No.28 鶏肉のおろしポン酢
もう何時間か。
休憩を挟んでから、水分補給をしながら組手をブッ続けていた。
「せいっ!」
「っと、あぶね!」
沙姫が放った左手の突きを、首を横に反らす動作だけで避ける。
長時間も組手をやっていて、お互いの額には大量の汗が流れ、頬を伝う。
「隙あり!」
先程の突きから更に踏み出し、沙姫は踏み出した右足と一緒に右手を前に突き刺す。
「無ぇよ、んなモン!」
それをバックステップで躱す。
「胸無し!」
透かさず、伸びきった沙姫の腕の下。脇腹を狙って掌打を放つ。
「ありますよ、少しは!」
が、沙姫は踏み出した右足を軸に半回転する。
掌打を放った手を捌いて俺の身体を上手く流がし、沙姫が半回転した際の軸足である右足を引っ掛けられた。
「おわぁ!」
当然、バランスを崩している所に足を引っ掛けられれば出る答えは一つ。
「あだっ」
転ける。
「ったぁ……またやられちまった」
うつ伏せで畳の上に転び、頭を押さえる。
まーた投げられちまった。
「って言うか、咲月先輩! 胸無しって何ですか、胸無しって!」
「あー、いや……俺も隙ありって言おうとしたんだけどよ、似てるから間違えちまったわ」
「全然似てないですよ! 人が気にしている事を!」
いやー、あまりに中々沙姫から1本取れないもんだから、うっかり思った事がポロリと出ちまった。
つーか、胸が小さいの気にしてたのかよ。
「はー、疲れたぁ……今日はこれで終わりにしません?」
大きく息を吐いて、沙姫はその場にペタン、と座る。
「なんだよ、勝ち逃げかー?」
結局、後半も殆ど沙姫のペースで持っていかれた。手の指どころか、足の指を使っても数えられない位に投げられた。
すいません、沙夜先輩。また喧しくしてしまいました。
「そうですよー、逃げたもん勝ちです」
そう言って、沙姫ははにかんで見せる。
「まぁいいけどよ。それにしても、今日もやったなぁ」
身体を起こして、胡座をかいて座る。
道場には時計が無いから何時間やったかは解らないが、疲れ具合で大分やったとは思う。
腕やら足やら、各部が既にダルく感じ始めてるし。
「にしても、投げられまくったなぁ……」
思い返せば思い返す程、見事に投げられまくったと思う。
いくら対処しても、別の方法で投げてくるから困ったもんだ。
「えっへへー、柔よく剛を制す、ってヤツです」
白い歯を覗かせて、沙姫は無垢な笑顔をする。
「最後のは当てれたと思ったんだけどなぁ……綺麗に捌かれた」
「あれは熊手流しって言って、相手の力の流れを利用した技なんですよ」
「へぇ。なんだっけ? 沙姫が使う武術。えっと、水無月柳……」
「水無月柳素式柔手道ですか?」
「そう、それ。結構投げ技が多いよな。合気道とかを基にしたとか?」
「うーん、どうなんでしょ? 私も詳しくは知らないんですよね」
沙姫は口元に人差し指を当て、少し考えてから苦笑する。
「でも、当て身技もそれなりにありますから、どっちかって言うと柔術に近いかもしれませんね」
自分の家系の武術だってのに、そのルーツを知らないのかよ。
……って考えてみりゃ、俺も自分の武術の詳しい事は知らねぇや。
クソ親父に無理矢理習わされてたから、興味なんて皆無だったからな。
「そいやもう一つ聞きたいんだけどよ」
「なんですか?」
「武術名がさ、水無月柳ってなってるだろ? 普通、柳じゃなくて流って字を使わないか?」
俺の武術も咲月流ってなっている。
柳なんて字を使っているのは初めて見た。
「えーっと、確か……風に揺れる柳のみたく、柔軟で何事にも対応出来るように。という意味を込めて、そうしたって聞きました」
「へぇ、なるほどねぇ」
理由を聞いてみると、結構考えて名付けられたみたいだ。
風に揺れる柳のように柔軟に、か。なんか格好良いな、それ。
「もうちょい俺も柔軟に動けば、また沙姫の技で投げられなくて済むか?」
ははっ、と天井を仰いで、苦笑いしてみる。
「……ん?」
ふと、視線を感じて正面を見てみる。
すると、じぃ、と沙姫が黙ってこっちを見ていた。
眉を少し顰めているが、不機嫌とは違う表情。
「ど、どうかしたか?」
気になって沙姫に聞くと、うーん……と腕を組んで唸り始めた。
「咲月先輩……組手、本気でやってました?」
何かを疑うような目線を向けて、沙姫が言ってきた。
「なんだよ、いきなり。ちゃんと本気だったっての。第一、俺が手を抜いてるように見えたか?」
見なさい、この腕を。組手を長時間やってプルプル震えてるっての。
それに、何度も何度も投げられてんのに、手加減なんて出来るか。
「いえ、そうは見えませんでしたけど……話をしていたらなんか、違和感があったんですよねぇ。なんだったんだろ?」
沙姫は首を捻り、また腕を組んだまま唸り始める。
「気のせいじゃねぇのか?」
立ち上がり、壁際に座っているモユの所へ歩み寄る。
「モユー、タオルくれー」
「……はい」
預けていたタオルを受け取り、顔の汗を拭き取る。
「サンキュ。そうだ、今何時間だ?」
俺が更衣室として使っている右奥の部屋に行き、ショルダーバックの上に置いていた携帯電話を拾う。
携帯電話を開くと、ディスプレイの時計は6時前を表していた。
「二時間ちょっとか、結構やったな」
休憩前のも合わせれば、大体3時間位か。
ランニングの効果あって体力は持つけど、明日は筋肉痛になりそうだ。
「もうすぐ六時になるけど、沙夜先輩来ないな」
携帯電話をショルダーバックの上に戻して、部屋から出る。
後で飲み物を取りに来るって言ってたのに。
「ん、そういえばそうですね。夕飯の支度に時間掛かってるのかな?」
モユの隣に移動して、沙姫は麦茶が入ったコップを片手に答える。
スポーツドリンクは飲み干してしまい、麦茶しか残っていない。
沙夜先輩が持ってきてくれてから時間が経っている為、温くなってしまっている。
「じゃ、私がこれ片付けておきますね」
一気に麦茶を飲み干して、お盆に容器を集めて乗せる。
「私は夕飯前にシャワー浴びますけど、咲月先輩も使いますか? 姉さんがお風呂も沸かしていると思いますし、貸しますよ?」
お盆を両手で持って、沙姫が立ち上がる。
「いや、遠慮しとく。着替えを持ってきてるし、帰ってからゆっくり入るわ」
「そうですか? 遠慮しなくていいのに」
人ン家の風呂を借りるってのは少し抵抗がな。しかも、男性ならともかく、女性の家だ。
なんか、見てはいけない物が干してあったり置いてあったりしそうで怖い。それに勝手も解らなかったりするし。
さらに言うなれば、風呂に入ってサッパリした上に沙夜先輩の料理を食べて満腹になってみろ、絶対に動きたくなくなる。
風呂入って満腹になって組手の後ってなれば、絶対眠くなる。断言出来る。
「そだっ! モユちゃん、一緒にお風呂入ろっか?」
「……ううん、私も帰ってから入る」
ふるふると首を振り、モユは沙姫の誘いを断った。
