No.27 組手
「ふぃー、やっと着いたぁ」
暑い中を歩いて来た為、額に浮かんだ汗を右手の甲で拭う。
そして、俺の目の前には立派な門が佇む。
いかにも、ででん! という効果音が似合いそうだ。
「どうだ、モユ? ここが沙姫と沙夜先輩の家だぞ」
「……おっきい」
門を見上げ、モユは無表情で答える。
まぁ、そういう反応だとは解っていたけどさ、もう少しこう、目を見開くとか声のトーンを上げるとかして欲しいもんだ。
ただ淡々とした口調で言われても、本当に驚いたり感動しているのか解らん。
「中はもっと広いぞ」
門の扉は開いており、潜って中に入る。
モユの手を引いて、玄関まで敷かれた石畳の上を歩いていく。
「……広い」
モユは広々とした庭を見回して感想を言うも、やはりいつもと同じ口調で一言。
池に加えて倉、しかも隣に井戸まである。それを差し引いても、まだ広いってから凄い。
玄関の前に立ち、扉の横にあるボタンを押して呼び鈴を鳴らす。ジリリリ、という音が家の中から聴こえてきた。
少し待っていると、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「いらっしゃい、咲月君」
戸を開けてすぐ、予想していたと言うように名前を呼ばれて歓迎された。
まぁ、予め来るって言ってたから当然なんだが。
「こんちは、沙夜先輩」
迎えに出てきてくれたのは沙姫ではなく、沙夜先輩だった。
「ほれ、挨拶しろ」
握っていた手をくいっ、と小さく揺らしてモユに言う。
「……こんにちは」
「モユちゃんも来たの? いらっしゃい」
沙夜先輩は屈んでモユの頭を撫でて、にっこりと微笑む。
「さ、上がって上がって」
沙夜先輩に促されて、家の中に上がる。
エアコンを点けている訳でもないのに、明らかに外と比べて空気が冷たい。
やっぱ涼しくていいなぁ、沙夜先輩の家は。しかも、エアコンと違って自然の涼しさだから、金も掛からないから尚の事羨ましい。
「沙姫ー、咲月君とモユちゃんが来たわよー」
沙夜先輩が廊下から呼ぶと、奥の台所の引き戸が開かれた。
「えっ!? モユちゃんも来てるの!?」
開いた戸から、沙姫は上半身だけを覗かせてくる。
「本当だ、モユちゃんだぁ!」
モユの姿を確認するや否や、廊下を走ってモユに抱き付く。
「あ、沙夜先輩。これ」
「なに?」
右手に持っていたコンビニの袋を沙夜先輩に渡す。
途中、コンビニに寄って買ってきた。
「手ぶらで来るのもアレかなー、と思って」
「あら、ジュース。別に気にしなくてもいいのに」
受け取った袋の中身を確認する沙夜先輩。
「あとこれ、冷しててもらっていいですか?」
続けて、もう一つのコンビニ袋も渡す。
「こっちは?」
「アイスです。モユの奴、おやつにアイスをあげないと不貞腐れるんですよ。沙夜先輩達の分も買ってきたんで」
苦笑いしながら、沙夜先輩に返す。
恐らく夕方近くまで組手をやるだろうから、三時のおやつ用にアイスを買ってきた。
コンビニでアイスを買った時は地味に大変だった。アイスを食べれると思ったモユが、いつもの如くTシャツを引っ張ってきた。
変に期待させてしまったせいか、いつもより長く握ってきて、諦めてくれたのは沙姫の家に着く手前だったという裏話があったりする。
「私達のは別によかったのに……わかった、溶けないように冷やしておくわ。モユちゃんの機嫌を斜めにしたくないものね」
ふふっ、と沙夜先輩は声を漏らして笑う。
「ほら、沙姫。咲月君と組手するんでしょ? 早く着替えて来なさい」
「えー? 組手なんかよりモユちゃんと遊びたーい」
ぶーぶー、と沙姫は駄々を捏ねるように鼻を鳴らす。
食い意地を張りすぎて、本当に豚になっちまったようだ。
「組手をやってからでも遊べるでしょ!」
「わかってるよぉ、冗談だってばぁ……」
とか言っているが、沙姫は渋々といった様子でモユから離れる。
「じゃあね、モユちゃん。組手が終わったら遊ぼうね!」
そう言って沙姫は着替える為に、二階へと上がっていった。
「沙姫は着替え終わったら来ると思うから、咲月君は先に道場で待ってて。着替えはいつもの奥の部屋を使っていいから」
「あ、はい。すいません、また道場を借りちゃって……」
「いいのよ。沙姫も夏休みに入ってからだらしない生活しているし、身体を動かすにはいい機会よ」
沙夜先輩は溜め息を漏らして、呆れながら小さく肩を落とす。
もしかして沙姫の奴、また体重が増えたとか言うんじゃねぇだろうな?
