森蘭丸は帰りたい
まだ冬がしつこく居座りながら、桜の話題などが出てくるようになる頃。
所謂、晩冬と初春の入り混じった時期。
花粉症の時期。
そうそれは所謂、確定申告の時期。
主君・織田信長の生まれ変わりである新庄竜軌の家はそれは大層な名家で、父は代議士、母は宮家の血筋をひくお姫様だ。
然るに、莫大な新庄家の財は、確定申告をする上で魔物と言う他なかった。
佐野雪人こと前生名、森蘭丸成利は、この新庄邸に住まいながら、竜軌の父である新庄孝彰の秘書のような役割を担っていた。
毎年、春が近づくと憂鬱になる。
夜は寝言で「こ、国税庁、」とうなされる程である。
何が厄介と言って、新庄家の莫大な財産であった。
都内でありながら広大な敷地、そこに立つ邸宅、孝彰の収入はもとより、竜軌の母・文子の嫁入り道具一式、着物類、調度品から内装の小物類、金庫に入った金銀宝石に株価証券、蔵に仕舞ったお宝の数まで換算に入れていては、はっきり言って蘭(竜軌たちから略称でこう呼ばれている)は花粉症になったほうが百倍マシだと思いながら電卓を叩いていた。庭に立つ灯篭までがひと財産ときた。
住まいにいながらにして帰りたい、と切実に思う。
最早、末期症状と言っても良かった。
主君の竜軌は婚約者とハネムーンよろしく海外に飛び、自分も婚約者のいる身ながら羨ましいと思う蘭だった。婚約者の鬼小路聖良嬢は小悪魔的な魅力を持つ、香水のきつい、蘭の理想を体現したような女性である。
こんなところで書類に埋もれてないで、彼女に逢いたい、出来れば膝枕などして欲しいなどと願望を抱く蘭に、戦国を信長と駆けた面影はない。
今はひたすらに代議士に雇われた一青年であり、であるからには、この山のような財務処理をこなさねばならない。すっかり冷めたコーヒーを飲み、眉間を揉みほぐす。ドーナツのような甘味でも欲しいところだと思うと、弟の坊丸がドアの隙間からことりとドーナツの乗った皿を置いてくれた。出来た弟である。
そこで少し思考が逸れる。現実逃避とも言う。
坊丸には好いた女性はいないのか。そろそろ、恋人でも作って良い年齢である。頭が猿並みの力丸と違って、落ち着いた物腰の坊丸に浮いた話の一つもないのは奇妙なことだった。頭が固すぎるのが難と言えば難。
蘭はオールドファッションを食べながら、しばし弟たちの行く末に思いを馳せた。
それはそうと。
嫌そうに黒いスチール板の上のガラス板、その更に山積みされた書類を見る。
聖良の甘い声の幻聴すら聴こえる。実に末期である。
主君には「どう考えてもMだボケ」と明言された蘭だが、こんな苦行は嬉しくも何ともない。
「帰りたい……」
住まいにいながらにしての哀切な響きを、聴く者はなかった。