「ちぇー、残念……はっ、まさか後で咲月先輩と一緒に入るんじゃ……」
「んな訳ねぇだろ」
組手で疲れてるってのもあり、適当にツッコんでおく。
「あはは、冗談ですよ。さ、夕飯が出来る前に入ってこよ。咲月先輩は着替え終わったら客間で待ってて下さい」
「おう、いつもの部屋な」
カチャカチャとお盆の上のコップを鳴らしながら、沙姫は道場を出て行った。
「モユ、着替えるから少し待っててな」
「……うん」
着替え部屋に入って戸を閉める。
ショルダーバックから着替えのTシャツを出して、今着ているのは脱ぐ。
タオルで身体の汗を拭き取ってから、新しいTシャツを着る。
「次は下だな」
履いているジャージを脱いで、ショルダーバックから取り出したバスタオルを腰に巻く。
「人様の家で下半身を露出する訳にはいかないよなぁ」
次いで新しいトランクスも取り出して、今履いている汗で濡れまくったトランクスを脱ぐ。
まぁ、誰かに見られてる訳ではないから、バスタオルを巻く必要は無いんだろうけど……。
なんか抵抗があるんだよな。羞恥心というか、モラルというか。
大丈夫だと頭で解っていても、何故か人目が気になったり、妙に恥ずかしさがあったり。
服を買いに行って、店でズボンを試着しようと試着室で下半身がパンツだけになった時の気分に似ている。
なので素早く履き替える。
濡れたトランクスが肌に引っ付く事がなくなってスッキリした。更に来た時に履いていたジーンズと靴下を履いて着替え完了。
脱いだTシャツなどはショルダーバックに突っ込む。
「あ、そうだそうだ。ボディスプレー買ってきたんだった」
思い出してショルダーバックから黒色のスプレーを出す。
「これでいくらかは誤魔化せるだろ」
数回縦に振ってから、Tシャツの中に入れてスプレーを射出する。プシューッ、と勢い良く空気が抜けるような音をさせて、白い煙が出てきた。
腹、脇下、背中と丹念にスプレーを掛ける。
掛け終わると、袖口や襟元からスプレーの煙が漏れ出てきた。なんか壊れたロボットみてぇだ。
スプレーをバックの中に戻してチャックを閉め、携帯電話はジーンズのポケットへ。ショルダーバックを肩に掛けて、部屋から出る。
「待たせたな、行くか」
「……うん」
モユはゆっくり頷いてから、立ち上がってこっちに歩み寄ってきた。
出入口まで移動して、道場を見回してから深呼吸。
「ありがとうございました」
深く一礼。
そして、道場から出て渡り廊下に出る。
「……匕」
「んー?」
「……誰に、お礼したの?」
誰もいない所に向かって礼をしたのが不思議だったらしく、モユが聞いてきた。
「あれはな、道場に礼をしたんだよ」
「……道場?」
「そ。組手をした相手だけじゃなく、その場所や使った道具に感謝の気持ちを込めてな」
渡り廊下を通って戸をくぐり、家の中に入る。
「客間客間っと」
廊下に出て左手にある、客間に入る。夕方に差し掛かり、出窓から見える空は茜色に染まっていた。
邪魔にならないようにとショルダーバックは壁際に置いて、テーブル近くに敷かれた座布団の上に胡座をかいて座る。
「ほら、モユもこっち来て座れ」
モユは入口で立ち止まり、物珍しそうに部屋を眺めていた。
「……うん」
手招きすると、モユは俺の左隣の座布団に座る。
白羽さんの事務所には和室が無いから、モユには珍しかったんだろう。
「あー、にしても疲れた……それに腹減ったぁ」
テーブルに左腕を乗せて、頬杖する。
組手をして動いている時は集中してて何も思わなかったが、こうして落ち着いて一息つくと腹が減っている事に気付く。
あんだけ動き回りゃ当然か。
「晩飯、なんだろなー」
沙夜先輩の作る料理はかなり美味い。
空っぽになった腹の代わりに胸を期待で膨らませ、時間が過ぎるのを待つ。
なかなか動かない時計の針をボケーッと眺めていたら、モユにTシャツの袖を引っ張られた。
「どした、モユ?」
モユが何かを訴える合図に、頬杖をしたまま顔を向ける。
「……」
しかし、モユは俺ではなく、後ろにある出窓の方を見つめていた。
Tシャツを掴んだまま、何かに戸惑うように固まって。
「ん?」
どうしたのかと、モユが見つめる先に視線をやってみる。
すると、出窓の所に黒い毛色で赤い首輪をした猫が座っていた。
「お、ニボ助じゃねぇか」
「……ニボ助?」
「沙夜先輩と沙姫が可愛がってる猫で、たまにご飯食いに来るらしい」
猫を見るのは初めてなのか、モユはニボ助をまじまじと見ている。
「ニボ助、おいで」
ちょいちょい、と小さく手招きすると、座っていたニボ助は立ち上がって歩み寄って来た。
首の下を撫でてやると、喉を鳴らして懐いてくる。
「ニャア」
チリン、と首輪に付いている鈴を鳴らして、ニボ助はモユの方を向いて鳴く。
すると、モユはビクッと身体を小さく跳ねさせて、Tシャツを掴んだまま俺の腕に擦り寄ってきた。
「恐くねぇって、大丈夫だよ。ほら、モユも撫でてみろ」
ニボ助の頭を撫でて、大丈夫だというのを見せて言う。
「……うん」
少し戸惑いながらも、モユは恐る恐る手を伸ばす。
一度、触れる瞬間に手を離したが、ゆっくりとモユの小さな手はニボ助の頭を撫でる。
ニボ助も気持ち良さそうに、大人しく撫でられている。
「……なんか、もふもふしてる」
「そりゃ猫だからな」
「……あったかい」
恐怖心はなくなったようで、モユはTシャツから手を離してニボ助を撫でている。
「咲月君、喉渇いて……あら、ニボ助じゃない」
お盆を持って、沙夜先輩が客間にやってきた。
「久しぶりねぇ、最近来なかったからどうしたのかと思ったわ」
膝を着いてテーブルにお盆を置き、沙夜先輩はモユに撫でられているニボ助を見て微笑む。
「ニャア」
ニボ助は沙夜先輩に気付くと、モユから離れて沙夜先輩の膝元に移動して、何かを欲しがるように鳴く。
「おやつをあげたいけど、もうすぐ夕飯だから待ってて。その時にご飯あげるから」
「ニャア」
沙夜先輩がそう言うと、ニボ助は理解したのか一鳴きして返す。
「咲月君、沙姫がお風呂から上がったら夕飯にするから、もう少しだけ待ってて」
「へ? もう作ったんですか?」
部屋にある壁時計を見てみると、まだ6時を過ぎてから余り時間が経っていない。
「何時間も組手をしてお腹が減っていると思って、早く準備したのよ」
えぇ、沙夜先輩の予想通りです。滅茶苦茶腹減ってます。
「そうだ、ニボ助の猫缶も出しておかないと。沙姫が来るまで、ジュース飲んで時間潰してて。ニボ助もちょっと待っててね」
一度ニボ助の頭を撫でてから、沙夜先輩は早足でまた台所へ戻っていった。
「だってよ、ニボ助」
何となく言ってみると、相づちを打つようにニボ助はニャアと鳴いた。
「お?」
失礼しますよ、と言うように尻尾をひらひらと動かして、胡座をかいている俺の足の上に乗っかり、座って身体を丸くする。
「……!」
気のせいか、モユがニボ助を睨んでいるような……?