……あり得るな、十分にあり得る。
「それじゃあ、モユちゃんは私と遊んでよっか?」
沙夜先輩はしゃがんでモユに話し掛ける。
「……匕は?」
「俺は沙姫と道場で組手だ」
「……組手?」
俺を見上げながら、モユは首を傾げる。
「んーとな、二人で殴ったり蹴ったりして、技を出し合うって言えばいいのか……」
「……喧嘩するの?」
「違う違う。お互いの腕を測るっつーか、ちょっとしたスポーツみたいなもんだよ」
頭で理解しているけど、いざ組手ってのを説明するのは難しいな。
いや、俺の説明力が無いだけか?
「……私も組手する」
「はい?」
モユは何か考えるように一度俯いた後、顔を上げて驚きの一言。
「……私も組手、やる」
またTシャツの裾を引っ張って、じっとこっちを見つめながら。
「あー……」
頭を掻いて、一心に俺を見てきて言葉に詰まる。
無茶な事を言い出すモユさん。
どうやら、さっきの組手の説明では理解出来なかったようだ。
「あのな、モユ。組手はそうそう簡単に出来るもんじゃねぇんだよ。下手したら怪我だってしちまう。俺と沙姫は武術を習っているから出来るんだ。モユは武術なんて教わってないだろ?」
「……うん、知らない」
左右に首を振って、モユは答える。
「それだと危ないんだ。だから、モユには組手は出来ねぇんだよ」
今言った理由もあるが、何よりモユとは体格差があり過ぎる。
身長なんて、俺の胸の高さぐらいだし。
「……じゃ、見てる」
「見てるって、俺と沙姫の組手をか?」
「……うん」
モユは首を縦に振る。
そんなに組手に興味があるのか?
「見てても面白くねぇし、暇だぞ? それに、せっかく沙夜先輩が遊んでくれるって言ってんのに……」
「私は構わないわ、全然。モユちゃんが見たいっていうなら、それでいいんじゃない?」
Tシャツを掴むモユを微笑ましく見つめる沙夜先輩。
「それに、片付けたい家事が少し残っていたから、私の事は気にしなくていいわ」
「うーん……じゃ、一緒に道場に行くか、モユ」
「……うん、行く」
少し迷ったが、沙夜先輩がそう言ってくれるなら構わないか。
モユは大人しいから、組手の邪魔になるって事はまず無いだろうし。
「それじゃ咲月君、組手頑張ってね」
「今日は出来るだけ喧しくしないよう努力しますよ」
前に組手をした時は、笑っちまう位に沙姫に投げられまくったからなぁ。
投げられる度に道場には俺が倒れる音が盛大に鳴り響いた。
今日はそうならないようにしてぇもんだ。
「ふふっ。モユちゃんも、またあとでね」
俺の返事に沙夜先輩は軽く笑い、モユに小さく手を振る。
それ対して、モユは無言で手を振り返す。
「さ、道場行くぞ」
俺が歩き出すと、モユはTシャツを掴んだまま後ろを付いてくる。
廊下にある戸を潜り、道場に繋がる渡り廊下に出た。
その渡り廊下を通って、戸が開けっ放しにされている道場の中へと入る。
「お願いします」
頭を深く下げ、使わせてもらう道場へ礼儀として挨拶をする。
誰もいない道場に声が少し響いた。
外から入ってくる日射しを、床が淡く反射している。
「さーて、着替え着替え」
入口から見て右側の奥にある部屋まで移動して、閉じていた戸を開ける。
そして、部屋に入ろうとした時にある事を思い出した。
モユがTシャツを掴んだままだった事を。
「っと、モユはあそこの壁の辺りに座って待ってろ。俺は着替えなきゃいけねぇから」
部屋から少し離れた所を指差して、モユに言う。
掴まれたままだと着替えれないし、着替える時まで一緒ってのは勘弁願いたい。
「……わかった」
気持ち駆け足で、モユは言われた壁の方へと走っていく。
「あ、靴下履いてるのに走ったら転……」
どてん。
――びました。
「言ってる傍から転ける奴がいるか」
道場の床は靴下とか履いてると滑るから転びやすい。
それで走ったりしたら危ないってのに。
「大丈夫か、モユ?」
モユの所へ歩み寄って、声を掛ける。
ヘッドスライディングとまではいかなかったが、顔から転んだからな。
「……大丈夫」
モユは身体を起こしてそう言うも、床にぶつけたのか鼻が赤くなっていた。
あと、心持ち涙目になっついる気がする。
「あー、少し鼻が赤くなってんな。あんま擦ったりするなよ?」
「……うん」
「滑りやすいから、ゆっくり歩かないと今みたい転ぶから気を付けろよ」
身を持って知ったからか、モユは駆け足をやめて、まるで凍った氷の上を歩くように慎重になっている。
なんだかその姿が妙に可笑しくて笑いたかったが、、本人は真剣なので堪えた。
「っと、早く着替えねぇと」
