第31話 帝と将軍
正平二十二年(一三六七年)四月二十九日、南風が京の町に暖かな気色を運んでくる。ただし、その中には不快な湿気も含まれていた。
和睦の条件が整った住吉の南朝は、検非違使別当、葉室光資に勅書を持たせ、将軍、足利義詮の元に送る。勅使の護衛として、河野辺駿河守正友が楠木の兵を率いて従った。
三条坊門の将軍御所では、南朝の帝(後村上天皇)の勅を承るにあたり、将軍、足利義詮が下座に控える。そして、和睦を執り成した京極道誉をはじめとする幕臣が、さらにその後ろに控えた。
上座に迎えられた勅使の光資は、南朝の尊厳を保とうとするかのように、一挙手一投足に威厳を持って振る舞う。しかし、その首筋には不自然な汗が見て取れた。
光資は厳かに勅書を開き、帝に成り代わって『朕は』と詔読み上げる。
読み進める中で突如、その声が上擦る。
『……武家降参……』
その場にそぐわない言葉が光資の口を衝いた。勅書は、南朝の帝が一方的に幕府の降参を受け入れるという趣旨である。
勅書を読み終えた光資が、恐る恐る将軍、義詮に目をやった。
神妙に平伏して、帝の勅諚を拝していた義詮が、ゆっくりと身体を起こす。そこには、怒りに満ちた顔があった。
「武家降参じゃと。南方は和睦の経緯を知らぬのか。この勅は聞かなかったこととする。その方は、住吉に戻り、破談じゃと伝えよ。南方には、この責任、必ずや取らせてくれよう」
激怒した義詮が、下座から上座の光資に言い放った。そして、南朝の勅使や、幕府の道誉らを残し、席を立って奥へと消えていった。
上座に残り、へなへなと魂が抜けたようになっていた光資の元へ、末席に控えていた正友が、席を立って詰め寄る。
「別当様、こ、これはいったいどういうことでございますか」
「ま、麿がそのようなことを知っているわけがなかろう。全ては御上の御心じゃ」
そう言うと、光資も立ち上がり、広間から姿を消した。しかし、そのあからさまな動揺は、経緯を知っているに他ならなかった。
我に返った正友は、振り返り、道誉の前で両手を床に着く。
「こ、此度の仕儀、申し訳ござらぬ」
平身低頭に誠意を示した。しかし、道誉の顔は怒りに満ちている。
「その方らは、和睦を潰したかったのか。武家降参など、将軍が受け入れるとでも思うたか。わしの面子は丸潰れぞ。そなたの主人も知っておったのか」
「ま、まさか。そのようなことは絶対にござらん。河内守(正儀)が知っておれば、このような勅書、必ずや止めたことでしょう」
必死に弁明する正友を、道誉は不審な顔つきで睨む。
「では、楠木(正儀)の知らぬところで、決まったとでも言うのか」
「左様としか思えませぬ」
「何をしゃあしゃあと。河内守は蔵人であろう。帝の傍に仕え、此度の朝議の経緯も知っておるはずじゃ。帝の伝奏さえも行う蔵人が知らなかったで済むと思うのか」
指摘に、正友の全身から汗が噴き出す。
「いや、されど、御綸旨と異なり勅書でございますので……河内守が知っておった内容と、此度の勅書は違うとしか思えませぬ」
勅書は綸旨と異なり、手続きが煩雑であった。綸旨であれば、帝の命を蔵人の誰かが文書にして発すればよい。しかし、勅書となると弁官が草案を作成して朝議に諮り、全ての公卿の同意を得てから帝に奏上する。そして、勅意を得て勅書を清書しなければならなかった。
「ふう、何やら朝廷内で不穏な動きがあるようじゃな。されど、それは我らが与かり知らぬ事。この始末どうするのか、早々に帰って楠木殿と相談されよ」
憮然と道誉は言い放ち、席を立った。
南朝の行宮である住之江殿の一間で、正儀は京から戻ってきた河野辺正友から事の次第を聞いた。
積年の宿志が叶うその時を、今は遅しと待っていた正儀は、言葉を失い、呆然自失に項垂る。
暫しの沈黙のあと、正友は腫れ物に触るかのように、恐る恐る口を開く。
「殿、なぜに武家降参などと……」
血の気を失った正儀が、重い口を動かす。
「勅書の草案は、公卿皆の総意の元に作られ、主上(後村上天皇)が目を通されて御承諾された。わしは蔵人の一人として草案を奏上致したが、その折、武家降参の文言はなかった」
「ならば、なぜ」
「きっと、清書の折であろう。わしの詰めが甘かったか」
ふうと息を吐いた正儀は、立ち上り、縁に出て天を仰いだ。
「やはり、四条大納言(隆俊)ら、強硬派の方々が……」
正友は、背中越しに正儀へ問いかけた。
「清書は、葉室様(光資)ほか、数名の弁官と他の蔵人によって行われた。わしは公平を期すためと、清書の席からは外されておった。その折、追加されたとしか思えぬ。葉室様は和睦派と強硬派の間に立たれる御方。四条様や北畠様のみならず、阿野大納言様(実為)も、適任の御方として納得されたのじゃ」
「されど、葉室様は四条様らと通じていたと……」
「うむ、そうとしか思えぬ。これより、主上の元に参り、このことを御存知であられたか、問うてみたい」
そう言うと、正儀は帝の居所へと向かった。
帝(後村上天皇)の住まいへ渡ろうと、正儀が回廊を歩いていたところ、目の前に男が現われてゆく手を塞いだ。大納言の四条隆俊である。
「河内守(正儀)、葉室殿より聞いたぞ。幕府は和睦の勅を破棄したという。我らが和睦を唱えても、所詮、幕府に和睦の意志がなければ、和睦は成り立たぬ。やはり幕府は滅ぼさねばならん。そうであろう。のう、河内守」
勝ち誇った顔で、隆俊は正儀に言い放った。
正儀は、わなわなと肩を震わせて隆俊を睨む。
「大納言様(隆俊)、同行した駿河守(正友)の話では、勅書にあった武家降参の四文字に、足利義詮は激昂したとか。なぜ勅書にこのような文言が入っていたのか。このことが全てを台なしにしたと思いませぬか」
「怖いのう、河内。武家降参など麿の与かり知らぬ事。勅書は御上の勅意を記したものじゃ。勅書に武家降参とあるのであれば、それが御上の御心であろう」
扇を口に充てた隆俊は、ふふっと薄っすら笑みを浮かべ、その場から立ち去った。
蔵人として、正儀が帝に拝謁を願おうと居所の前までくると、すすっと襖が開いた。中から出てきたのは、勅使として京へ赴いた葉室光資である。
「か、河内守……」
光資は、目の前の正儀に驚き、目を伏せて小走りに立ち去った。