しかし、いつもながら無表情なのでよく解らんが。
「とりあえず、間繋ぎでジュースでも飲んでるか」
沙夜先輩が持ってきてくれたジュースのペットボトルを取って、キャップを開ける。
ジュースはソーダで、開けたらプシュッ、と炭酸が抜ける音がした。一緒にお盆に置いてあったコップを取って、中に注ぐ。
泡が零れないように気を付けて、ソーダを飲む。
「あー、冷たくてうめぇ」
コップの半分位を飲むと、炭酸水特有の刺激が喉に残る。
組手の時に飲んでいた麦茶などは途中から温くなったのを飲んでいたから、冷えた飲み物が一層美味く感じる。
「モユも飲むか?」
俺の足で丸まるニボ助をジッと見つめている、隣に座るモユにコップを差し出す。
「……これ、なに?」
コップを受け取って、中に入っている泡立つソーダを覗く。
「ソーダっつージュースだ」
「……ソー、ダ?」
きょとん、と首を傾げてから、モユはコップに口を付ける。
そして、一口。無色透明の飲み物を飲む。
「……舌、ピリピリする」
舌を刺激されるのが予想外だったらしく、モユは不思議そうにソーダを眺めている。
「ありゃ、モユには合わなかったか?」
中にはいるからな、炭酸が苦手な人って。
「……ううん、大丈夫」
しかし、モユは首を振る。
「……甘くておいしい」
そして、ソーダをもう一口飲む。
よくよく考えてみると、モユはバリバリ君のソーダ味が一番好きだもんな。
もしかしたら、炭酸系の飲み物も好きなのかも。
「咲月先輩、モユちゃん、お待たせしましたー!」
片手を上げて、ハイテンションで沙姫が風呂から戻ってきた。
首にバスタオルを掛けて、へそ出しタンクトップにショートパンツという肌の露出度の高い格好。
ここに健全……とは言い切れないが、男がいるってのを考えて欲しい。
「あ、ジュース発見! お風呂上がりだから喉が渇いてたんだー」
沙姫はお盆から余っていたコップを取ってソーダを注ぎ、一気に飲み干す。
立ちながら飲んでいる為、座っている俺の視線の高さは丁度良く、露になっている沙姫のへその部分に重なる。
沙姫はそれに全く気付かない上に、隠そうともしない。
もしかして、俺って男として見られてなかったり?
「ちょっと、沙姫! なんて格好してるのよ!」
「あ、姉さん」
多少声を荒くさせて、沙夜先輩も客間に戻ってきた。
そうそう、沙夜先輩。少し目の向け場に困るから、沙姫を注意してやってくれ。
「モユちゃんが真似したらどうするのよ!?」
うんうん、モユが真似する……ってそっち!?
男の俺が居るからとか、そういうんじゃねぇの!?
「だって暑いじゃん。それより姉さん、ご飯ご飯!」
「全くもう……」
注意しても反省のはの字すら見せない沙姫に、沙夜先輩は頭痛に耐えるように額に手を当てる。
うん。どうやら本当に俺は男と見られてないみたいだ。
見ろよ、このスルーっぷりを。
「ねぇ、姉さん。ごーはーんー!」
「はいはい、わかってるわよ。じゃあ、準備出来ているから行きましょうか。ニボ助もおいで」
「えっ、ニボ助いるの!?」
どこどこ!? と首を左右に忙しく動かして、沙姫はニボ助を探す。
「ニャア」
沙夜先輩なのか沙姫になのか解らない返事をして、ニボ助は俺の胡座から降りる。
「あ、いた! また咲月先輩が抱っこしてたんですか」
「俺が抱っこしてるんじゃなくて、ニボ助が勝手に座ってきたんだよ」
この前も思ったけど、ニボ助は俺の足が臭くないのか?
