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第32話 新帝

 正平二十三年(一三六八年)三月十五日、摂津国住吉の住之江《すみのえ》殿は、帝(後村上天皇)への餞《はなむけ》であるかのように、満開の桜に包まれる。

 大喪儀《たいそうぎ》を終えて、正儀は大納言、阿野実為(さねため)、参議の六条時熙(ときひろ)の御供として、関白に復帰していた二条教基(のりもと)の元を訪ねた。

「関白様、喪儀《そうぎ》も無事に終わりました。続いて親王様の践祚《せんそ》を早く執り行うべきかと存じます。つきましては日取りを決めたく、参上つかまつりました」

 強硬派の大納言、四条隆俊と北畠顕能(あきよし)らが横槍を入れないうちに、実為《さねため》は、早く熙成《ひろなり》親王の践祚《せんそ》を進めたかった。

「うむ、承知しております。月のうちにはとり行いましょうぞ。されど、四条卿らを説《と》かねばなりませぬゆえ、三月の終りとしたく存じますがいかがか」

 間を空けた提案に、正儀は少し不安を覚えた。だが、実為《さねため》は頷く。

「関白様、それで結構でございます。されど、四条卿らが一の宮様であることを理由に寛成《ゆたなり》親王を押そうとも、御上《おかみ》の遺勅《いちょく》に従い、東宮《とうぐう》宣下《せんげ》を受けた熙成《ひろなり》親王こそが次の帝にございます。そのこと、くれぐれも違《たが》わぬように、お願い申し上げます」

 実為《さねため》は教基《のりもと》の顔をじっと見据える。言質《げんち》をとろうとしていた。

「もちろんわかっております。何なら誓紙でも書きましょうかな」

「あ、いや、それは……」

 苦笑いを浮かべて、実為《さねため》は軽く手を振った。

「ほほほ。それでは、日取りについては、早ければ明後日にも麿からお知らせ致します。よろしいかな」

「承知致しました。それではよしなに。お取り計らい願います」

 教基《のりもと》の言葉に、実為《さねため》と時熙《ときひろ》は安堵する。だが正儀は、人の好い教基《のりもと》に一抹の不安を感じていた。


 その不安は、すぐに現実のものとなる。

 その日の午後のことである。強硬派の四条隆俊と北畠顕能(あきよし)が、七人の公卿《くぎょう》を集めて、関白、二条教基(のりもと)の元へと押しかけた。熙成《ひろなり》親王と寛成《ゆたなり》親王について、皇位継承を改めて廟堂《びょうどう》で審議すべきと、教基《のりもと》に直訴を行ったのである。

 大勢の公卿《くぎょう》に取り囲まれた教基《のりもと》は、こらえきれず、朝議に諮《はか》りたいとその場を逃げてしまった。


 翌々日、関白、二条教基(のりもと)の発議で急遽、公卿《くぎょう》が廟堂《びょうどう》に集められた。蔵人《くろうど》であった正儀は、帝(後村上天皇)が崩御《ほうぎょ》したことでその任を解かれ、掌記《しょうき》(書記)としてさえも同席は叶わなくなっていた。

 廟堂《びょうどう》の空気は、最初からぴんと張り詰める。

「和睦が成らなんだ今、幕府と相対していくには、若い熙成《ひろなり》親王では不安じゃと皆が漏らします。多くの公卿《くぎょう》に支持を得ている寛成《ゆたなり》親王こそ、次の帝にふさわしいかと存じます。何と申しても一の宮様でございます」

 四条隆俊は、関白の教基《のりもと》に睨みを効かせて寛成《ゆたなり》親王の践祚《せんそ》を迫った。

 これに対して、すかさず阿野実為(さねため)が意見する。

「待たれよ、四条卿。そもそも、このようなことを朝議に諮《はか》ろうとすること自体、御上《おかみ》に対する不遜《ふそん》じゃ。朝議を開くというのは、臣下が帝を決めるということに他なりませぬ」

「いえ、古代の継体《けいたい》帝は、大連《おおむらじ》の大伴金村《おおとものかなむら》らが協議して、選び奉《たてまつ》ったとある」

 悪びれずに隆俊は応じた。

 継体《けいたい》帝とは、古代、応神《おうじん》天皇の五世孫《ごせいそん》で、第二十六代の天皇である。皇統が途絶えそうになったとき、越国《えつのくに》から朝臣《ちょうしん》によって迎え入れられたと伝わる謎多き天皇であった。

 これには、さすがに実為《さねため》も、苛立ちを隠しきれずに声が大きくなる。

「いったい、いつの時代の話をされておられるのか。このような朝議をしようと、次の帝は、御上《おかみ》から東宮《とうぐう》宣下《せんげ》を受けた熙成《ひろなり》親王をおいて他にはありませぬ。これを無視して寛成《ゆたなり》親王を帝に据えようものなら、天下の御政道《ごせいどう》が成り立ちませぬ」

 もう一人の強硬派の首魁《しゅかい》である大納言、北畠顕能(あきよし)が薄笑いを浮かべる。

「阿野様、何か勘違いされておられぬか。いくら熙成《ひろなり》親王が東宮《とうぐう》宣下《せんげ》を受けていると申しても、立太子《りったいし》の礼が行われていたわけではありませぬ。現に東宮《とうぐう》の証である壺切《つぼきり》の御剣《みつるぎ》を持たれているわけではありますまい」

 顕能《あきよし》の言葉に、六条時熙(ときひろ)がはっとする。授翁《じゅおう》宗弼《そうひつ》の指摘を思い出したからである。

 東宮《とうぐう》の証となる壺切《つぼきり》の御剣《みつるぎ》は、北朝の皇統が持ったままで、南朝には伝わっていなかった。また、この頃の南朝は支配地域も縮小して租税も少なく、盛大な立太子《りったいし》の礼を執り行う余裕もなかった。

 だが、時熙《ときひろ》も黙っているわけにはいかない。

「たとえ立太子《りったいし》の礼を執り行っていなくとも、御上《おかみ》の遺勅《いちょく》でございます。御上《おかみ》の御意思《ごいし》を無視されると申されるのか」

「御上《おかみ》の遺勅《いちょく》と申されるが、枕元でお聞きになったのが三位局《さんみのつぼね》様(阿野勝子)と、阿野大納言、六条参議、そして河内守《かわちのかみ》(正儀)という御面々では、どうも信用できかねます」

「何、我らが嘘をついておると申されるか。聞き伝なりませぬな」

 いつもはおとなしい実為《さねため》が言葉を荒げた。しかし、顕能《あきよし》は涼しい顔で口撃する。

「それならば、麿は御上《おかみ》より寛成《ゆたなり》親王が世継ぎじゃと聞いた……と申せば、阿野卿はお信じいただけますかな」

 横柄《おうへい》な顕能《あきよし》のもの言いに、時熙《ときひろ》は苛立《いらだ》ちの表情を浮かべる。

「今更、寛成《ゆたなり》親王のお名前を出されても……中宮様の一件で、御立場を失って久しい……」

 感情的になった時熙《ときひろ》は、宮中では禁句となっていることにまで触れた。

 寛成《ゆたなり》親王の生母は北畠親房(ちかふさ)の娘、顕子《あきこ》であった。だが、親王が幼いうちに亡くなり、帝の寵愛は阿野勝子に傾倒する。その勝子が熙成《ひろなり》親王が産むと、危機感を募らせた親房は、末子の房子を中宮として輿《こし》入れさせた。しかし、房子の不義に端《たん》を発した騒動で、親房は謹慎を余儀なくされる。北畠の血を引く寛成《ゆたなり》親王は、その騒動の中で、忘れられた存在となっていた。

 時熙《ときひろ》の発言に目を吊り上げたのは、その時、自身も謹慎を余儀なくされた顕能《あきよし》である。

「六条卿の申されようは、寛成《ゆたなり》親王はおろか、御上《おかみ》までを愚弄《ぐろう》するのもじゃ。当時のことは新待賢門院《しんたいけんもんいん》様(阿野廉子(かどこ))の御意向《ごいこう》であろう。すでに御院《ごいん》様が薨御《こうぎょ》あそばされ、麿もこうして朝議に出られるようになった。当然、寛成《ゆたなり》親王に、その責がおよぶものではないわ」

