、まさかこうやって、名乗り合うことができようとは、夢のようにございます」

 そう言う教正《のりまさ》の瞳は、小さな輝きを留めていた。

「叔父上とは、懇意な仲であったのか……」

 正督《まさただ》が教正《のりまさ》と戦場《いくさば》で相対した時、教正《のりまさ》は楠木一族を、そして正儀を恨んでいた。それが、正儀が教正《のりまさ》を呼びつけるほどの間柄《あいだがら》になっているのは不思議なことであった。

「いえ、それがしは、つい先日まで……いや、もしかすると今でも、楠木正儀を恨んでおりまする。されど、先日、あの者が能勢《のせ》を訪れ、それがしに頭を下げて懇願するのです。河内に来てくれと。幕府に参じた兄上と会うてくれと……」

 教正《のりまさ》の話に、正督《まさただ》は胸を強く打たれる。自分のために、能勢《のせ》まで出向いて頭を下げた正儀に、何とも言い様のない思いが込み上げていた。


 この年の初冬。気韻《きいん》漂う老境の貴人が、二十人ばかりの従者を従えて吉野山に入った。その貴人が金輪王寺《きんりんのうじ》の前で、本堂を見上げて佇《たたず》む。

「かつてここが、焼け野原になっていたとはのう」

 それは、四條畷《しじょうなわて》の戦の直後であった。高師直《こうのもろなお》によって、行宮としていた金輪王寺《きんりんのうじ》や蔵王堂を始めとする吉野山の伽藍《がらん》は、灰塵に帰した。二十七年の歳月を経ても、その傷は癒えていない。しかし、厳しい冬の後にも若い緑が芽吹くように、再建は進んでいた。


 続いて一行は、後醍醐天皇の御陵《ごりょう》がある吉野山の如意輪寺《にょいりんじ》に向かった。

 寺を見下ろすように造られた塔尾陵《とうのおのみささぎ》に向かって手を合わせる一行の前に、立ち烏帽子《えぼし》を被った一人の公家が現れる。

「もしや、信濃宮《しなののみや》様ではございませぬか。先の征夷大将軍、信濃宮《しなののみや》宗良《むねよし》親王様ではございませぬか」

 問いかけた男は大納言《だいなごん》の阿野実為(さねため)。公家一行が吉野山に現れたと聞き、急ぎ駆け付けてきたのであった。

 宗良《むねよし》親王とは後醍醐天皇の第四皇子で、先帝(後村上天皇)の兄宮であった。東海道を治めるため、遠江国《とおとうみのくに》井伊谷《いいだに》の南朝方豪族、井伊《いい》高顕《たかあき》を頼って下向した。南朝が京を回復した正平《しょうへい》の一統《いっとう》の折には、先帝(後村上天皇)によって征夷大将軍に任じられ、鎌倉争奪をかけて足利尊氏と戦って敗れた。その後、信濃に拠点を移し、南朝勢力の拡大を目指した。

「いかにも我《み》は宗良《むねよし》じゃ。そなたは誰ぞ」

【注記:貴人の一人称として用いている「我《み》」は本来「身《み》」と書くが、本作ではわりやすいよう「我《み》」と記載する】

 親王は実為《さねため》との面識がなかった。たとえあったとしても三十六年の年月が記憶を消し去っていた。

「麿は、亡き権《ごん》大納言、阿野実廉(さねかど)の息子で実為《さねため》と申します。父や兄が亡くなった後、阿野家の跡を継いでおります」

「そうであるか。そなたが実廉《さねかど》の……廉子《かどこ》様の甥子《おいご》殿ということじゃな」

 知っている名が出てきたことに、親王の表情が緩む。

「御上《おかみ》(長慶天皇)が天野《あまの》から動座されたと聞いて、賀名生《あのう》に向かう途中なのじゃが……なぜ、そなたはここにおるのか」

 正儀ら幕府軍が南朝の天野《あまの》行宮《あんぐう》を攻め、帝が賀名生《あのう》に行幸《ぎょうこう》してから、すでに一年以上が経っていた。

「そのお話は後でゆるりと。ひとまず、我らが住まう吉水《きっすい》院までお越しください。東宮《とうぐう》様(皇太弟/熙成《ひろなり》親王)がお待ちです」

 吉水《きっすい》院とは役小角《えんのおづの》(役行者《えんのぎょうしゃ》)が創建したと伝えられる吉野山の修験僧の僧坊である。後醍醐天皇が最初に吉野山に入った折、同院の宗信《そうしん》法印《ほういん》が迎え入れ、吉野山最初の行宮《あんぐう》となった場所でもあった。