着替え部屋に入って戸を閉め、組手をする為に着替える。
ショルダーバッグを床に置いて、中から別のTシャツとジャージ、タオルを取り出す。
「廊下で少しばかり喋ったからな、急いで着替えるか」
履いていたジーンズを脱いで、動きやすいジャージに履き替える。
上も別の安いTシャツに着替え、靴下も脱いで素足に。いつも肌身離さずに首に掛けている水晶も、流石に組手の時は外す。
激しく動き回るから、相手が怪我をしたりする危険もある。逆に水晶が何かの弾みで壊れてしまう事だってあり得る。
「さて、と。少しでもいいから、勘を取り戻してくれよ、俺」
着替え終わり、一人言を呟いてから、気合いを入れるように頬を叩く。
タオルを持って、部屋の引き戸を開けて道場に出る。
「沙姫はまだっぽいな」
ぺたぺたと裸足で歩きながら道場を見回すと、まだ沙姫の姿は見えなかった。
見えたのは壁端で大人しく座っているモユだけ。
「モユ、これ持っててくれー」
持っていたタオルをモユに投げて渡す。
わかったと言うように、モユは無言で一度頷いた。
「先にストレッチでもしとくか」
屈伸、伸脚をして、身体をほぐしていく。
準備運動をしないで身体が固くなったままいきなり組手をすると、怪我になりやすい。
念入りに身体の至る所を伸ばして、ほぐす。
床に座り、開脚して身体を倒したら余裕で両肘が床に着いた。前と比べると身体が柔らかくなっている。
ランニングの後にストレッチもやってたお陰だな。
「咲月先輩、お待たせしましたー」
一通りストレッチをし終わった頃に、沙姫がいつもの胴着姿でやってきた。
「なんか遅かったな?」
「ちょっと姉さんと話しちゃって遅くなりました」
あはは、と後頭部に手を当てて、沙姫は苦笑いする。
「それじゃ咲月先輩、早速やりますか!」
ぺしん、と顔を軽く叩いく沙姫。
「いや、俺はいいけど、お前はまだストレッチしてねぇだろ? いきなり組手やったら怪我するぞ」
床に座るのを止めて立ち上がる。
「あ、それなら大丈夫です。咲月先輩が来る前に、姉さんと少し組手してましたから。身体はもうほぐれてます」
沙姫は準備万端ですとアピールるするように、両肩を回す。
「そうか、んじゃ始めるか」
グッ、グッ、と最後のストレッチとして腕を伸ばす。
暑い中を歩いて来たから身体は温まってるし、準備運動もバッチリ。
沙姫も大丈夫だと言うのなら、あとは組手を始めるだけだ。
「お願いします」
「お願いします」
道場の端は通路用か解らないが木材での床になっていて、他は畳みが敷かれている。
その中心に立ち、沙姫と向かい合って互いに頭を下げて挨拶をする。
「この前は咲月先輩にやられまくりましたからねぇ、今日は負けませんよ!」
「お、気合い入ってんな。けど、俺だってそうホイホイと投げられてやんねぇぞ」
初めて沙姫と組手をした時は、自分でも笑っちまう位に投げられた。
その度に、道場には盛大な音が鳴り響いたからな。
沙夜先輩に出来るだけ煩くしないと言っちゃったし、今日は人間ドラムにならんようにしないと。
「ふふん、今日の私は一味違いますよ?」
鼻息を吐きながら、腕を組んで胸を張る沙姫。
うーん……なんか沙姫の奴、気合いが入っていると言うより、いつもより張り切ってる感じがするな。
なんかしたか?
「あっ……なるほどね」
ピピーン、と豆電球が飛び出るが如く、閃いた。
沙姫が張り切る理由が解った。
「沙姫、お前……モユが居るからって張り切ってるだろ?」
漫画であったなら、はっはーん、なんて言ってそうだ。
「当然です! 格好良い所を見せるチャンスですから!」
沙姫は組んでいた腕をほどいてガッツポーズする。
「モユちゃんも、私の格好良い所を見たいよねー?」
「……うん」
沙姫が視線を送って笑顔で言うと、モユは無表情で頷く。
「俺を相手に格好良い所を見せる余裕なんてあんのか?」
「モユちゃんの応援があれば出来ますよ!」
「モユが沙姫に応援、ねぇ……」
目を半開きにして、哀れむような眼差しを送る。
「むっ、なら勝負しますか? モユちゃんが私と咲月先輩、どっちを応援するか!」
「いいぜ、やったろうじゃねぇか」
俺の目付きにカチンと来たのか、腕を組んで眉を寄せる。
「モユちゃーん、私か咲月先輩、どっちかを応援して欲しいな!」
「……応援?」
言われて、モユは無表情ではあるが悩むように視線を上にやる。
ふぅ……相変わらずアホの子だな、沙姫は。
毎日アイスをあげていた俺を、モユが選ばない訳が――。
「……沙姫、頑張れ」
「なぬっ!?」
まさかの裏切りっ!?