「北畠卿は新待賢門院《しんたいけんもんいん》様に責任を追わせるおつもりか。御言葉を慎みなされ」

 すかさず言い返す実為《さねため》に、再び隆俊が加わる。

「御院《ごいん》様のことで、何もそのように怒ることもありますまい。やはり、阿野卿は御身内《おみうち》よのう」

 四人の公卿《くぎょう》の言い争いは泥沼に陥《おちい》った。

「待たれよ、おのおの方。議論はいつまで行っても交わることはないであろう……」

 朝議を開いた教基《のりもと》が、悩んだ挙げくに議論を制した。

「……麿に一任いただきたく存ずる。結論は軽々に申すことはできませぬが、やはり、御上《おかみ》の御意向《ごいこう》は無視するわけには参りませぬ」

 その言葉に、実為《さねため》と時熙《ときひろ》は顔を見合わせて安堵する。一方、隆俊と顕能《あきよし》は強張った表情で教基《のりもと》を睨んだ。


 住之江《すみのえ》殿に作られた侍所《さぶらいどころ》。正儀は河野辺正友、和田正武らとともに、践祚《せんそ》の行方に気を揉んでいた。

 朝議の後、正儀らは阿野実為(さねため)に呼び出される。

「結論は関白様(二条教基(のりもと))に一任することに決したが、御上《おかみ》(後村上天皇)の御意向《ごいこう》を尊重するとのこと。一先《ひとま》ず安堵した」

 紛糾した朝議を制し、実為《さねため》の顔はほころんでいた。

 しかし、なおも正儀は険しい表情を緩めない。

「大納言様(実為《さねため》)、油断は禁物でございます。もはやこれまでと、強硬な手を使ってくるやも知れません」

 これに時熙《ときひろ》の顔が強張る。

「強硬じゃと……兵を用いるとでも河内守は考えておるのか」

「それがしの知るところでは、四条大納言様は手勢を紀伊から百騎ばかり呼び寄せております。北畠大納言様の動きはつかめておりませぬが。行宮《あんぐう》をこれらの兵で固めて、三種の神器と関白様を手のうちにして、寛成《ゆたなり》親王の践祚《せんそ》を強行するとも限りません」

「うむ、まさかとは思うが、念には念を入れた方がよいか……河内守(正儀)、行宮《あんぐう》警護のためと称して、東条から兵を集められるか」

 実為《さねため》の問いかけに、正儀は難しい表情を浮かべる。

「兵を集めることは容易ですが、それがしが郎党を集めたとなると……」

 和睦派と強硬派によって内戦状態になるのを恐れていた。

「それがしが兵を出しましょう」

 声の主は和泉守、和田正武であった。

「我が和田党であれば、楠木の郎党より、目の敵とされる恐れは少ないでしょう。それに、和泉の我が館であれば東条に比べて近うございます。すぐに兵を集められます」

 提案は合理的であった。

「和泉守、それはよい提案じゃ。さっそく兵を呼び寄せて行宮《あんぐう》を警護してもらおう。のう、河内守」

 手を叩《う》って実為《さねため》が喜ぶが、正儀は、いつになく和睦派の動きに協力的な正武に、内心、躊躇《ちゅうちょ》していた。しかし、断る理由も見当たらない。

「承知しました。新九郎(正武)殿、よしなにお願い申す」

 目を向ける正儀に、正武は無表情に頷いた。


 熙成《ひろなり》親王の践祚《せんそ》に向け、正儀は公卿《くぎょう》たちを説得するため、それぞれの屋敷を奔走していた。

 とある屋敷から、次の公卿《くぎょう》の元へ向かおうと馬に跨がった正儀の元へ、青い顔した河野辺正友が馬で駆け付ける。

「殿、大変でございます」

 嫌な予感が走る。

「いかがしたのじゃ」

「殿、和田党によって、我らは行宮《あんぐう》から閉め出されました」

「な、なんじゃと」

 かっと正儀は目を見開いた。

 行宮《あんぐう》に集まった和田の兵は、予定を遥《はる》かに超えるものであった。兵たちは住之江《すみのえ》殿を囲み、関白以下の公卿《くぎょう》を住之江《すみのえ》殿ごと軟禁した。一部の兵は行宮《あんぐう》内に入り、三種の神器を奉《たてまつ》る宝物の間も抑えていた。

 仔細を聞いた正儀は、正友を伴って急ぎ住之江《すみのえ》殿に戻る。しかし、御殿の外には、二重三重に和田の兵が取り囲んでいた。

 馬上から正友が声を張る。

「こちらは、楠木河内守様なるぞ。殿を通すのじゃ。門を開けよ」

 上気する正友に対しても、和田の兵は戸惑いながらも開門には応じず、そろりと、槍《やり》を二人に向けた。

 そんな兵を押し分け、奥から一人の男が進み出る。

「河内守様、申し訳なき事なれど、ゆえあって、ここをお通しするわけには参りませぬ」

 男は和田正武の嫡子、判官代《はんがんだい》の和田孫次郎(まごじろう)正頼《まさより》であった。

「これは、御父上の命か」

 一門の棟梁である正儀の問いにも、正頼は苦渋の表情を浮かべるだけで、返事を返すことはなかった。


 その頃、行宮《あんぐう》の中では、四条隆俊と北畠顕能(あきよし)が、具足《ぐそく》(甲冑《かっちゅう》)姿の和田正武を供に、関白、二条教基(のりもと)の元を訪れていた。三人は教基《のりもと》の前で、仰々しく平伏する。

 人のよい教基《のりもと》であったが、この度ばかりは、真っ赤な顔をして激怒する。

「行宮《あんぐう》に兵を入れるとは、いったいどういうことじゃ。このようなことをして、ただではすまぬぞ」

「手荒い事をして申しわけございませぬ。されど、このようにせねば、関白様の身に、大事が起きていたやも知れませぬ」

 頭を上げた顕能《あきよし》が、自らの首に向けて手刀を引く真似を見せた。

「どういうことじゃ」

「関白様、それがしから説明致しましょう……」

 隆俊も顔を上げる。

「……河内守(正儀)が阿野大納言らと謀って、行宮《あんぐう》に兵を送り込もうと致しました。河内守より出兵を下知《げち》された和泉守(正武)は、兵を率い行宮《あんぐう》まで来たものの、思い悩んだ挙げ句、恐れ多いことと、我らの元に参じ、行宮《あんぐう》を守護する側に回ったという次第でございます。のう、和泉守。申してみよ」

 不審がる教基《のりもと》に、後ろで平伏していた正武が、具足《ぐそく》(甲冑《かっちゅう》)を鳴らして顔を上げる。

「それがしは、確かに河内守殿より、行宮《あんぐう》に兵を出すようにと命ぜられました。河内からも兵が出てくる可能性がございます。我が一門の棟梁に反意を示すのは忸怩《じくじ》たる思いにございます。されど、御政道《ごせいどう》を護らんがため、四条様の元に参じて行宮《あんぐう》を守護することに致しました」

 これに隆俊が補足する。

「河内守の狙いは、北畠卿と麿でございましょう。和泉守の機転がなければ、我らは討たれておったやも知れませぬ。いや、関白様さえも被害を被っていたやも」

「まさか、そのような事、信じられぬ……」

 教基《のりもと》は、ただ茫然と宙に目をやった。


 和睦派の大納言、阿野実為(さねため)と参議の六条時熙(ときひろ)は、和田の兵によって別室に留め置かれていた。そこに、二条教基(のりもと)の元から下《さ》がった四条隆俊と北畠顕能が現れる。

 激高した時熙《ときひろ》が、すかさず二人を睨みつけた。そして、その後に姿を見せた和田正武を目に留めると、思わず手に持つ扇で床を打ち付ける。

「この裏切り者めが」

 しかし正武は、目線を合わせようとはせず、ただ黙って敷居近くでひざを付き、一礼した。

 一方、隆俊と顕能は、立ったまま、勝ち誇ったように、実為《さねため》と時熙《ときひろ》を見下《みお》ろしていた。

「六条殿、和泉守(正武)を責めるのは筋違いであろう。和泉守は、ただただ行宮《あんぐう》の安寧を願うて、思い悩んだ挙句に麿に相談し、行宮《あんぐう》を守備したまでのことじゃ」

 にやりと口元を緩めた隆俊に、実為《さねため》が高眉《たかまゆ》を吊り上げる。

「何を心得違いしているのかは知らぬが、麿が河内守に命じたのは、行宮《あんぐう》の警護じゃ。それを麿たちが謀反《むほん》を企てたように吹聴したのであろう。そもそも兵を集めていたのは四条殿らであろう」

「阿野殿、抗弁は朝議が終わってからにされるがよい。今しがた、関白様(二条教基(のりもと))と話がつきました。河内守の挙兵に関与された阿野卿と六条卿を除き、朝議を開くことになりました。ここで、いずれかの親王の践祚《せんそ》が決まることとなります。では、我々はこれにて」

 冷たく言い放った顕能《あきよし》は、踵《きびす》を返し、隆俊・正武と共に、部屋の外へ出て行った。


 さっそくその日の午後、朝議が開かれる。

 住之江《すみのえ》殿の外では、和田正武の息子、正頼に排除された正儀が、河野辺正友、郎党数名とともに、遠巻きにして朝議の行方を見守っていた。

 関白、二条教基(のりもと)は、四条隆俊と北畠顕能(あきよし)の企《たくら》みは理解していた。だが、和睦派の首魁《しゅかい》である阿野実為(さねため)と六条時熙(ときひろ)が不在の中では、強硬派の意見を制する者が居ない。また、顕能《あきよし》の工作で強硬派の公卿《くぎょう》が多かったため、第一皇子の寛成《ゆたなり》親王の践祚《せんそ》を認めざるを得なかった。