ボディスプレーをしたとは言え、汗だくになりながら組手をしていたからなぁ。
動物の嗅覚は人間の何倍もあるって言うし。
「だったら台所まで私が抱っこするー!」
沙姫はそう言って、歩いていたニボ助を抱き抱えて、客間を出ていった。
「さ、咲月君とモユちゃんも」
「モユ、行くぞ」
「……うん」
テーブルに手を掛けて立ち、沙姫を追って台所へ移動する。
「座って。今ご飯を盛るから」
沙夜先輩は炊飯器が隣に置かれた席に着く。
ニボ助の猫缶は専用の皿に盛られており、既に食べ始めている。
「よっこいせ、っと。モユはこっち」
隣の椅子を指差して、モユに促す。
長方形のテーブルに沙夜先輩と沙姫、その対面にモユと俺という形で席に着く。
「おぉ、凄ぇ美味そう」
テーブルには箸と小皿が席ごとに置かれ、見ただけで涎が垂れてしまう位に美味そうな料理が並んでいた。
「はい、咲月君」
「あ、ありがとうございます」
沙夜先輩からご飯を盛られた茶碗を渡される。
「咲月先輩、お味噌汁です。モユちゃんのも、はい」
いつの間にか席を立ち、沙姫が味噌汁を注いで持ってきた。
「サンキュ」
味噌汁の入った木製の器を受け取り、テーブルに置く前に匂いを嗅ぐ。
味噌のいい匂いが鼻腔をくすぐり、食欲がそそられる。
「なんという豪華さ」
ご飯、味噌汁……そして、テーブルには煮物、おひたし等々、数多くのおかずが並んでいる。
宝の山とはこういうのを差すのだろう。
「殆どは残り物だけど、良かったら食べて」
沙夜先輩は恥ずかしそうに微苦笑する。
「残飯処理は任せてくださいよ」
それに、言っちゃえば俺は毎日残り物のようなもんだからな。
作り置きした野菜炒めを食ってる訳だから。
「それじゃ、食べましょうか」
全員にご飯と味噌汁が回ったのを確認して、沙夜先輩が言う。
「それじゃ、いだきまーす!」
「……いただきます」
「いただきます、っと」
沙姫を筆頭に、お手を合わせてお待ちかねの晩餐が始まった。
まずは最初に味噌汁を一口啜る。
味噌の塩辛さが口に広がっていく。
「うめぇ……」
何故か味噌汁を飲むと、ほうっと心が落ち着く。やはり日本人だからか。
箸で中をかき混ぜると、具は葱、わかめ、なめこだった。
「はい、モユちゃん。咲月君も」
テーブルの中央に置かれた大皿に盛られていたサラダらしき物を、小皿に分けて沙夜先輩から渡される。
「あ、どうも」
味噌汁をテーブルに置いて、渡された小皿のサラダを食べる。
「ぬっ!」
この食感、まさか……肉ッ!?
「鶏肉のおろしポン酢なんだけど、咲月君の口に合うかしら? 組手で疲れただろうから、体力が付けつつサッパリしたのが良いかと思ったんだけど……」
「いや、文句無しに美味いですよ」
文句の付けようが無い。っつーか、文句がある奴がいたら出てこい。殴ってやっから。
おろしポン酢の他に、スライスされた玉ねぎやレタスも入っていてボリュームもある。
何より肉! 肉が入っている! 素晴らしい!
肉にポン酢の甘塩っぱさが合ってご飯が進む進む。
「モユちゃんもどう? 美味しい?」
「……うん、おいしい」
沙夜先輩の問い掛けに、モユはこくんと首を縦に振って答える。
「そりゃこの豪華さだ。俺が作ってやる飯より美味ぇって」
涙が出そうな程に美味い沙夜先輩の料理に舌鼓しつつ、モユの当然の感想に頷く。
「え? 作ってやるって……モユちゃんのご飯って咲月先輩が作ってるんですか?」
「ん? あぁ、実は夏休みに入ってから住み込みで白羽さんの所で仕事を手伝ったりするバイトしててよ。それでよくモユの面倒も見てんだよ」
「前に言ってた新しいバイトって白羽さんの所だったんですか。あ、だから今日、モユちゃんと一緒に来たんですね」
「沙姫ン家に行くって言ったら、自分も行きたいって言うから連れてきたんだ」
そういえば、俺が白羽さんの所で寝泊まりしているってのを言ってなかったな。
本当は別に泊まらなくてもいいんだけど、モユが帰してくれなくて今でも泊まっている。
パッと思い付いた適当な理由を言ったけど、白羽さんとはS.D.C.の事で協力し合っている為、ありがち間違いではない。
お金も貰っているし。
「へぇー。ねぇねぇモユちゃん! 咲月先輩の作った料理って美味しい?」
沙姫は箸と茶碗を手に持ったまま少し身を乗り出して、モユに聞く。
「……匕の料理?」
食べるのを止めて、モユは沙姫に言葉を返す。
「…………」
ゆっくりと首を曲げて、モユは無言で俺の方を向く。
そして、数秒間見つめてから沙姫へ視線を戻す。
「……食べられる」
こくん、と何に対してか解らない頷きを1つして、一言。
何故、一度俺を見てから答えた?
「モユちゃん、もう一回聞くけど、姉さんの料理はどう?」
「……おいしい」
「咲月先輩のは?」
「……食べられる」
そしてまた、モユは自身の何かを無理矢理納得させるように頷いて答えた。
「っぷ、あははははっ! 咲月先輩、モユちゃんに気を使われてますよ!」
「おい、爆笑しすぎだろ!」
「ぷっ、くくっ……だって、姉さんのは美味しいって言うのに……咲月先輩のは食べられるって……」
沙姫は腹を抱え、悶絶するように笑いを堪えている。
「不味いとは言ってねぇだろ! なぁ、モユ?」
「……うん、食べられる」
また、こくん、と頷くモユ。
それが何故か、大丈夫だよとフォローされているように見えた。
「あーっはっはっは! 美味しいでも不味いでもなくて、食べられるって……一番微妙なラインじゃないですか!」
大口を開け、目には涙を浮かばせて沙姫は爆笑する。
なるほど。俺の作る飯は美味くも不味くもない。
食べられる、それ以上でもそれ以下でもないと。そういう訳ですか。
「ねぇ、モユちゃん。今日のお昼は何を食べたの?」
食べられる、という赤点ギリギリな感想が出てくる俺の作る料理が気になったのか、沙姫がまたモユに質問しだした。
「……野菜炒め」
「なんだ、全然普通じゃないですか」
なんだってなんだ。お前はどんな答えが返って来るのを期待していたんだよ。
「じゃあ朝は?」
「……野菜炒め」
ここで一瞬、場の空気が怪しくなった感じがしたが、気のせいだろう。
「昨日の夜は?」
「……野菜炒め」
「もしかして、朝と昼も?」
「……野菜炒め」
「まさか、一昨日も……?」
「……野菜炒め」
沙姫の質問に、モユは淡々と答えていく。
「咲月先輩……?」
ゆっくりと首を動かし、沙姫がこちらへ半目でジトリと睨み付けるような視線を送ってくる。
