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No Title  作者: ころく
27/85

No.26 小さな手

8/11


「おーし、食器の片付け終わりっと」


 皿やコップを、棚の定位置に戻し終えて頷く。

 この事務所に泊まるようになってから、もう二週間近く経った。

 お陰様でご覧の通り、我が家のように住み慣れましたよ。


「さて、広間に戻ってモユの子守りしねぇと」


 給湯室から出て、モユがいる大広間に向かう。

 いやはや、食器洗い機ってのは本当に便利だ。

 使った食器と洗剤を中に入れて、ボタン一つ押せば後は勝手に洗ってくれるんだもな。楽チン過ぎてしょうがない。

 これがあれば、冬場には辛い水仕事が無くなるんだもんなぁ。

 羨ましい。俺の部屋にも一台欲しい。


「今日も暇な一日が始まるなー」


 両手を上げて身体を伸ばしながら、広間へ入る。

 モユはソファに座り、何気無しに点けておいたテレビに目を向けている。

 あくまで向けているのであって、見ているのかどうかは定かではない。

 モユがアイス以外に興味を持った所は見た事ないからな。


「よっこいせ、っと」


 爺臭い言葉を言いながら、モユの隣に座る。

 今日は朝食を摂るのが少しばかり遅かった。

 食べ終わってすぐに食器を食器洗い機に入れ、洗い終わる頃合いを見計らって給湯室に戻り、今しがた片付けを終えた所。

 時刻は九時半を回っている。休み中の子供が外で遊び始める頃だろう。


「深雪さん、まだ起きてこないのか?」


 隣のモユの方を向いて聞く。

 最近、モユは深雪さんと寝ているらしい。

 俺としては前みたく、急に夜中部屋に来られて一緒に寝てと頼まれる心配が無くなって有り難い。


「……うん、まだ部屋から出てこない」


 こくん、と小さく頷いて、モユは返事する。

 モユは毎朝6時近くに起きる為、一緒の部屋で寝てても深雪さんと起きる時間は別々。

 しかし不思議なのは、何故モユは自分が起きたら俺までをも起こすのか。

 夏休み中、ずっとこんなだから規則正しい生活になっちまった。

 あぁ、気ままに寝起きしてた頃が懐かしい……。


「深雪さんの分の野菜炒めを作ったんだけどな」


 たまに深雪さんも一緒に朝食を食べる事があったりするので一応作ったんだけど、今日は食べねぇのかな。

 ま、冷蔵庫に入れておいたし、昼飯や夜飯に食えるからいいか。

 テレビを見てみると、何やら今年お勧めのレジャースポット特集なんてのをやっている。

 貸し出しされている格安の自然に囲まれた別荘でゆっくりするとか、新しく出来た巨大室内プールなんてのが大々的に紹介されていく。

 流れているテロップをぼんやりと眺めてはいるものの、悲しいかな、金も無く友達も少ない俺には縁が無い。

 縁が無ければ興味も薄れ、テレビから目を離す。


「あー……」


 なんとも脱力感の漂う、気の無い声が無意識に漏れた。

 ソファの背もたれに左腕を回し、天井を仰ぐ。

 この時間帯は大概暇になる。朝飯も食って、食器の片付けも終わり、一息つくこと時間。

 やる事もやりたい事も無く、やらなきゃならない事も無い。

 テレビだって大して面白い番組がやっていない。

 で、お隣のモユさんと面白可笑しく遊んだり喋ったりするでもないときた。

 去年は暇があればバイトを入れていたから、こうも夏休みを暇でもて余すのは初めてだ。


「……暇だ」


 ぼけーっと白い天井を眺めて、言い慣れた言葉を口から出す。

 夏休みに入ってから何度言った事か。もしかしたら毎日言っている可能性だってある。

 立花町まで繰り出せば、駅前で適当に暇潰しぐらいは出来る。

 が、モユの面倒を見なきゃいけなく、外出は出来ない。

 出来ない事はないんだけど、遊びに行くからってモユを1人だけ置いてまで行こうとは思わない。