もしかして、来る途中でコンビニでアイスを買った時に、食べれると期待したのに食べれなかった仕返しか!?
「残念でしたねぇ、咲月先輩」
してやったり顔で、沙姫は俺を横目で見てくる。
くそ、モユがユダになりやがった……。
しかも銀貨三十枚どころか、アイス一個あげなかっただけで裏切られたよ、おい。
俺の値打ちはアイス一個以下ですか?
「沙姫、さっさと組手やるぞ!」
「あ、いじけた」
「うるせぇ、誰がいじけるか!」
ただちょっとだけ、なんか腑に落ちない部分があるだけだ!
「じゃあ、始めますか。さぁ咲月先輩、どこからでも掛かって来てどうぞ!」
身体を半身にし、腰を落として利き手である右手を前方に添えて、にこやかに沙姫が構えた。
「随分と余裕じゃねぇか」
「モユちゃんから応援を貰いましたからね、咲月先輩には負けませんよ! 勇気百倍です!」
「なんだそりゃ」
ただの精神論じゃねぇか。応援一つで強くなる訳ねぇだろ。経験値が倍になるでもねぇのに。
まぁ、その応援で俺は精神的ダメージを負った訳だから、沙姫が有利の状態からの組手開始になったけども。
「そう言うんなら、お言葉に甘え……てっ!」
両手を腰に当てて構えてもいない状態から、ダッシュして沙姫の胸元を狙って掌打を狙う。
「うわあっと!」
しかし、沙姫は焦りを見せるも、身体を横にずらしてそれを避けた。
「ちっ、駄目だったか」
隙を突いたつもりだったが、ちゃっかりと避けた沙姫に舌打ちをして悪態を取る。
「あっぶなぁ……咲月先輩、不意打ちなんて卑怯じゃないですか!」
「何言ってんだ、相手が目の前にいるのに不意を見せる方が悪ぃんだろ?」
「ぐぅ……」
屁理屈のように聞こえるが、俺が言った事は正論である為、沙姫は言い返せずに口籠る。
まぁ、俺は適当に思い付いた事を屁理屈のつもりで言っただけだけど。
「あ、解った。咲月先輩、そんな小さい事をするからモユちゃんに応援してもらえなかったんですね」
「ぐっさぁ!」
俺の心に会心の一撃。
クラスの奴等にハブられても動じなかった鋼の硬さを誇る俺の心も、さすがに堪えた。
「せっ!」
「うごっ!?」
心を抉られて軽くへこんでいた所に、沙姫の手刀が首元に刺さる。
「げほっ、げほっ! さ、沙姫……お前……」
畳に膝を着いて、手刀を当てられた首を手で抑えながら痛みに耐える。
喉の気管をやられ、上手く呼吸が出来ず苦しい。
「たった今、咲月先輩が言ってたじゃないですかー。不意を見せる方が悪いんですよ?」
俺の不意打ちが気に入らなかったのか、悪びれもしないで満面の笑みで沙姫は答える。
しかし、喉チョップは少しやり過ぎやしないか?
「よーしよし、OK。確かにその通りだ」
喉を擦って呼吸を整え、膝を着くのをやめて立つ。
「今のは隙を見せた俺が……ぬりゃあ!」
普通に話すフリをして、またも不意打ちを試みる。
今度は掌打ではなく、お返しにと手刀で。
「なんの!」
が、予測されていたらしく、沙姫には難なく躱された。
「同じ手は喰らいませんよー」
「くそっ」
つーか、同じ手は喰らわないって、お前は避けただろうが。
喰らったのは先に仕掛けた俺だけってのは情けない話だが。
「ふんぬぁぁ!」
その情けなさを怒りに変えて、沙姫へ次々と攻撃を打ち込む。
右フック、左掌打、下段蹴り。
リズムを刻むように攻撃を繰り出すも、沙姫は上手く身体を左右にずらして躱していく。
「咲月先輩、振りが荒っぽくなってますよ」
沙姫は余裕を見せて、俺の動きを指摘してきた。
「こん、のっ!」
それにカチンときて、思わず大きく右手を振ってパンチを放つ。
「言ってる傍からこんな大振りじゃ」
そのパンチを、沙姫は前に出していた右手で払うと同時に、俺の真横に肩を並べて張り付く。
パンチを放って上がったままの右腕の下に、沙姫は自分の伸ばした左腕を通して、俺の右足の後ろに引っ掛けるように左足を付ける。
「駄目ですよ」
そして、左腕は俺の胸を押すように後ろに引き、左足は転がったボールを掬うように前へ蹴り出す。
「のあっ!?」
片足を払われ、更には左腕で押されては当然、体勢が崩れて背中から畳の上に倒れる。
ズダンッ、と盛大な音が道場内に響く。
「あーぁ……」
畳の上に仰向けで寝そべり、逆さまになった視界のまま自分へ呆れを込めた声が漏れた。
早くも投げられちまったよ、おい。
沙夜先輩に出来るだけ煩くしないようにするって言ったのに、組手を開始して10分足らずでこれですか。
「んぁ?」
逆さまになった視線の先に、立派な筆字で書かれたある物が目に映った。