「あー、味噌汁美味ぇなー」
その視線を躱すように、フイッと明後日の方向に顔を逸らす。
日本人は味噌汁だよなぁ。
「ちょっと、目を逸らさないでください! なんですか、毎日野菜炒めって! 新手のいじめですか!?」
「良いじゃねぇか野菜炒め! 美味ぇじゃねぇか野菜炒め!」
「それは分かりますけど限度がありますよ! モユちゃんは育ち盛りなんですから、もっとバランス良く食べさせなきゃダメですよ!」
「しょうがねぇだろ、金が無ぇんだから! ただでさえ毎日アイスを2つも食うから出費が嵩むのに、バランスの良い食事なんて出来るか! 俺のポケットマネーじゃ食わせてやるだけで限界なんだよ」
そんな余裕も選択の余地も無いんです。
「ポケットマネーって……食費、咲月先輩の自腹なんですか? てっちきり白羽さんから貰ってるのかと……」
「アイス代も食費も全部自腹だよ。食費貰ってたらもっとマシなもん食わせてるわ」
「白羽さんが預かってるんですから、普通経費とか出るんじゃないんですか?」
「知らん。いつの間にか俺が出すようになってた」
ずずっ、と味噌汁を啜りながら返す。
気付いたら暗黙の了解というか何とか言うか……そうなってた。
かと言って白羽さんに食費を請求するにも、金の事だから言いにくくて言えないまま今に至る。
まぁ、白羽さんから月に10万貰ってるし、最近はマンションじゃなくて事務所に寝泊まりしているから水道光熱費、電気代が掛からなくて済む。
そう考えたら、別にいいかと思った。
……本当に家計が切羽詰まったら請求するけど。
「なんか大変なんですねぇ……姉さん、おかわり」
「そうなんです。先輩は大変なんですよ」
モユだけでなく、深雪さんの分もたまに作ってあげてたりする。
まぁ、俺とモユのを作るついでだから構わないし、深雪さんも仕事大変そうだからな。
ただしエド、てめぇは駄目だ。お前に食わせる野菜炒めは無ぇ。
あんな奴に飯を作ってやる義理も義務も意味も無い。てめぇは銀シャリに塩でも掛けて食ってろ。
「咲月君もおかわりは?」
沙姫にご飯が特盛になった茶碗を渡してから、沙夜先輩に聞かれた。
「あ、じゃお願いします」
残り少なかったご飯を口の中に掻き込んで、空になった茶碗を渡す。
組手をして腹も減っていたし、沙夜先輩の料理が美味くてご飯が進む進む。
一杯だけじゃ足りない。
「はい、どうぞ。遠慮しないでどんどん食べてね」
自分が作った料理を美味そうに食べてくれるのが嬉しいのか、沙夜先輩は笑顔でご飯を盛った茶碗を差し出してきた。
こんなに美味い料理を前にしたら、遠慮なんてする余裕はありませんて。
それから雑談を交えながら豪華な夕飯を堪能した。
ご飯はまたおかわりして、まさかの三杯目に突入。
流石に食い過ぎたか、腹が苦しい。
「あー、食ったぁ」
椅子の背もたれに寄り掛かって、膨れた腹を擦る。
「咲月先輩、沢山食べましたねー」
「何言ってんだ、お前の方が食ってただろ」
「そんな事ないですよ。私だって咲月先輩と同じ3杯しか食べてませんよ」
同じ三杯でも盛られてた量が違うって言ってんだよ。
お前のは米の山が出来てたじゃねぇか。
「さ、お皿片付けちゃうわね。咲月君はいつもの客間で寛いでて」
「あ、はい。ご馳走様でした、沙夜先輩」
「ふふっ、お粗末様。モユちゃんもお腹一杯になった?」
「……うん、おいしかった」
沙夜先輩は空になった皿を重ねて、流し場へと運んでいく。
「あれ? 姉さん、ポット知らない?」
「あ、ポットなら客間に置いてあるわ。お湯もちゃんと入ってるから」
「わかったー。じゃ咲月先輩、客間に行きましょうか」
急須と湯飲みを乗せたお盆を持って、沙姫が言う。
「そうだな。ニボ助もいつの間にかいなくなっちまったし。モユ、さっきの部屋に行くぞ」
食い過ぎて苦しくなった腹を抱えて、椅子から立ち上がる。
ニボ助は自分の飯を平らげたら、知らぬ間に居なくなっていた。本当に飯をたかりに来ただけだったらしい。
沙姫の後ろを付いていって、客間に移動する。
まだ七時前ではあるが、日が暮れ始めて廊下が暗くなっていた。
「まだ少し明るいけど、すぐ暗くなるから電気点けちゃいますね」
客間の電球の紐を引っ張って、沙姫が灯りを点ける。
「さ、適当に座っちゃってください」
と言いながら、沙姫はテーブルの奥側に座る。
適当にと言われたが、実際は何度も沙姫の家に来ていて、定位置が決まっていたりする。
客間の入口から一番近い所がいつも俺が座っている場所だ。
そのいつもの場所まで行って、ピタリと立ち止まる
「……またか」
なんとなく予想はしていた。
というか、お前が飯を食って居なくなっていた時点でデジャヴだったけども。
俺の定位置である場所に敷かれた座布団の上に、バスケットボール大の黒い物体。
それが俺を見上げ、一言。
「ニャア」
訂正、一鳴き。
「あれ、ニボ助帰ったんじゃなかったんだ」
鳴き声でニボ助がいる事に沙姫が気付いた。
ニボ助は座布団から降りて俺を見てくる。
まるで、さっさと座れと言うように。
「ニャア」
「はいはい、わかりましたよ」
猫の鳴き声に返事して、溜め息を吐いて座布団に胡座をかいて座る。
俺が座る様子を、ニボ助は満足げに尻尾を揺らしながら眺めている。
またこいつは俺の足の上に乗っかりたい訳ね。
懐かれてるのか、それとも下に見られているのか。
「ほらよ、座りたいなら座りな、猫姫様」
座りやすいようにと両手を後ろに着いて、身体を少し後ろに傾ける。
名前で勘違いしそうだけど、雌だからな……ニボ助は。
よしよし、苦しゅうない。とでも言うように、尻尾を機嫌良さそうに揺らしてニボ助がこっちに来る。
そして、すとん――と胡座の上に腰を下ろした。
にしても、猫の割には少し重いな。この赤茶い髪をした……って、赤茶い髪?
「……あのー」
今なっている状況と状態がイマイチ理解出来ず、戸惑う。
「何をしてるんでしょうか、モユさん?」
俺の足の上に座ったのは猫姫様ではなく、アイス姫だった。
ちょこん、とまるで抱っこするような形で、モユが座っている。このモユの奇怪な行動に、ニボ助も戸惑いを見せていた。
そりゃな、自分が座ろうとした場所をいきなり横から取られたんだから。
「モユの席はこっち、隣だぞ?」
ちょいちょい、と右隣の座布団を指差す。
「……ここがいい」
しかし、モユは首を左右に振って降りるのを断る。
一体何なんだ? なんでモユは俺の上に座るんだよ。なんかしたか?