中には項垂れた帝の姿がある。その傍らには大納言の阿野実為が付き添っていた。
「御上、河内守が参りましたぞ」
実為が声をかけるが、帝は顔を上げなかった。
「ただいま駿河守(正友)から事の次第を聞き、急ぎ参上つかまつりました」
そう言って、正儀は帝の前で平伏した。
すぐに実為が正儀の顔を上げさせる。
「駿河守から聞いてすでに知っておろうが、勅書の中にあった武家降参について、葉室殿から経緯を確認しておった」
「すまぬ、河内……朕の不覚であった」
帝の言葉に、正儀は実為の顔を窺った。
「四条殿らの思惑に気づかず、葉室殿に任せた麿の責任じゃ。御上には何の責任もない……」
沈痛な顔で、実為が経緯について正儀に説明する。
それによると、光資は帝の勅意を得て勅書を清書する際、四条隆俊ら強硬派に求められ、将軍、足利義詮を刺激する言葉をちりばめようと、帝に幕府へのお気持ちを問い、思わず出た武家降参の四文字を取り入れて、勅書に記したとのことであった。
「武家降参は朕の本音でもあった。四条大納言ばかりを責められぬ」
帝は、隆俊や光資を責めることなく、引き続き和睦を進めるよう正儀に命じた。
五月、伊賀国小波多では、京極道誉の指摘とは裏腹に、観世こと服部清次の小波多座が、ますます人気を博していた。
半年前、病を発した竹生大夫こと父、服部元成は、観世の成功を見届けると、安堵したように息を引き取る。その元成の義弟に、糸井行心という者が居た。大和国結崎郷にある糸井神社(観音院)の神官一族である。
行心は、観世の人気を聞き付け、猿楽の中心である大和に招こうと手を尽くした。そして、糸井神社のある結崎郷を領する興福寺一条院の下司、井戸時春との間を取り持つ。結果、観世は時春の招きを受け入れる形で、大和国結崎郷に座を移した。
小波多座は結崎座と名を改め、自身の名も服部清次から結崎清次と改める。これは心機一転の他に、楠木との縁を断ち、南北朝の騒乱から距離を取りたかったからでもあった。
結崎に腰を落ち着けた観世であるが、考え込むことが多くなる。
(……芸能は目で見て耳で聴くものじゃ。その両方が調和すれば、倍にも十倍にもなるであろう……)
この道誉の指摘が、耳を離れなかったからである。
舞踊と筋(物語)に目を向けるばかりで、調べや節といった音曲がおろそかになっていたことまでは観世も気づいていた。
「この世は猿楽と田楽だけではない。幸若舞や曲舞、雅楽、琵琶語り、一節切や鼓など鳴物の奏楽……あらゆるものを聞くしかあるまい……」
暇さえあれば、観世はさまざまな音曲を求め、奈良や京の町に出向くようになる。
六月八日、正儀は近臣の駿河守、河野辺正友を京へ送った。三条坊門第に入った正友は、将軍、足利義詮の前に通される。その傍らには京極道誉が控えていた。
正友は義詮を前で畏まる。
「此度の勅書の件、まことに申し訳なく存じます。我が主、楠木河内守(正儀)からも、和睦への道が閉ざされぬよう、幕府へは礼を尽くして此度の次第を説明せよ、と承っております」
対して道誉の機嫌は悪い。
「礼を尽くしてと言うておる割に、なぜ楠木が自ら来ぬのか」
「申しわけござらぬ。河内守は蔵人としての務めがあり、それがしが謝罪に窺った次第です」
「で、事の次第とは何じゃ。話してみよ」
憮然とした態度で、義詮が正友を促した。
「我らが南方の中にもさまざまな意見がございます。我が主、楠木河内守ら和睦を願う者たち。また、それをよしとしない者どももございます。主上(後村上天皇)の御心は和睦に相違ありませぬが、勅書となると公卿の意見も汲まねばなりませぬ。主上に奏上するにあたり、それらの者どもを納得させるためにも、そのような文言が入ったものと存じます」
説明する正友を、道誉は鼻で笑う。
「存じますじゃと。そなたの考えか」
「いえ、少なくとも、河内守が主上の勅意を得て、弁官たちが勅書の草案に取り掛かったところまでは、何ら問題はありませなんだ。されど、公卿にて草案を整える段階で加えられました。河内守は公卿(従三位以上の位階の者)ではありませんので、この事実を存じなかったという次第でございます」
その言葉にも若干の嘘がある。武家降参の四文字は、強硬派に謀られたとしても、いったんは帝の口から出た言葉である。しかし、清書の直前で言葉を付け加えたなど、勅諚の威厳を落すような事実を、悟られるわけにはいかなかった。
憮然とした表情で、義詮はふううぅと大きく息をつく。
「もうよい。いくら質問しようが、その方の申し分は、変わらんのであろう」
「も、申しわけございませぬ」
苦汁の表情で、正友は深く頭を下げた。
「和睦の時期が早過ぎたようじゃな。余も、まだ、和睦を諦めているわけではない。じゃが、南方の考えが纏まっておらぬようでは、また、どこかで問題が生じるであろう。その方は、早く住吉に戻り、楠木の棟梁に伝えよ。強硬な者どもも含め、早く南方の意見を纏められよと」
義詮は道誉に目配して、これ以上の話を打ち切ろうとした。
「お、お待ちください。帝は和睦の勅意を持たれております。此度のことで、勅書の文言に対し、公卿も考えを改めたと思われます。急ぎ再度の勅書の草案に掛かりますゆえ、幕府におかれても勅使の受け入れをお考えくだされ」
必至に正友は訴えた。
しかし、義詮の反応は冷たい。後を道誉に任せて、さっさと広間から出て行った。
「河野辺殿、再び、わしに恥をかかせるつもりか。将軍は和睦を諦めたわけではない。されど、南方の意見を纏めることもできぬのに、勅書だけをこちらに投げられたのでは適わんと申しておるのじゃ。どのように住之江殿の中を纏めるかは楠木殿次第。和睦の話し合いが打ち切られないように、幕府は門戸を空けておこう。そのように楠木殿に伝えよ」
そう言うと道誉も、その顔に露に不満を浮かべたまま、広間を後にした。
その場で正友は項垂れる。正儀のこれまでの苦労を思い返すと、無念でならなかった。
七月中旬、正儀は住之江殿の一室で、大納言の阿野実為、参議の六条時熙と会っていた。
「足利義詮によって追討を受け、越前の杣山城に籠城していた先の幕府管領、斯波道朝が亡くなったようにございます」
正儀の情報は、聞世(服部成次)からもたらされたものであった。