「さりながら、御上《おかみ》(後村上天皇)の遺言に背くわけには参りませぬ。寛成《ゆたなり》親王の践祚《せんそ》に同意いたすとはいえ、東宮《とうぐう》宣下《せんげ》を受けられた熙成《ひろなり》親王がいずれ帝に御成りあそばすという前提でのこと。此度《こたび》は、熙成《ひろなり》親王がまだお若いゆえ、いずれ時が来たるときまで兄宮の寛成《ゆたなり》親王が帝の座にお付きになる。そういうことでなければ、とても賛同致しかねます」

 教基《のりもと》と残りの和睦派の公卿《くぎょう》たちは、せめてもの反論を試みた。結果、熙成《ひろなり》親王を皇太弟《こうたいてい》として認めさせ、和睦派の体面を保った。

 さっそく朝議の結果は、住之江《すみのえ》殿の外で控えていた正儀にも知らされた。

「そのような事、認めてなるものか」

 河野辺正友が郎党とともに激昂した。しかし、正儀が制する。

「熙成《ひろなり》親王が皇太弟に決まったことがせめてもの救いじゃ。朝議で結果が出たからには、無駄な争いを行ってはならん」

「されど、殿……」

 怒りで肩を震わせる正友に対して、正儀はゆっくりと首を左右に振る。

「我らが熙成《ひろなり》親王を御推挙したのは朝廷のことを思うてのことじゃ。ここで我らが暴れることが朝廷のためになろうか。我らは東条へ、いったん引こうではないか」

 そう言うと正儀は馬に跨った。表面上は冷静な対応である。しかし、心の中は誰よりも怒りに震えていた。

 正友を始めとする家臣たちも、悔しさを胃の腑に落として従った。


 正平二十三年(一三六八年)三月末、東宮《とうぐう》宣下《せんげ》を受けていた熙成《ひろなり》親王を押しのけて、寛成《ゆたなり》親王が、帝(長慶天皇)に践祚《せんそ》した。このとき、二十六歳である。

 後日、和田党が守備する住之江《すみのえ》殿で、即位の礼が執り行われた。即位の礼とは言っても質素なものである。

 本来なら、たくさんの旗が掲げられ、揃いの白装束を着た近衛兵が整列する中、束帯《そくたい》姿の公卿《くぎょう》たちが控える。そして、雅楽が演奏される中、帝が高御座《たかみくら》に上り、さまざまな儀式が数日間、行われる。この式典は、世間に即位を知らしめる意味で、庶民にも見物を許すのが慣例であった。

 しかし、この度の即位の礼では高御座《たかみくら》はなく、雅楽の演奏もない。旗は疎《まば》らで、守護する和田や名和の兵たちは直垂《ひたたれ》姿のままであった。そして、庶民の見物も認めず、人目を憚《はばか》るようにして行われた。

 同時に熙成《ひろなり》親王の立太子《りったいし》の礼も執り行われた。関白、二条教基(のりもと)が拘《こだわ》り、四条隆俊らに最後まで抵抗した事柄《ことがら》であった。

 即位と同時に立太子《りったいし》の礼を行うことで、新しい帝は、熙成《ひろなり》親王が践祚《せんそ》するまでの一時的な帝である事を明確にした。つまり、熙成《ひろなり》親王こそが万世一系《ばんせいいっけい》の世継ぎだと世の中に示したのである。

 さらに、教基《のりもと》はもう一つ条件を出していた。それは、阿野実為(さねため)と六条時熙(ときひろ)の赦免であった。

 教基《のりもと》は、実為《さねため》の謀反《むほん》など、あり得るはずのない滑稽な話であって、罠であることは明白と考えていた。だからこそ、この先、隆俊ら強硬派の暴走に歯止めを設けるためには、どうしても必要なことであった。

 赦免された実為《さねため》と時熙《ときひろ》は、堅い表情で、終始無言で即位の礼に参列した。

 武家も大勢列席していたが、正儀の姿はなかった。隆俊は正儀を許さなかった。

 一つは、父、四条隆資(たかすけ)を死に追いやった正儀を憎んでいたことが根底にある。だが、これは、隆俊の誤解に基づくものであった。

 もう一つは、正儀が朝廷の兵馬を掌握することを恐れていたからである。隆俊は和田正武を重用《ちょうよう》することで、楠木の力を削ぎ、正儀に対抗する力を育てようと考えていた。

 とにかく、正儀は朝廷での立場を失った。だが、即位の礼に招聘《しょうへい》されなかったことに特に異論も唱えず、楠木館で沈黙を守った。

 正儀は流れを読むことに長けている。自らの正義を主張し、訴えれば訴えるほど、敵が増えると悟っていた。今はただ流れが変わるのを待とうと思った。

 この年、新帝(長慶天皇)の即位が実現したことで、帝の叔父にあたる北畠顕能(あきよし)は内大臣に就任する。この先、正儀の立場は、ますます苦しいものとなっていくのは必定であった。


 四月十五日、幕府においては、足利義詮(よしあきら)の嫡男、数え十一歳の春王丸が元服し、足利義満となった。元服を取り仕切ったのは幕府管領(かんれい)の細川頼之である。

 これより十日前、頼之は武蔵守に任じられていた。かつて、鎌倉幕府に於ける執権北条氏、建武の新政時の足利尊氏、そして、足利幕府を開いた後には将軍家執事の高師直《こうのもろなお》も任じられた特別なものである。

 元服式は頼之が烏帽子親《えぼしおや》として加冠《かかん》役を務め、従弟の細川業氏(なりうじ)が髪結い役を務めた。また、弟の細川頼元や、従弟の細川氏春もそれぞれ役を務め、式典は細川氏の独壇場《どくだんじょう》となった。

「御所様、元服の儀、祝着至極にございます」

 儀式を終えて、頼之が笑みを見せた。

「武蔵守(頼之)、段取り、ご苦労であった。これからもよしなに頼むぞ」

「ははっ」

 十歳を少し超えたばかりの少年、義満に、頼之は畏《かしこ》まって頭を下げた。

「で、余《よ》はいつ将軍に成るのじゃ」

「御所様、将軍宣下(せんげ)は宝筐院《ほうきょういん》様(足利義詮の戒名)の喪が明ける十二月以降になりましょう」

 問い掛け応じたのは、傍《かたわ》らに控えた伊勢守《いせのかみ》、伊勢照禅(しょうぜん)であった。照禅は出家後の号で、名は貞継《さだつぐ》。齢《よわい》六十の老武士である。足利尊氏の時からの将軍近臣であり、幕府・将軍家の内々の諸事・作法を取り仕切っていた。

 正室の渋川幸子(ゆきこ)に憚《はばか》った先代の足利義詮が、身籠った愛妾《あいしょう》の紀良子《きのよしこ》を伊勢家に預けたことで、義満はこの照禅の屋敷で生まれ、幼い日々を過ごした。言わば傅役《もりやく》といえる存在である。

 このこともあり義満は、公なことは頼之を父として頼り、内々のことはこの照禅を父として頼っている。


 五月、正儀の姿は、自身が建立《こんりゅう》した北河内仁和寺荘(にんなじそう)の観音寺にあった。扉を閉じた御堂《みどう》の中は、格子窓から入る陽《ひ》の光で観音菩薩だけが輝いていた。

 この菩薩に向かって手を合わせる正儀の背後が急に明るくなる。その光に向けて、正儀が振り返った。

「正儀殿、拙僧が御呼び出てしたにも係わらず、お待たせして申し訳ありませぬ」

 そこには、授翁《じゅおう》宗弼《そうひつ》が一人の男を連れて立っていた。

「いや、心静かに手を合わせるのに、ちょうどよい一時でございました。で、そちらの方が……」

 凛《りん》と佇《たたず》む男に、正儀は視線を送った。

 すると、男がその場に座って頭を下げる。

「幕府管領(かんれい)の細川頼之にござる」

「楠木河内守(かわちのかみ)正儀にござる」

 居住まいを正し、正儀も頭を下げた。

「拙僧が讃岐《さぬき》を訪れた折、細川殿には大そう世話になってのう。此度《こたび》も、拙僧の願いを快くお受けいただいた」

 これまでも宗弼《そうひつ》は、気が向くと諸国を旅して回っていた。

 軽く笑みを浮かべた宗弼《そうひつ》が、二人を本堂から寺の客間へと案内した。正儀は、下座の宗弼《そうひつ》を挟んで、上下《かみしも》の区別なく、頼之と向かい合わせに座る。

「わざわざの御運び、痛み入り申す」

「いや、何の。楠木殿、和睦を進めるために、それがしは貴殿に会わなければと思うておりました。宗弼《そうひつ》様の話は渡りに船でござった。御所様(足利義満)は、これまで同様に、南方《みなみかた》との和睦に尽力せよとの仰せでござる。何卒《なにとぞ》、よしなに」

