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第4章 魔神の血 11

 七都を部屋に連れ帰ったセレウスは、七都を椅子に座らせた。


「わたし……わたし、セージを襲ってしまった……」


 七都は、両手で顔を覆う。


「あの子には、警告しました」


 ゼフィーアが言った。


「すぐ家に帰るようにと。あなたに会わぬようにと。なのに、それを無視したのは彼女です」

「でも、もうセージは、わたしとは、前みたいには話してはくれないよね……」

「そう出来ぬようでは、あなたのおそばにいる資格はありません」

「ユードにも怪我させてしまった……」

「自業自得でしょう。あのままあいつのエディシルを召し上がればよかったんですよ」

 と、セレウス。


「血と一緒にエディシルを取るのは、魔貴族や王族の姫君のすることではありません。自制されてよかったのです」


 ゼフィーアが、じろりとセレウスを横目で見る。


「私はカトゥースを用意してきます。熱いカトゥースをお飲みになれば、もう少し落ち着かれるでしょうから」


 セレウスは、ゼフィーアが部屋から出て行ったあと、ドアを閉め、肩に背負っていたカトゥースの袋を床に置いた。

 セレウスが袋を開けると、中から透明な蝶が、ひらひらと舞い上がる。

 たちまち部屋の中は、無数の蝶たちが飛び交う幻想的な空間へと変化した。

 七都はその光景をしばらく眺め、それからセレウスを睨んだ。


「セレウス。どういうつもり? カトゥースを取りに行ったんじゃなかったの?」

「カトゥースより、蝶のほうがよろしいでしょう?」


 セレウスが微笑む。舞い飛ぶ蝶を背景にして。


「なんでよ?」

「蝶のほうが、栄養がありますから」

「怒るよ、セレウス!」

「どうぞ、怒ってください。先ほどのように」


 彼は、さらににっこりと笑った。

 蝶たちが七都の髪にとまり始める。


「見たでしょ、さっきのわたしを。怖くないの?」

「怖い? 魅力的でしたよ。私は好きです。暗黒の闇をそのまま映したようなあなたの目も、尖った歯も、宙に静止した長い髪も。大変美しいと思いました」


 セレウスは、七都の前に膝をついて座った。そして七都の手をつかみ、髪にとまった蝶の中の一匹に、その指を近づける。


「何するのっ!」


 七都は彼の手を振り払おうとしたが、セレウスは七都の手をしっかりとつかんだまま離さなかった。そのまま指を蝶に触れさせる。

 蝶は七都の指が触れた途端、銀色の粉になって分解した。


「あ……」


 七都は、目を閉じる。

 エディシルが、また七都の指の中に流れ込んだ。さっきよりも早い速度で。


「あなたが拒絶しても、あなたの体は正直に反応している。ぜひ、召し上がってください、蝶のエディシルを。グリアモスがつけた傷も、きっとよくなる」

「いや!」


 七都は、セレウスの手を払いのけた。


「どんなに拒んでも、あなたは結局、魔神なのですよ。魔神は魔神の食べ物を取らなければならない。生きていくためには」

「でも、いやだ」

「あなたは、家畜を食べるのがいやだと駄々をこねている、小さな子供と同じです」

「そうなのかもしれない、蝶に関しては……。でも、人間は違う。家畜じゃない」


 セレウスは蝶の羽根をそっとつかみ、それを七都の唇に触れさせた。

 唇が触れた瞬間、蝶ははじけて銀色の粒子となる。


「やめて……」


 七都は、唇の隙間から入ってくる甘い快感に顔をしかめた。

 セレウスは両手を伸ばし、七都の顔を挟んだ。


「あなたはユードに邪魔されて、セージのエディシルが取れなかったし、ユードからは、取ることを自分でやめてしまわれた。今のあなたは、エディシルに飢えているはず。本当は欲しいのでしょう。欲しくて欲しくて、たまらないはずです」


 セレウスは、七都の顔を覗き込む。


「あなたとは、にらめっこはしない」


 七都は、呟いた。


「それ以上わたしに顔を近づけたら、本当に怒るから」

「どうぞ。あなたの怒った顔が見たいですね」


 セレウスは、さらに顔を接近させた。

 彼の緑色の目が、大きく迫ってくる。


(セレウス、悪いけど、蹴るよ!)