それは『静心制意』と書かれた、掛け軸。
ふむ、そうだそうだ。焦ったり怒りに呑まれたりして、我を忘れちゃ駄目だ。
何事も冷静になって、落ち着いて対処しなければ。
掛け軸を見て、少しだけムキになっていたはに気付く。少しだけね。
「咲月先輩……大丈夫ですか?」
寝そべったまま動かなくなった俺を心配してか、沙姫が覗き込むように視界に現れた。
「あー、大丈夫大丈夫。こんなんで気絶する程ヤワじゃねぇよ」
上半身を起こして、首を回す。
ぶつけた訳ではなかったが、一応動かして痛まないかを確認する。
「これで私の人勝ですね」
えへへ、と笑いながら沙姫は右手を差し出してきた。
「あの不意打ちも入ってんのかよ」
「当然ですよ。不意打ちでも一本は一本です」
差し出された沙姫の手を掴み、立ち上がる。
「まぁいいや、その二勝とやらはくれてやるよ。いいハンデだ」
「なーにがハンデですか。本気でやってたクセにー」
沙姫はジト目で俺を見てくる。
「うっせぇ。続きやんぞ」
沙姫の視線を払い、腰を落として構える。
「さぁどうぞ。また返り打ちにしてあげますから」
沙姫も構え、俺を迎え撃つ体勢を取る。
「さっきみたいに簡単に投げれると思うなよ……!」
畳を強く踏み込み、沙姫との距離を詰めていく。
さっきまでは多少遊んでいた部分もあったが、ここからは本気だ。
静心制意を常に忘れずに攻め、守り、対処し、判断する。
昔の勘も早く取り戻してぇし、真剣にやらないとな。
――数十分後。
「どあぁぁぁ!」
気合いが空振りした情けない声と、背中を畳に打ち付けられる音が道場に広がる。
これで何回目か。そろそろ手の指で数えるのが難しくなる回数だと思う。
本気を出すとか言っといてこのザマだよ。
沙姫の動きが以前組手をやった時より良くなっている。と言うか、俺の攻撃にかなり対処してきた。
この沙姫と組手をやるのはこれで三度目。それだけやれば、俺の動きも読んでくるか。
「また私の一本ですね」
多少息を切らせながらも沙姫は機嫌良く、笑みを浮かばせて寝転がる俺に言ってきた。
動きを読んで更に対処してくるから、なかなか上手く立ち回れず、今の所は沙姫に負け越している。
「くっそー、なかなか当てらんねぇな」
仰向けに倒れたまま、道場の天井を見つめる。
「そう簡単には当たら……あれ?」
「どうした……ん?」
沙姫は途中と言葉を止め、気になって沙姫の方に首を曲げる。
……と、いつの間にか目の前にモユがしゃがんでいた。
そして、おもむろにTシャツの袖を掴んできた。
「まさか……」
モユがこの仕草をするのは限られた時だけだ。
つまりこれは、いつもの……。
「……アイス」
やっぱり。
無表情で袖をくいくいと引っ張ってくる。
「あ、アイス?」
いきなりのモユの乱入と意味不明な一言に、沙姫は理解出来ずにハテナマークを頭上に浮かばせている。
そりゃそうだ。組手の最中に割り込んできて、アイスと言われても何がなんだか解る筈がない。
「って事は、もう三時になったのか」
モユの腹時計ならず、アイス時計は正確だからな。
まだ組手を始めて数十分だけど、沙姫の家に着いたのが二時過ぎだったからな。それを考えれば二時になってても可笑しくないか。
「沙姫、ちと早いけど休憩にしよう」
「え? 別にいいですけど……なんでまた急に?」
「おやつならず、アイスの時間がきたからな」
「はぁ……」
寝転がるのを止め、立ち上がりながら沙姫に答える。
だが、沙姫はよく解らないといった表情。
「モユ、タオルくれ」
「……はい」
モユも立ち上がって、左手に持っていたタオルを差し出してきた。
「サンキュ。なぁ沙姫、沙夜先輩ってどこにいる?」
「多分台所にいると思いますよ。呼んできましょうか?」
「あぁ、いいよ。お前はモユと遊んでてくれ」
タオルで顔の汗を拭き取って、首に掛ける。
「モユ、ここで沙姫と待ってろ。持ってくるから」
「……うん」
頷いて、モユは掴んでいたTシャツの袖を離した。
道場から出て、渡り廊下を通って家の中に入る。家の廊下を渡って、奥にある台所に向かう。
「沙夜先輩、いますかー?」
台所の入り口である引き戸を開けて、中を覗いてみる。
しかし、台所には誰も居なかった。
「ありゃ、誰もいねぇ」
困ったなぁ、冷やしてもらっておいたモユのアイスを取りに来たのに。
ここは台所だからすぐそこに冷蔵庫があるけど、人様の家の冷蔵庫を勝手に開けるのは気が引ける。
家事をするって言ってたから、どっか掃除でもしてんのかな?