 その言葉に正儀は、申し訳なさそうに視線を落とす。

「それがしも思いは同じでございます。されど、少々間が悪うございました。住吉では新しい帝(長慶天皇)が御即位されました」

「聞いております。てっきり、弟宮《おとみや》様(熙成《ひろなり》親王)が践祚《せんそ》されるのだと思うておりましたが」

 正儀が顔を曇らせる。

「新しい帝は、先帝(後村上天皇)とは異なるお考えをお持ちです」

「異なる考え……新帝は和睦を願うておられぬと言われるか」

「難しいことになるでしょう」

 申し訳なさそうに正儀は頷いた。

 すると頼之は、ううむと唸って目を瞑《つむ》る。

 暫《しば》しの沈黙が二人を包んだ。

「管領《かんれい》殿、それは、和睦を願う正儀殿にとっても辛いことなのです」

 空気を察して、宗弼《そうひつ》が庇《かば》った。

 これに、正儀が苦笑いで応える。

「それがしは蔵人《くろうど》を罷免《ひめん》されました。さらに和睦で志を同じくしていた公卿《くぎょう》方も厳しい御立場となりました。もはやそれがしから帝のお耳に入れることは、難しくなりましょう」

 無念な表情の正儀に、頼之は首を横に振る。

「では、別の手立てを考えましょう。お見受けするところ、楠木殿の朝廷(南朝)での御立場は苦しいものと察しまする。楠木殿さえ、よければ、将軍の元に参じていただけぬであろうか」

 突然の申し出であったが、正儀はさほど驚きもせずに宗弼《そうひつ》の方に顔を向けた。

「正儀殿、拙僧もそれがよいと存ずる。よくご検討されるがよい」

「山名弾正(だんじょう)殿(時氏)や大内修理(しゅり)殿(弘世《ひろよ》)のようにでございますか……」

 二人はすでに頼之によって、南朝方から幕府へ寝返っていた。

 正儀は静かに首を横に振る。

「お会いする前から、細川殿からそのようなお話が出るであろうことは承知しておりました。おそらく宗弼《そうひつ》様もそれを期待して、それがしを細川殿に引き合わせたのでございましょう。されど、それはできませぬ。楠木は、山名や大内とは違います」

「楠木殿、それをわかっていて、ではなぜ、この場に来られた。和睦も奏上できぬ、幕府に付くこともできぬでは、それがしと会う意味がないではないか」

 そう言って、頼之は正儀の顔を窺った。

「まったく仰せの通りじゃ。されど、それがしは細川殿に一度、会うてみたかった。どのような男なのかこの目で見たかった。ただそれだけなのです」

 偽らざる胸のうちであった。

「ふふふ、ははは、これは愉快じゃ……」

 頼之は胸襟《きょうきん》を開く。

「……楠木殿、それがしも同じでござる。貴殿と一度会うてみたかった。なるほど、楠木殿とは気が合いそうじゃ。宗弼《そうひつ》様が言われた通りでございましたな」

 その言葉に、宗弼《そうひつ》は我が意を得たりと微笑み返した。

 結局、この日、頼之は、これ以上、和睦を協議するわけでもなく、正儀の寝返りを求めるわけでもなかった。宗弼《そうひつ》を含めた三人は、ただ互いの立場で、今の世情について意見を語った。


 その頃、大和国結崎(ゆうざき)に一座を移し、結崎《ゆうざき》清次となった観世は、京で乙鶴《おとづる》という女曲舞《おんなくせまい》師に魅了されていた。

「いつ観ても、そなたの舞は美しい」

「観世殿、来られていたのですか……」

 舞台の袖で待っていた観世に、乙鶴《おとづる》は頬を赤らめる。

「……少しお待ちくだされ。すぐに片付けますので」

 美男である観世の誘いに、乙鶴《おとづる》は胸を踊らせた。

 乙鶴《おとづる》に近付いたのは、単に美しい女だからではない。曲舞《くせまい》が、未完の申楽《さるがく》能に、何かを与えてくれるのではないかと思ったからである。

 曲舞《くせまい》とは、静御前《しずかごぜん》で有名な白拍子の舞が起源とも言われ、物語に韻律《おんりつ》を付して節と奏楽を伴う歌舞である。中でも乙鶴《おとづる》は、百万《ひゃくまん》という大和から出てきた女曲舞《おんなくせまい》が打ち立てた賀歌女《かがじょ》という流派であった。

 暇さえあれば、観世はその乙鶴《おとづる》の元を訪れた。そして、情を交わし、曲舞《くせまい》の節を五感で身に付けた。

『芸能は目で観て耳で聞くものじゃ。その両方が調和すれば倍にも十倍にもなるであろう……』

 この京極道誉の言葉が、頭から離れることはなかった。


 観世が乙鶴《おとづる》の元に通いだして、しばらくの後である。ついに道誉の問いかけに、答えを見つける。

 大和に戻った観世は、試行錯誤の末、大和音曲《やまとおんぎょく》を創作した。それまでの調《しらべ》主体の申楽《さるがく》能の音曲《おんぎょく》に、曲舞《くせまい》の節《ふし》を取り入れたのである。

「入道様(道誉)、私はついに答えを見つけましたぞ」

 観世は天を仰いで高らかに笑った。


 この年の十月、河内国の楠木館へ、幕府より使者が訪れた。細川頼元と赤松光範(みつのり)の二人である。

 頼元は幕府管領(かんれい)、細川頼之の歳の離れた弟であり、子のない頼之の嫡養子《ちゃくようし》となっていた。

 一方の光範《みつのり》は、播磨守護、赤松則祐(そくゆう)の兄、範資《のりすけ》の嫡男である。かつての摂津守護で、正儀とは摂津の覇権をかけて幾度も戦った仲であった。しかし、いつも楠木の神出鬼没の戦振りに翻弄《ほんろう》され、煮え湯を飲まされていた。正儀に対しては敵意しかなかったが、頼之の命《めい》で渋々、使者として楠木館に来ていた。

 光範《みつのり》は、出家して正寛《しょうかん》となった熊王丸を、正儀の元へ送り出した元の主君でもある。赤坂城の麓にある館の中を、その正寛《しょうかん》を探すかのように、きょろきょろと辺りを見回しながら頼元の後に続いた。

 二人は広間に通されると、正儀の前で下座に腰を降ろす。

「幕府管領(かんれい)(頼之)より、和睦の申し入れを預かって参りました。つきましては、楠木殿(正儀)より、住吉の帝に奏上つかまつりますよう、お頼み申す」

 そう言って頼元が書状を差し出した。淡々と交渉に入る頼元に対し、光範《みつのり》は終始厳しい視線を向けていた。だが正儀に、これを気にする素振りはない。心は別のところにあった。

(わしを試しておるのか……)

 正儀は、頼之の真意を計りかねていた。すでに、和睦の奏上ができる立場でないことは承知しているはずである。

 心の中で自問しながら、正儀は二人の顔を見る。

「もとより、和睦はそれがしの思うところ。管領《かんれい》殿の書状は、帝(長慶天皇)に奏請《そうせい》いただけるよう、できる限り尽力する所存。されど、朝議でどのように決するか、保証の限りではござらん」

 二人を前に、正儀は正直に話した。

 あらかじめ言い含められていたからか、頼元はそれで結構と言葉を返した。


 接見が終わった正儀は、細川頼元と赤松光範(みつのり)を、逗留先の往生院《おうじょういん》(六萬寺《ろくまんじ》)に案内する。この寺院は東条からは遠い。馬に乗った正儀が、自ら一行を先導した。

 馬上で光範《みつのり》が、うんざりとした表情を浮かべる。

「楠木殿、まだ着かぬのか。一体、何処に連れて行こうというのか」

「御足労をおかけし申し訳ない。あれに見えるが往生院《おうじょういん》でござる」

 そう言って、小高いところに建つ建物を指差した。

 山門《さんもん》に到着した頼元が正儀に歩み寄る。

「楠木殿自らの案内《あない》、痛み入り申す」

 遠くへと連れ回されたにもかかわらず、頼元は礼節ある態度をみせた。一方、光範《みつのり》は、憮然として目を逸《そ》らしていた。

「いや、ついでに、赤松殿(光範《みつのり》)に引き合わせたき者もおりましたから」

「それがしに……」

 それまで視線を逸らしていた光範《みつのり》が、怪訝《けげん》な表情を返した。

 そんな二人を連れて、正儀が寺の山門《さんもん》を潜《くぐ》る。そこには頭を下げる一人の修業僧がいた。

「赤松の殿(光範《みつのり》)……お久しゅうございます。熊王にございます」

 境内《けいだい》で待っていたのは、熊王丸こと出家した正寛《しょうかん》であった。

「く、熊王なのか、楠木殿(正儀)、これはいったい……」

 驚く光範《みつのり》に、正儀が表情をやわらげる。

「熊王丸は出家の道を選んだのです。積もる話もございましょう。二人でごゆるりと話をされるがよろしい。では、細川殿はこちらに」

 仔細が掴《つか》めず首を傾げる頼元を連れ、正儀は本堂へと向かった。


 その場に残された赤松光範(みつのり)と正寛《しょうかん》の二人は、場所を変え、食堂《じきどう》の中で向き合う。開け放った障子越しの赤や黄色の紅葉が、時の隔たりを忘れさせた。

