優しい卵焼きと、新しい朝
幽霊のじいちゃんとの四畳半の物語、ついに結末となります。
最後までどうぞよろしくお願いいたします。
翌朝、半年ぶりに部屋のドアノブに手をかけた。
金属の冷たさに一瞬足がすくみそうになったけれど、後ろを振り返ると、じいちゃんがアロハシャツを着て「行ってこい」と言わんばかりにニカッと笑っていた。
ゆっくりと、ドアを開ける。
両親は仕事に出ていて家の中は静かだった。埃っぽい台所に立ち、冷蔵庫から卵を二つ取り出す。
カチ、カチ、ボウ。
火をつけ、フライパンを温める。
溶いた卵を流し込み、菜箸で不器用に巻き取っていく。何年も握っていなかった包丁とフライパンは重かったけれど、手が不思議と感覚を覚えていた。少し形が崩れて、端っこが焦げた、あの頃と同じ不格好な卵焼き。
「ほら、じいちゃん……できたよ」
お皿をダイニングテーブルに置き、振り返る。
いつの間にか、台所の入り口にじいちゃんが立っていた。だけど、その姿は朝の光に溶けるように、うっすらと透明に透け始めていた。
「おう……上出来じゃねえか、蓮」
じいちゃんは嬉しそうに目を細め、テーブルに近づいて皿の前にしゃがみ込んだ。
物を持てないはずの透明な手が、お皿を優しく包み込む。
「これで、もう思い残すことはねえ。あの世の連中に、これが俺の自慢の孫が作った世界一の卵焼きだって、自慢して回ってやるわ」
「じいちゃん、もう消えちゃうの……?」
喉の奥が熱くなり、涙が視界をにじませる。じいちゃんはフッと微笑むと、俺の頭の上にそっと手をかざした。触れ合えないはずなのに、不思議と、おじいちゃんの大きな手のひらの温かさが伝わってくる気がした。
「蓮。お前はどこに行っても大丈夫だ。この優しい卵焼きの味が、お前が素晴らしい人間だってことを証明してる。自分を信じて、少しずつ歩け」
「……うん、うん。ありがとう、じいちゃん」
「おう。じゃあな、蓮。……次は、お前が幸せな顔してあの世に来るのを、気長に待ってるわ」
じいちゃんは最後に、生前と全く同じ、豪快でファンキーな笑顔を見せた。
そして、差し込んだ朝の光の中に、キラキラと溶けるようにして完全に消えていった。
誰もいなくなった静かな台所。
俺は椅子に座り、不格好な卵焼きを一口、口に運んだ。
じいちゃんが「美味い」と言ってくれた、あの頃と同じ、少し甘くて、少ししょっぱい、優しい味がした。
「……美味いよ、じいちゃん」
ポロポロと涙がこぼれて、卵焼きの味をさらに少しだけしょっぱくした。
だけど、胸の奥は驚くほど軽くて、温かかった。
食べ終えた皿を綺麗に洗い、俺は自分の部屋へ戻った。
そして、ずっと閉ざしていた遮光カーテンを、今度は自分の手で、勢いよく思い切り開けた。
窓から差し込んできた眩しい太陽の光が、俺の四畳半を、真っ白に照らし出していた。
物を持てない幽霊のじいちゃんが遺してくれた温かさが、少しでも皆様の心に届いていれば幸いです。
蓮とおじいちゃんの小さな奇跡の物語に、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