今までこんなのした事無かったのに。
「もしかして、咲月先輩に甘えてるとか?」
ポットのお湯を急須に入れながら、沙姫が言ってくる。
「見えるか? モユが甘えているように」
無表情のモユの顔を指差して沙姫に返す。
「……見えませんねぇ」
感情を読み取ろうと沙姫はモユの顔を凝視するも、やはり甘えているというようには見えなかったようだ。
「じゃニボ助、私の膝の上においでー!」
沙姫は手を二、三回叩いて、ニボ助を呼ぶ。
「ニャア」
それに反応してニボ助は鳴いて、軽快な動きでヒョイっと膝の上に乗った。
……沙姫じゃなく、モユの膝に。
「えー、なんでぇ?」
ガックリと肩を落として、沙姫は羨ましそうにモユを見る。
そんな沙姫を気にも止めず、ニボ助はモユの膝の上で丸くなり、食休みし始めた。
「……匕、どうしたらいい?」
まさか自分の所に来るとは思っていなかったモユが、無表情ではあるが内心驚いているらしく、後ろを向いて聞いてきた。
「そのままでいいんじゃないか? 気に入られたって証拠だろ」
「……気に入られた……」
モユは膝の上で丸まるニボ助を眺めて、頭を撫でる。
ピクッ、と耳を動かすが、ニボ助は気持ち良さそうに撫でられている。
「はい、咲月先輩、お茶です」
湯飲みに緑茶を注いで、目の前のテーブルに置かれた。
「お、サンキュ」
「モユちゃんはお茶、飲めますかね?」
「あー、どうだろ。いつもはココアとかで、飲ませた事ないからな……」
「ココアかぁ……あったかな?」
少し渋い顔をして、沙姫は台所に行こうと立ち上がる。
「……これがいい」
すると、モユはある物を指差す。
それは、夕飯前に沙夜先輩が持ってきたソーダだった。
「ソーダでいいの?」
「……うん」
こくん、と頷いて答える。
「モユちゃんがいいならいいけど」
沙姫はソーダをコップに注いで、モユに渡す。
「零すなよ。零したらニボ助に掛かっちまうからな」
「……うん」
モユは頷いて、受け取ったソーダを口にする。
もしかして、結構気に入ったのか?
「あっちち」
お茶を飲もうとテーブルの湯飲みを取ると、当たり前だが熱かった。
俺も零さないように気を付けないと。俺の場合はニボ助じゃなくてモユに掛かっちまう。
しかも、熱いから火傷になるかもしれない。
「あー、和む」
畳の部屋で緑茶を啜る。日本人なら誰しも和むだろう。
味噌汁を飲むのとはまた別の落ち着きっていうか、心に染みるものがある。
「っはぁー、食後のお茶って落ち着きますねー」
沙姫も同じく、のほほんと表情を緩めている。
「沙姫ー、私にもお茶頂戴」
洗い物を終えて、沙夜先輩も客間にやって来た。
「お疲れ、姉さん。今入れるね」
沙夜先輩は沙姫の隣にする。
邪魔にならないようにと、テーブルの下に置いていた急須とポットを再び取り出して、沙姫は沙夜先輩のお茶を入れ始めた。
「なんか咲月君、凄い事になってるわね」
俺の上にモユ、更にそのモユの上にニボ助と、鏡餅みたいになっている俺を見て、沙夜先輩は不思議そうにしている。
そりゃこんな奇妙な座り方をしてりゃ不思議だよな。
と言うか、俺は奇妙な座り方をしてるんじゃなくて、されてるんだけど。
「なんか知らないけどこうなっちゃって……」
ははは、と苦笑してお茶を飲む。
「ニボ助が咲月先輩の膝に乗ろうとしたら、先にモユちゃんが座ったんですよね」
沙夜先輩の手前に湯飲みを置いて、沙姫が同意を求めるように俺を見てきた。
「そうそう。いきなり座ってきたんだよな」
「ふぅん」
お茶を啜って、沙夜先輩はモユを眺めてから笑顔になる。
「もしかしてさ……モユちゃん、ニボ助に嫉妬したんじゃないかしら?」
「嫉妬って、モユがぁ?」
沙夜先輩の口からは、考えもしなかった言葉が出てきた。
嫉妬の『し』の字も知らなそうなモユが、嫉妬なんてするか?
アイス以外の事には無関心のモユには考えられないな。
「そう。ほら、夕飯を食べる前にニボ助が咲月君の膝に乗っていたでしょう?」
「あぁ、乗ってましたね」
「それを見てモユちゃんは、咲月君がニボ助に取られちゃうと思ったんじゃない?」
「ははっ、まさか。だってニボ助ですよ? 猫相手にそんな……」
そりゃモユは世間知らずって言うか、見た目通り幼い行動が多いけど……いくらなんでも猫相手に嫉妬はないだろ。
「あら、そう思う?」
僅かに唇を釣り上げて、沙夜先輩が口を開く。
「女の子ってね、嫉妬深い生き物なのよ?」
どこか艶っぽい笑みをして、いつもとは違う目で。
その目には普段は見えない、色っぽいさがあった。
「嫉妬深い、ねぇ」
沙夜先輩が言うと、妙に説得力があると言うか……意味深に聞こえる。
学校でも綺麗だと評判の沙夜先輩だから、その言葉に重みが出るんだろう。
「そうですよ、咲月先輩。女の子は嫉妬深いです」
対して沙姫が言うと安っぽく聞こえる。不思議だ。
これが人のイメージが与える影響力の差か。姉妹でもここまで差が出るとは。
「しっかし、モユが嫉妬なんてするかねぇ……?」
静かにソーダを飲むモユの後頭部を眺めて、お茶を啜る。
あ、でも……思い返してみたら、ニボ助が俺に乗っかった時、モユがニボ助を睨んでいたように感じたな。
じゃあ、沙夜先輩が言う通り、モユはニボ助に嫉妬してってのか?