「何、東宮《とうぐう》様がおられるのか」

 親王には全てが疑問であった。

「御意《ぎょい》。嘉喜門院《かきもんいん》様(阿野勝子)も居《お》られます」

 天野山《あまのさん》金剛寺に取り残されていた南朝の公家や女房衆は、翌年の春先には、正儀が幕府管領(かんれい)の細川頼之に願い出て、無事に南朝側に返されていた。

「嘉喜門院《かきもんいん》様までも……あのお方には、歌の手解《てほど》きをしたこともある。時折、歌も交わしておった。懐《なつ》かしいのう」

 そう言って、しみじみと頷いた。

 後醍醐天皇の御陵《ごりょう》を後にした宗良《むねよし》親王は、自身の境遇を思い、歌を詠む。

『同じくは ともに見し世の人もがな 恋しさをだに 語りあわせむ』

 見知った人が居なくなったと哀しみ、昔を懐《なつ》かしむ心情を歌っていた。


 吉野山の吉水《きっすい》院に入った宗良《むねよし》親王は、さっそく東宮《とうぐう》(皇太弟)、熙成《ひろなり》親王に帰還の報告を行った。

 年が明ければ数えて二十六となる熙成《ひろなり》親王が労いの声をかける。

「長きに渡る信濃での務め、父帝《ちちみかど》(後村上天皇)に代わって礼を申します」

 その言葉に宗良《むねよし》親王が畏《かしこ》まる。

「もったいなき御言葉を賜《たまわ》り、恭悦《きょうえつ》にございます」

「信濃では、さぞかしたいへんな思いをされたものと存じます。これまでの宮様のご苦労、我《み》にお聞かせ願えませぬか」

「募る話もございますが、先に一つ、お教えください。なぜ、東宮様(熙成《ひろなり》親王)が吉野山におられるのですか」

 熙成《ひろなり》親王に代わり、大納言の阿野実為(さねため)が口を開く。

「ごもっともなことです。それは、麿からお答え致しましょう」

 実為《さねため》は、まずは、天野山金剛寺の行宮《あんぐう》で起こった、幕府軍の侵攻から話した。

「そうであったか。天野はそのようなことに……あの楠木正成の息子が幕府に降ったと聞き、信じられぬ思いであった。なるほど、それで合点がいった。楠木は和睦を進めるために幕府に降ったというのじゃな」

「はい、その通りでございます。一旦、御上《おかみ》(長慶天皇)は、東宮様への御譲位を御英断されました。されど、和田和泉守(いずみのかみ)(正武)の軍勢に脅されるようにして、東宮《とうぐう》様と我らは賀名生《あのう》に入りました。その直後、伊勢から北畠右府(右大臣)様が賀名生《あのう》に入り、武力で神器を抑え、東宮《とうぐう》様への践祚をなきものといたしました」

「なるほど……」

 宗良《むねよし》親王は眉間に皺《しわ》を寄せた。

「それ以降、我らと北畠卿はあらゆることで揉めておりました。そんな時、賀名生《あのう》の行宮《あんぐう》が焼失しました。放火か失火かさえわからぬ中で、双方ともが疑心暗鬼となり、これ以上、要らぬいさかいを生まぬよう、東宮《とうぐう》様は賀名生《あのう》を出て、ここ吉野山に移ったという次第です」

 今から十五年近く前、賀名生《あのう》の行宮《あんぐう》は、興良《おきよし》親王と赤松氏範の反乱で燃え落ち、その後、再建されていた。しかし、再び焼失したのであった。

「そなたたちが火を放った、ということではないのじゃな」

「滅相もございませぬ。誓ってそのような事はありませぬ」

 実為《さねため》から目を外した宗良《むねよし》親王は、深刻な顔で溜息をついた。実為《さねため》の説明が正しいかどうかは兎も角として、南朝そのものの危うさを感じ取ったからである。

 いさかいは公家のみならず、南朝の武家をも巻き込んでいた。楠木一門においては、和田正武が帝を奉《ほう》じ、正儀の後を継いだ楠木正勝が熙成《ひろなり》親王を奉《ほう》じていた。楠木本家が熙成《ひろなり》親王を奉《ほう》じるのは、やはり、阿野廉子(かどこ)お付きの女房であった徳子の影響が大きかった。


 続いて宗良《むねよし》親王は、熙成《ひろなり》親王の母で、髪を落とした嘉喜門院《かきもんいん》(阿野勝子)にも会う。

「宮様(宗良《むねよし》親王)、よくぞご無事でお帰りになられました」

「かたじけのうございます。こうして、嘉喜門院《かきもんいん》様にお会いするのは、歌をお教えして以来でございますな」

「かれこれ三十年以上も昔になりましょうか。宮様の教えは、今でもこの胸に、しかと残っております」

 嘉喜門院《かきもんいん》との会話に、親王は若かりし頃に思いを馳せる。

「そう、あれは井伊谷《いいだに》に向かう前。女院様もまだ幼うございましたな」

「井伊谷《いいだに》や信濃では過酷な日々を過ごされていたと聞きおよんでおります。悲願を達成するためとはいえ、ただただ頭が下がる思いでございます」

「いえ、期待に応えることができず、自らを恥じております」

 宗良《むねよし》親王は伏し目がちに応じた。兄宮《あにみや》の護良《もりよし》親王とは異なり、自身は武人気質ではなく、歌を好む心優しい皇子であった。結果、九州に下向した弟宮《おとみや》、征西将軍の懐良《かねよし》親王のように南朝勢力を拡大することはできなかったからである。

「ところで、賀名生《あのう》のありさま、阿野大納言よりお聞きしました。まさか、このようなことになっていようとは……ただただ驚くばかりです」

 残念そうに宗良《むねよし》親王は語った。

 すると、嘉喜門院《かきもんいん》の表情はみるみる曇る。

「両方を止められないこと、母として申し訳なき限りです。先帝(後村上天皇)に何と言ってお詫びしてよいものか」

「嘉喜門院《かきもんいん》様は実の子である東宮《とうぐう》様(熙成《ひろなり》親王)と、母をなくされた御上《おかみ》(長慶天皇)を同じように愛《いと》しく接してこられたと聞き及んでおります。朝廷が二分したこの状況、さぞかし御心を痛めておいででしょう」

 一縷《いちる》の涙が嘉喜門院《かきもんいん》の頬を伝う。

「先帝の御血《おんち》を引く二人が争うことは、母としてこれほど辛いことはありませぬ。朝廷が南北に分かれ、さらにこのままでは吉野山・賀名生《あのう》が二つに分かれるやも知れませぬ。大叔母の新待賢門院《しんたいけんもんいん》様(阿野廉子(かどこ))のように、政《まつりごと》に口を挟むつもりはありませぬ。ですが、この争いを収めるために、わらわにできることがあれば、身を挺したいと、いつも思うております」