俺は一階の台所と客間、それと道場しか入った事ないし、人の家を歩き回るのもな……。
それに、この家は広いから下手したら迷っちまうかもしれん。
「あら、咲月君? どうかしたの?」
後ろから名前を呼ばれ、振り向くと探していた沙夜先輩がいた。
手には洗濯籠を持っているのを見ると、洗濯をしていたんだろう。
「三時になったから、アイスを取りに来たんだけど」
「え? もうなっちゃった? 待ってて、今渡すから」
籠を廊下に置いて、沙夜先輩は足早で台所に入っていく。
冷蔵庫の冷凍室の扉を開け、中からコンビニの袋を取り出した。
「はい、咲月君」
台所の入り口に立つ俺の所まで持ってきて、沙夜先輩から渡される。
「ありがとうございます」
袋を受け取って礼を言う。
「アイスを取りに来たって事は休憩でしょう? この籠を片付けたら飲み物も持っていくから」
そう言って廊下に置いていた洗濯籠を拾い、沙夜先輩は駆け足で家の奥へ行ってしまった。
「さ、早くアイス姫ん所に持ってくか」
いくらここがエアコンいらずの涼しい家でも、季節が夏なのは変わりない。
アイスが溶け始めるにはそんなに時間が掛からない。
来た道を戻って、また渡り廊下を通る。
道場に戻ると、沙姫とモユが壁際に並んで座り、二人で話をしていた。
と言うより、一方的に沙姫が喋っている、といった感じだが。
「おやつ持って来たぞー」
アイスの入ったコンビニ袋を胸の高さまで持上げる。
当然、いち速く反応してこっちに振り向いたのはモユだった。
食い意地が張っている沙姫よりも速い反応を見せるとは、流石としか言えない。
「何ですか? おやつって?」
「ほい」
「あ、バリバリ君だ!」
沙姫に聞かれ、コンビニ袋からアイスを取って見せる。
「ほれ、沙姫の分」
「私のもあるんですか!?」
「当たり前だろ、組手にも付き合ってもらってるしな」
答えながら、見せていたアイスを沙姫に渡す。
それに、人様の家にお邪魔させてもらっといて、自分の分だけのアイスしか買って来ないなんて事は失礼過ぎて出来やしませんって。
「……アイス」
先に沙姫にアイスを渡していると、我慢が出来ないのかモユがTシャツの裾を引っ張ってきた。
別に奪って食う訳でもないのに、少しぐらい待てないのか。
「はいはい、お前にも今やるっての」
コンビニ袋からもう一本、青い袋のバリバリ君を取り出してモユに差し出す。
モユはTシャツを掴むのを止めて、代わりに差し出されたアイスを掴もうと両手を伸ばす。
「あ」
ふとある事を思い出し、モユがアイスを掴もうとした瞬間に、ヒョイっと腕を上へやる。
「……っ!」
アイスを掴む筈だった手が空を掴み、モユは微かに目を見開く。
そして、何かを訴えるように俺を見てきた。
「そういやよ、モユ……お前、さっき俺を応援してくれなかったよなー?」
モユが手を伸ばしても届かない高さで、手に持ったアイスを見せ付けるようにプラプラと揺らす。
「いやー、まさか毎日アイスを買ってあげてるのに沙姫を応援するんだもんなぁ。流石に傷付いたなぁ」
少し……いや、凄く演技じみた言い方で、わざとらしく肩を落として嘘泣きしてみる。
オヨヨヨヨ、と泣き声も付けようかと思ったが、流石にそれは馬鹿らしいのでやらないが。
「そんな奴にはアイスをあげるのは気が進まな……」
モユはまたTシャツを掴み、一言。
「……匕、頑張れ」
「遅ぇよ!」
もう既に投げられまくったし、今は休憩中だっての。
「……」
ジッと見つめてくるモユの目からは、『アイスくれ』と必死に言っているのが解る。
Tシャツを掴む手の力も増し、アイスをあげるまで離さない気だろう。
このギブミー・アイス・ロックは南京錠よりも固い。ちなみに、技名は今命名した。
「ったく、冗談だよ。そんな必死になんなっての」
上に持ち上げていたアイスを下ろして、モユの目の前にやる。
「……!」
すると、モユは凄い速さで受け取り、壁際に戻って座り込む。
そして、アイスの袋を開けて食べ始めた。
「本当にアイス好きですねー、モユちゃん」
無我夢中にアイスを食べるモユを眺めながら、関心するように沙姫が言う。
「好きを通り越して、もはや中毒……って、お前も食ってんのかよ!」
沙姫に目を向けると、いつの間にかアイスを頬張っていた。
「ほりゃあ、はやふはへないとほへひゃいますはら」
「食いながら喋るな。何言ってるかさっぱり解らん」