ほう、と口元を少し開けた実為が、手に持つ扇をばちんと閉じる。
「城が落ちたのか。それはいつのことじゃ」
「十三日のことです。されど、幕府軍によって討たれたのではなく、病であったようです。興味深いのは、将軍が、一緒に籠城していた道朝の跡継ぎで、先の執事でもあった斯波義将を許したことです。ただし、越中の守護のみ残し、他の所領は召し上げたようにございますが」
実為は首を傾げる。
「謀反を起こした者を許したのか。減俸したとはいえ、所領まで与えて……なぜじゃ」
「それはわかりかねますが、足利義詮は、斯波を完全に滅ぼさないことで、一部の大名に力が集中しないようにしておるのやも知れませぬ。特に京極道誉」
顎を触りながら、時熙が納得の顔で頷く。
「なるほど、義詮に道朝の討伐を仕向けたのは道誉であったと聞く。道誉は幕府管領が不在の間に、自らが管領のように振る舞うておる」
「ただ和睦の交渉は京極道誉があってこそ」
深刻な表情を正儀は見せた。その顔を見て、実為が考え込む。
「義詮が、道誉の力を警戒しているとすると……」
「その京極道誉が力を持っている間に、和睦を取り纏めなければ、和睦の話は立ち消えになってしまうやも知れませぬ」
少し目を落として、正儀は懸念を口にした。
「急がねばならんな」
焦りの色を滲ませた実為が、時熙と顔を見合わせた。
七月二十九日、京極道誉は、正儀が幕府に河野辺正友を送った返礼として、住之江殿に評定所の文官、摂津能直を遣わした。能直は、正儀と今後の調整を行うように命じられていた。
南朝は参議の六条時熙が、能直に面会する。
「摂津殿(能直)、わざわざ返礼にお越しいただけるとは、主上(後村上天皇)も御喜びあそばせましょう。本来は武家同士、河内守(正儀)がお相手致すところであるが、生憎、東条に戻っております。使いをやりますので、しばらく住吉に逗留されてはいかがか」
「六条宰相様(時熙)が自らお相手いただき、恐縮でござる。此度は京極佐渡守(道誉)から、和睦の交渉を終わらしてはならんと、楠木殿と今後について相談するように命じられております。手ぶらで帰るわけにも参りませぬので、お言葉に甘え、二、三日、逗留させていただくことに致します」
その真摯な態度に、時熙は安堵した。
一旦、能直を残して部屋を出た時熙は、正儀を呼び寄せるまでの間、客人の相手を任せられる者を探す。
ちょうど行宮に出仕していた和泉守、和田正武が回廊の向こうを歩いていた。渡りに船と、時熙が正武を手で招く。
「和泉守、ちょうどよいところへ」
時熙の元に歩み寄った正武が、軽く頭を下げる。
「これは六条宰相様、いかがなされましたか」
「幕府より、先般の詫びの返礼として、摂津殿が参っておる。京極入道からの和睦継続の話を持って来られたようじゃ。早々に東条に使いをやって、呼び寄せるのじゃ」
「河内守殿(正儀)を、でございますか」
当然のことと時熙は頷く。
「摂津将監殿は二、三日、こちらに逗留される。麿が相手を務めたいところじゃが、生憎、御上(後村上天皇)より用を頼まれておる。その方、河内守がくるまでの間、摂津殿の相手をして欲しいのじゃ。都合はいかがか」
「それがしは、これより和泉の館へ戻るところでございます。それゆえ……」
「おお、それはちょうどよかった。やはり武家は武家同士、話も合うであろう。和泉守、よしなに頼むぞ」
全てを言い終わらないうちに、時熙は正武に、能直の応対を任せた。そして、そそくさと、その場を立ち去った。
「わしとて用があったのじゃが……」
不満顔で正武は、行宮の遠侍(守衛所)に向かい、和田の若党を外へ呼び出す。
「殿、何事でございましょうや」
「うむ、その方はこれより楠木館へ向かい、河内守殿に……」
言いかけて、正武は言葉を飲み込んだ。
「あの……殿。楠木館へ行って何をすればよいのでございましょう」
「いや、何でもない。もうよいのじゃ。持ち場へ戻ってよいぞ」
その若党は首を傾げながら、遠侍の中に戻っていった。
その足で正武は、摂津能直が待つ宿坊に出向いた。そして、正儀が所用で来れないと嘘をつく。すると、能直は残念な顔をして、京へ戻る支度をはじめた。
正武には、大納言、四条隆俊の言葉が脳裏をよぎっていた。楠木一門の重鎮でもある正武だが、和睦の決裂は、正直よかったと思っていた。
(和睦が決裂すれば、三郎殿(正儀)とて腹を括って幕府を討つであろう。わしが三郎殿の背中を押してやろう)
漠然とそのくらいに考えていた。
六条時熙は、東条の正儀に、家人を通じて別の使者も立てていた。これによって、幕府の使者が住之江殿へ来ていると知った正儀は、翌日、急ぎ住之江殿へ馬を駆った。しかし、摂津能直はすでに京へ戻った後であった。
仕方なく正儀は、その足で和泉の和田正武の元に馬を走らせた。
館の広間で正儀は、正武から譲られた上座に腰を降ろす。
「新九郎(正武)殿、どうして摂津将監殿(能直)を帰されてしまわれたのか。わしがくるまで引き留めておいてくれればよかったものを」
大事な和睦の切っかけを潰され、正儀は焦りの色を隠さなかった。
「いや、申し訳ござらん。将監殿の元へ、京から使いが来られ、急遽、帰られたという次第じゃ」
頭を掻きながら、正武は白々しく嘘をついた。
「わざわざの返礼に、手ぶらで返すわけにはいかぬ。わしから馬一頭、鎧一式を届けておくとしよう」
「三郎殿(正儀)、御使者を手ぶらで返したのはわしの落ち度じゃ。三郎殿の馬一頭、鎧一式は、わしが名代として承ろう。それがしからも詫びとして、馬と鎧を送ろうと思うので、一緒に用意しよう」
「では、お任せするとしよう。詫びの書状も託したい。これから書く書状も、一緒に届けてくれまいか」
「承知した、三郎殿」
硯と筆を借り受けて、正儀はその場で詫び状を認める。そして正武を信用して返礼品の手配とともに託した。
この後、朝廷からも馬一頭を帝(後村上天皇)の名で贈るよう委託された正武は、これら返礼の品を用意して京へ送る。しかし、正儀の和睦を願う詫び状が、京極道誉に届くことはなかった。
京にある京極屋敷では、京極道誉が、住吉から戻った摂津能直からの報告を受けていた。