 しおらしい嘉喜門院《かきもんいん》の態度は、宗良《むねよし》親王の同情を誘う。

「そのように心を痛めておいででしたか……我《み》はひとまず、賀名生《あのう》に向かいます。御上《おかみ》とも話をして、東宮《とうぐう》様と折り合える道を探ってみましょう」

 そう言って、親王は嘉喜門院《かきもんいん》を安堵させるかのように、ゆっくりと頷いた。


 吉野山から賀名生《あのう》に向かった宗良《むねよし》親王の一行は、途中、賀名生《あのう》からやってきた数名の公家に迎えられる。親王は先に使いを走らせていたからであった。

 三十《みそじ》前の優しそうな顔をした公家が、親王の前に進み出る。

「信濃宮《しなののみや》様(宗良《むねよし》親王)の御一行とお見受け致します。知らせを受け取り、お迎えに参りました」

「うむ、ご苦労であった。して、そなたは」

 宗良《むねよし》親王は吉野を離れて久しく、顔がわからない者ばかりであった。

「申し遅れました。花山院《かざんいん》長親《ながちか》でございます」

「そうか、貴公が花山院中納言……思い描いたとおりの男よのう」

 その名に、宗良《むねよし》親王の顔はほころんだ。

 花山院家は学者であり、宮廷歌人の家柄である。実際に会うのは初めてであったが、歌人の長親とは遠く離れていても歌のやり取りをする仲であった。

 宗良《むねよし》親王は高名な歌人である。母の二条為子(ためこ)もまた高名な歌人であった。為子は、新古今《しんこきん》和歌集の撰者《せんじゃ》で、歌聖《かせい》と呼ばれた藤原定家(さだいえ)(ていか)の血筋、二条御子左(みこひだり)家の出身である。親王も母の才能を受け継いで和歌に親しみ、幼くして歌合《うたあわせ》に出るほどの腕前であった。

『親のおやのためしをみつる我が身かな 君の君なる世につかうとて』

 親王は一首詠んだ後に続ける。

「そなたが祖父の師賢《もろかた》同様に、今の朝廷を何とかしたいと思う気持ち、痛いほど伝わって参った。だから我《み》は来たのじゃ」

 長親の祖父の花山院《かざんいん》師賢《もろかた》は、後醍醐天皇の討幕活動に早くから加わり、元弘の変が勃発すると、敵を欺《あざむ》くべく、帝に扮して比叡山に登った公卿《くぎょう》である。当時、天台《てんだい》座主《ざす》(比叡山延暦寺の貫主)を継いでいた宗良《むねよし》親王は、師賢《もろかた》を帝の身替りとして迎え入れると、還俗《げんぞく》して、兄宮の護良《もりよし》親王とともに比叡山に挙兵したのであった。

「麿が送った歌で、宮様をお呼び立てすることになり、まことに申し訳なく存じます」

 今の南朝を憂いた長親は、数首の歌に託して、宗良《むねよし》親王に救いを求めた。歌詠みの才に長ける親王は、これを読み解き、信濃を息子の尹良《ゆきよし》親王に任せ、三十六年ぶりに吉野に戻って来たという次第である。

「いや、良いのじゃ。されど、まさか東宮(熙成親王)が、吉野山に出奔するまでになっていようとは……」

 深刻な南朝の状況に、親王の表情は曇る。

「……東宮には既にお会いし、お話を伺った。この後、帝(長慶天皇)に拝謁し、お気持ちを確かめましょう」

「かたじけなくぞんじます。では早速、仮宮《かりみや》へお越しください。御上《おかみ》(長慶天皇)と右大臣北畠卿(北畠顕能(あきよし))がお待ちです」

 ぎりっと口元を引き締めた長親に導かれ、宗良《むねよし》親王は賀名生《あのう》へ入った。


 帝(長慶天皇)は燃え落ちた賀名生《あのう》の行宮《あんぐう》から、同地の崇福寺《そうふくじ》(総福寺)に移り、ここを御所としていた。この仮宮《かりみや》で、帝は御簾《みす》も垂らさず、花山院長親に先導された宗良《むねよし》親王を迎える。

 帝の傍らには、関白左大臣の二条教頼(のりより)と、右大臣の北畠顕能(あきよし)が控えていた。

 教頼《のりより》は帝の意向を受け、兄、二条教基(のりもと)に代わって関白の座にあった。一方、阿野実為(さめため)の行動を容認した教基《のりもと》は、隠居に追い込まれていた。

 平伏して帰還を報告する親王を気遣い、帝はその顔を上げさせる。

「信濃宮《しなののみや》には、永きに渡り苦労を掛けてしまった。赦《ゆる》されよ」

「まこと、宮様の御苦難には、ただただ頭が下がります」

 神妙な表情で、二条教頼(のりより)が頭を下げた。

 しかし、宗良《むねよし》親王は項垂《うなだ》れる。

「成果を上げることができぬままに、吉野(西吉野の賀名生《あのう》)に舞い戻る事となり、心苦しいばかりでございます」

 後醍醐天皇は、第十代崇神(すじん)天皇の国造りに習い、今世の四道《しどう》将軍として自らの皇子を地方に送り、豪族たちを従えようとした。

 第四皇子の宗良《むねよし》親王(信濃宮《しなののみや》)は東海へ差し向けられた。

 第十一皇子の満良《みつよし》親王(花園宮)は四国に入り、土佐で細川定禅(じょうぜん)らと争うが敗れ、海を渡って中国(山陽・山陰)へ落ち延びた。

 第三皇子、護良《もりよし》親王(大塔宮《おおとうのみや》)の子、興良《おきよし》親王(大塔若宮《おおとうのわかみや》)は後醍醐天皇の養子となり、常陸国《ひたちのくに》に差し向けられた。先に彼《か》の地に赴《おもむ》く予定であった義良《のりよし》親王(後村上天皇)の代わりである。しかし、関東経営に失敗した北畠親房とともに、失意のうちに吉野に戻った。