アイスを啣えて、口をモゴモゴしながら喋られても聞き取れないっつの。物を食べながら喋るなんて事はモユだってしないってのに。
まぁ、モユは喋らないって言うか、周りに反応しないんだけどな。
「あ、沙夜先輩の分のアイス……どうすっかな」
コンビニ袋の中を覗くと、あと二つのバリバリ君がある。一つは沙夜先輩で、残りは俺の分。
早く食うか冷蔵庫に仕舞うかしないと溶けてしまう。
でも、後で飲み物を持ってくるって言ってたしな。待ってればその内来る……。
「お疲れ様、飲み物を持って来たわよー」
なんて考えている間に、沙夜先輩がお盆に飲み物やコップを乗せてやってきた。
なんともいいタイミングだ。
「はい、スポーツドリンクと麦茶があるから、好きな方を飲んでね」
「あ、じゃあ私、スポーツドリンク!」
沙夜先輩がお盆を床に置くと、沙姫が挙手する。
「あんたはアイス食べてるじゃないの」
アイスを食べなからも、ジュースまで飲もうとする沙姫に呆れながら返す沙夜先輩。
「はいこれ、沙夜先輩の分」
コンビニ袋から取り出して、沙夜先輩にアイスを渡す。
「あら、ありがとう。咲月君も、喉が乾いていたらのんでいいからね」
「どうもです。けど、俺もアイス食わないと」
最後の一つをコンビニ袋から出して、沙夜先輩に見せる。
「そうね、それじゃ座って食べましょうか」
ふふっ、と沙夜先輩は微笑んで、沙姫の隣に座る。
続いて俺もモユの隣に座って、水滴の付いたアイスの袋を開ける。
一口食べると、シャリ、と氷の小気味良い音が鳴った。食べる分には問題無いけど、少し溶け始めていた。
「それにしても咲月先輩」
「んぁ?」
「私達の分のアイスを買ってきてくれたのは嬉しいんですけど、大丈夫なんですか?」
「大丈夫って、何が?」
アイスを噛っている時に話し掛けられ、口に入っていたアイスを急いで飲み込む。
「ほら、咲月先輩って一人暮らしじゃないですか? それに、前にバイトをやめたって言ってましたし……家計、大丈夫なのかなって」
「あぁ、んな事か。気にしなくて大丈夫だって。新しいバイト先もあるしな」
そのバイトの内容はモユの子守りってのが大半だけど。それで月十万だってから破格だ。
まぁ、他にもやってる事はあるけど、意識していないからな。
SDCに参加して、その情報を白羽さんに提供する、なんてのは今までとあんまり変わらないし。
「本当はバリバリ君みたいな安いアイスじゃなく、ちゃんとしたのを買って来ようと思ったんだけど……」
「思ったんだけど?」
「コンビニでモユにアイスを選ばせたら、バリバリ君を選んでよ。それでこれになっちまったんだよ」
何種類もあるアイスの中を、迷わずにえらんだからなぁ、モユ。
かと言ってモユだけ一つ六十円のバリバリ君で、沙姫と沙夜先輩は一つ百円のアイスにしたら差別しているみたいだし。
だから、全員同じアイスにした。別にケチった訳ではない。本当だぞ。
「モユの奴、アイスの中でも特にバリバリ君が好きみてぇでさ」
「ふーん。私はビックコーンとかウルトラカップあたりが好きだなぁ」
顎に人差し指をやり、視線を上にやって考えながら話す沙姫。
気のせいか、ビックとかウルトラとか、なんかサイズ的にでかそうな物ばかりなような……。
「沙夜先輩は好きなアイスとかあるんですか?」
「私? そうねぇ、花見大福とか好きね」
あぁ、それは俺も知っている。餅の中にアイスが入っているヤツで、結構有名だ。
確かに、なんとなく沙夜先輩っぽい感じがする。沙姫は言わずもがな。
「咲月先輩はどうなんです? 好きなアイスあるんですか?」
「俺か? そうだなぁ……」
頭を傾げ、今まで食べたアイスの記憶を思い巡らしてみる。
モユみたいに毎日食べたりはしないが、夏になるとそれなりに食べていた。
なんかあったっけかなぁ、好きなアイス。
「んー、あんまないな。好きだ、っていうアイスは。強いて言うなら、値段的にバリバリ君が魅力ってのはあるかな」
やはり、一本六十円はでかい。しかも、当たり棒が出ればもう一本貰えるし。
当たった事は一度も無ぇけど。
「うっわ、貧乏臭いですねぇ。四十円しか違わないのに」
「うっせぇ、貧乏なんだよ。たかが四十円、されど四十円。考えてみろ、普通の百円のアイスを三つ買ったら、バリバリ君は5つ買えるんだぞ?」
「む、確かに……」
