第5章 宙行く機械の船 1
太陽が沈み、天井の明り取りの向こうが青黒く染まる頃。
七都の部屋にあったカトゥースのほとんどが、枯れ果てた墨色の残骸となった。
これだけカトゥースを食べれば、だいじょうぶ。
七都は、立ち上がる。
そして、思いきり腕を上げて伸びをし、くるっと一回転してみる。
オールドローズのドレスの裾が、ふわりと舞った。
確実に体は軽くなっている。気分もいいし、いつになく晴れやかな感じさえする。
でもやっぱり、誤魔化しているだけなんだろうな、とは思うのだが。
セレウスが、部屋に入ってくる。
彼は、筒のようなものを抱えていた。
それをテーブルの上に広げると、中から繊細な絵が現れる。
「あ、それ。地図だ」
七都が言うと、セレウスはにっこりと笑って頷いた。
「ご依頼のものをお持ちしました」
よかった。もう、落ち込んではいない。
完全にいつものセレウスに戻っている。
改めて七都は安堵する。
でも。やっぱり、何でわたしのほうが気を使わなきゃなんないんだか……。
七都は、テーブルのそばに歩み寄って、地図を見下ろした。
だが、たちまちうんざりする。
全然知らない場所の地図。しかも、かなり芸術的なタッチの……。
それは、複雑な幾何学模様の絵と、その上に記された奇妙な符号でしかなかった。
七都はもともと地図を見るのは苦手なほうだが、その絵を現実化し、頭の中に地形として思い描くのは、難しいかもしれない。海が近くにはないというのが、何となくわかるだけだ。
「この町は、ここです」
セレウスは、地図にペンでしるしをつけた。
ここですって言われたって……。
ああ、そうですかって答えるしかない。
他の細かい情報が読み取れない。
「そういえば、この町の名前を聞いてなかったけど」
「アルティノエです。忘れないでくださいね」
「アルティノエ。うん。覚えておく。で、魔の領域は、どこ?」
「この辺ですね」
セレウスは町のしるしから距離を置いて、おそらく山を越えたあたりを指差した。
そこには、何の記号も入れられてはいなかった。
ただ、そのあたりだけ遠慮がちに、ぼんやりと暗いめに塗ってあるような気はする。
「ここからは、結構、遠い?」
「馬を使われるのでしたら……」
「馬には乗れないし、世話の仕方もわからない」
七都は、呟く。
「だから、もちろん、歩いて行くつもり」
「無謀ですね」
セレウスが、溜め息をついた。
「あなたのような女性が、徒歩で一人旅なんぞしていたら……。襲ってください、と言っているようなものですよ」
「でも、行く。飼い猫のナチグロ=ロビンに、一人で来てごらん、なんて挑戦的に言われたからね。一人で行ってみせる」
セレウスは、心持ち肩をすくめた。
「……徒歩でしたら、五日、いえ一週間以上はかかるでしょうか。一番近い、地の都までにしても」
「地の都……。そこの魔王は、エルフルドだったよね。確か、太陽の光に平気な魔王さまだって、ゼフィーアがこの間言ってた」
「ご両親のどちらかが人間だという話です」
「じゃあ、ナイジェルやわたしと同じなんだ。会ってみたいな、昼間に」
セレウスが、とんでもないという表情をする。
「魔王さまが全員、シルヴェリスさまみたいな方だとは限りませんよ。おやめになったほうが賢明です」
「それはエルフルドが、かなり性格悪いってこと?」
「魔王さまの悪口は、恐れ多くてとても言えません」
「つまり、性格、悪いんだ……」
「まあ、魔王さま方は変わった方が多い、というのが魔貴族の間での結論のようです」
「じゃあ、ナイジェルも変人だって思われてるんでしょうね。彼は、人間の常識も持ち合わせてるもの」
「シルヴェリスさまは、放浪癖があると噂されているようですね。玉座におとなしく座っておられた試しがないと」
「しっかり魔王さまの悪口を言ってるよ、セレウス」