 また、第一皇子であった尊良《たかよし》親王の子、居良《いやよし》親王(宇津峰宮《うづみねのみや》)も同様に後醍醐天皇から親王宣下を受け、北畠顕信(親房の次男)とともに陸奥国《むつのくに》に向かった。しかしこちらも、幕府方に追われて出羽《でわ》へ逃れ、結局、この地に南朝地盤を築くことはできなかった。

 唯一、気を吐いたのが、九州へ向かった第八皇子、懐良《かねよし》親王(征西将軍宮《せいせいしょうぐんのみや》)であった。親王は在地の菊池武光(たけみつ)らとともに、一時は大宰府を占領して九州全土を南朝の支配下に置いた。だが、管領、細川頼之が、渋川義行に代えて今川了俊(りょうしゅん)(貞世《さだよ》)を九州探題(たんだい)に任じると、幕府に大宰府を奪還されて九州の支配権を失う。この冬、隈部《くまべ》城に征西府《せいせいふ》を移した懐良《かねよし》親王は、帝(長慶天皇)の弟宮《おとみや》である良成《よしなり》親王(後征西将軍宮《ごせいせいしょうぐんのみや》)に征西将軍職を譲って一線を退いていた。

「残念なことではあるが、関東も陸奥《むつ》も、畿内も九州も、逆賊によってこのありさまじゃ。決して宗良《むねよし》親王を責められようものか。朕《ちん》は、親王が無事に戻られたことが何よりと思う」

 弟宮《おとみや》の熙成《ひろなり》親王とも疎遠となった帝は、血の繋がった親王との対面に、喜びもひとしおであった。

「賀名生《あのう》では、いろいろとございましたようですな。御心中、御察し致しまする」

 そう言って、宗良《むねよし》親王は一同の顔色を窺《うかが》う。

 帝はやや視線を落として沈黙し、教頼《のりより》は顔を強張らせていた。

 一方、右大臣の顕能《あきよし》が、きっと目を吊り上げる。

「阿野大納言(実為《さねため》)らの行動は、御上《おかみ》に対して謀反《むほん》も同然。いずれ厳しい処罰が必要です。じゃが、むやみに罰せれば、朝廷を二分しかねませぬ。今は御上《おかみ》の御配慮で、吉野山に蟄居《ちっきょ》いただいている次第です」

 熙成《ひろなり》親王と阿野実為(さねため)らが吉野山に入った事を、顕能《あきよし》は蟄居《ちっきょ》と言い換えた。

「左様でございますか」

 親王は軽く聞き流しつつ、横目で皆の顔色を伺った。

 場の空気を察して、花山院長親が話題を変える。

「御上《おかみ》、信濃宮《しなののみや》様(宗良《むねよし》親王)は歌聖《かせい》の御血筋であられます。折角ですので、歌についてお聞きしてはいかがでしょうや」

「おお、そうであった。朕《ちん》にも、一度、歌の手解《てほど》きを願いたい」

 帝も和歌や漢詩《かんし》などに通じた文化人の一面もあった。

 歌と聞いて、親王は微笑んで頷く。

「それでは歌合《うたあわせ》などいかがでありましょう」

「おお、それはよい」

 帝は宗良《むねよし》親王の提案を、二つ返事で了承した。


 年が明け、文中四年(一三七五年)正月。賀名生《あのう》に建つ崇福寺《そうふくじ》の仮宮《かりみや》で、五十番歌合(うたあわせ)が催される。帝(長慶天皇)を初め、関白左大臣の二条教頼(のりより)や右大臣の北畠顕能(あきよし)、それに大納言に昇進した葉室《はむろ》光資《はるすけ》など、賀名生《あのう》の公卿《くぎょう》や女御《にょうご》、公家らが出席した。

 帝の傍《かたわ》らには第一皇子である世泰《ときやす》親王も座っていた。

「これは一の宮様(世泰《ときやす》親王)、ご機嫌麗しゅうございます。今日は皆の歌をお楽しみくだされ」

 宗良《むねよし》親王は微笑んで挨拶を交わした。

 帝が目配せすると、意を汲んだ光資《はるすけ》が、口を開く。

「一の宮様は来月、加冠《かかん》の儀(元服式)を迎えます。御上《おかみ》は信濃宮《しなののみや》様(宗良《むねよし》親王)に加冠《かかん》役をお願いできないかと仰せでございます」

「ほお、それはめでたき事。喜んで引き受けましょう」

 親王は口元をほころばせて快諾した。加冠《かかん》役とは武士の元服でいうところの烏帽子親《えぼしおや》である。

「加冠《かかん》役と言わず、いっそ、世泰《ときやす》の後見を願いたいものじゃ。のう、右大臣」

「げにも。一の宮様にとって、これ以上の心強い御味方はありますまい」

 帝は右大臣の顕能《あきよし》と顔を見合わせ、申し合わせたように笑顔を作った。

「後見……でございますか」

 宗良《むねよし》親王は、この一瞬で、帝が熙成《ひろなり》親王の東宮《とうぐう》(皇太子)宣下《せんげ》を廃して、実子の世泰《ときやす》親王を東宮《とうぐう》に付けようとしている事を悟った。

「光栄なことではございますが、我《み》はいずれ信濃に帰らななければなりませぬ。向こうにも我が帰りを待っておる者がございます。そのご要望に御応えすることは難しいかと存じます」