「熊王丸、達者であったか。ずいぶんと心配したのじゃ。生きておれば、便りの一つでも誰かに託せなかったのか」

「私は殿(光範《みつのり》)に不義理をしてしまいました。本来、会わせる顔などないのでございます。それを楠木の父上(正儀)が、どうしてもと言われ、こうして、厚顔を顧《かえり》みず、お会いした次第です」

「楠木の父上とは……いったい、これまでの間、何があったのじゃ」

 さっぱり腑に落ちない光範《みつのり》に向け、正寛《しょうかん》は申し訳なさそうにうつむく。

「あれからわたしは……河内東条に赴《おもむ》き、運よく楠木の家臣に声を掛けられました……」

 そう言って、ぽつりぽつりとこれまでのことを語り始めた。

 楠木館に招かれた正寛《しょうかん》は、思いがけず正儀の猶子《ゆうし》となる。それからは、義理の兄弟たちと心許せる日々を過ごした。

 正寛《しょうかん》は、幼い自分を育ててくれた慈悲深い正儀を、どうしても討つことはできなかった。結果、親身になって送り出してくれた主君、光範《みつのり》への不義理との間で悩み、自害しようとした。そして、正儀に打ち明け、この寺で出家したまでの経緯《いきさつ》を、滔々《とうとう》と話した。

 聞き終えた光範《みつのり》は、辛そうな表情を見せる。

「そうであったか……わしが仇《かたき》を討つために出奔しようとするお前を止めておれば、苦しまずに済んだ。すまなかった」

「殿様、滅相もございませぬ。全てはわたしの責任でございます。それに、出家して思ったのは、赤松の殿と楠木の父、二人にお会いできたことこそが、私の生涯の宝となっているのでございます」

 正寛《しょうかん》は小さな笑顔を浮かべた。

「そうか……正儀という男は、それほどまでに心優しき者か……」

 そう言って光範《みつのり》は、正儀が居る本堂に目を向けた。


 幕府の使者、細川頼元と赤松光範(みつのり)を往生院《おうじょういん》に残し、正儀はその足で住吉に向かった。

 しかし、住之江《すみのえ》殿には参内《さんだい》せず、大納言、阿野実為(さねため)の屋敷に入って、事の次第を伝える。

 神妙に頭を下げる正儀に、実為《さねため》の表情が曇る。

「河内守、麿から御上《おかみ》(長慶天皇)に伝えることはもうできぬ。わかっていよう。関白様(二条教基(のりもと))にお話して、力になってもらうがよかろう」

 新帝が即位したことで、実為《さねため》は朝廷での実権を奪われ、今は形ばかりの大納言であった。

「いえ、大納言様。それがしは直接、四条大納言(隆俊)に話をしてみるつもりです。それを阿野様にお伝えしておきたかったのでございます」

「そうか……そういうことであるか。そなたがそう思うのであれば、悔いの残らぬようにな」

 そう言って、実為《さねため》は正儀を送り出した。

 その日、住吉大社の宿坊に泊まることにした正儀は、河野辺正友を四条隆俊の屋敷へと使わせる。隆俊が無視する懸念もあったが、意外にも会うとの返事を正友は持ち帰った。


 翌日、正儀は住之江《すみのえ》殿の一間で、四条隆俊を前に、下座で平伏した。隆俊の傍《かたわ》らに和泉守、和田正武の姿もある。正儀を不信がっているのは明らかであった。

 その場の空気が張り詰める。

「河内守が麿に会いたいとは珍しいことじゃ。今更、何用じゃ」

 平伏の姿勢から、正儀はゆっくりと顔を上げる。

「幕府からそれがしの元へ和睦の使者が参りました。書状を預かっております……」

 そして、隆俊に渡すようにと正武に書状を差し出す。

「……ぜひ四条大納言様より、朝議にお諮《はか》りいただき、帝(長慶天皇)に奏上いただきますよう、お願い申し上げます」

 睨むように正儀へ視線を向けたまま、隆俊は正武から受け取った書状をゆっくりと開く。

「河内守、なぜにそなたが和睦の取り次ぎをやっておるのか。誰の許しでやっておるのか」

「仰せ、ごもっともなれども、朝廷(南朝)の事情を知らぬ幕府の使者が、それがしの元に参り、和睦の取り次ぎを頼みました。それがしのところで放っておく訳にも参らず、こうして、住吉にまかり越しました。朝廷で朝議に御諮(はか)りいただき、帝(長慶天皇)に奏上できる御方をと考え、四条大納言様の元へ参った次第にございます」

 そう言って、隆俊の叱責をかわした。言い分は至極真っ当で、隆俊もそれ以上は、苦言を呈することはできなかった。

「此度《こたび》の相手は京極入道(道誉)に非ず、新たな幕府管領(かんれい)、細川頼之でございます」

 怒りを抑えて書状に目を落とす隆俊に、正儀は言葉を足した。

 目を通し終えた隆俊が、正武に見せることもせず、正儀に向けて書状を投げ返した。

「先般の和睦と条件は何も変わっておらぬではないか。このようなものを奏上せよと申すか」

 冷たく言い放つ隆俊を前に、正儀は目の前に放《ほう》られた書状を拾い上げる。そして、元のように折り揃えながら、隆俊の前に再び差し出す。

「和睦の条件は同じですが、新帝が即位され、将軍も変わりました。和睦の交渉は振り出しに戻ったということでございます。幕府としては条件を最初の時のように自分たちに都合よく書くこともできたでしょう。されど、同じ内容で和睦を求めてきたのは、今後の交渉として幸先よきことにございます」

「条件をまったく変えようとしない和睦を幸先よきものじゃと。その方《ほう》は幕府の手先であるか」

 だんだんと隆俊の声が荒立ってくる。

「大納言様、和睦を呑めないとしても、和睦の交渉を引き続き行う事こそが肝要でございます。住吉の、ここ数年の安寧は、和睦の交渉が続いておればこそでございます。和睦を打ち切れば、幕府は兵を挙げることでしょう。さすれば……」

「和睦をする気もないのに、交渉をせよと申すか。やはり、卑怯な河内守よ」

 遮って隆俊は暴言を浴びせた。

「な、何と」

 腹に据えかねた正友が言い返そうとするのを、正儀は後ろ手で制する。そして、大きく息を吐いて意を決っする。

「大納言様、それがしを御父君の仇《かたき》とお恨みのご様子、予てより承知しております。結果的に御父上を見殺しにしてしまったことは、それがしとて辛い出来事でございました」

「ふん、まるで他人事よのう」

「お聞きください。大納言様がそれがしに拘《こだわ》って政《まつりごと》をされる限り、この先、誤った道を進まれることになるやもしれませぬ。このことは生涯、それがしの胸にしまっておこうと思いました。されど、もし、大納言様のお考えを変えていただくことができるのであれば、お話する意味があろうかと存じます」

 不審な表情を隆俊が浮かべる。

「いったい何が言いたいのじゃ」

「それがしがなぜ男山に行幸《ぎょうこう》された先帝(後村上天皇)を、お助けしに戻らなかかったか、その理由にございます」

「何、理由じゃと」

「それがしは先帝より密命を受けておりました。あの時、先帝は死を覚悟されておられました。それがしに三種の神器を託し、男山からの下山を命ぜられたのでございます。先帝に万が一のことあらば、楠木党で熙成《ひろなり》親王を守護し、三種の神器をもって新しい帝に即位させよと。それゆえそれがしに、東条に戻って動くなと、お命じになられたのでございます」

 隆俊ばかりか、同席していた正武も目を剥《む》いた。

「何を突拍子のないことを。三種の神器は確か、男山から総撤退の折、阿野卿(実村《さねむら》)が馬に括《くく》りつけて下山された。それを、そちが先に持っていようはずはない」

「四条様は箱の中に入った神器を見られましたか。箱の中には神器はなかったのです。それがしと従弟の美木多五郎(正忠)が抱えて、男山を抜け出し、賀名生《あのう》に持って帰ったのです。それを発案され、先帝に奏上されたのが、阿野実村(さねむら)卿と、そして四条隆資(たかすけ)卿にございます」

「そ、そちが男山に戻って来なかったのは、我が父君の考えじゃと言うのか」

 隆俊の顔が上気する。明らかに動揺していた。しかし、その動揺を隠そうとするかのように、刺すような視線を正儀に向ける。

「よくもそのような戯言《ざれごと》を」

「それがしは東条で悶々と日々を過ごしました。このまま東条に留まれば先帝のお命《いのち》を危険にさらす。かといって、男山に舞い戻れば、先帝の命《めい》に逆らうことになります」

 その目は薄っすらと滲《にじ》んでいた。

「麿がそのような話、信じると思うてか。断じて信用せぬ。この期《ご》におよんで、自分の臆病を棚に上げ、言うに事を欠いて、先帝の命《めい》じゃと。我が父君の考えじゃと。心底見損のうたわ」