七都がしらっとセレウスを眺めると、彼はあわてて口をつぐむ。
「ちなみに、エルフルドの噂は何なのか、聞きたいな。これから地の都に行かなきゃならないから、ぜひ聞いておかなきゃ」
「……途方もなく、気紛れで我が儘な方だと。もう、やめましょう。悪口を言うと、必ず本人の耳に入ります。最悪本人が現れます」
セレウスは消え入りそうに呟き、額に手を置いた。
リュシフィンは、何て悪口を言われているのだろう。
七都は思ったが、もうセレウスに訊くのはやめておいた。
本人が現れたら、却って手っ取り早くて、とても都合がいいんだけどね……。
「魔の領域って、どんなふうになってるの? 七つ都があるんでしょ」
「そうですね……」
セレウスは、地図を裏返した。
そしてそこに、次々と円を描く。
「え?」
七都はセレウスの顔と、彼のペンが綴る図形を交互に見つめた。
まるでよく出来たテストを採点するかのように、ペン先はぐるぐると丸を描いて行く。
セレウスは、連なった円を描き終えた。
六つの円が輪になっている。円は、大きすぎる丸い宝石で作った腕輪のようにも見えた。
まさか、セレウスって……。
「これが魔の領域? なんか……その、大ざっぱすぎない?」
七都は、その図形に関する率直な感想を述べる。
セレウスは、七都の疑惑のこもった眼差しを感じて、少し気を悪くしたようだった。
彼は、咳払いをする。
「これは決して、私が絵が下手なわけではなく……本当にこんな形をしているのですよ!」
半ばやけ気味に語尾を強くして、彼は呟いた。
「ゼフィーアに聞いたので、間違いありません。姉は、火の都の魔貴族の屋敷にいたのですから」
七都は、円の集合体をまじまじと、穴の開くほど見つめる。
魔の領域って……。
完璧な円形が集まって、繋がって出来てるってこと?
「でも、六つしかないよ、セレウス」
「七つ目の都は『時の都』と呼ばれ、はるか天空にあるとも、地の底にあるとも言われています。そこには、魔神族でさえも行くことは出来ません。魔王さま方だけが入れるのだとか」
「ふうん……。じゃあ、真ん中の空いてる空間は?」
「大きな道が放射状に延びているらしいです。どこの都にも行けるように」
「じゃあ、その道を通れば、風の都から行きたい都に行けるってことね」
「この町にいちばん近いのが地の都。それから光の都、闇の都、水の都、火の都、そして、風の都です」
セレウスは、時計とは逆周りに、円を順番に指差した。
「これが風の都……。地の都の隣なんだ」
七都が到着せねばならない風の都は、地の都と火の都に挟まれている。
「ですから、行き方としては、この町を出たら山を越えて地の都に入り、そこから最短距離で突っ切って風の都を目指す、というのが一番近いと思われます」
「よかった。そんなに遠くなくて。水の都の位置とかだったら、もっと時間がかかるもの」
ナビもあるし、きっとすんなりたどりつけるだろう。
七都は、楽観的に思う。
そう。たったこれだけの距離。
特に、何も起こらないことを願う……。
「ナイジェルは、ここから来たんだね」
七都は、水の都の円に指を置いた。
セレウスは、黙って七都の横顔を見つめる。
「たとえば、水の都に行ったら、彼に簡単に会えるものなのかな?」
「難しいかもしれません」
セレウスが言った。
「シルヴェリスさまご自身が気づいてくだされば別ですが。おそらく側近のものたちが固めていて、城に入ること自体不可能かもしれません」
「そうだよね。なんせ、ここでいちばんえらい人なんだもんね……」
七都は、円をなぞった。
しめつけられるようなせつなさを感じる。
ナイジェル。わたし、またこの世界に来てるんだよ。気づいてる?
あなたに会って、いろいろ聞いてみたい。
あなたも、別の世界から来たと言った。
別の世界では、人間だったのでしょう?