「信濃に戻られることをお考えか。そうか……それは残念じゃ」

 帝は視線を落とし、落胆の表情を浮かべた。


 歌合《うたあわせ》が始まると、先の件を忘れたかのように、帝(長慶天皇)は自らの歌を披露し、満足そうな表情を浮かべた。そして、宗良《むねよし》親王から歌の講評を受け、親王の実力に一目を置いた。

 歌合《うたあわせ》が一段落した頃、宗良《むねよし》親王は帝(長慶天皇)の機嫌を窺《うかが》う。

「御上《おかみ》の御歌は、気品に満ちております。どなたの手解《てほど》きでありましょうや」

 答えを知っていたが、親王はあえてたずねた。

 帝は昔を懐《なつ》かしむように、束の間、目を閉じる。

「朕《ちん》は、若かりしころ、嘉喜門院《かきもんいん》様(阿野勝子)に誘われ、女房たちの歌合《うたあわせ》に出た。嘉喜門院《かきもんいん》様がおらなければ、こうも歌が好きにはならなんだであろう」

「吉野山では、御院様にお会いしました。御上《おかみ》(長慶天皇)のことを、いたく御心配されておられました」

 すると、帝の顔に憂患《ゆうかん》の表情が浮かぶ。

「御院《ごいん》様(阿野勝子)は御元気にされておいででしたか」

 阿野勝子は、煙たき弟宮《おとみや》、熙成《ひろなり》親王の母ではあったが、早くに実母を亡くした帝に、優しく接した恩人でもあった。

 そんな帝の様子を見て取った宗良《むねよし》親王は、帝と熙成《ひろなり》親王の対立を解消する微かな光を見つける。

「ではどうでしょう。次の歌合《うたあわせ》は吉野山から嘉喜門院《かきもんいん》様や東宮《とうぐう》様(熙成《ひろなり》親王)もお招きし、双方の闘歌とされてみては。政《まつりごと》の世界では難しきことも多いと存じますが、御歌で和やかに競うというのも一興《いっきょう》かと存じます」

 親王は歌合《うたあわせ》を通じて両派の距離を近づけようとした。

 これに、帝(長慶天皇)は即座に同意する。しかし、傍《かたわ》らに控えた右大臣の北畠顕能(あきよし)は、怪訝《けげん》な表情を扇で隠していた。


 それから一月《ひとつき》後の二月、賀名生《あのう》で、帝(長慶天皇)の第一皇子、世泰《ときやす》親王の元服の儀が行われる。宗良《むねよし》親王は加冠《かかん》役として世泰《ときやす》親王に冠《かんむり》を授けた。


 三月も終りの頃。三本の藤の木から垂れる花が、三条坊門の将軍御所を紫に染めていた。

 この日、御所を訪ねて来たのは、北朝の先の関白、二条良基であった。良基は南朝の前関白である二条教基(のりもと)の従兄である。

 案内された広間で良基が目にしたのは、わざわざ庭に向けて設けられた、一段高くなった上段の座である。にもかかわらず、広間と庭の間は、紙を貼った障子によって隔たれていた。良基はその様子に面食らった。

 この部屋で良基を待ち受けていたのは、将軍の近臣、伊勢照禅(貞継)である。

「二条様におかれてはご機嫌麗しゅうございます。わざわざ足をお運びいただき、痛み入りまする」

「照禅殿、今日は面白い趣向があるというお話でありましたが、将軍殿(足利義満)はいかがされた」

「はい、すぐにお目通りに参ります。さ、こちらへ」

 良基は照禅に上段の座を勧められる。腰を落ち着けるや否や、庭の方から笛や鼓《つづみ》の音曲《おんぎょく》が聞こえてくる。良基が何事かと庭を遮る障子に目をやると、その障子がゆっくりと左右に開け放たれた。庭には舞台が造られ、脇に笛や太鼓《たいこ》の演者が座り、その中央で控えているのが、義満であった。

「しょ、将軍殿、これは……」

 驚くのも無理はなかった。義満は、紅の長袴《ながばかま》に白の水干《すいかん》を纏《まと》い、頭には立烏帽子《たてえぼし》、腰には太刀《たち》を帯びていた。いわゆる白拍子の装束である。

「二条様、よく御越しいただきました。これより今、流行《はや》りの申楽《さるがく》能、吉野静《よしのしずか》を舞って御覧あそばせましょう」

 義満はそう言って、若女《わかおんな》の能面を手に持って立ち上がった。

 良基が声を上げる事さえ忘れていると、目の前の障子が閉まり、いったん義満を隠した。再び障子が空いた時には若女の面を着けた義満が、舞台の中央で、笛や太鼓《たいこ》の音曲《おんぎょく》に合わせて舞をはじめた。

「な、何と……」

 食い入るように、良基は義満の舞に見入った。田楽見物で目の肥《こ》えた良基にとっても、義満の舞いは、これまで見たことがないほどに、洗練された優美なものであった。良基は、ただただ目の前の舞に引き込まれた。

 演舞が終り、義満が舞台の中央に座って礼をしても、良基は拍手を送る事さえ忘れ、ただ呆然としていた。

「二条様、いかがでございましたか」

 義満の声に良基は我に返る。しかし、その声は舞台の上の義満が発したものではない。義満は、いつの間にか広間の端に座っていた。

「しょ、将軍殿、なぜそこに……では、あの者はいったい……」

 良基の驚きように、義満は悪戯《いたづら》っぽい笑みを見せ、舞台に向けて声をかける。

「面を取るがよい」

「はっ」

 能面の下から現れたのは、十三歳の鬼夜叉丸、観世大夫こと結崎《ゆうざき》清次の息子であった。

「鬼夜叉と申します。以後、お見知りおきのほど、お頼み申します」

 年若い鬼夜叉丸の色白で妖艶な美少年振りに、良基は息を呑んだ。

「い、いや、お見事であった」

 少しずつ事態が呑み込めてきた良基は、ゆっくりと拍手を送った。

 昨年の祇園会《ぎおんえ》。義満は新熊野《いまくまの》神社で申楽《さるがく》能を奉《ほう》じた鬼夜叉丸に魅了され、それからたびたび、三条坊門の将軍御所に呼び寄せていた。