 目を吊り上げた隆俊は、立ち上がると、正儀に歩み寄り、閉じた扇をその肩に振り下ろす。

 ―― ばしっ ――

 乾いた音が部屋に響いた。そして、正儀を睨みつけ、大股《おおまた》で部屋を出て行った。


 残された和田正武は、ふうぅと溜息をついて、四条隆俊が置いていった和睦の書状を手繰《たぐ》り寄せる。

「三郎殿(正儀)、これはそれがしが預かっておこう。四条様とて、一存で和睦を跳ねのけるわけにはいかぬ。いずれにせよ、朝議にお諮《はか》りいただくことになろう……」

 そして、和睦の書状を手に取って立ち上がる。

「……わしは三郎殿の話を信じよう。もしかすると、四条様とて、信じたやも知れぬ。されど、わしはどうしても和睦は受け入れられん。お主とわしの考えは、もう交わることはないであろう。すでに袂《たもと》を分かったのじゃ」

 正武は正儀の背中越しに声をかけ、そのまま部屋を後にした。

 後ろに控えていた正友は、かける言葉が見つからず、一礼をして外へと向かう。残された正儀は、時が止まっているかのように、その場に一人佇(たたず)んだ。


 結局、幕府からの和睦の申し入れは、大納言、四条隆俊から朝議に諮《はか》られたものの、隆俊と北畠顕能(あきよし)が主導して拒絶することが決した。

 朝議の結果を受けて、正儀は往生院《おうじょういん》に向かい、逗留していた幕府の使者、細川頼元と赤松光範(みつのり)に結果を伝えた。

「であれば、楠木殿だけでも幕府に来られてはいかがじゃ。熊王(正寛《しょうかん》)と話して、楠木殿がどういう男なのか、ようわかり申した。そなたのような方が、討幕一辺倒の頭の固い公家たちの中に居《お》るべきではない」

 態度を変えた光範《みつのり》は、正儀の立場をおもんぱかった。

 しかし、正儀は首を縦には振らない。

「それがしはあくまで南(南朝)の者です。帝(長慶天皇)を御護りしなければなりませぬ」

「されど、このままでは……」

 首を横に振る正儀に、光範《みつのり》は続く言葉を飲み込み、何とも言えぬ表情で、頼元と顔を見合わせる。

「楠木殿……本当に残念です……本当に」

 頼元が憐《あわ》れむような目を向けた。

 すくった水が指の間から消えて行くように、またもや、正儀の目の前で和睦が消えていく。

 悔しさを噛み殺し、正儀は正寛《しょうかん》とともに、往生院《おうじょういん》の山門《さんもん》から、頼元・光範《みつのり》の一行を見送った。


 それから一月《ひとつき》も経たぬ十一月、細川頼元と赤松光範(みつのり)率いる幕府方、総勢五千余騎が出陣する。

 京に忍ばせていた聞世(服部成次)の配下が、楠木館の正儀の元に透っ波(すっぱ)を送って京の状況を伝えた。

 和睦の交渉が破断になれば、いずれ幕府は軍を動かすであろうことは正儀も予測していた。しかし、動きは正儀の予想より遥《はる》かに早いものであり、楠木党に戦支度《いくさじたく》を整えさせる暇を与えなかった。

 この幕府の動きに、正儀は急遽、軍議を開いた。

 舎弟の楠木正澄が悲壮な表情を浮かべる。

「兄者、傭兵《ようへい》を集めても我らは五百にも満たぬ。後は橋本ら紀伊勢じゃが、今から戦支度《いくさじたく》を整えていたのでは、とても間に合わん」

「こんなときに、美木多助氏殿がおればのう」

 従弟の楠木正近がそう言ってちっと舌を鳴らした。

「父上、ここは先手必勝。討って出て、幕府軍の出鼻を潰《つぶ》してしまいましょう」

「戯《たわ》けたことを申すな。そのようなことで勝てれば苦労はせぬ」

 勇ましく進言する猶子《ゆうし》の篠崎正久であったが、正澄に軽くあしらわれた。

 黙って皆の意見を聞いていた正儀が、やっと口を開く。

「此度《こたび》の幕府の挙兵はあまりにも手際がよい。端《はな》から和睦の交渉は破談になると見透し、この挙兵が目的であったかのようにな」

「兄者、八年前の畠山国清の侵攻では、幕府は用意周到に南河内に押し寄せてきた。その折も、先だって和睦を求めてきた。そのときと同じというのか」

 眉をしかめて正澄が問いかけた。

「あの時は、武力を背景に和睦を求めてきた。それならわかり易い。されど、此度《こたび》は武力を背景に和睦せよと恫喝してきた訳ではない。あくまで、和睦が決裂して、面子のために兵を送るようなもの。されど、それにしては一月《ひとつき》もせぬうちに、五千余騎の兵を送ってくるとは奇妙じゃ。管領《かんれい》、細川頼之。いったい何を考えておるのか」

 一同は重苦しい気色《けしき》に覆われた。

 軍議の席に、聞世(服部成次)が遅れて現れる。装束は諜報で使う黒衣ではなく、直垂《ひたたれ》に侍烏帽子《さむらいえぼし》を被っていた。

「遅くなり申した。幕府軍の様子が入りました。男山から四條畷《しじょうなわて》に入り、真っすぐ南下する気配です。おそらく狙いはこの東条かと」

「何、狙いはこの館……」

 唖然として正澄が声を漏らした。

 一方で正儀は、なるほどと頷く。

「そうか、これは楠木への脅しであったか。わしに、幕府に参じるか、戦って滅亡を選ぶか。二つに一つを選べということじゃ」

 怜悧《れいり》な頼之の顔が浮かんだ。

 無念な表情で、正友が呟く。

「狙いが楠木とわかれば、住吉の朝廷は、援軍を寄越さないのではありますまいか」

「兄者、どうする」

 この正澄の言葉で、一同が一斉に正儀の発言に注目した。

「よし、幕府の狙いが住吉ではなく我らじゃとすれば、この地で踏ん張る理由がなくなった。幕府に参じる事もなく、戦って滅亡する事もない、第三の道が我らに開けた」

 怪訝な表情を浮かべる正澄が、正近と顔を見合わせてから、首をひねる。

「……とすると、どうするのじゃ、兄者」

「逃げるのよ」

「では千早城……」

 正澄の言葉に、正儀は首を左右に振る。

「いや、国見城としよう」

「国見……金剛山の山頂の……」

 自身なさげに言う正近に向け、またもや正儀が首を横に振る。

「いや、その国見ではない。天野山《あまのさん》の南にある国見城じゃ」

 不思議そうに正澄が首を傾げる。

「兄者、なぜ千早ではなく国見城なのじゃ」

「千早では、幕府軍が取って返して住吉に向かった時、我らの参陣が間に合わぬ。国見であれば、敵を河内の奥に誘い込むと同時に、万が一、幕府軍が住吉に向かったときには、和泉を抜けて住吉に馳せ参じることができる。それと、和田の軍勢とで挟み撃ちもできよう」

 深慮な正儀の策に、一同は納得した。


 その頃、幕府が挙兵したことに、住之江《すみのえ》殿は大騒ぎとなっていた。正儀らの努力で和睦交渉が進んでいたここ数年間は、戦のない日々が続いていた。そのため、宮中では危機への意識が低下していたからである。

 大納言の四条隆俊は、和泉守、和田正武を呼び寄せ、挙兵を促《うなが》すとともに、湯浅党ら紀伊の南朝勢力に出陣を促《うなが》す使者を送った。

 以前であれば、真っ先に正儀が召し出され、隆俊らの顔を立てつつ、正儀が南軍の戦略を決めていくのが常であった。しかし、この度は正儀を召し出すことはなかった。これは、隆俊が正武に全軍の戦略を委ね、楠木をその下に置こうとしたためである。

 だが、和睦派の公卿《くぎょう》は言うにおよばず、強硬派の公卿《くぎょう》さえも、知略に長けた正儀が参内《さんだい》しないことに、不安を隠し切れなかった。


 真っすぐ南河内に向けて進軍してきた幕府軍は、手はじめに八尾城を攻略し、これを落とした。

「妙《たえ》、必要なものだけにして早く出立の用意を。とにかく皆を急がせるのです」

「ええ、奥方様(徳子)。承知致しております」

 楠木館では、正儀の命《めい》で、徳子と妙《たえ》が手際よく、逃げる準備を進めていた。

 そこに持国丸が、支度《したく》の様子を見にくる。

「母上(徳子)、支度《したく》はまだですか」

「もう、出られます。父上(正儀)に伝えなさい」

 母の言葉に持国丸は頷き、すぐに正儀の元へ走った。

 こうして楠木軍は女こどもまでを連れて、慌ただしく国見城へと撤退した。


 幕府の細川頼元と赤松光範(みつのり)が率いる軍勢が東条に入ったのは、まさにその直後であった。幕府の兵は楠木本城である赤坂城を囲うが、城には旗指物《はたさしもの》が立っていない。水を打ったように静まり返り、鳶《とび》や烏《からす》が、悠々と飛び交っている。兵が籠城《ろうじょう》していないことは、麓からでも一目瞭然であった。

