第70話
ルーカスが朝の書類に、見慣れない封書を添えた。
「先日お問い合わせになった競走の件でございます。主催家から返事が参りました」
「返事が来たか」
照会の書状を出してから2週間ほどが過ぎ、朝は外套なしで中庭を横切る気になれないほど冷えるようになった。王宮の窓は早い時間から閉められ、執務室では机のそばに火が入っている。
俺は封を開き、添えられた案内を読んだ。
冬が明け、地面の具合が整えば催しを開きたいこと。短い距離を走る平地競走で、牝馬も参加できること。
「エアリアルを出せるかもしれないな」
思わず声にすると、ルーカスが顔を上げた。
「厩舎へ、このご案内をお持ちになりますか」
「うん。みんなにも読んでほしい」
主催家は、参加を希望する馬主に騎乗者の経験と馬の状態を確認するよう求めていた。開催日と場所の詳しい案内は、春が近づいてから届くという。
「午後、厩舎へお出かけになりますか」
「出かけたい。今日は何時なら空く?」
ルーカスが予定表を開いた。
「午後の早い時間まで、報告と面会の予定がございます。厩舎へは、そのあとでしたら」
「じゃあ、そこで。あまり遅くなると暗くなる」
「承知いたしました。厩舎へも知らせておきます」
そう言って次の書類を差し出してくる。俺も封筒を机の端へよけ、仕事に戻った。
政務の報告と面会を終える頃には昼を過ぎ、昼食も予定より遅くなった。
午後、厩舎へ着くと、運動場では2頭の馬がゆっくり歩いていた。地面が湿っている場所を避け、使えるところだけで体を動かしているらしい。以前のように速く走らせているわけではなかった。
エアリアルは馬房にいた。
俺が戸口へ近づくと顔を出してきたので、鼻先を撫でた。鹿毛の首は冬毛が少し目立ち始めている。こちらを一度嗅いだあと、また奥の餌へ気を取られた。
「相変わらずだな」
「食欲は落ちておりません」
厩舎を預かる者が笑って答えた。
「今朝は軽く歩かせました。もう馬房で休ませております」
「主催家から返事が来たよ。牝馬でも構わないらしい」
案内を渡すと、彼は騎乗担当の男を呼んだ。2人が読み終えるのを待って、俺は尋ねた。
「出るとしたら、誰に乗ってもらうのがいい?」
「普段からこの馬を知っている者はおります。ただ、競走の経験がある騎乗者にも声をかけて、比べてみたいと考えております」
俺は騎乗担当の男を見た。
「君はどう思う?」
「エアリアルは、合図に応じて前へ出るのが速い馬です。前後の馬を気にしすぎることは減りましたが、競走で何頭も並んだら、いつもと違う反応をするかもしれません」
「そこは俺も気になっていた。乗り手を替えるなら、その人にも慣れてもらわないとな」
「では候補を挙げ、何度か乗ってもらいましょう。まずは馬との相性を見ます」
「任せるよ。エアリアルに乗ったことのない人なら、あの反応の速さには驚くだろうな」
男は笑った。
厩舎を預かる者が案内を畳み、さらに言った。
「開催場所も分かり次第、確かめに参ります。馬場の具合によっても調整が変わりますので」
「そうだね。場所を見られるようになったら教えてほしい」
「承知しました。申し込みの時期も、決まり次第知らせていただけるようにいたします」
俺はエアリアルへ目を向けた。馬房の奥にあった餌を食べ終えたのか、こちらへ頭を伸ばしている。
「ほかの馬と並んで走るところを、早く見たいな」
そう言いながら鼻先に手を伸ばすと、エアリアルは俺の袖を嗅いだ。俺が何を楽しみにしているかなど、この馬には分からないだろう。それでも、買ったときから見たかった光景が少し近づいた気がした。
「では、騎乗者の候補と馬の運動の具合を、またご報告いたします」
「よろしく頼むよ」
帰り際、主催家への礼状と、申し込みの時期が決まったら知らせてもらう件を、王宮へ戻ってからルーカスに頼むことにした。
王宮へ戻る道では、空が早くも夕暮れに近づいていた。
王になってからは、厩舎へ来るにも予定表とにらめっこだ。それでも今日は、馬に乗らずに話を聞くだけで面白かった。誰を乗せて走ることになるのか。エアリアルがその人にどんな顔をするのか。帰り道でも、ついそんなことを考えてしまう。
セレーンからの返書が届いたのは、それから数日後だった。
朝の執務を始めてまもなく、外交担当の官吏が封印された書状を持ってきた。宛先は俺で、差出人はエドヴァルト国王となっている。
官吏は使者が書状を届けた経緯と、受領の手続きを説明した。
俺は封を確かめて開いた。
返事は丁寧だった。第一子の出生への祝意が短く記されたあと、先日こちらから送った書簡の件に触れている。
両王家の交流を深めることは歓迎する。王子と王女が、改めて互いを知る機会を持つことについても異存はない。そのために相互の訪問を考えるなら、双方の予定と滞在中の扱いについて実務担当者を通じて相談を進めたい。