「二条様、紹介しましょう。いま流行《はや》りの結崎《ゆうざき》座の観世大夫《かんぜだゆう》じゃ」

 義満の声に、舞台の袖から観世が現れる。そして、鬼夜叉丸の隣に座り、両手を突いて頭を垂れた。

 観世も義満の目に適い、将軍御所に出入りできるようになっていた。そして、同じく御所に出入りしていた連歌師や絵師、仏師など当世一流の大家と交流を持つことで、一段と芸の幅を広げていた。

「二条様、お久さしゅうございます」

「はて……そなたと会うたことがあるか」

 観世の問いかけに、良基は首をひねる。

「はい、今から二十六年前、四条河原の桟敷《さじき》崩れの田楽の直後、京極入道様(道誉)と一緒に居《お》られたところでお目にかかりました」

「桟敷《さじき》崩れ……もしや、あの時、我らを救い出し、田楽を越えて見せると言うた猿楽師の若者が、観世大夫……そなただというのか」

「御意《ぎょい》」

 良基は驚かされることばかりであった。

「二条様……」

 呆気にとられる良基に、義満が声をかける。

「……二条様、鬼夜叉はもう直、元服を迎える歳。いつまでも鬼夜叉の名では、舞台にそぐいませぬ。何かよい名を賜《たまわ》れませぬでしょうか」

「そ、そうじゃな。鬼夜叉では雅《みやび》な舞には似合わぬな」

 義満の願いに、良基はあたりを見渡した。すると、紫色に咲き誇った庭先の藤の花が目に飛び込む。

「うむ……藤若、ではどうじゃ」

「藤若でございますか。藤若大夫《ふじわかだゆう》……確かに、舞いに似合う雅《みやび》な響きじゃ。よし、鬼夜叉。今日からそちは藤若大夫じゃ」

「ははっ。ありがたき幸せに存じます」

 義満の言葉に、鬼夜叉丸を改め藤若は頭を低くした。

「ふうむ……されど、天はよくぞこんな美童《びどう》を輩出したものだ」

 溜息交じりに、所懐が良基の口を突いた。

 この後、藤若は元服し、本名も結崎《ゆうざき》三郎元清に改めるのであった。


 五月の京。ここは塩小路通りに面した渋川屋敷。管領細川頼之によって九州探題を解任された渋川義行の邸宅であり、大方禅尼《おおかたぜんに》の実家でもある。

 後任である今川了俊の活躍に気落ちした義行は、病に臥せるようになり、心配した叔母の禅尼が、度々顔を見せるようになっていた。

 この日は、義行の見舞いに訪れた伊勢照禅(しょうぜん)(貞継)を、大方禅尼が別室に招き、その厚意に感謝を述べていた。

 侍女が扇《あお》ぐ扇の風を受けながら、大方禅尼が話題を変える。

「そう言えば、照禅殿は平相国《へいしょうこく》(平清盛)と同じ、伊勢平氏の出でありましたな」

「左様、清盛公と我が祖、平頼宗は、天下之一物と呼ばれた伊勢守《いせのかみ》、平維衡(これひら)の血筋でございます。その縁で頼宗が伊勢守となり、以後、伊勢を苗字といたしました。このこともあり、先代様(足利義詮)はそれがしが伊勢守となれるよう、朝廷に奏上頂いたという次第です」

 少し鼻を高くして、照禅が応じた。

「なるほどのう。伊勢氏と伊勢守は切っても切れぬ縁というわけですね。されど、今の世は、国守(伊勢守)というても名ばかり。守護でなければ、実利は得られませぬ」

 年配の将軍傅(めのと)を前にしても、大方禅尼に臆する様子はなかった。

 怪訝な顔を隠し、照禅は禅尼の言葉を繰り返す。

「実利……でございますか」

「伊勢の守護は、管領殿(細川頼之)が就かれた後、弟の満之殿に譲られました。この先も細川家が代々相続されるおつもりでしょう。残念なことです」

 そう言って、大方禅尼は開け放たれた障子の間に広がる庭の緑に目を移した。

「大方様は、管領殿がお気に召しませぬか。主上(後円融天皇)への譲位のことも、九州探題のこともありました故(ゆえ)」

「そのようなことは関係ありませぬ……ただ、管領殿は四国を丸ごと手中に収め、備後の守護にも就かれています。執事や管領が力を持ち過ぎると幕府が揺らぐ……将軍にとっての鬼門じゃ。伊勢一国くらいは照禅殿が守護になっても良ろしかろう」

 そう言って禅尼は、にこりと笑顔を見せた。

「それがしに何をせよと言われますか」

「将軍のお傍にお仕えする者として、様々な声を義満殿にお伝えする。ただそれだけのこと。さすれば、伊勢家にとっても、きっと良いことがありましょうぞ」

「様々な声……」

「そう言えば、楠木は相変わらず、皆から嫌われておるようじゃな」

 愛嬌のある大方禅尼の笑顔が、一瞬、冷たい笑みに変わった。


 緑が眩しい六月の賀名生《あのう》。野山の景色が見渡される屋外で、大掛かりな歌合《うたあわせ》が行われる。夏の景色を詠むのが題目の一つで、幾つかの赤い野点《のだて》傘が雅《みやび》な風情を醸し出していた。