 まぁ、ランニングをしに毎晩外出自体はしているけど。


「ランニング、か」


 昨日の、まだ一日も経っていないあの事を思い出す。

 河川敷で金髪を三つ編みした奴が話した内容と、起きた事を。

 テイルの笑い顔を思い返せば、今でも怒りが沸き上がる。

 怒りの余り我を忘れ、感情に呑まれて奴に殴り掛かった自分。

 殴る事さえも出来ず、軽くあしらわれ何も出来なかった自分。

 そんな、奴の前では無力に等しく弱い自分が腹立たしかった。


 悲しんだり怒ったりする事を知らない少女の代わりに、一発殴ってなる事すらして出来なかったのが何よりも一番、情けなくてしょうがなかった。

 別に俺は、綺麗事を言う人間でも、悪を許さないヒーローなんかでも無い。

 そこら辺に幾らでもいる、ただの学生だ。

 けどそれは、俺がやらなくちゃと、聞き流してはいけないと――――思ったんだ。


 馬鹿な行為だと笑われても、構わない。

 偽善だと罵られても、否定はしない。

 これは俺の我が儘で、自己満足に過ぎない。

 奴は愉しそうに、口を斜めに歪ませながら言った。

 道具、材料、人形。

 どれもこれも、ふざけた言葉だ。


『言う事を聞く道具、欲しいものを手に入れる為の材料。人の格好をしたそれを人形と言うて何が悪いんや?』


 あの時の奴の言葉と。


『人形っちゅうのは字の如く、“人の形をしたモノ”を指すんや――――』


 吐き気のする笑い声が、フラッシュバックのように思い浮かぶ。

 タバコの臭いが漂う、その空間が。


「――――人形、か」


 ぽつりと、隣に座るモユにすら聞こえない位に小さい声で呟く。

 言う事を聞き、言われた事だけをこなす。

 人形とは、人の形をしたモノを指す――――。


「だったら、ガキの頃の俺はまさにそうだったな」


 微かに眉を寄せ、目を細める。

 毎日クソ親父の言われるまま武術の鍛練、学校はただ事務的に過ごし、帰ればまた鍛練。

 文句を言わず、愚痴も漏らさず。

 あの頃は人形と呼ばれても、間違いではなかったろう。


「……けど、今は違う」


 楽しい事を教えてくれた人がいた。

 話す事を、面白い事を、感情を表に出す事を、沢山の事を教えて、思い出させてくれた人が。


「ちゃんとした……人間だ」


 今は自分の頭で考え、自分の足で立ち、自分の意思で動き、自分の願望のままに生きている。

 もう、人形なんかじゃない。俺も、隣に座るモユも。

 片方は友達もいない金欠苦学生、はたまたもう片方は無口無表情無愛想。

 二人して不器用な生き方だけど、立派な人間だ。

 ヒトでも否人ヒトでも人形でもない。誰とも変わらない、人間。


「ん?」


 ちょいちょい、と右袖に違和感がして、天井を仰いでいた顔を下げる。

 まぁ、既に予想は付いているが。

 右祖を見てみると、案の定モユが掴んでいた。


「……アイス」


 丸く大きな瞳をこっちに向けて、ただ一言。


「へ? もう十時なったか?」


 テレビを見てみると、画面の右上には『10:00』と表示されていた。


「いつの間に……よし、冷蔵庫から取ってこい」

「……うん」


 俺の許可を貰うと、モユは返事しながら頷き、ソファから降りて冷蔵庫のある給湯室へ駆けていく。

 昨日の事を思い出して考え込んでいる内に、結構時間が経っていたみたいだ。

 長く上を向いていたせいか、少し痛む首を回して軽いストレッチをする。

 多少気分が悪くなったのを誤魔化すかのように、首元に手を当てて回す。


「やらなきゃならねぇ事、あるじゃねぇか」


 ぴたりと、首を回すのを止める。

 テイルは言っていた。コウが完全に回復するにはまだ少し掛かると。精神も最近は安定しているとも、確かに言った。

 ならば、次のSDCで恐らく……いや、確実に出てくる筈だ。

 コウは殺しきれなかった俺とエドを執拗に狙う。

 それが奴の人格を保つ為の糧であり、目的。