マティルデは返事が来たら知らせてほしいと言っていた。まずは書状を見せよう。
「母上とマティルデに、午後会えるか確かめたい。ルーカスに伝えてくれる?」
「かしこまりました」
官吏が退いたあと、俺は書状を机の端に置いた。しばらくして来たルーカスに予定の確認を頼み、次の仕事に戻った。
午後に近づいた頃、ルーカスが戻ってきた。
「ご母堂もマティルデ殿下も、午後にお時間をいただけるとのことでございます」
「ありがとう。それなら午後に見せよう」
「マティルデ殿下には、セレーンからお返事があったことまでお知らせしてよろしいですか」
「うん。読んでもらうつもりだから」
「かしこまりました」
母上の部屋へ入ると、マティルデはもう来ていた。
窓から差す午後の光はまだ明るく、暖炉のそばに茶の席が設けられていた。マティルデは椅子に浅く腰かけ、俺の手元を見ている。
「届いたのね」
「はい。こちらです」
先に母上へ渡そうとすると、マティルデが椅子の上で少し身を乗り出した。
「兄上、返事はどうだったの?」
「王家同士の交流を歓迎すると書いてある。ヨハン殿下とまた会う機会についても、話し合ってくれるそうだ」
「それは嬉しいわ。……読んでもいい?」
母上が目を通したあと、マティルデも書状を受け取って読み始めた。
最初はゆっくり目を動かしていた。途中から少し速くなり、最後まで読んだあと、もう一度中ほどへ戻っている。
「訪問の日程や、滞在中のことを相談したいのね」
「うん。まずは先方の都合を聞いて、それからこちらでも決めていくことになる」
「ヨハン殿下がどう思っているかは、まだ分からないのね」
「この書状には書かれていないよ」
「だったら、私が会って話してみたい。兄上、こちらから訪ねることはできる?」
マティルデは書状を卓へ戻し、まっすぐこちらを見た。
「そのつもりで相談していいなら、先方へ尋ねよう」
「ええ。私は行ってみたいわ」
母上がそのやり取りを聞きながら、茶器を置いた。
「マティルデ。訪問できるなら、何を見たいか考えているの?」
「ヨハン殿下と、もっと普通にお話ししたいわ。婚礼の日は馬のことを話して楽しかったけれど、あの方がいつも何を考えて、どんなふうに一日を過ごしているのか、まだ知らないもの」
「王太子殿下なら、公務の日もあるでしょうね」
「その日は別のところを案内してもらえないかしら。王宮の厩舎とか、町の様子とか。ずっと宴席にいるだけじゃ、暮らしぶりまでは分からないでしょう?」
「厩舎か。そこはマティルデらしいな」
「兄上だって、知らない馬がいたら見たいでしょう」
「そりゃ見たいけど」
母上が笑った。
「町を見られるかどうかも、先方のご都合次第よ。でも、何を希望するかは伝えられるわ」
「それならお願いしたいです。長く滞在できるなら、王宮の外も少しは見てみたい」
「分かった。滞在中にどんな予定を組めそうか、先方へ尋ねるよ」
母上はマティルデへ視線を向けた。
「それから、誰を一緒に連れていくかも考えましょう。あなたにも相談に加わってもらうわ。慣れた侍女もいた方が落ち着くでしょうし」
「はい。私からも、お願いしたい人を考えておきます」
「母上、随員のことはお願いしてもいいですか」
「ええ。向こうの受け入れ方を確かめながら、こちらで話し合いましょう」
「ありがとうございます」
マティルデは卓に置いた書状へ、もう一度目を落とした。
「アルネシュタットまで、馬車で行くのよね。道中も長そう」
「王都までの道を使うからね。途中で休む場所も考えておくよ」
「それなら、旅の途中の景色も楽しみだわ」
書状を読む前より、マティルデの声が弾んでいる。母上がそれを見て微笑んだ。
「出かけると決まったら、衣装のことも相談しましょう。まずは訪問を希望すると伝えましょう」
「はい。でも、楽しみにしているくらいはいいでしょう?」
「もちろん」
母上が答えると、マティルデは笑った。
部屋を出てから、ルーカスに外交担当への伝言を頼んだ。王女本人が訪問を希望していることを伝え、翌朝までに返書の文案を用意してもらう。
その日の夕食は、ゾフィーの部屋で一緒に取った。
出産からしばらくたち、ゾフィーは体調のよい時間に椅子へ移るようになった。長く起きていると疲れるので、食事の席も居室に整えてもらっている。侍女が椅子の背に掛け布を置き、冷えないようにしていた。
俺が着いたとき、息子のユリウスは籠の中で眠っていた。名付けたのはゾフィーで、俺もすぐに賛成した。
「今日は、ずいぶん遅かったですね」
「母上とマティルデのところに寄っていたんだ。セレーンから返事が来たから」
「まあ。何と?」
「王族同士の交流を進めることには前向きだって。マティルデも、向こうへ行ってみたいとはっきり言ったよ」