 久方ぶりの大掛かりな催に、帝(長慶天皇)や女御《にょうご》、公卿《くぎょう》らを初め、宮中の公家や女官たちの心は踊る。

 宗良《むねよし》親王の思いは、強硬派と和睦派の融和を図り、帝と東宮《とうぐう》の熙成《ひろなり》親王の仲を取り持つことであった。

 吉野山からは熙成《ひろなり》親王と、大納言の阿野実為(さねため)を始めとする東宮《とうぐう》派の公家が、宗良《むねよし》親王の顔を立てて出席した。

 歌合の前に、宗良親王が穏やかな顔で両者の間を取り持つ。

「御上《おかみ》と東宮《とうぐう》様のご出席を賜《たまわ》り、このような大掛かりな歌合ができようとは、この上もない喜びにございます。今日の五百番歌合(うたあわせ)は、後の世まで語り草となりましょう」

 この日を迎えるにあたり、中納言の花山院《かざんいん》長親は、幾度も吉野山に出向き、阿野実為(さねため)を説き伏せていた。

 幾分か表情の硬い熙成《ひろなり》親王にくらべ、帝の表情は、この日の空のように晴れがましい。それは、東宮《とうぐう》の譲歩を引き出して呼び寄せたことではない。久方ぶりに、嘉喜門院《かきもんいん》(阿野勝子)に会えたことにあった。

 その嘉喜門院《かきもんいん》(阿野勝子)は、終始、笑顔で両者の間を取り持っていた。

 しかし、女院の叔父である阿野実為(さねため)と、帝の後ろ楯である右大臣の北畠顕能(あきよし)は、互いに冷たい視線を送り牽制していた。


 それでも淡々と会は始まる。歌合《うたあわせ》は左右二組に分かれ、詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争うものである。

 まず、左側に帝(長慶天皇)、師成《もろなり》親王、右大臣の北畠顕能(あきよし)、中納言の花山院《かざんいん》長親ら十人が座る。

 一方、右側には東宮(熙成《ひろなり》親王)、惟成《これなり》親王、大納言の阿野実為(さねため)、春宮権大夫《とうぐうのごんのだいぶ》の花山院《かざんいん》師兼《もろかね》ら十人が座る。

 そして、中央には判者の宗良《むねよし》親王が座り、嘉喜門院《かきもんいん》らは、下座に造られた席に腰を掛けた。

 まず帝の御製《ぎょせい》(帝の歌)が詠み手から披露される。

『教へおきし あとにまかせむ玉敷の庭の夏ぐさ ことしげくとも』

 強硬派の公卿たちから、おおっと感嘆の声が漏れた。

 これを宗良《むねよし》親王が評する。

「まことに持って、夏の風情が目に浮かびまする。『ことしげく』というお言葉の後に、蝉の鳴き声が聞こえて来るようです。初句も良いのですが、別のお言葉に置き換えても、また歌のよさが引き立つかと思われます」

 臆《おく》すことなく歌評を下す宗良《むねよし》親王に、帝は素直に頷いた。親王の実力は、先の歌合《うたあわせ》で十分に知っていたからである。

「それでは右手からも、ご披露つかまつりたく存じます。では、東宮様、よろしいでしょうか」

 公正に振る舞う宗良親王の呼び掛けに、熙成《ひろなり》親王は実為に目配せして軽く頷く。

 すると、実為が、こほんと小さく咳払いしてから口を開く。

「今日、ここにおられるのは東宮様にあらず。源資氏(すけうじ)殿にございます」

 歌に長けた帝に対しての、ささやかな抵抗である。宗良親王の言う通り、この日の歌が後世にまで残るのなら、歌の優劣も後の世に伝わってしまう。熙成《ひろなり》親王は、東宮の歌として残すことを躊躇《ためら》っていた。

「東宮様、それは如何なものでしょう。春宮(東宮)御歌として、お名前を刻んでこその、今日の歌合ではありませぬか」

 今日のことを歴史に刻みたい北畠顕能は気色ばんだ。

「右府(右大臣)様、東宮様は今日のめでたき日を、名も知られぬひとりの者として楽しみ、皆と親睦を図りたいと仰せです」

 阿野実為が反駁《はんばく》し、その場は雑然となった。

「源資氏(すけうじ)……良い名ではないか……」

 突如、帝が口を開いた。

「……熙成《ひろなり》がそのようにしたいのであれば、するがよい。さ、信濃宮様(宗良《むねよし》親王)、続けましょうぞ」

 帝は、母とも姉とも慕う嘉喜門院《かきもんいん》の前で、みっともない修羅場を見せたくなった。

 これに、宗良親王も真意を汲み取って頷く。

「それでは源資氏(すけうじ)殿の歌を御披露いただきましょう」

『あかさりし 花のかたみと成にけり 青葉の山の峰の白雲』

 詠み手から歌が披露されると、こちらの歌にも、負けじと和睦派の面々から、うぉぉと感嘆の声が上がった。

 宗良親王は闘歌と言いつつ、折り合い処を探して批評し、双方の面目を保った。


 緊張した歌合《うたあわせ》も終盤、左右双方の歌が出尽くしたところで、宗良《むねよし》親王が一同に目を配る。

「初夏のよき日和の中、ここ賀名生《あのう》で素晴らしき歌合《うたあわせ》ができたことは、何よりも心弾む一時《ひととき》でございました。されど、今日のこの日を、春の吉野山で、桜を愛《め》でながらできれば、何とよかったことでしょう」