 その目的である俺達と戦わせて成果を試し、そして奴が俺達を殺した時に、二从人格としてコウの人格が完成される。

 なら、次は全力で奴は来る。


 禁器を持って、殺すと、壊すと、そして――――崩すと。

 コウを倒す為に、先輩を助ける為に、それを確実にする為に。

 そして、あのふざけた笑いをする奴を今度こそ、一発ブン殴る為に。

 やらなくてはならない事。


「体力は問題無い……けど、動きに昔程の鋭さや滑らかさがない。まだ勘を取り戻しきれていねぇ」


 コウを確実に倒すには、まだ辛いものがある。

 前回のSDCでも、スキルに目覚めている相手二人と戦ったが、あれじゃ駄目だ。

 コウが相手だったらば、一撃すら喰らってはいけない。

 あの程度の奴等を相手にあんなに苦戦していたんじゃ、いつまでもテイルには触れる事すら出来ない。


「また沙姫に組手を頼むしかねぇな」


 同じSDC参加者に頼むのは変な話だが、他に頼める相手がいない。

 テイルに渡り合える程の実力を持つ白羽さんに相手をしてもらうっていう手もあるが、実力差があり過ぎる。

 それに、日中部屋に籠る程にSDCを調べるのに忙しいみたいだし。

 エドは飛び道具が主体だし、一応あいつも仕事があるだろうしな。

 そうなるとやっぱ、沙姫しかいねぇよなぁ。道場もあるから、場所には困んねぇし。

 まぁ、なんだ。組手をやるにしても、向こうに予定が無ければの話だけど。

 日課を取りに行ったモユが、黒いリボンで結ばれた小さなおさげを揺らしながら戻ってきた。


「……匕、これが最後だった」


 手にはカップアイスとスプーンを持ち、アイスを俺に見せてくる。


「ありゃ、もう無くなっちまったか。買って補充しねぇとな」


 まだあると思ってたんだけど、無くなったか。

 三時のおやつまでには買って来ないと。モユの奴、アイスが無いと不機嫌になっちまうからな。

 無表情で解りにくいが、纏うオーラが変わる。しかも、無言の無表情で見つめてながらプレッシャーを放ってくる。


「あとで買っておくから、今はそれを食ってろ」

「……うん」


 とたた、と可愛らしい足音を鳴らして、モユは俺の隣に座る。

 カップアイスの蓋を開け、早速スプーンでアイスを口に運んで自分の世界に浸る。

 今日のアイスの味は、チョコチップクッキー。


「さて」


 モユはアイスを食べるのに忙しくても、見ているだけの俺はやる事が無い。

 今の内に沙姫に電話して、都合の良い日に組手の約束をしておこう。

 部屋着として履いているジャージのポケットから携帯電話を取り出して、画面を開く。

 電話帳から沙姫の番号を探して、電話を掛ける。


「沙姫の奴、出るかな?」


 プルルルル、と発信音がスピーカーから鳴り始める。

 もしかしたら、まだ寝てるかもな、沙姫。夏休みだからってグータラな生活を送ってそうだ。


『はーい、もしもし?』


 なんて予想とは反して、意外にも早く電話が繋がった。


「お、出た」

『なんですかー、電話しておいて出た。って』

「いやー、まだ寝てるんじねぇかなぁ、と思ってたからよ」

『私だって寝ていたかったのに、姉さんに起こされたんですぅ』


 スピーカーの向こうで、少しばかり不機嫌そうな声で沙姫が喋る。

 って、起こされなかったら寝てたのかよ。

 ……いやまぁ、俺もモユに起こされてなかったら、この時間も寝てるだろうけど。


『で、なんか用ですか?』

「あぁ、そうそう。そっちが都合の良い時でいいからさ、また組手に付き合ってくんねぇか?」

『組手、ですか?』

「夏休みに入ってからやる事無くてよ。部屋でゴロゴロしてっからなんかこう、身体が鈍っちまって。だから身体を思いっきり動かしたくなってよ」


 SDCでコウを倒す為に昔の勘を取り戻したい、なんて正直に話せる訳もなく、適当な理由を言って誤魔化す。


「嫌なら断ってもいいぞ? お前にも予定あるだろうし」