 七都は、ドレスの中で片足を静かに上げる。

 勢いよくその足を伸ばしたときの効果は、グリアモスで実証済みだ。

 相手がセレウスだから、もちろん加減はするとはいえ。


「セレウス、おやめなさい。アヌヴィムから魔神族に口づけをするなどということは、許されません。わたしたちは、常に受身でいなければならないのですよ」


 ゼフィーアがドアを開けて、入ってくる。こうばしいカトゥースの香りが漂った。

 彼女がちらりと部屋の中を見渡すと、浮遊していた蝶も、七都の髪にとまっていた蝶も、たちまちすべて残らず元の袋の中に吸い込まれてしまう。鮮やかな魔法だった。


「もう少しであなたは、壁にたたきつけられるところでした。ナナトさまを甘くみてはいけません」


 彼女は微笑んで、カトゥースをテーブルに置く。


(お見通しってわけね)


 七都は、折り曲げた足をそっと元に戻した。


「ナナトさま、お召しかえを。その服は血がついてしまいましたので」

「あ……」


 七都は、薄紅色のドレスを見下ろす。

 鮮やかな赤い花の模様のように、血がこぼれて広がっていた。

 ユードの血だ。あの状況でドレスが無事で済むはずもなかった。


「ごめんなさい。あなたの大切なドレスを……」

「いいえ。構いませんよ。それは、あなたに差し上げたのですからね。その服は歩きにくそうにしておられたので、もう少し動きやすそうなものを持ってまいりました」


 彼女は、薄紅よりも少し濃い、オールドローズの色をしたドレスを広げて見せた。


「セレウスは、もちろん出て行ってくれますね? あなたは再び地下に戻って、今度は蝶ではなく、カトゥースを取っておいでなさい」


 セレウスはぎこちなく一礼をして、部屋から出て行った。



 ゼフィーアが着せてくれたのは、前よりも歩きやすくて軽いドレスだった。

 薄いレースの生地を幾重にも重ね、花を逆さにしたようなデザイン。ボリュームはあるが丈も短めで、走ったり跳んだりしても、足に巻きつくことはなさそうだ。

 着替えが終わったあと、七都は熱いカトゥースを飲んだ。

 やはり、これが一番落ち着く。

 落ち着くと同時に、また涙の石が勝手に目からこぼれ落ちる。


「泣くのはおやめなさい。体力を消耗してしまいますよ」


 ゼフィーアが、諌めるように言った。


「ゼフィーア。ナイジェルと同じことを言うんだ……」

「シルヴェリスさまですか」


 ゼフィーアは、二杯目のカトゥースを七都のカップに注ぐ。


「今度シルヴェリスさまにお会いするときまでには、胸の傷はきちんと治されたほうがよろしいですね。シルヴェリスさまのためにも」

「別に治ってなくても、服で隠しておいたら、だいじょうぶ。わからないよ」

「そうですか?」


 ゼフィーアが、くすっと笑った。


「え? あ。そ、そういう意味?」


 七都は、顔を赤くする。


「どういう意味でしょうか?」

「だから。ナイジェルとは、別に恋人でも何でもないんだったら」


 ゼフィーアは、さらにくすくすと笑って、それから少し真面目な顔をする。


「それでは、きょうはずっとカトゥースを召し上がってくださいませね。他のエディシルをお取りにならないのならば、カトゥースは、たんと取っていただかなければなりません」

「うん。わかった……」


 七都は、二杯目のカトゥースを飲み干した。

 もう涙の石は、こぼれなかった。

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