もう一度、俺の膝に座るモユを見て考えてみる。
「……無ぇな」
うん、無い。無い無い。あり得ない。
第一、嫉妬するようなキャラじゃないだろ、モユは。
「ねぇねぇ、咲月先輩」
「ん? なんだ?」
「明日も暇だったりします?」
「明日? まぁ、基本俺は暇してるけど」
大抵モユのお守りをしつつテレビを観てるか、ボケッとしてるだけだ。
あとは時間になればアイスをあげたり野菜炒めを作ったりするぐらいか。
「だったら、明日も組手しませんか?」
「それは全然構わねぇけど、なんでまた?」
俺からしたら願ったり叶ったりだ。まだまだ勘を取り戻せていないから有難い。
「私も暇ですし、やる事が無いからどうせなら運動しようかなぁ、って」
あはは、と沙姫は笑っているも、その笑いはどこかぎこちない。
「そんな事言って……どうせ、夏休みに入ってからだらしない生活をしてて、また太ったんでしょ?」
「う、五月蝿いなぁ、姉さん!」
テーブルに頬杖をして呆れながら言う沙夜先輩に、沙姫は少し顔を赤らめる。
そりゃ、さっきの夕飯みたいに山盛りご飯を3杯も食ってりゃ太るだろうに。
と言うか、女の子が食う量か? あれ。
「ま、俺も身体を動かしたいし、いくらでも沙姫のダイエットに付き合ってやるぞ」
「だ、ダイエットじゃないですよ! あくまで運動です、運動!」
「運動じゃなくて減量でしょ?」
「だから姉さん、五月蝿いってば!」
必死こいてダイエットだという事を否定する沙姫。
そんな沙姫を沙夜先輩はからかって面白がっている。
「おい、モユ」
「……なに」
沙姫が沙夜先輩と言葉のバトルドッチボールをしている隙に、モユを呼ぶ。
モユは振り向いて、こっちを見る。
「んとな、沙姫に……」
モユの耳元に口を近付けて、手で隠しながら小声で話す。
「……言えばいいの?」
「そう、言うだけでいい」
「……わかった」
モユの確認に、笑いを堪えつつ首を縦に振って答える。
「……沙姫」
「うぇ? あ、何? モユちゃん?」
沙夜先輩と口喧嘩一歩手前の口論をしている所に、モユが沙姫の名前を呼ぶ。
「……でぶ」
「はぅッ!?」
言葉の剣が心臓にブッ刺ささり、沙姫はショックで石像のように固まかった。
「で、で、デブ……デブって言われた……」
あまりの精神的ダメージからか、沙姫は口をパクパクさせて放心状態になっている。
「ぷっ、く、くく……」
ヤバい、笑い声が漏れちまう。我慢出来ねぇ……!
まさか自分が懐いているモユに即死呪文を唱えられるとは思っていなかったらしく、ダメージは絶大だった。
「……匕、でぶって何?」
「あ、バカ……!」
デブの意味を知らなかったモユが、再び振り向いて聞いてきた。
「あっ! もしかして、咲月先輩がモユちゃんに言わせましたね!」
「ちっ、バレた……」
俺が仕込んだ悪戯だと気付いた沙姫は、テーブルに身を乗り出して睨んでくる。
「あのね、モユちゃん。デブって言うのは太っている人の事を言うのよ」
「教えなくていいわよ、姉さん!」
沙夜先輩は楽しそうにモユに新たな知識を与えるも、沙姫は大声でそれを遮る。
「咲月先輩も! モユちゃんに変な事を言わせないで下さいよ!」
「なんだよ、事実を言わせただけだろ?」
「私はデブじゃないです!」
バンバンとテーブルを叩いて、沙姫はデブという事実を認めず、太ったという現実から目を背けている。
「本当かぁ?」
「本当ですよ!」
「正直に言えって。モユにデブって言われてショックを受けた時点で、太ったってのを暴露したようなもんだぞ?」
「うぐっ……」
テーブルを叩くのを止め、沙姫はたじろいで言葉に詰まる。
「……ましたよ」
「え?」
「えぇ太りましたよ、悪いですか!? 皆して私をいじめて! 私だって泣きますよ!?」
沙姫は半泣きで叫び、テーブルに顔をつっ伏くす。
あ、いじけた。
いやぁ、悪戯心が擽られて沙姫をいじっちまったけど、実際は全く太ったようには見えないんだよな。
タンクトップから除き出てる腹なんて、太っているどころか括れているし。
女の子ってほんの少し体重が増えただけで気にするからなぁ。
男はそんなに気にしないし、周りもそこまで見ていないってのに。
「……沙姫」
「お?」
いじける姿を見兼ねたのか、モユが沙姫に話し掛けた。
「ぐすっ……なに、モユちゃん?」
テーブルから上げた沙姫の顔は涙目で、鼻を啜ってモユの方を向く。
無表情だったりリアクションが薄くて解りにくいけど、何だかんだでモユは沙姫に懐いてるんだな。
落ち込んだ沙姫を慰めようとするなんてよ。
「……頑張れ」
「うわぁぁぁあん!」
と思ったら、慰めじゃなくて追い打ちでした。
沙姫はまたテーブルうつ伏せて大号泣。
そりゃ泣くわ。
「……?」
モユは沙姫が泣き出した理由が解らず、首を傾げている。
「……応援したのに、なんで沙姫は泣いてるの?」
「日本語が難しいからだよ」
そんなモユに、笑いを我慢しながら答える。
確かにモユは応援の一言を掛けたが、あのタイミングじゃ皮肉にしか聞こえねぇわ。
同じ言葉でも逆の意味になっちまう。日本語って難しい。
そして面白いなぁ。
「ふん、いいですよ! 痩せればいいだけなんですから!」
「お、立ち直りが早い」
「伊達にしょっちゅう咲月先輩にいじられてませんよ!」
沙姫は唇を突っぱねる。
「ところで咲月先輩、相談があるんですけど……」
「なんだ?」
「出来れば明日も、モユちゃんを連れて来れないかなぁ、って」
うーん……白羽さんは外に連れ出していいって言ってたし、明日も連れてくる分には大丈夫だろ。
ただし、モユが来たいと言えば、の話だが。
「だってよ、モユ。どうする?」
本人の意思を確認すべく、俺の足の上で寛ぐモユに聞いてみる。
「……なにが?」
なにが? って、俺と沙姫の間に座っているのに話を聞いてなかったのかよ。
「沙姫が、モユに明日も来て欲しいんだってさ」
「……明日?」
「そ、明日」
「……匕も来るの?」
「あぁ。おデブさんのダイエットに付き合ってやらないといけないからな」
「ちょ、デブじゃないですよ!」
「あれ? 別に誰とは言ってないのに」
「むっきー!」
おデブの豚さんから、今度は猿の鳴き声をするようになったか。
なかなか芸達者だな、沙姫は。
「……じゃ、私も来る」
沙姫と戯れ合っていると、モユが返答する。
「だってよ」
「やたっ!」
沙姫は胸元で小さくガッツポーズを取る。
そんなに嬉しいのか。まぁ、沙姫はモユを妹みたいに可愛がっているからな。
さっきまでのやり取りを思い出すと、沙姫の方が精神年齢が低く見えるが。
「じゃ、明日は何時にする? 今日と同じ時間でいいか?」
「いえ、明日は十時に来てください! 午前中からやりましょう!」
「随分とやる気あるな」
そんなに体重を落としたいのか?