 とか言っているが、内心では断って欲しくないと思っているが。


『いいですよ。私は全然構わないです』

「本当か!」


 すると、悩みもせずにすんなり快諾。

 持つべきは出来た後輩だな。友達は多けりゃいいってもんじゃない、質が大事よ、質が。


『それじゃ、いつやります?』

「俺はいつでも。沙姫が暇な時でいい。頼んでる立場だしな」


 出来れば次のSDCまでに勘を取り戻したいから早めが望ましいが、そんな贅沢は言えない。

 今言ったように、俺は頼んでる立場だ。日にちは向こうに合わせるのが当然だろう。


『暇な時、ですか。そうですねぇ……』


 んー、と沙姫の唸り声が漏れて聴こえてくる。


『じゃ、今日はどうですかね?』

「へ? 今日?」

『はい。丁度私、暇ですし』


 全く予想していなかった沙姫の返事に、そのまま聞き返してしまう。

 早めがいいとは思いはしたが、まさか組手を頼んだ当日にOKが来るなんて誰が予想しようか。


「今日、かぁ」

『あ、もしかして咲月先輩、都合悪いですか?』

「いや、んな事はない。むしろ暇過ぎる位だ」


 確かに暇だし、予定も無くて時間を持て余している。


「けど、なぁ……」


 携帯電話が拾えない位に小さい声で呟いて、隣でアイスを食っている奴を横目で見る。

 今日組手が出来るのは本当に有り難いけど、沙姫の家に行くとなるとモユは置いていかないといけない。

 一緒に連れていって街中等でテイルに見付かってしまったら、今まで匿っていた意味が無くなってしまう。

 そうなると、誰かにモユを預けないとな。

 白羽さん……は無理そうだしなぁ。エドはムカつくから当然却下。

 となると、消去法で深雪さんしかいないか。


「うし、じゃあ今日頼むわ」

『はい。何時に来ますか?』

「んー、そうだな……前と同じで二時頃に」

『わかりました、それじゃ待ってますね』


 通話を終え、携帯電話を折り畳んでポケットに入れる。

 とりあえず、電話してすぐに行くのも悪いし、俺も準備しなきゃらならないので午後にした。

 他にも、モユに昼飯を作らなきゃならねぇし。

 まぁ、作るっつっても野菜炒めだけど。


「なんか話し声がするなーと思ったら、電話中だった?」


 不意に声を掛けられ、声のした広間の入口方向を見る。

 そこには、紺色のレディーススーツを着こなす深雪さんがいた。


「あ、深雪さん丁度良かった」

「ん? 何かあったの?」

「ちょっと頼みたい事があって……」


 ソファから立って、深雪さんの所へ歩み寄る。


「実は午後から、沙姫の家に行く事になって」

「沙姫ちゃんの家に? へーぇ……匕君も男の子ねぇ」


 深雪さんは両手を腰にやり、にんまりと笑みを浮かべて、下から除き込むように俺を見てくる。


「言っておくけど、深雪さんが考えているような用事じゃねぇよ」

「なーんだ」


 つまんなーい、なんて深雪さんは子供みたいに口を釣り上げる。


「じゃ何しに行くの?」

「ちょっと組手をしに。次までには、少しでもマシな動きが出来るようにしねぇといけないから、さ」


 そう答えると、深雪さんは何かに気付いたように真顔になり、そっか、と一言。


「でも、困ったわねぇ。実は私も外せない用事があって外に出ないといけないのよ」


 腕を組ませて、うーん……と低く唸る。


「え、マジで? どうすっかなぁ……」


 深雪さんが無理となると、他に頼めそうな人は白羽さんくらいしかいない。

 エドは選択肢に入ってねぇし。


「かと言って白羽さんに頼むのも、なぁ……」

「そうねぇ。白羽さんは私達より多くの仕事をこなしているから……ちょっち厳しいんじゃないかな」


 深雪さんは眉を八の字にして、俺の独り言に返してきた。


「そうかぁ……困ったな」


 頭を軽く掻いて、一人ごちる。

 モユを一人だけにして行くのは気が引けるし、せっかく組手が出来るチャンスだったけど今回は見送るしかないか。