 この度、正儀は籠城《ろうじょう》と見せかける必要はなかった。ここに居ないということを、殊更《ことさら》、幕府軍に知らしめる方がよかったからである。


 所は変わり、京の三条坊門第。先の将軍、足利義詮が亡くなって一年が経っていた。幕府は、義詮の喪が明けたことで、足利義満の将軍宣下(せんげ)に向け、その支度《したく》で慌ただしかった。

 数えで十一歳の義満を上座に据えて、幕府管領(かんれい)の細川頼之が下座から向かい合う。二人は、その隣に侍《はべ》る近臣の伊勢照禅(しょうぜん)(貞継)より、将軍宣下(せんげ)の儀式について説明を受けていた。

 その頼之の元へ、東条に進軍させていた舎弟の細川頼元より知らせが届く。

 頼之は、使いの武者を御所の庭に引き入れ、義満からも見えるように障子を開け放った。そして、自身は縁に座って使いを迎える。その武者は片ひざ付いて、東条の様子を殿上《てんじょう》の頼之に話した。

 すると、頼之の表情が変わる。

「まさか、赤坂城がもぬけの空とは……一矢も交《まじ》えず、一族郎党、女こどもを連れて全員で逃げたというのか……何と大胆な」

 口を噤《つぐ》んで、頼之はううと唸った。

 考える暇を正儀に与えさせず、楠木が幕府へ参じるしかないようにしたつもりであった。しかし、頼之の予想を超えて、正儀は逃げることでこれをかわしたのである。

「どこに逃げたのかわからぬのか」

「初め千早城かと思いましたが、楠木軍が逃げた方角を百姓らに問い詰めると、天野山金剛寺の方に向かったとのこと。あのあたりには仁王山《におうざん》城や国見城など、楠木の支城があるそうです。右京大夫《うきょうのだいぶ》様(頼元)は、そのいずれかかと申されておられました」

「ううむ、千早城と違い、攻め落とせぬ城でもなさそうじゃが……幕府軍を河内の奥に誘い込み、何をしようというのか……」

 国見城へ退いた正儀の真意を、頼之は量りかねた。迂闊《うかつ》に攻めれば、手痛い目に合うのではないかという不気味さがあった。

 その頼之の背中越しに、部屋の奥から義満が問う。

「武蔵守(頼之)、そなたの策はうまくいかなかったのか」

「御所様、面目次第もございませぬ。楠木正儀、思うていた以上に賢い男のようです。さすがに楠木正成の息子だけのことはあります」

 そう言って頼之は義満に謝罪するが、深刻な顔ではない。心なしか楽し気な表情を浮かべている。

「御所様、ますます、楠木を味方に付けたくなりました。宝筐院《ほうきょういん》様(足利義詮の戒名)の遺言は必ずそれがしが実現致します。御安堵くだされ」

「うむ、武蔵守(頼之)、そなたに任せようぞ」

「ははっ」

 薄く笑みを湛えたまま、頼之は手を着いた。

 殿上の成り行きに、庭先の使者がそろりと顔を上げる。

「管領《かんれい》様、右京大夫《うきょうのだいぶ》様(頼元)へは何とお伝えしますか」

「うむ……まもなく将軍宣下(せんげ)も控えておる。長引かせる訳にはいかぬ。きっと楠木は籠城《ろうじょう》にも備えておろう。此度《こたび》は、これまでじゃ。撤退して京へ戻るように伝えよ」

「ははっ。承知致しました」

 使いの武者は、一礼して立ち上がると、踵《きびす》を返した。

 その後姿を目で追いながら、照禅が顎《あご》を触る。

「管領《かんれい》殿、将軍宣下(せんげ)は重要なれど、ここで楠木の包囲を解いてしまうと、南方《みなみかた》は図に乗りませぬか」

「いや、照禅殿、考えがあります」

 頼之は脇に控えていた細川家の家臣を呼び寄せる。

「楠木が幕府に帰参することを承知したとの噂を、住吉の帝(長慶天皇)の耳に届くように流布せよ」

「ははっ、承知致しました」

 家臣はそう言うと、義満にも頭を下げて、すぐに御前から下がっていった。

「なるほど、楠木がいつまでも南方《みなみかた》に留まっておれぬようにするのでございますな」

 照禅はにやりと頬を緩めた。


 楠木党は、天野山金剛寺の南にある国見城に籠城《ろうじょう》していた。城には井戸があり水に困ることはなかった。また、河内国の南端という地のりは、兵糧を紀伊から運び入れることができる。これによって、幕府軍が河内に駐留しても、すぐに困るということはなかった。

 楠木の物見《ものみ》が、この国見城に入る。

「殿(正儀)、幕府軍が撤退しました。東条には一人の兵も残っておりませぬ」

 小具足《こぐそく》姿の男が、館の外で片ひざ付き、中の正儀に報告した。

「それで幕府軍の進路は」

「はい、竹内峠へ向かっております」

「うむ、ご苦労であった。ゆっくりと休んでくれ」

 労いの言葉に、物見《ものみ》は一礼をして下がっていった。

「竹内峠ということは大和を経由して京へ戻るということじゃな。やはり、兄者が言うとおり、楠木が狙いであったか。住之江《すみのえ》殿はもう大丈夫じゃ」

 脇で聞いていた楠木正澄は、胸をなでおろした。

「四郎(正澄)、幕府軍が京へ戻ったら、我らも東条へ戻るぞ。女たちに教えてやれ」

「承知した。皆、喜びましょうぞ」

 ひとまず、正儀は試練を乗り越えたのであった。


 その頃、住之江《すみのえ》殿の公家たちは、楠木党の動きに狼狽えていた。正儀が赤坂城を捨てて、さっさと国見城に逃げ、城を幕府軍に明け渡したからである。その背景には、楠木が南朝を見捨てる気ではないかとの噂が、宮中で広まっていたことにあった。

 大納言の四条隆俊は、和田和泉守(いずみのかみ)正武を連れて、内大臣、北畠顕能(あきよし)の屋敷に出向き、今後の対応を協議する。上段の顕能《あきよし》を前にして、正武を下座に控えさせ、隆俊自身は二人が見えるように横に座る。

「和泉守よ、河内守(正儀)は幕府と通じておるのではあるまいか」

 隆俊は端《はな》から正儀を疑っていた。

「それがしは、幼き頃から河内守殿(正儀)を存じ上げております。策に長けた男ではありますが、断じて御味方を裏切るような男ではありませぬ」

 正武は武骨な男であった。いくら、正儀と袂《たもと》を分かったとはいえ、正儀の器量をねじ曲げて伝えるような真似はしない。隆俊はその言葉を受けて、少しばつが悪そうに目線を外した。

 しかし、顕能《あきよし》は納得の表情を浮かべない。

「河内守は、熙成《ひろなり》親王の後立てとなっておった武将じゃ。はたして、先帝(後村上天皇)と同様に、主上《しゅじょう》(長慶天皇)に忠義を誓えるのか……」

 疑問を呈す顕能《あきよし》に、隆俊も頷く。

 そこへ、北畠家の家人が頭を下げて入ってくる。

「住之江《すみのえ》殿からの知らせでございます。幕府軍が東条から撤退を開始したとのことでございます」

「何、本当か」

「やれやれ、これで一安心じゃ」

 隆俊は顕能《あきよし》とともに肩の力を抜いた。

 体をねじる様にして正武がその家人に振り向く。

「楠木河内守殿はいかがされましたか」

「いまだ国見城に留まっておるようです……されど……」

 報告をもたらした家人が口ごもった。すると、顕能《あきよし》がもどかしい態度に苛《いら》つく。

「いかがしたのじゃ。申してみよ」

「幕府軍が撤退するのは、楠木河内守殿が幕府軍に降参したからじゃと……近隣の土豪らが、噂しておるそうにございます」

「なに、本当か」

 思わず隆俊が腰を浮かした。すると家臣は、自身の言葉に対して、申し訳なさそうに頭を低くする。

「いえ、あくまで噂でございます。噂の出所がよくわかりませぬ」

「まさか、河内守殿に限ってそのようなことはありますまい。そもそも降参したからと言って、楠木軍をそのままにして幕府軍が引き上げる事など、常識としてあり得ませぬ」

 さすがに正武は、これを一笑に付した。

 しかし、隆俊はその楽観的な態度に目を吊り上げる。

「いや、策士の楠木に、常識などというものが通用しようか。あり得ることではないか」

「いや、されど……」

「もし、河内守が裏切ったとなると、この住吉の地は、北からは幕府軍に、南からは楠木軍に挟まれることになる」

 正武の発言を制して、顕能《あきよし》が口を挟んだ。すると、隆俊がううむと低い声で唸る。

 結局、顕能《あきよし》と隆俊は、正儀の裏切りを懸念して、帝(長慶天皇)へ動座を進言する。その結果、帝は万が一の事も考慮し、住吉から賀名生《あのう》への行幸《ぎょうこう》を決意した。