「楠木は何を考えておる。和睦を求めながら使者として送ったお主に会おうともしない」
下座から報告を終えた能直に、道誉は、ちっと舌を鳴らして言葉を返した。
南朝との和睦を進めた道誉の目的は、将軍、足利義詮に恩を売ることである。和睦を実現し、自身の影響力を拡大することにあった。しかし、いったん和睦という火種に火を着けた後では、進展がないとなると、義詮から叱責を受ける立場に変わっていた。
今や道誉にとって、和睦は厄介事でしかなかった。
「入道様(道誉)、この後、いかがしたものかと」
不安そうに、能直がたずねた。
うわの空で道誉が顎に手をやる。
「……かと言って、今更、和睦を進めないわけにもいかぬ……か」
「え、何と仰せですか、入道様」
能直の問いかけに、道誉はため息をつく。
「いや、何でもない。楠木が当てにならんのなら別の手立てを考える。その方は南方の右大臣、洞院実守様にお会いせよ」
「洞院卿でございますか」
「そうじゃ、洞院卿は名義上とはいえ、二条関白(教基)不在の今、朝議を仕切る御立場と聞く。もともと京の洞院家を継ぐことが望みで京から南方に走ったお方じゃ。是が非でも和睦を実現させて京に戻りたい気持ちはあろう」
憮然とした顔で、道誉は能直を促した。
「承知しました、入道様」
「わしは将軍に、此度のことを知らせなければならん。楠木と会えなかったことは、この場のみに留めておけ」
「はっ」
能直は頭を下げると、すぐに出て行った。
ただちに京極道誉は、三条坊門第に出向き、義詮への謁見を求めた。
どう言い訳をしようかと思案しながら義詮を待っていると、現れた近習が意外なことを告げる。
「御所様は、朝からお熱があるようで、寝所で御休みになられておられます」
「何、お身体の具合が悪いのか。では、今日はお会いできぬな」
心の中で道誉は、わしにはまだ運がある、とにやつく。
「では、住吉に送った使者の件は、また日を改めてご報告に伺うと、将軍にお伝えあれ」
そう言うと、道誉はそそくさと将軍御所を後にした。
八月、日を改めて摂津能直は、再び南朝の行宮である住之江殿に参内した。ここで、右大臣の洞院実守に会い、京極道誉が和睦交渉の継続を望んでいることを伝える。
「先般は、楠木殿にも会うことができず、不本意な結果に終わり、入道様(京極道誉)も大そうご立腹でございました。今後の和睦交渉に支障が出ぬようにするためにも、楠木殿(正儀)の上洛を、右大臣様より御口添えいただきとう存じます」
住之江殿の一室で、能直はそう言って実守に頭を下げた。
「誰よりも和睦を望んでいる河内守が顔を見せなかったというのは信じられませぬ。麿が口添えなどしなくとも、あの男のこと、自ら上洛して和睦を求めるでしょう」
「左様でございましょうか」
「まあ、確約はできませぬが……それに、もう麿は、口添えすることはできなくなります」
「右大臣様、いったい、どういうことでございましょうや」
怪訝な表情を浮かべて、能直は実守の顔を凝視する。
「麿はほとほとこの朝廷に愛想が尽きました。和睦を欲する者と、討幕を譲らない強硬な者との溝は深く、麿が間を取り持つことは不可能にございます。よって、京へ戻ることに致しました」
実守は清々したと言わんばかりの顔である。
意外な話に、能直は困惑する。
「されど、右大臣様、京の洞院家は、甥の実夏様が継いでおられるではありませんか」
洞院実夏と実守は、洞院家の跡目を巡って争い、敗れた実守が京を出奔して南朝に加わっていた。そんな事情で、実守が京へ戻ることを、実夏が許すはずはなかった。
「ほほほ、実夏は先月亡くなりました。実夏さえいなくなれば、麿の上洛を邪魔する者はおりませぬ。それどころか洞院家は麿が継ぐことになりましょう。麿はここでくすぶっている暇はないのです。そういうことで、入道殿にはよしなにお伝えくだされ」
南朝の右大臣、洞院実守の変り身の早さに、ただただ唖然とする能直であった。
翌、九月、右大臣の洞院実守が南朝を去った後、その予言の通り、正儀は幕府の京極道誉に、将軍、足利義詮への謁見を申し出た。将軍へ、和睦に関する帝(後村上天皇)の御内意を伝えるためであった。
しかし、期待に反して正儀のところにもたらされた幕府の返答は、謁見の申し出を断るものであった。
この日、住之江殿の空には、厚い雲が広がっていた。その御殿の一間で、正儀は大納言の阿野実為、参議の六条時熙と顔を合わせた。
扇をいじりながら、実為は考える。
「やっと、御上の許しを得て、河内守(正儀)が上洛するというのに、幕府はなぜ断ってきたのか」
「返書には将軍が風邪をひいたと書かれているが……偽りでございましょう。幕府は和睦交渉を進めるつもりがなくなったのでは」
不安げに時熙は呟いた。
しかし、透っ波を放って京の世情に詳しい正儀は、首を横に振る。
「いえ、病で伏せているのは本当かも知れませぬ。それも風邪ではなくもっと重い病です。このところ、幕府の公の席に、顔を出していないようです」
「何、それは本当か。将軍の病が長引けば、和睦はどうなる。いや、死なれでもすれば、和睦は立ち消えとなるやも知れぬではないか」
「その通りでございます。幕府では、それに備えるかのような動きもあります」
実為が正儀を凝視する。
「動きとは」
「先の執事であった斯波義将が昨日、上洛いたしました」
正儀は義将の上洛の背景を説明する。
義詮は、京極道誉の讒言を信じ、先の管領、斯波道朝を追放したことを後悔し、道朝が亡くなった後、これを機会に息子の義将を許し、越中の守護にした、ということであった。
「京では、この義将を幕府管領に迎えるのではないかという噂があります。義詮の嫡男、春王丸はわずか十歳。義将が管領になるかは別にして、幼い春王丸が次の将軍となってもよいよう、不在の管領を早く定めようとする動きがあっても不思議ではございませぬ」
訝しがって実為は首を傾げる。
「さりながら、ついこの間まで追討を受けていた身ではないか。いくら道誉の力を削ぎたいからというても、そのような者を幕府管領に付けるであろうか。そのようなことをすれば、将軍の威厳はなくなろうぞ」
最もな言い分であった。これに、正儀も頷く。