わたしと同じように、人間として暮らしていたんでしょう?
でもあなたは、今はこの世界で魔神として、エディシルを食べて、生きてる。
何の迷いもなく? あなたも悩んだの?
そもそも……なんであなたは、魔王なんかになってるの?
「あなたが風の王族の姫君なら、風の城に到着なさってから、正式に水の都に申し込まれて、シルヴェリスさまと面会をされればよろしいと思いますよ。きっと側近たちにも歓迎されるでしょう」
セレウスが言った。
「なんかめんどうで、大層だね。わたしはナイジェルと気軽に会って、話したいのに」
「お二人とも、お城を出なければ、それは無理かと思います」
「だからナイジェルは、放浪というか、散歩してるんだ、きっと。お城にいると、窮屈で息が詰まるから」
「……かもしれません」
「で、風とか火とか水とか名前がついてるけど……。やっぱり、それぞれ魔神族は、名前の通り、風をつかさどるとか、水の魔力を使ったりとか、するの?」
「名前は、単なる記号でしかありません。地名などと同じですよ。便宜上で付けられたと聞いています。かつて一族が住んでいた場所から名づけたとか、一族の性格から付けられたとか。ただ、名前に沿うように都に意匠をこらしたり、装飾や服装に反映させたり、容姿を名前にふさわしいものにしたり、というのは一般的なことのようです。だからたとえば、シルヴェリスさまは水を思わせる美しい容姿をしておられますが、風の魔神族のナナトさまよりは簡単に、風を支配する魔力をお使いになられるでしょうね」
「そっか。じゃあ、わたしが水の魔力を使ったって、火の魔力を使ったって、問題はないわけなんだ。……使えないけど」
「ぜひ精進してお使いください。ところで、飼い猫のナチグロ=ロビンとは、あの黒髪の下級魔神族の少年の方ですか?」
セレウスが訊ねた。
「そうだよ。わたしがいた元の世界では猫なんだけど、ここではあの美少年」
「あの方は、つまり、あなたの側近ではないのですか? あなたを守り、導かねばならぬお立場なのでは……」
「そういう役割なんてないのかもしれない。彼の主人は、わたしじゃないもの。ご主人は別にいるみたいね」
「ですが、あなたをたったひとりで置き去りにして……」
彼は、険しい顔をした。
「彼には彼の考えがあるんでしょう。それに、彼は猫だしね。猫に何か期待しちゃだめだよ」
「……あなたが納得しておられるなら、何も言いませんが」
その時――。
地鳴りのような、ゴオオオオ……という音を七都は聞いた。
音は町を包みこみ、次第に大きくなってくる。館全体が震えるようだ。
一定に響く重々しい低い音に寄り添うように、幾つもの高い音が渦巻き、あるいは長く伸ばして奏でられている。
それはおそらく、自然界の音ではない。風や水、地の音とは異質なもの。そして七都には、どこか懐かしい音でもあった。
あれは、機械……。そう、機械の音だ。
飛行機とかヘリコプターとか、そういうものに通じる、金属か何かで組み立てられた、人工の硬い物質がたてる音。機械の乗り物の音だ。
しかもこれは、かなり大きな乗り物のような気がする。
「セレウス、あの音はなに?」
七都は、訊ねた。
「あれは、宙を行く船の音です。闇の魔王ハーセルさまの。この町の上空は、船の通り道になっているのです」
「宙を行く? ……ってことは、宇宙船!?」
七都は、扉に走る。
「あ、ナナトさま! 魔の領域の船が現れたときは、外に出るのはおろか、窓から覗くことさえ禁じられているのですよ!」
セレウスは言ったが、扉の前で立ち止まって振り返り、小首をかしげた七都を見て、口をつぐむ。
七都はにっと笑って扉を開け、外に出て行った。
「禁じられているのは、人間だけ。……あの方は魔神族なのだから、関係なかったな」
セレウスは、ふうっと溜め息をついて、呟いた。