ゾフィーは手にしていた匙を置いた。
「それなら、よかったですね。マティルデはお相手のことを、もう少し知りたいと言っていましたものね」
「うん。母上と具体的な訪問の仕方を相談することになった」
「楽しみにしているでしょうね」
「それはもう。馬車の旅の話になると、声まで弾んでいた」
「ふふ。馬に乗るお話もしていたんですか」
「もちろん。けど、それだけじゃなかったよ」
マティルデが何を気にしていたかを話すと、ゾフィーは頷きながら聞いていた。
「知らないところへ嫁ぐかもしれないのですから、会えるうちに会った方がいいと思います」
「君も、そうだった?」
「私はあなたと何度もお話しできましたから。結婚してから知ったことも、たくさんありますけれど」
「……例えば?」
「今、そのお話を始めたら夕食が終わりませんよ」
「そんなにある?」
ゾフィーは答えずに笑った。反論しようにも、結婚前の俺が今とまったく同じだったと言い切る自信はない。
「訪ねる機会ができたら、どんな話をして帰ってくるだろうね」
「きっと、私たちが思いつかなかったことも聞いてくれますよ」
そのとき、隣の籠から細い声がした。
ゾフィーはすぐに顔を向け、俺も椅子を引いた。子どもが身じろぎし、寝具の端から片方の手を出している。
「ユリウス、起きたかな」
「みたいですね」
侍女が近づき、産婆へ声をかけに行く。俺は椅子を寄せて籠を覗いた。
「おはよう、という時間じゃないな」
「この子には関係ないのでしょうね」
息子はもう一度声を出した。
「抱いてもいい?」
「ええ。座って、ちゃんと首を支えてくださいね」
「分かってるよ」
ここ何日かで、最初の頃よりは落ち着いて抱けるようになった。俺は椅子に座ったまま、籠の中の子の首と背を支えてそっと抱き上げた。子どもはしばらく顔をしかめ、それからまた目を閉じた。
「寝るのか」
「きっと、すぐには寝ませんよ」
ゾフィーの言葉どおり、少しするとまた声を上げた。しばらくあやしていると産婆が戻ってきて、布を替えたいと申し出た。俺は首を支えたまま、その腕へ子どもを渡した。
卓に戻ると、料理は少し冷めていた。ゾフィーがこちらを見て笑う。
「食べましょうか」
「そうだね」
まだ温かいものは、そのまま食べられた。冷めた皿だけを下げ、給仕の者が新しい料理を持ってきてくれる。
今日の返書について、ゾフィーはそれ以上細かなことを尋ねなかった。代わりに、マティルデが旅へ出ることになったら、使い慣れたものを何か持たせてあげたいと話し始めた。
「出発する日が決まったら、一緒に考えてやってくれる?」
「もちろんです。あの子なら自分で欲しいものを選びそうですけれど」
「そうだな。それもそうだ」
食事が終わるまでに、マティルデの荷物の話から、子どもの寝具の話へ移った。ゾフィーは寝具の布の厚さが気になっていたらしく、侍女を呼んで、洗い替えも含めて見せてほしいと頼んだ。
翌朝、外交担当の官吏が、セレーンへの返書の骨子を持ってきた。
エドヴァルト国王への謝意に続き、王族訪問の時期や滞在期間、随員の人数について相談したい旨が記されていた。
俺はそれを読み、いくつか言葉を直した。
「本人が訪問を望んでいることは、はっきり書こう」
「承知いたしました」
「それから、具体的な日取りはこちらだけで指定しないでください。王太子殿下の予定もあるだろうから」
「滞在期間と併せ、候補を照会する形でよろしいでしょうか」
「ええ。それでお願いします」
官吏は文書を持って退出した。昼前には清書が戻り、俺は目を通して署名した。相手国への礼に続いて、マティルデが訪問を希望していること、王太子の予定に差し支えない時期や滞在の形を相談したいことが記されている。
「これで送ってください」
「承知いたしました。本日の使者に託します」
官吏は署名した書状を受け取り、封印のために持ち出した。
机の隅には、競走主催家から届いた案内も置いてあった。そちらへの礼状は、ルーカスに手配を頼んである。向こうから新しい知らせが来るまで、厩舎では騎乗者の候補を確かめていくことになる。
窓の外では、庭の片側に日が当たっていた。陰になった地面には薄く霜が残っている。廊下の先から馬車の車輪の音が聞こえた。
午前の面会を終えて執務室に戻ると、ルーカスが使者の出発を知らせてくれた。
「セレーンへ向かう使者が、書状を携えて出発いたしました」
「ありがとう。マティルデにも、今日出したと伝えておいてくれる?」
「かしこまりました」
ルーカスが扉へ向かい、俺は次の書類を手に取った。そろそろ昼の予定が始まる。
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