「それがしも同意でございます。もう一人、動きがございます。おそらくはこちらが本命かと。従兄の細川清氏を攻め滅ぼした四国管領の細川頼之です。すでに軍勢を率いて四国を出立し、上洛の途についたという知らせを受けております」
細川頼之は、中国管領として山名時氏、大内弘世を寝返らせて中国地方を平定した後、四国管領を任じられていた。
この情報に、時熙がなるほどと頷く。
「細川頼之といえば、伊予国の宮方(南方)、河野通盛・通朝親子を攻め滅ぼした。続いて阿波国で小笠原頼清を味方に引き入れ、中国に続き四国もほぼ平定したというではないか」
「御意、我らにとっては四国を盗られた憎き敵なれど、実力は疑う余地はありませぬ。この男が幕府管領となれば、改めて幕府の出方を窺わなければなりません」
正儀の見解に、実為は静かに目を閉じる。重い空気が三人を包んだ。
「いずれにしても、幕府においては和睦を考える余裕は当面はないな」
諦め顔で、実為が深い溜息をついた。
結局、これ以降、実為の指摘どおり、幕府との和睦交渉は止まってしまう。
九月七日、細川頼之が四国の軍勢を率いて入京した。その、ものものしい様子に、京の町人たちに戦慄が走った。先に京に入った斯波義将との間で、戦が始まるのではないかと噂が立ったからである。
わざわざ軍勢を率いて上洛したのは、将軍、足利義詮の命であった。頼之を幕府管領とするにあたって、中国・四国を平定した細川軍の示威を天下に見せ、他の武将からの異論を封じるのが狙いである。
洛中に入った頼之は、その足で三条坊門の将軍御所を訪ねた。小具足(篭手や脛当など)姿のまま、頼之は、将軍の近習によって、義詮の寝所に通される。
病人を見舞うには、まるで似つかわしくない風体で、両の拳を床につける。
「御所様(義詮)、細川弥九郎(頼之)、お召しにより、ただいま参上つかまつりました」
「おお、弥九郎か。待っておったぞ」
近習に支えられながら、義詮は上体を起こした。
「お身体の具合、心配しておりました。お加減はいかがでございましょうや」
問いかけに、義詮は苦笑を浮かべる。
「よくはない。そう長くはないであろう」
「御所様、何を仰せです。幕府安寧のためにも、御所様には早くお元気になっていただかなくては」
「自分の身体は自分が一番よく知っておる。されど、確かに幼い春王丸を残して死ぬのは心残り。だからこそ、お前を呼び寄せたのじゃ。管領の件、よく考えたであろうな」
「はっ。管領は、それがし如きでは力不足ではありますれど、御所様からそのようにお認めていただき、この弥九郎、身に余る光栄にございます。粉骨砕身、務めさせていただく所存にございます」
「そうか、安堵したぞ。中国、四国と平定したその方の腕前、幕府の管領として十分に発揮してくれ」
「ははっ」
小具足を鳴らしながら、頼之は平伏した。
十一月二十五日、重篤な状況に陥った将軍、足利義詮は、枕元に十歳の嫡男、春王丸と細川頼之を呼び寄せた。
「父上、お加減はいかがですか」
「おお、春王丸か……残念ではあるが、わしは間もなく死ぬであろう」
「父上、何をおおせでございます」
表情を強張らせながら、父が差し出した手を握った。
「春王丸、何ら悲しむことはない。わしが居なくなってもよいように、そなたに新たな父を与えよう。弥九郎(頼之)これへ」
「はっ」
沈痛な面持ちで、頼之が義詮の枕元ににじり寄った。
「手を」
求めに応じて頼之が手を差し伸べた。すると義詮がその手をとって、春王丸の手と合わせる。
「弥九郎の教えを守り、立派な将軍となるように励むのじゃ」
「父上……」
思わず春王丸は言葉を詰まらせた。
「弥九郎、そなたには新たな子を与えよう。立派な将軍に成るよう、そなたが後見してやってくれ」
「御所様……承知つかまつりました」
頼之はゆっくり、かつ力強く頷いた。
この後、義詮の前で三献の儀が行われ、春王丸への足利家の家督承継と、頼之への幕府管領の任命が行われた。
春王丸の家督相続と細川頼之の幕府管領の就任は、翌日には住之江殿の正儀の元にも届いた。正儀はすぐに大納言、阿野実為とともに帝(後村上天皇)の元に参じる。
帝は女御の三位局(阿野勝子)とともに、写経を行っていた。
平伏した実為が、帝の背中越しに言上する。
「御上、予てから噂があったとおり、足利義詮の嫡男、春王丸が足利の家督を相続しました。さらに、讃岐の細川頼之が幕府管領に任命した模様でございます」
筆を置いた帝が、実為の方に向きなおす。
「阿野大納言、それはいつのことであるか」
「昨日のことでございます。幕府の諸大名が三条坊門第へ集められ、御披露目があったようにございます」
「左様であるか。これからの交渉の相手は京極入道(道誉)ではなく細川頼之ということであるな」
「御意」
実為は、ゆっくりと顔を上げながら同意した。
「河内守(正儀)、細川頼之は我らと和睦を進めるであろうか」
帝に問われた正儀は、畏まって頭を下げたまま答える。
「はは。おそらくは足利義詮の意志を継いで、和睦を求めてくることでしょう。これまでの中国管領や四国管領としての頼之は、戦は最小限に、利があれば敵とも和睦して参りました。そして戦となれば用意周到、絶対に勝てる戦をしております。そのような男が、和睦の交渉をせずに、我らに戦を仕掛けてくるとは思えませぬ」
その答えに、帝は少し口元を緩める。
「細川頼之とは、まるで河内守じゃな」
「ほんに左様でございますな。きっと、河内守と気が合うことでしょう」
帝に続き、実為も頬を緩めて、正儀に視線を向けた。釣られて三位局も、袖口で口を隠して笑う。
場が和む中、正儀は苦笑いしながら顔を上げる。
「気が合うかどうかはわかりませぬが、不思議とあの者の考えていることがわかるような気が致します」
その言葉に、帝は納得顔を正儀に返す。
「それでは和睦の交渉は、これまでと同様に河内守に頼むとしようぞ」
「ははっ。承知致しました」
帝の命に、正儀は安堵の表情を浮かべて畏まった。
「う、うう……」
和やかな雰囲気が突然、帝の苦しむ声で遮られる。帝は胸を押え、前屈みに倒れ込んだ。
「御上、いかがされました」
「大丈夫でございますか」
すぐさま、三位局と実為が傍に寄り添って、背中を摩った。
「う、う、う……」