 もう一回電話して、やっぱ今日は無理だと連絡しないと。

 俺から頼んでおいて断るのか……悪い気がするなぁ。


「ん?」


 着ているTシャツの裾が引っ張られ、後ろに振り向く。

 アイスを食べ終わったモユが、裾を掴んでこちらを見上げている。


「……沙姫の所に行くの?」


 口の周りにアイスを付けたまま、赤茶色の瞳を向けて。


「……私も行く」

「いや、行くって言ってもな……」


 モユを連れて行きたいのは山々だが、外に連れ出してテイルに見付かってしまう可能性がある。

 前に白羽さんに連れ出せないかと頼んでみたが、やはり無理だった。


「……行く」


 モユはいつもの無表情で、裾をキュッと掴んでくる。

 どこか普通の子供みたく、せがむように。


「これまた困った……」


 モユが自分からどこかに行きたいと、どうしたいと自らの意思を見せてくるのは珍しい。

 いや、ここに来てからはアイス以外では初めてだ。

 いつも周りに興味の無い反応しかしない……いや、反応すらしなかったモユが、初めて自分の望みを訴えてきた。

 そんな変化を見せてくれたのが嬉しいし、俺個人としては叶えてやりたい。

 けど……。


「ごめんな、モユ」


 膝を曲げて、視線をモユと同じ高さに合わせて謝る。


「俺も一緒に連れて行ってやりたいけど、お前を外出させれねぇんだよ。今日は俺も行かない事にしたから、我慢して……」

「構わないよ」


 言い切る直前に、被せるように後ろから声が聞こえてきた。


「え? あ、白羽さん」


 曲げていた膝を伸ばして後ろを見ると、いつの間にか白羽さんがいた。

 今日も黒いスーツをこれ以上無い位に着こなしている。

 室内だからか、ハットは被っていない。


「咲月君と一緒に行って来て構わない。モユ君も行きたいのだろう?」

「……本当?」

「うん、本当だ。久しぶりの外出だからね、楽しんでくるといい」


 白羽さんは微笑みをモユに向けて答える。

 その様はまさに、紳士という言葉が当て嵌まろう。


「でも、その前に口の周りを綺麗にしないといけないね」


 そう言って、白羽さんは隣の深雪さんに視線を送る。


「モユちゃん、口の周りを拭いてあげる。ティッシュじゃ後でベタベタしそうだから、洗面所に行って洗おっか」


 深雪さんはそれに気付き、モユの前に移動して屈み込む。


「……うん」


 こくん、と頷くのを見てから、深雪さんはモユの手を引いて広間を出ていった。

 モユと深雪さんが広間から離れていくのを確認して、白羽さんの方に向く。


「一緒に行って構わないって、一体どういう事だよ? モユは外に出せないんじゃねぇのか?」


 理由が解らないと、眉を顰めて白羽さんに聞く。

 真っ先に浮かんだ疑問を聞かずにはいられなかった。


「そうだったんだがね……その必要は無くなったみたいだ」

「無くなった?」


 白羽さんは廊下に目をやったまま肩を竦ませ、俺に答える。


「うん。昨日の……奴の話は覚えているだろう?」

「奴、って……テイルか?」

「そうだ。奴は確かに言っていた。モユ君は『もう要らない』、とね」


 昨日の事を思い出してか、白羽さんの表情が微かに強張る。


「ちょっと待てよ。まさか、それだけの理由で……!?」

「確信付いたのがその言葉だっただけだよ。理由は他にもある」


 一度ゆっくり目を瞑ってから、白羽さんは続ける。


「もし本当はモユ君が必要であったなら、連れていったのが私達だと気付いていた奴だ。この間のSDCで、咲月君とエドに何かしらの行動を見せてきていた筈だ」


 言われてみれば……昨日のテイルは、俺達がモユを保護していると前から感づいていたといった口振りだった。


「それに、モユ君を保護した日。あの時はモユ君が居なくなったのにも関わらず、奴は数十分もの間、モユ君を放置していた。モユ君が必要であるなら、そんな真似をするとは思えない」