 十二月、大和国結崎(ゆうざき)郷、観世こと結崎《ゆうざき》清次の結崎《ゆうざき》座を、再び京極道誉が訪ねていた。

「これは京極入道様(道誉)。遠路はるばるのお越し、まことに痛み入ります」

 輿《こし》から下りた道誉に向けて、観世が深々と頭を下げた。

「わしを呼び寄せたということは、お前の申楽《さるがく》能が完成したという事か」

「左様にございます。私はそれを大和音曲《やまとおんぎょく》と名付けました」

「大和《やまと》……音曲《おんぎょく》……そうか。ではさっそく見物致すとしよう」

 福田神社の境内《けいだい》に作られた舞台を前に、道誉は客席の中央に置かれた床几《しょうぎ》に座った。京極道誉一人のための舞台であった。

 演目は卒都婆《そとば》小町《こまち》。絶世の美女と名高い小野小町《おののこまち》の成れの果てだという老女が出てくる話である。

 一座の大夫《たゆう》である観世が仕手役《してやく》を務める。赤い小袖《こそで》に茅色《かやいろ》の打掛《うちかけ》を羽織り、小面《こおもて》の能面姿で、閉じた扇をゆっくりと前に出す。そして、囃子方《はやしかた》が奏《かな》でる調べに乗って、しずしずと足を運び、前に伸ばした手をゆっくり横へと動かした。

 囃子方《はやしかた》が奏《かな》でる調子に、道誉が耳を傾ける。最も大きく変貌したのは調べであった。調べ主体の小謡節《こうたいぶし》が特徴であった猿楽を、曲舞《くせまい》の節を取り入れて、小気味よい調子に変えていた。これによって、従来の申楽《さるがく》能に、幽玄さを兼ね揃えた大和音曲《やまとおんぎょく》が出来上がっていた。

 もはや、誰に見せるでもなく、観世は虚無《きょむ》となって音曲《おんぎょく》に身を任せた。

 演じ終わった観世は我に戻り、道誉が口を開くのをひたすら待った。

「ううむ……確かにお前の申楽《さるがく》能は、田楽を越えたようじゃ。賭けはわしの負けじゃ」

 田楽を越えてみせると観世が道誉に誓ってから、すでに十二年の歳月が過ぎていた。

「約束じゃ。お前の願いを何でも申してみよ。わしでできることなら、何でも叶えてやろう」

「ありがたき幸せなれども、私めは申楽《さるがく》能を完成させることばかりに夢中で、賭けに勝ったときにお願いすることなど、考えておりませなんだ」

「何と、これは愉快じゃ……」

 声を上げて道誉は笑う。

「……本当に何もないのか」

 改めて道誉が聞くと、観世は少し考えてから顔を上げる。

「京に一座を構えてみたいと思います。京の地であれば、今まで以上に、多くの方に見ていただくことができまする」

 その言葉に道誉の顔が曇る。

「わしも、お前を京に連れて行ってやりたいのじゃが……一つ大きな問題がある。それはお前が楠木の縁者、楠木正儀の従弟ということじゃ。お前も知っておろう。幕府と南の朝廷との和睦は成らなんだ。楠木一族は、いま幕府にとって一番の敵なのじゃ」

「私めは、服部清次から結崎《ゆうざき》清次へと名を改め、楠木一族とは無縁の者にございます。入道様(道誉)には、私めが楠木の手先になって動くような者に見えまするか」

「ううむ、そうは見えぬから困るのじゃ。そう見えておれば、とっくにその首を刎《は》ねていたであろう。可哀想じゃが、今、お前が京で一座を構える術《すべ》はないのじゃ」

 道誉の言葉で、またしても観世は大きな壁にぶつかったのであった。


 十二月二十四日、和田正武が供奉《ぐぶ》する帝(長慶天皇)の行幸《ぎょうこう》が、住之江《すみのえ》殿を出立した。

 正儀の楠木党にも注意を払い、河内は通らず、そのまま南下して紀伊に入る。そこからさらに西に進んで賀名生《あのう》に入った。

 帝や公卿《くぎょう》らは、幕府軍による侵攻の緊張からは解かれたが、正儀が南朝を見限り、幕府に降参したのではとの不審感が根深く残ったままであった。

 賀名生《あのう》に入った四条隆俊は、北畠顕能(あきよし)と諮《はか》り、正儀討伐を検討する。二人は朝議に諮《はか》る前に、内諾を得るべく帝の元に上った。

 帝(長慶天皇)は脇に関白、二条教基(のりもと)を伴っていた。自身の叔父にあたる顕能《あきよし》に絶大な信頼を寄せていたが、それでも言いなりにはなるまいと、腐心した結果である。

「河内守(正儀)が朝廷を見限り、幕府に降参したのであれば、御上《おかみ》をお守りすべき父兄の教えに背き、義を捨てた不忠者にございます。討伐せねばなりますまい」

 顕能《あきよし》は、正儀に国見城へ退いた理由や、幕府に降参したという噂の真偽を確認することなく、正儀の討伐を奏上した。

「げにも。河内守の行いは前代未聞の裏切りである。放っておけば悪しき前例になる。朕《ちん》も河内守の討伐は必要と思うぞ」

 帝は隆俊と顕能《あきよし》の言葉を鵜飲みにした。

 しかし、傍《そば》に控えていた関白の教基《のりもと》が口を挟む。

「北畠卿、河内守が朝廷を見限ったとか、幕府に降参したとかは、全てが噂の範疇を出ないことであろう。まずは、その真偽を確認すべきが肝要ではないか。御上《おかみ》、まずは河内守に勅使《ちょくし》を送り、当人から申し開きをさせてはいかがかと存じます」

「ううむ……確かに、二条関白のいうことはもっともなことじゃ。四条大納言、さっそく勅使《ちょくし》を河内守の元へ送るのじゃ」

「は……御意《ぎょい》」

 渋い顔で隆俊は畏《かしこ》まった。

 だが、隆俊が勅使《ちょくし》として選んだのは、隆俊ら強硬派に与《くみ》する検非違使別当《けびいしのべっとう》、葉室《はむろ》光資《はるすけ》であった。


 翌日、葉室《はむろ》光資《はるすけ》は金剛寺の南にある国見城へ入った。

 いったい何事かと、正儀は光資《はるすけ》を上座に上げて、その前で神妙に畏《かしこ》まった。

「河内守(正儀)、此度《こたび》、御上《おかみ》(長慶天皇)の守護を後回しにして東条を離れ、国見城へ勝手に撤退したこと、まことにもって不忠である。御上《おかみ》におかれても大そうお怒りじゃ。この場で申し開きをなさいませ」

 思いもせぬ光資《はるすけ》の言葉に、正儀は顔を強張らせる。

 その後ろに控えた舎弟の楠木正澄もいきり立つ。

「な、何を申される」

 思わず感情的に口走った弟を、正儀が手で制して自ら口を開く。

「まず、此度《こたび》の幕軍の狙いは、東条の楠木を制することにございます。我らは京に透っ波(すっぱ)を放ち、進軍中も物見《ものみ》を放って確認しておりました。住之江《すみのえ》殿に向かわないことを見切ったうえで、国見城へ退却したまでのことにございます」

「されど、敵はその東条から取って返し、住吉に進軍したなら、どうするつもりであったのじゃ」

 信用ならんといった態度で、光資《はるすけ》が正儀を尋問した。

「それについても、心配はございません。この城であれば、いざとなれば和泉を抜けて住吉に参じることができまする。それに、和泉守(和田正武)殿と挟み撃ちを行うことも可能でございます」

「ううむ、河内守の申すことは全て言い訳でないのか。終わった後であれば、好きなようにも言えよう」

 そんな光資《はるすけ》の態度に、正澄はおろか河野辺正友らの家臣も気色ばんだ。

「うぉっほん……」

 場の気配を感じ取った光資《はるすけ》が、咳払いをして話を変える。

「……河内守が幕府に降参したとの風聞もある。真偽のほどはいかに」

「それがしが……いえ、決してそのような……そもそも、降参するのであれば、東条から退かずに、降参しております。どうか、疑いを御晴らしいただきますように」

 心当たりがないことを説明することほど、難しいことはなかった。

「では、河内守の申し開きは御上《おかみ》にお伝え致しましょう。されど、疑いが晴れるまで、宮中への参内《さんだい》は不要とのことにございます」

 光資《はるすけ》が言い渡した出仕不要は、謹慎処分という意味であった。


 一年半前には幕府との和睦、南北両朝の合一は、もはや相成ったものと思われていた。しかし、和睦は決裂し、一年を待たずして将軍、足利義詮(よしあきら)と後村上天皇が相次いで亡くなる。

 さらに、期待に反して寛成《ゆたなり》親王が新帝として即位し、ついには、謹慎処分を言い渡された。

 先帝の崩御から、わずか十月《とつき》も経ずに、正儀は、目指す君臣和睦の道筋を完全に見失った。

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