「午前中からって事は、午後もやるんだろ? 午前から組手をやるのは構わないけど、やりすぎると逆に怪我をしやすくなるぞ?」
トレーニングだってやり過ぎると、オーバーワークになって逆効果になったりする。
「大丈夫です、午後は組手やりませんから!」
「はい?」
「午後はモユちゃんと遊ぶんです。今日はあまり遊べませんでしたから」
明日もモユが来るのが嬉しくてか、沙姫はにこやかに言う。
「……あっ、沙姫お前! モユを連れ出す為に明日も組手に誘ったな!?」
「だって私が白羽さんの事務所に行ったら仕事の邪魔になるだろうし、それに電車代も掛かりますもん」
「だから、俺を電車代を掛けて来させるってか」
何が悔しいって、沙姫に上手く利用されたのが悔しい。
それに電車代だって安くない。立花町から白羽さんの事務所がある赤尾町までは百九十円する。
往復で約四百円。さらにモユが居るから、倍になって約計八百円円も掛かるってのに。
八百円もあれば、モユのアイス四日分だぞ。大金なんだぞ!
一人暮らしなのに食い扶持が二人もいるから食費が掛かるってのに……。
「ごめんね、咲月君。明日もご飯をご馳走するから、沙姫に付き合ってあげて」
「喜んで!」
沙夜先輩の言葉に即答する。
現金な奴だと言われても構わない。沙夜先輩の料理が食えるなら八百円なんぞ安いもんだ。
組手一食沙夜先輩の料理付きで八百円は安い。安すぎる。
「んじゃ、明日は十時あたりに来ればいいんだな?」
「はい、お願いします」
って事は九時の電車に乗んなきゃ駄目な訳か。時刻表調べとかないとな。
「咲月君って今、白羽さんの所に住み込みでバイトしてるのよね?」
「はい、そうですけど?」
「電車の時間、大丈夫?」
沙夜先輩に言われて、時計を見るのを忘れていた事に気付く。
時計を見ると、時刻は七時半を回っていた。
「あ、八時のに乗るからそろそろ出ないと」
正確には八時十分で、まだ四十分近く時間がある。
俺だけだったら二十分もあれば余裕で駅に着けるが、今日はモユがいる。
歩幅が小さいモユと一緒に歩けば、時間が掛かる事は考えなくても分かる。
だから余裕を持って早めに出よう。
「随分と早く出ますね。まだ時間あるのに」
「モユがいるからな。時間ギリギリで走らせる訳にもいかねぇし。ほらモユ、帰るから降りろ」
モユの肩を叩いて、足の上から降りるように促す。
「……ニボ助が居るから降りれない」
しかし、モユは膝で丸まるニボ助を撫でれはしても、動かす事は出来ないらしい。
「ほーら、ニボ助。モユちゃんが困ってるからこっちに移動ね」
いつの間にか隣に来ていた沙姫が、ニボ助を拾い上げて抱っこする。
「ほれ、これで降りられるだろ」
「……うん」
モユが降りて、足を真っ直ぐにして膝を伸ばす。
ずっと胡座で曲げていたせいで、ギシギシと骨が軋むような感覚がした。
「さって、帰るかぁ」
腹も膨れ、組手の疲れもあって出来れば動きたくないのが身体に鞭を打って立ち上がる。
まぁ、苦しかった腹も食休みして幾らかマシになったし、歩く分には問題無さそうだ。
俺の気合いが残っている内に帰ろう。
部屋隅に置いていたショルダーバッグを右肩に掛ける。
「沙姫、咲月君を門まで送ってあげて。あと、扉も閉めてきて」
「はーい」
沙姫が先導をきって廊下に出て、それに俺とモユも付いていく。
玄関で靴を履いて、爪先を地面に叩いてフィットさせる。
「それじゃ沙夜先輩、ご馳走様でした」
「えぇ、気を付けて帰ってね。モユちゃんも」
「……うん」
沙夜先輩に挨拶して、モユがちゃんと靴を履いたのを確認して玄関から出る。
いくら日が暮れるのが遅い夏でも、流石に7時を過ぎれば外は暗くなっていた。
石畳の上を歩いて門まで移動して、その下を潜って道路に出る。
「じゃ咲月先輩、また明日お願いしますね」
「おう」
「モユちゃん、バイバイ」
沙姫はモユの目線の高さに合わせてしゃがみ、抱っこしたニボ助の前足を掴んで振らせる。
「……ばいばい?」
モユは小さく首を傾げて、沙姫が言った言葉を返す。
「お別れ時に言う言葉だ。さよならって意味だよ」
その言葉の意味を教えて、モユの頭に手を乗せる。
「ニボ助もモユちゃんにバイバイって言ってるよ」
「ニャア」
ニボ助は沙姫にされるがままに、操り人形みたいに前足を掴まれてまた手を振る仕草をされる。
「……うん、ばいばい」
モユは同じ言葉を返して、沙姫とニボ助に小さく手を振る。
「うし、駅に行くか」
「……うん」
こくん、とモユは頷いて答える。
「じゃあな、沙姫。おやすみ」
「はい、おやすみなさい。気を付けて帰って下さいね」
最後に言葉を交わして、沙姫に背中を向けて駅を目指して歩き出す。
沙姫の家は駅前から少し離れ、この辺りは街灯が少ない。闇に目が慣れていない今は、足元は暗く感じる。
でもまぁ、その内になれるだろう。それに、急いでいる訳でもない。
電車の時刻まではまだ時間はある。
「さー、帰ったら風呂に入ってサッパリしよ」
ググーッと夜空に向かって両手を伸ばす。
空には多少雲が浮かんでいるが、星は何事も無く輝いている。
「ほら、掴まれ」
そして、伸ばしていた手を左隣を歩くモユに差し出す。
すると、待っていたかのようにすぐ、小さな手で握ってきた。
駅まではまだまだある。
夜空の星を眺めながら、ゆっくり歩くのも悪くない。