「確かに、そうだな……」

「もしそれが私達の居場所を探し出す為の作戦だったとしても、今まで何も起きていない事を見れば、その可能性は消える」


 進めていく白羽さんの話に、俺は納得して頷くしかしていない。


「それに、やろうと思えば昨日……咲月君を人質にしていれば、モユ君と禁器を返せと脅迫だって出来ていた筈だ」


 白羽さんは目を開け、俺へ視線を向けてくる。

 そうだ……何事もなく無事で済んだけど、俺がテイルに押し倒されて動けなくなっていたあの状況を利用すれば、テイルはモユどころか禁器まで取り返す事が出来たんだ。

 自分が起こした行動がいかに危険な行為だったか気付き、己の無鉄砲さと未熟さを悔やむ。


「奴はモユ君を取り返す機会はいくらでもあった。なのにそうしないとなると……やはり、本当にモユ君はもう、SDCには必要無いのだろう」


 確かに。取り返すならもっと早く、SDCの情報が漏れないようにと手段を選ばずにやっていた筈だ。

 なのに、奴は何もしてこない。

 昨日も、ただ雑談をしに来ただけだと言って、本当にそれだけで帰っていった。


「それに……」


 と、更に話を続ける。


「奴は、嘘を吐かないからね」


 小さな微笑みを見せて、白羽さんは言う。

 敵の事であるのに、楽しそう……とも違う、何か特別で独特な雰囲気を醸して。


「それを信じるってのか……?」


 それも奴の気まぐれで、適当に言った事かも知れないのに。


「咲月君、私は……奴とは深くは無いが、長い付き合いでね。確かに奴の言動、行動、思考。全てが気に入らない。だがね……」


 白羽さんは一呼吸置いて、口を動かす。


「テイルと対峙するようになってから今まで、奴は本当に嘘を吐いた事が無い」


 ポケットに入れていた手を抜いて、腕を組む。


「私が唯一、評価している所さ」


 嫌いな相手ではあるが認めてやる部分があると、白羽さんは複雑そうな笑いを見せて語った。


「だから、モユ君を匿う理由が無くなったのさ。今までモユ君には窮屈な思いをさせてしまったからね、これからは気にせずに遊びに連れていって構わないよ」


 そう、か。初めは耳を疑ったが、理由を聞けば納得出来る。

 モユを連れていけるのなら俺も組手の約束を断らないで済むし、沙姫も喜ぶだろう。


「わかった。理由も納得出来たし、白羽さんが言うなら大丈夫だと信じるよ」


 って、あぁ。今さら気付いたけど、この話をする為にモユを離れさせたのか。

 なんで深雪さんは給湯室まで行ったのか少し不思議に思っていたが、なるほどね。


「でも、モユは連れ出していいとして、禁器の方は大丈夫なのか?」

「あぁ、安心していい。奴には簡単に奪えない、安全な所に隠してあるからね」


 そういや、昨日もそんな事を言っていたな。


「ちなみに、どこに隠してあんの?」

「うん? それはね……」


 白羽さんは組んでいた腕を解いて、おもむろに右手を動かす。


「ここさ」


 そして、胸ポケットにやり、ポンポンと軽く触れる。


「……っは、はははっ! そりゃ確かに、テイルには一番手の出しにくい場所だな!」


 思わず、声を出して笑ってしまった。

 安全な所に隠してあるって言うからどんな場所かと思えば……白羽さんが着ているスーツの胸ポケットかよ。

 鍵の掛かった金庫や、隠し部屋とかに厳重に保管しているのかと想像していたが、蓋を開けたらそうでもない。

 まるで携帯電話を入れるように、白羽さんは胸ポケットに仕舞っていた。

 まぁそれでも、どんな場所よりも安全だと納得してしまうのが、この人の凄い所だ。


「……匕」


 とたた、という足音をさせて、モユが駆け足で戻ってきた。

 口の周りに付いていたアイスは綺麗に無くなっている。


「……沙姫の所、行く」


 また服の裾を引っ張ってきた。


「行くのはまだだ。午後に行くって言ったから、昼飯を食べた後だ」


「……わかった」


 一言だけ言って、モユは頷く。


「モユちゃんが走るなんて珍しいわよね。そんなに沙姫ちゃんの家に行くのが楽しみなのかしら?」


 苦笑しながら、深雪さんも広間に戻ってきた。


「んー、どうだろ? でも、モユは沙姫とも仲良かったからなぁ」


 いや、仲良かったと言うか、沙姫の方が一方的に絡んでいたと言うか……。


「部屋から出て来たって事は、白羽さんも出掛けるんですか?」


 深雪さんは広間に姿を現した白羽さんに聞く。


「うん? あぁ、違うよ。実は、自室のポットが壊れてしまってね。休憩しようと、給湯室でコーヒーを淹れようと思ったんだ」