 そう言うと、宗良《むねよし》親王はおもむろに二首を詠む。

『君をのみ たのむ吉野の宮人の 同じかざしは桜なりけり』

『古郷は 恋しくとてもみ吉野の 花のさかりをいかが見捨てむ』

 一首は帝のもとで吉野の廷臣たちの団結を求める歌。もう一首は吉野山を見捨てることはできないという気持ちを詠んだ歌である。強硬派と和睦派の和合と、熙成《ひろなり》親王のいる吉野山への還幸《かんこう》を歌に託したのであった。


 七月、京の都は、法師蝉《ほうしぜみ》の鳴き声に包まれ、連日、うだるような暑さが続いていた。

 管領《かんれい》の細川頼之が、将軍、足利義満によって三条坊門第に召し出される。

 その義満の傍《かたわ》らに控えた近臣の伊勢照禅(しょうぜん)(貞継)が、代わって頼之に伝える。

「管領《かんれい》殿、先般、畠山殿(基国)ら諸将が御所を訪れ、河内守《かわちのかみ》(正儀)と管領《かんれい》殿を糾弾されていかれましたぞ。南方《みなみかた》への処置が手ぬるいと」

「照禅殿、南方《みなみかた》の攻略は、楠木河内守(正儀)によって着々と進んでおります。紀伊の諸将には既に、帰参を求める書状を送っております。何ら心配することはありませぬ……」

 そう言ってから義満に顔を戻す。

「……畠山らは、和睦が進むのが困るのです。奴らは南方《みなみかた》の所領を切り取り、自身の所領とすることを狙っておるのです」

 南朝攻略は正儀に任せると言っていた義満に、頼之は理解を求めた。

 事実、畠山基国ら幕府の諸将は、頼之と正儀が進める南朝諸将の幕府帰順の動きを潰《つぶ》したいと思っている。基国らにとって、戦で南朝の諸将を討つ事こそが、自らの所領を拡大する道である。しかし、正儀が次々と、南朝諸将を幕府に帰参させることに基国らは焦り、賛同者を連れ立って義満に二人の悪行を訴えたのであった。

「武蔵守(頼之)、されど、余《よ》にも南方《みなみかた》の対策が、そなたの言うように進んでいるようには見えぬ。すでに河内守(正儀)が幕府に帰順して六年じゃ」

 不満顔の義満が照禅に目配せする。すると、意を汲んだ照禅が頼之に迫る。

「管領《かんれい》殿、やはり成果は目で見えるものでなければ、納得は得られますまい。ここは、一つ、諸将の申し出を聞き入れて、畠山殿らに紀伊へ責め入らさせてはいかがかと存ずる」

 そう言って、照禅は口元に不敵な笑みを浮かべた。

 その表情に、頼之はしまったと心の中で呟く。照禅は諸将と通じている。その背後には大方禅尼《おおかたぜんに》の影もちらつく。すでに、義満をも内々に説得していることは明白であった。

「武蔵守、畠山を紀伊攻めに向かわせよ。これは将軍の命《めい》じゃ」

 義満の命《めい》に、頼之は一瞬、目を伏せて思案した後、再び顔を上げる。

「紀伊攻めの件、承知つかまつりました。されど、畠山殿らはそれがしのおよび腰の態度に対する不信から糾弾におよんだとのこと。それがしも汚名を晴らしとうございます。まずは、我が一族で紀伊へ出陣いたしましょう」

 最もな意見に聞こえるが、畠山ら諸将を介入させないのが目的である。基国らが出陣して手柄《てがら》を立てれば、紀伊国は基国らのものとなってしまう。

「うむ、そうするがよかろう」

 義満にとってはどうでもよい話であった。首を縦に振って快諾する義満に、照禅が慌てる。

「御所様(足利義満)、ここは……」

「御所様、ありがたきご配慮、痛み入ります。では、さっそく紀伊攻めの手配を致しますゆえ、それがしはこれにて御免」

 言葉を被せて、そそくさと立ち去る頼之を、照禅は苦々しく見送った。

 この後、頼之は、正儀に書状を送って紀伊攻めを知らせるとともに、一族の細川業秀(なりひで)に出陣を命じた。


 河内の中央に位置する平尾城。紀伊を武力で攻略するとの幕府の方針変更に驚いた正儀は、すぐさま、重臣、河野辺正友、猶子の篠崎正久、津田正信らを集め、頼之の書状を見せた。

 書状に目を通した正友が、むっとした顔を上座の正儀に向ける。

「これまで、幕府は調略によって、紀伊の諸将の帰参を待つということだったではござらぬか。管領殿(細川頼之)は、いったい何を考えておるのか」

「管領殿も苦渋の決断のようじゃ。これには、諸将を押さえるためにはやむを得なかったとある。真面目なだけに敵も多い」

 正儀は、自身の有り様を頼之に写していた。

 心配そうに、正久が口を開く。

「父上、それで、この後、いかに」

「兎に角、湯浅党じゃ。湯浅党を味方に付けぬ限り、紀伊は変わらぬ」

「されど、主だった湯浅の者共に書状を送って帰参を呼び掛けておりますが、誰からも返事はございませぬ」

 そう言って、正信が口をぎゅっとつぐんだ。

 四条隆俊の配下であった湯浅党は、幕府方となった正儀に、幾度となく戦いを挑み、互いに多くの死者を出した間柄であった。

 焦りの色を隠しきれない正信に、正儀は静かに目を閉じて腕を組んだ。


 八月十一日。幕府の紀伊攻めが迫る中、病床にあった先の九州探題、渋川義行が、二十八の若さで亡くなる。これに、叔母である大方禅尼《おおかたぜんに》は悲嘆に暮れた。

 嫡男の千寿王を無くしてからは、兄の子である義行は、足利義満と共に、愛情を傾けた存在であった。

 禅尼の悲しみは、管領、細川頼之ばかりか、盟友の正儀へも黒い影を落とすこととなる。

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