額に汗を浮かべた帝が、真っ青な顔を歪めて胸を押さえた。
だが、発作はしばらくして収まる。
「最近、このようなことが何度かあるのでございます」
三位局は、帝の背中を摩りながら、心配そうに呟いた。帝は肩で大きく息をしながら、三位局の手をそっと払い除ける。
「いや、もう、大丈夫じゃ。心配は要らぬ」
そう言うものの、帝の額には汗が滲んでいた。
「御上、今日は寝所でお休みください。誰かある。誰かある」
近習を呼び寄せた実為は、寝所へお連れするように指示をする。
すると帝は、その近習に支えられ、心配する三位局とともに奥に下がった。
正儀は、ただならぬ予感に襲われる。
「阿野大納言様は、御上のお身体のこと、気がついておられましたか」
「いや。河内守はどうじゃ」
「恥ずかしながら、それがしもまったく気づいておりませなんだ」
暫し、正儀と実為が沈黙する。今、帝に万が一のことがあれば、住吉の朝廷に、計り知れない影響が生じるのは必至であった。
十二月に入り、将軍、足利義詮は、ついに身体を動かすことさえ、ままならない状態に陥っていた。
その傍らには、正室の渋川幸子と側室の紀良子とともに、春王丸が寄り添う。
「父上、お気を確かに」
「御所様、春王丸殿ですよ」
「お気を確かに」
跡継ぎと妻たちに声を掛けられ、義詮は薄く目を開ける。
「おお……春王丸……」
弱々しく息を吐きながら言葉を続ける。
「……わしが死んだら……楠木正行の墓の隣に葬ってくれ」
唐突な言葉に、春王丸は目を丸くする。
「敵ではありませぬか」
思わず春王丸が口にした。
「わしは……楠木正行に敬慕の念を抱いておった。お前の祖父が……楠木正成を慕っていたようにな」
「等持院様(足利尊氏の戒名)が、でございますか」
「そうじゃ。我が父は……昔、幼いわしに、正成の戦振りを嬉しそうに話し……討死を無念な顔で話した」
苦しそうに声を絞り出す義詮に、後ろで控えていた細川頼之が進み出る。
「御所様、お身体に触りますゆえそのあたりで……」
身体を気遣う頼之に、義詮は首を横に降る。
「四條畷の戦の後……父は楠木の血脈を絶えさせぬために……正行の忘れ形見の子を……摂津の池田に引き取らせたくらいじゃ……これにはわしも驚いたものよ」
池田教依の養子となった池田教正のことである。春王丸や妻らばかりか、さすがの頼之も目を剥いた。
驚く一同を尻目に、義詮の話はなおも続く。
「わしはいつしか……その正行のことを……まだ見ぬ兄のように慕うようになった。将軍の息子としてはあってはならぬことじゃが……正行が鬼神のごとく攻め上がってきた時は心踊るものがあり……四條畷で討死した時には涙にくれた……わしは南方と和睦を成しえ……正行の舎弟……正儀とも語り合いたかった。正儀とはどのような男であったのかのう……春王丸よ。いつか必ず南方との和睦を実現し……楠木を味方につけよ」
息苦しそうに義詮は語った。
「御所様、それ以上はお身体に触ります。お言葉はしかと、この頼之が承りました。それがしにお任せくだされ」
ゆっくりと頷く頼之に、義詮は安心したかのように眠った。
十二月七日、将軍、足利義詮は三十八歳でこの世を去る。遺言によって、義詮の遺骨は分骨され、観林寺(善入山宝筐院)にある、楠木正行の首塚の隣にも弔われた。
正平二十三年(一三六八年)、年が明け、正儀は左兵衛督となる。かつて、足利尊氏が朝廷に反旗を翻した際、足利討伐の総大将、四条隆資が任じられた役であった。また、武家では建武の御代に足利尊氏も任じられた役で、征夷大将軍がいない今の南朝では、武家の棟梁にも等しい官職である。
この年の一月、正儀は、父、楠木正成の三十三回忌の追善供養の一つとして、授翁宗弼を迎えて北河内の仁和寺荘に観音寺を建立する。
落慶法要には舎弟の楠木伊予守正澄、従兄弟の楠木飛騨守正近に、和田和泉守正武、そして、河野辺駿河守正友ら一族・家臣の他に、参議の六条時熙をも迎えていた。
法要の後、御堂の外で正儀が宗弼に頭を下げる。
「宗弼様、お陰を持ちまして、よい供養ができました。もう少し寄進できればよかったのですが、今の楠木にはこれが精一杯。宗弼様にもご迷惑をおかけしました」
「いやいや、正儀殿のお気持ちこそが大事。拙僧はその中で力を尽くすだけでございます。されど、それはそれとして、住吉の朝廷でさえ、租税が入らず宮廷行事が行えないありさまとか。南方はますます先細るばかり。正儀殿は、この先、いかにお考えか」
宗弼は心配そうな表情で、正儀の顔を窺った。
「はい、それがしは足利義詮が亡くなった後も、引き続き幕府との和睦の道を探りとうございます。交渉すべき相手は京極入道から、新たな管領、細川頼之に変わりますが……正使を送る前にどのような男か確かめたいと思うております。それがしが思うような男であればよいのですが……」
これに、宗弼が頬を緩めて大きく頷く。
「それを聞いて安堵しました。義詮公が亡くなり、世間では南方が戦を仕掛けるのではないかとの噂もありましたゆえ」
宗弼の言葉に、正儀は苦笑いをする。
事実、強硬派の四条隆俊、北畠顕能の両大納言らは、義詮が亡くなると、祝宴を開き、討幕に向けて勇ましい言葉を並び立てたと、正儀の耳にも入っていた。
「正儀殿、よろしければ、拙僧が細川頼之殿とお引き合わせ致しましょう」
突然、宗弼の口から出た名に、正儀は驚く。
「宗弼様は、管領殿(細川頼之)をご存知なのですか」
「拙僧は諸国を旅して回っておりましたのでな。讃岐の善通寺を訪ねた折、世話になりもうした」
「それは都合がよい。どのようなお方でしょう」
興味深そうに、正儀が目を輝かせた。
「それは直接、正儀殿の目でご確認いただくのがよろしかろう」
「承知しました。ではよしなに」
正儀は宗弼に頭を下げ、よい取っ掛かりとなることを期待した。
立ち話をしていた二人の元へ、男たちが歩み寄ってくる。
「河内守(正儀)」
宗弼と向かい合う正儀の背中越しに声をかけてきたのは、参議の六条時熙であった。その傍らには和田正武を連れ立っていた。
「河内守(正儀)を探していたところ、和泉守(正武)がここまで連れて来てくれたのです」
そう言って、時熙は正武に振り返る。
「和泉守、御足労をおかけした」
