第23話
主要路が再開してから、およそ2か月半が過ぎた。その間、ローデンベルクとの間で大きな衝突は起きていない。王家の封印を施した公用荷も通っているし、必要な物資も動いている。もちろん何もかも事件前と同じ、というわけではないだろうが、少なくとも街道は街道として働いていた。
そして今、残っていた通行権と検査権の本案を審理するために、俺はヴィーネンへ来ていた。
帝国首都が近づくにつれて、街道の様子は目に見えて変わった。最初に増えたのは荷車だった。干し草や樽を積んだもの、布を幌の下まで詰め込んだもの、箱を縄で何重にも縛ったもの。荷車同士を追い越すために騎手が脇へ寄り、その向こうから今度は旅客用らしい馬車が来る。
城壁が見える頃には、進んでいるのが街道なのか、長い列の隙間なのか分からなくなっていた。
「これ、全部中へ入るんですか」
向かいに座る外交担当者へ聞くと、彼は窓の外へ目をやった。
「全部ではありません。城壁外にも倉庫や宿、厩舎がございます。荷を下ろしてから入る者もおりますし、そのまま別の道へ抜ける商人もおります」
「それでも多いですね」
「本日は、まだましな方でしょう」
まだまし。もう1度外を見た。ファルケンマルクの王都だって小さな町ではない。俺も16年生きてきて、さすがに自国の中心がどんなものかは知っている。
それでもヴィーネンは、単純に大きいというだけではなかった。門を抜ける前から、人の目的が多すぎる。商売に来た者。役所に用があるらしい者。旅装のまま従者を連れた貴族。揃いの上着を着た一団。言葉の響きも服の形も少しずつ違う。こちらの馬車の紋章を見て道を譲る者もいれば、そもそも気にしていない者もいる。
中へ入れば、さらにすごかった。石造りの建物が何棟も連なり、広い通りから細い通りが何本も枝分かれしている。店の前では荷が運び込まれ、その横を役人らしい男が書類を抱えて急ぎ足で抜けていく。大きな門の前には別々の紋章が掲げられ、護衛の立つ建物も一つや二つではない。
「あれは?」
「帝国中央の官庁です。その先が法廷関係の建物。右手に見える一角には、諸侯や外国の公館が集まっております」
説明を聞いた直後、ちょうど見慣れない紋章を付けた馬車がそこへ曲がっていった。
なるほど。
皇帝がいるから首都なのではない。いや、もちろん皇帝がいるのは大きい。だが、それだけなら宮殿と役所が大きければ済む。ここには、帝国中で何かを決めたい人間が集まっている。
裁判をしたい者。許可が欲しい者。訴えたい者。売りたい者。買いたい者。誰かに会いたい者。その相手へ会わせてくれる誰かを探している者まで、多分いる。
人が集まるから金と荷が集まり、金と荷が集まるからまた人が来る。馬車が1度止まった。前で荷車が曲がり切れず、御者同士が何か怒鳴り合っている。その脇では、店先から出てきた少年が籠を抱えたまま器用に人の間を抜けていった。
帝国政治の中心、という言葉から想像していたより、ずっと普通に生活している街だった。同時に、普通に生活している人間の数が多すぎる。
「殿下。公館までもう少しです」
「ああ」
返事をして座り直した。観光に来たわけじゃない。俺は国王代理だ。その言葉が、ヴィーネンに入ってから急に重くなった気がした。
ファルケンマルクの常設公館へ着くと、休む間もなく仕事が始まった。正確には、俺が着く前からずっと始まっていたらしい。玄関を入ったところで出迎えを受け、そのまま奥へ通される。廊下では書類を抱えた者とすれ違い、別室からは低い話し声が聞こえた。俺たちの一行の荷を運ぶ使用人の横を、公館付きの書記が早足で通り過ぎていく。
部屋に入ると、机の上にはすでに法廷へ提出された資料の写しが並べられていた。
「本日のうちに、要点だけ確認させてください」
同行の法務担当者が言った。
「お願いします」
椅子へ座る。旅の疲れはある。だが、明日は皇帝への謁見、その後は法廷の日程も詰まっている。正直寝て休憩したいという気持ちもあるが、そんなことはいってられない。
法務担当者は、事件そのものから話を始めなかった。問題の中心は、もっと古いところにある。ファルケンマルクにはローデンベルク領内を通る古い通行権がある。王家の封印を施した公用荷も、その権利の下で長く通ってきた。
対してローデンベルクには、自領内の安全を守る権利がある。言葉にすると、どちらも当然だった。自分の荷を勝手に開けるな。自分の領地を何が通るか全く口を出せないのは困る。
問題は、その二つが同じ街道の上に乗っていることだ。
「先方が主張しているのは、領内安全保障権を根拠とする確認権です。ただし、現在の主張でも、事件直後の条件そのままではありません」
法務担当者は1枚の紙を指した。
「一般公用荷について恒常的に開封できる、という線はかなり後退しています。争点は主に、軍事輸送と疑義が生じた場合の扱いです」
「軍事輸送は、どこまでですか」
「そこが重要です。鉄、革、布、医療用品。これらは軍でも使えます。しかし、それを理由に軍事輸送と扱えば、ほとんど何でも該当します」
「ですよね」
鉄を運んだら軍事輸送。革を運んだら軍事輸送。布も薬もそうだと言い出したら、王家の荷を止める理由なんていくらでも作れる。それでは検査権を断った意味がない。
「我々としては、部隊の移動に伴う兵器、軍用装備、その他、用途が明白なものへ限るよう求めています。その場合の事前通知まで一切拒絶するかどうかが、殿下にご判断いただきたい点の一つです」
まだ答えなかった。
「疑義がある場合は?」