「あ、なら私が淹れますよ。白羽さんは部屋で待っててください」

「いや、構わないよ。それに、深雪君はそろそろ行かないといけないだろう?」


 白羽さんが言うと、深雪さんは、あっ! と声を上げる。


「そうだった! 早く準備して行かないと!」


 口元に手を当て、出掛ける事を思い出して焦りだした。


「そうだ、匕君!」

「へ?」

「もしかしたら今日、帰って来れないかもしれないから、その時は夜もモユちゃんをお願いね! じゃ!」


 言い切るや否や、凄いスピードで深雪さんは自室に戻っていった。

 いつも忙しそうだけど、今日は輪を掛けて忙しそうだなぁ。深雪さん。


「では、私も行くとするよ。そう長く休憩する訳にもいかないからね」


 深雪さんに続き、白羽さんも広間から出ていく。

 向かう先は自室……ではなくて、給湯室。

 やはりコーヒーは飲みたいらしい。きっとまた、飲むのはホットなんだろうな。


「俺も沙姫ン家に行く準備しねぇとな」


 部屋着とは別のランニングで使っているジャージと、汗を拭くタオル。

 着替えのTシャツなんかも持っていかないといけない。


「その前にテレビを消して、っと」


 点けっぱなしだったテレビの画面をリモコンで消す。


「よし。モユ、出掛ける準備するから俺の部屋に行くぞ」

「……うん」


 誰もいなくなった広間にモユだけを置いていくのは何なんで、一緒に部屋へ連れていこう。

 テレビを見たりするならともかく、点けてても興味示さねぇからな、モユは。

 とりあえず、午後になったらすぐに出られるように準備はしておこう。




    *    *   *




「うっわ……」



 項垂れてしまいそうな暑さと、容赦無く照りつく太陽光。

 そして、その熱射を跳ね返すアスファルトの地面に、視界のな七割を埋め尽くす人混み。

 思わず、口から脱力感溢れる言葉が出てしまった。


「モユ、大丈夫か?」

「……うん」


 いつもと変わらぬ返事をするモユではあったが、どこかゲンナリとした様に見える。

 午後になって電車に乗り、たった今、立花町に着いて駅から出た所。

 電車内は大して混んでいなかったが、駅前に出た途端にこれだ。

 むわっ、と熱気が肌にまとわりつき、電光掲示板に表示されている気温よりも遥かに暑く感じる。


「とにかく、さっさと駅前から抜けるか」


 流れる方向が出鱈目で、疎らに動く人混みの中に混じって歩き出す。

 こんな暑く、密度の高い所からは早く脱出したいし、約束の時間である二時まであと三十分程しかない。

 俺から約束を取り付けたんだから、遅れる訳にもいかないからな。ちゃっちゃと行こう。

 人混みの僅かな間を、縫うように歩いていく。


「ん? あっ……」


 何気無しに歩いている最中に、ふと後ろを見て気付いた。

 離れまいとTシャツの裾を掴み、俺の後ろを必死に付いてくるモユの姿に。


「ったく、何やってんだよ……」


 それを見て、苛立ちを込めた溜め息と言葉から口から漏れた。

 それは決して、モユに対してではない。

 モユを気に掛けず、いつもの調子で歩いていた自分が情けなく、腹立たしかった。


「悪かったな、モユ」


 足を止めて後ろに振り向き、モユに謝る。

 モユは何故謝られたのか理解出来ず、きょとんとして首を小さく傾げた。


「モユ、服じゃ伸びちまう。こっち掴め」


 右肩にはショルダーバックを掛けているので、邪魔にならない左手をモユに差し出す。

 モユは一度、戸惑うように俺の左手を見る。


「……うん」


 そして、Tシャツを掴んでいた右手を離し、代わりに俺の左手を握ってきた。


「うわ、ちっちぇー」


 握り返すと、簡単に掌に埋もれた。

 握ったモユの手は小さくて、可愛らしくて、温かかった。


「少し歩くけど、大丈夫か?」

「……うん、大丈夫」


 こくん、とモユは頷いて、握った手には、きゅっと力が籠った。

 モユは駅前に来たのは初めてだろうし、この人混みだ。

 少し怖かったのかも知れない。

 そんな事にすぐ気付けなかった自分を内心で呆れ、そして反省する。


「よし、じゃさっさと行きますか」

「……うん」


 モユの小さな手を引いて、先程の半分ぐらいの速さで足を進ませる。

 今度は歩きづらくないように、離れないようにと。

 歩幅を合わせてゆっくり、ゆっくり歩く。



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