「いえ、礼を言われるほどのことでは……三郎殿(正儀)、それがしはこれにて」
三人を背にして、正武は戻って行った。
「宗弼様……でございましたな。観音寺の建立、お見事な御仕切りでございました」
「これは六条様、もったいなきお言葉です」
手を合わせた宗弼が、時熙に頭を下げた。
「河内守、御上(後村上天皇)のことで、少しよろしいか」
「それでは、拙僧はこれにて」
時熙に気を遣い、宗弼は正儀に軽く会釈して立ち去ろうとした。しかし、思い出したように足を止め、正儀に振り返る。
「ああ、そうじゃ。一つだけ、申し訳ございませぬ。御上のお加減はいかがでありましょう。平癒祈願のお陰はありましたでしょうか。拙僧も、気になっております」
「ご、御坊、帝のお身体のことを知っておられるのか」
時熙は、強張った顔を宗弼へ向けた。帝の発作のことは、宮中でもごく一部の者しか知らないことであった。
「六条様、病気平癒、悪霊退散の護摩行を、内々に高野山の僧正にお願いしていただいたのは、宗弼様なのです……」
誤解を解くために、正儀は経緯を話した。
「そうであったのですか。これは失礼を致しました。であれば、御坊もここに居ってくだされ。麿が聞きたかったのも御上の発作のことです。それで、河内守、その後、どうなのじゃ」
正儀にたずねたのは、正儀が蔵人として帝の傍にいたからであった。
「いまだ時折、発作はありますれど、護摩行のお陰か、頻度は減っているように存じます」
時熙はほっと胸を撫で下ろす。
「いま、御上にもしものことがあれば、朝廷は一大事じゃ」
「六条様、帝はきっと御回復されます」
内心、正儀も不安を抱えていたが、口には出さないようにしていた。
「おお、そうじゃな、河内守。さりながら、万が一のことも考えておかねばなるまい。その場合は、熙成親王が立派な帝になられるよう、我らが盛り立てていかねばならん」
「はっ、承知しております」
神妙な顔で正儀は応じた。
熙成親王は、大納言、阿野実為の姪である三位局、阿野勝子が生んだ皇子であった。帝は、早くから熙成親王に対して東宮宣下(皇太子任命)をしていた。
二人の会話に、宗弼は不安気な表情を浮かべる。
「少々、よろしいですかな。熙成親王が東宮宣下を受けておられると言うても、努々《ゆめゆめ》、御油断召されませぬように」
「宗弼様、それはどういう意味でございますか」
不思議そうに正儀がたずねた。
「老僧の戯言としてお聞きくだされ。熙成親王は東宮の証である壺切の御剣を持っておられぬのではありませぬか。そのうえ、正式な立太子の礼も、執り行っておられない」
指摘した壺切の御剣とは、大昔の寛平五年(八九三年)、敦仁親王(醍醐天皇)の御代から受け継がれる東宮(皇太子)の証である。その壺切の御剣は、北朝の皇統が持ったままとなっており、南朝の帝には伝わっていなかった。また、東宮任命の正式な儀式である立太子の礼も、南朝の台所事情から執り行われていなかった。
「されど御上より、東宮宣下を受けておられる」
むっとした表情で時熙は反論するが、宗弼は残念そうな顔をする。
「はい、主上が御存命のうちはよいのです。されど、崩御された後となると、宣下の後立てが存在しないことになります。立太子の礼を経て壺切の御剣を熙成親王が持たれておられるのであれば、廃太子としない限り、東宮の地位は安泰です。帝が崩御されても、廃太子を命ずるお方がこの世に居ないということですので、東宮であり続けるのです」
時熙は正儀と顔を見合わせる。
「つまり、東宮宣下だけでは、御上が崩御されてしまうと、熙成親王が帝になれない可能性があると言われるのか」
唖然として、時熙は目を剥いた。
宗弼は淡々と答える。
「はい、可能性の一つとしてでございますが」
「その場合、他に可能性があるのは、一の宮様(寛成親王)ということか」
眉根を寄せて、時熙は唸った。
寛成親王は北畠親房の娘、顕子が生んだ帝の第一皇子で、叔父には強硬派の大納言、北畠顕能がいた。
「では御坊、どうすれば確実に熙成親王を帝に就けることができるのじゃ」
「はい、六条様。それには主上が御存命のうちに熙成親王に御譲位なさるか、熙成親王の御即位に際して三種の神器を奪われぬことです」
「今の時点では発作はあるが、そのとき以外はお元気じゃ。御存命のうちの御譲位は難しかろう。されば、三種の神器じゃな」
時熙がそう言うのには理由があった。
後醍醐天皇は、醍醐天皇の延喜・天暦の治を理想とし、上皇や法皇による権力の二重化を嫌い、天皇親政を目指した。延喜・天暦の治におけるもう一人の帝、村上天皇にあやかって生前から後村上を号とする今上帝も、帝を退く時は崩御するときと決めていた。
「なるほど。ようわかり申した。それにしても、御坊はなぜ、そのように宮中の有職故実に詳しいのじゃ」
不思議そうに時熙がたずねた。
「それは拙僧がその昔、洞院公賢様に、いろいろと教えを乞うたからでございます」
公賢は洞院実世の父で、幾度かの南軍の京侵攻に際して、両朝の間で渡りを付けた元の北朝の太上大臣である。
「洞院様に教えを乞うたと……いったい御坊は何者なのじゃ」
不審がる時熙に、正儀が口を開く。
「授翁宗弼様は、建武の御代の中納言、万里小路藤房様です」
「な、何と。先帝(後醍醐天皇)に苦言を呈して行方をくらませたという、あの藤房様なのですか」
「六条様、もう、昔の話でございます。今は一介の老僧にて」
「こ、これは知らぬ事とはいえ、先般からの非礼、お許しくだされ」
「いや、頭を上げてくだされ。何の、気にされることはございませぬ。それより、立太子の件は、拙僧も老婆心が強すぎたかも知れませぬ」
宗弼は時熙の手をとって、逆に謝った。
三人の会話を御堂の陰に立って聞いていた者がいた。先ほど正儀の元から立ち去ったはずの和田正武であった。
眉間にしわを寄せた正武は、ゆっくりと目を閉じ、ふうぅと深い息を吐いた。
二月、再び、帝(後村上天皇)に大きな発作が起こった。
蔵人として住之江殿に務めていた正儀は、寝所で横になる帝を見舞った。寝所に入れるということは、それだけ、信頼されていた証である。
「河内守(正儀)、そこにあるか」
「御上、河内はここにおります」