アイスを食べ終わり、沙姫は木の棒を口に啣えて低く唸る。
本数の差で例えた途端、悩み出す沙姫。本当、食い意地だけは一人前だな。
「そうだ、咲月君。勿論夕飯、食べていくでしょう?」
内心で半ば呆れつつツッコミを入れていると、沙夜先輩に話し掛けられる。
「んー、そうだなぁ……どうせ夕方過ぎまで居るだろうし、今回も頂きます」
最初は悪いと思って断ったりしてたけど、食べて帰るのに慣れてしまって抵抗がなくなったなぁ。
この家にお邪魔したら絶対に夕飯をご馳走してもらってるから、当たり前になっちまった。
かと言って断るにも、アイスをご馳走になったお礼だから、なんて沙夜先輩に言われるんだろうな。
「モユちゃんって、何か嫌いな物はあるかしら?」
「あぁ、大丈夫です。モユは出された物は何でも食いますよ、好き嫌いないんで」
「そうなんだ。ご馳走は作れないから、あまり期待はしないでね」
苦笑いする沙夜先輩。
何を仰いますか。俺の野菜炒めと比べたら、天と地の差がありますよ。
沙夜先輩の料理なら、俺からしたら何を出されてもご馳走だわ。
「いえいえ、食えるだけで十分ですよ……っと、ハズレか」
アイスの最後の一口を頬張り、残った木の棒を見てみると何も書いてなかった。
本当に当たりってあんのか、これ?
「よっし、アイスも食ったし組手を再開すっか」
アイスのゴミをコンビニ袋にまとめて入れて、立ち上がる。
モユがアイスを食べたいってから休憩にしたが、休憩前の組手は一時間もやっていない。
なので、そんなに長い休憩を取らなくても体力は十分回復していた。
「あ、咲月先輩待ってください! その前にジュース飲みたいです!」
言って、沙姫はいそいそとコップにスポーツドリンクを注ぐ。
「モユちゃんはどうする? 私と遊ぶ?」
組手を見ていても暇なんじゃないかと気遣って、沙夜先輩はモユに聞く。
「……ううん、見てる」
しかし、モユは首を左右に振って断った。
「あらら、またフラれちゃった」
「すいません、沙夜先輩……」
「ふふっ、いいのよ。気にしないで」
せっかく沙夜先輩が気遣ってくれたのに、モユがまた断るもんだから少し罪悪感が……。
それにモユも、何が楽しくて俺と沙姫の組手を見るんだか。
「じゃ、私は家の方に戻るわ。何かあったらまた呼びに来て」
アイスを食べ終わった沙夜先輩も立って、ゴミをまとめたコンビニ袋を持つ。
「飲み物は後で取りに来るから、好きに飲んで。沙姫は飲み過ぎないように」
沙夜先輩はピッ、と人差し指を沙姫に差して、道場から出ていった。
「むー、何よ、姉さんったら私しか飲んでいないみたいに言って!」
コップの中を空にして、お盆に戻して沙姫は愚痴る。
何言ってんだ、現にお前しか飲んでねぇだろ。
「んっ! よし、それじゃやりますか、咲月先輩!」
沙姫も体力が回復したらしく、元気ハツラツと言った様子で立ち上がり、道場の中央へと歩いていく。
「モユ、アイスを食い終わったんならゴミはその袋に入れとけよ」
コンビニ袋を指差して、モユに促す。
「……うん、わかった」
既にアイスを食べ終わり、木の棒を片手に持ったままモユは頷く。
それを確認してから、沙姫を追って俺も道場の中央に移動する。
「前半は殆どやられっぱなしだったからな……後半で追い上げてやる」
「ふっふーん、今日の私は調子が良いですからね。負けませんよぉ」
沙姫は得意気に鼻を鳴らし、腰に手をやって膨らみの慎ましい胸を張る。
前半で俺に勝ち越してるからって調子乗ってんな……。
でもまぁ確かに、今日の沙姫は良い動きをしている。
俺が来る前に沙夜先輩と組手をやって、身体が良い感じにほぐれているってのもあっただろう。
こっちの攻撃を躱したり捌いたりして、その隙を上手く突いてくる。前半の数十分だけで何度投げられたか。
後半は投げには気を付けよう。沙夜先輩に煩くしないって言ってしまった手前がある。
……もう遅いけど。でも、得意気で鼻を伸ばした沙姫には一泡吹かせたい。
「その伸びきった鼻、ひん曲げてやる」
半身に構え、利き手を前に添えて沙姫を見据える。
「今日はこのまま咲月先輩に勝ち越してみせますよ」
無い胸を張るの止めて、沙姫も構える。
無言で互いの目を見つめたまま固まり、道場には沈黙が漂う。
数秒後、強く畳を蹴る音がその沈黙を破る。
また道場には激しい音が鳴り響き、夏の午後が過ぎていく。