寝所の隣の間で、他の蔵人たちと一緒に控えていた正儀は、襖越しに平伏した。
「傍へ参れ」
「はっ」
恐縮しながら、正儀は襖を開けて、帝の枕元に座る。
「御上、御気分はいかがでありましょうや」
「うむ、心配をかけたな。もう大丈夫じゃ」
そう応じる帝であったが、その顔には、いまだ血の気が戻っていない。
「河内守、そなたには、幼き娘がおったな。幾つになった」
「年が明けましたので、数えて四歳になります」
「そうか、四つか。名は何という」
「はい、式子と申します。紫式部の式で式子です」
「そうか、そちと合わせれば儀式じゃな。ふふ、実直な河内守らしい名よのう。そなたに似て、さぞかし、真面目な子に育つであろう」
「それが、館の中を走り回り、乳母の手を煩わせております。それがしに似たというより、我が妻に似たのやも知れませぬ」
そう言って、場を和ませた。
「そうか、勇婦伊賀局(徳子)に似たか。では美しき女房になろう。それも楽しみであるな……」
目を細めて帝は微笑む。
「……朕には今年で六歳になる男児がおる」
「はい、六の宮様でございますな。存じております」
六の宮とは、帝の第六皇子、懐成親王のことである。
「河内守、朕よりそなたに頼みがある。将来、そなたの娘を懐成の室として貰い受けたい」
はっと息を飲み込み、正儀は帝の顔へと視線が動いた。正儀の官位で、それも武将の娘を親王の正室とすることは、通常考えられないことであった。
「御上、もったいなきお心遣い、この河内、言葉も出て参りませぬ。されど、御上や宮様に御迷惑をおかけするのではありますまいか」
しかし、帝は気にしている風はない。
「それについては、阿野大納言に考えさせよう。誰かふさわしい家門の養女としてから、ということになるであろう」
「さ、さりとて……」
ただただ、正儀は恐縮する。
「これは朕からの頼みなのじゃ。忠臣の中の忠臣である楠木の娘を、親王の妃に迎えることは、朕にとっても誇りなのじゃ」
そう言うが、それは帝の思いやりであることは、正儀にはよくわかっていた。楠木家が親王の室を出すということは、家格を上げることに繋がる。南朝に、帝に、身を挺して尽くす正儀や楠木一門に報いるには、これが一番よいと考えてのことであった。それは自身の体調の変化を悟った帝の遺言でもあった。
「もったいなきお言葉。この河内(正儀)、断る理由が見つかりませぬ。ありがたく、お受け致します」
思わず目頭が熱くなるのを正儀は感じた。
『巡り逢わん 頼ぞ知らぬ命だに 有らばと頼む程のはかなさ』
帝は病床で信濃宮こと宗良親王への句を詠んだ。そこには、兄宮に再び会いたいという、気弱になった帝の心情が表れていた。
その頃、和泉守、和田正武は、自らの館にあって一人悩んでいた。
再三、四条隆俊、北畠顕能の両大納言のから、誘いを受けていたからである。
正儀とは異なり正武の心情は、幕府を滅ぼし一族の無念を晴らし、唯一南朝が皇統を継承すべきと考えていた。
しかし、楠木軍の一翼を担い、一族の棟梁である正儀を盛り上げていくことにも義を感じていた。その上で、天才的な戦の才があるにもかかわらず、戦嫌いで、幕府に対して常に和睦を探る正儀の態度が残念であり、我慢がならなかった。
縁側に出た正武は腕を組む。
「どうしたものか……」
天を仰いで深い溜息をついた。
その後は大きな発作もなく、政務に励んでいた帝(後村上天皇)であった。だが、三月十日、奥の居所で写経に勤しんでいた時、発作に見舞われる。
胸を押さえて苦しむ帝の様子に気づいた三位局(阿野勝子)が、慌てて帝に寄り添う。
「御上、いかがされました。御上、御上。誰かある、誰かある」
うずくまる帝の背中をさすりながら、三位局は近習を呼んだ。
「御上、御上、しっかりなさいませ」
これまでにないほどの帝の発作に、三位局は気が動転する。だが、背中をさするうちに、帝は少し落ち着きを取り戻す。しかし、発作は帝の生気を奪い、起きる事さえままならぬ容態となった。
寝所に横になった帝は、住之江殿に大納言の阿野実為、参議の六条時熙とともに、蔵人の正儀を呼び寄せた。
「御上、大丈夫でございましょうや」
枕元に座った実為が、声をかけて励ました。しかし、その顔には、すでに死相が表れていた。
帝は、皆の励ましには応じず、死を悟ったかのように、自らの胸のうちを語りだす。
「……熙成に、生きているうちに譲位できなかったことは……残念でならぬ……」
帝は、実為の姪、三位局が生んだ熙成親王を溺愛していた。
三位局は美貌を誇った帝の尊母、阿野廉子の大姪だけあって、見目麗しい女御であった。大叔母の阿野廉子の計らいで、関白、二条師基の養女となってから奥に上がり、帝の寵愛を受けて熙成親王を生んだ。
その熙成親王も、今年で十九歳。幼い頃から祖母、廉子の影響を受けて、京への思いが強かった。また叔父である大納言、実為の影響を受けて、和睦を強く望むようになっていた。
親王は、実為、時熙らの和睦派の公卿らとともに、武士の正儀にも全幅の信頼を寄せている。それだけに、強硬派の大納言である四条隆俊や北畠顕能は、熙成親王が次の帝に成ることに脅威を感じているのは明白であった。
帝は話を続ける。
「されど……熙成が東宮であることには違いない……そなたたちは……和睦を成し遂げ……熙成を京へ戻すのじゃ……よいな」
「御上、ご安心くださいませ。我らが必ず熙成親王を京へお連れ致します」
無理に口元を和らげて、実為は帝を安心させた。
「河内……河内守はおるか」
帝は正儀を求めて、手を差し出した。
「ここにおります」
前に進み出て、正儀は帝の手を取った。
「我が朝廷を守護する武将は徐々に減り……今ではそなただけが頼りじゃ……熙成を守ってやってくれ」
「お、御上……承知……承知致しました。我が命に代えても、熙成親王を守護奉る所存にございます」
まっすぐ帝の目を見て、正儀は誓った。
正平二十三年(一三六八年)三月十一日、再びの深夜の発作で、後村上天皇は崩御した。それは子の刻であった。
幕府の征夷大将軍、足利義詮が亡くなってから、わずか三か月後のことである。ほぼ同じくして二人が亡くなったことで、時代の流れが大きく変わろうとしていた。