「封印に異常がある、通知内容と実際の荷姿が具体的に食い違う、その他、客観的な理由がある場合に限って一時停止。確認は双方立会い。包括的な荷改めは認めない。これがこちらの線です」
「事件の時の閉鎖は」
「直後の安全確保と調査に必要な期間については、適法とされる可能性が高いと見ています。ただし、新しい検査条件を受け入れるまで道を閉じ続けてよい、という話にはなりません」
法務担当者はそこで1度言葉を切った。
「また、最初に誰が殺傷行為へ出たのか、各死者が具体的に誰の行為で死亡したのかについては、共同確認でも確定しておりません。双方の行動に衝突を拡大した点はありますが、一方の計画的攻撃として処理する材料も不足しています」
事件の報告を最初に読んだ時の、腹の底が熱くなる感じを思い出した。こちらの人間が死んだ。道を塞がれた。だったら兵を動かして圧力をかければいい。
あの時は、かなり本気でそう考えた。皇帝から自制を求められ、仲介が始まって、俺は案を引っ込めた。今になってみれば、それで主要路は2か月半動いている。もし本当に兵を動かしていたらどうなったのかは分からない。
「明日の審理では、殿下に法理を説明していただく必要はございません」
法務担当者が続けた。
「そこは我々の仕事です。殿下には、王国としてどこまでを争い、どこなら受け入れられるか。その政治的な線をご判断いただきます」
「分かりました」
今度はすぐ答えた。全部自分でやる必要はない。というより、法律の専門家でもない俺が全部口を出したら邪魔だ。父上が俺を送ったのは、法務官の代わりをさせるためじゃない。
国王の代理として、最後にどこを選ぶかを決めさせるためだ。それはそれで、十分重かった。
翌日、皇帝マクシミリアンに謁見した。60歳を過ぎていると聞いていたから、もっと老いた人を想像していた。実際、髪にはかなり白いものが混じっている。目尻にも皺がある。
だが、姿勢は崩れていなかった。こちらが礼を終えると、皇帝は俺をしばらく眺めてから口を開いた。
「遠路ご苦労だった、レオンハルト殿。アウグスト陛下にも、よろしく伝えてほしい」
「ありがとうございます、陛下。父上より、今回の仲介への謝意を申し上げるよう預かっております」
「道が動いたことが何よりだ。閉じた街道というものは、当事者が思うより多くの者を困らせる」
その言葉に、昨日見た荷車の列を思い出した。ファルケンマルクとローデンベルクだけの道ではない。当然のことなのだが、ヴィーネンまで来ると、その当然が急に具体的になる。
主要路が再開してからの状況、道中で問題がなかったか、父上の様子。そういった話をしたあと、話題は俺自身へ移った。
「国王代理として帝国法廷へ出るのは、初めてだったな」
「はい」
「アウグスト陛下も、思い切ったことをなさる」
どういう意味だろう。16歳の息子を出したことか。それとも、王太子に実際の妥協を決めさせることか。多分、両方だ。
「父上からは、専門家の話をよく聞いた上で、自分で判断するようにと言われております」
「それはよい」
皇帝はわずかに頷いた。
「知らぬことを知らぬまま決めるのも困るが、知る者へすべて決めさせるのもまた違う。国王は法務官ではないからな」
「耳が痛い話です」
「今のところは、痛む耳があるだけ結構だ」
真面目に返すべきか迷った。皇帝の顔を見ると、口元がほんの少し緩んでいた。冗談だったらしい。俺もそれ以上固くならずに済んだ。
その後、皇帝は帝国内のいくつかの話題に触れた。誰が最近ヴィーネンへ来たとか、どこで代替わりが近いとか、そういう話だ。俺に直接関係があるものもあったが、今のところほとんど関係ないものの方が多い気がする。最初は理由を探していた。
事件の話だけで終わらないのはなぜか。何を聞き出したいのか。こちらに何を約束させたいのか。だが、しばらく話しているうちに、少し見え方が変わった。
今すぐ何かを決めたいわけではないのかもしれない。父上の次にファルケンマルク王になる人間が、どんな話をして、何を知っていて、何を知らないのか。それを今のうちに知っておきたい。そんな雰囲気を感じた。
皇帝位は世襲ではない。いずれ選挙がある。そして俺は、将来その時に票を持つ立場になる。
今この場で票の話など一言も出ていない。それでも、関係そのものはその時になって突然生えるものではない。選挙の直前だけ笑顔で挨拶に来るより、10年前から顔を知っている方がいい。前世の選挙だって、投票日の1週間前だけ人と会って全部決まるわけじゃなかった。会社同士の取引でも、契約書に判を押す日に初めて相手を知るわけではない。
前世の限られた人間関係と比べると遙かにめんどくさい。
そして、その面倒なことを皇帝は平時からやっている。
謁見を終えて廊下へ出たところで、別の一団とすれ違った。俺たちとは違う紋章を付けた者たちが、案内役に従って奥へ向かっていく。皇帝は今日、俺と話すだけではない。
当たり前だが、妙に印象に残った。
帝国法廷の審理は、思っていたより静かだった。怒鳴り合いもなければ、誰かが決定的な証拠を机に叩きつけることもない。もちろん「異議あり!!」みたいに格好つけながら発言することもない。提出済みの文書があり、双方の法務担当者が順番に立ち、過去の取り決めや慣行を説明する。審理側から確認が入り、それに答える。
俺の出番は少ない。ファルケンマルク側は、古い通行権が実際に行使されてきたこと、王家封印公用荷に一般的な検査を受けさせる慣行は成立していないことを主張した。ローデンベルク側は、自領内で軍事上の危険を無制限に受忍する義務まで通行権から導くことはできない、と主張した。
聞いていて腹が立たなかった、と言えば嘘になる。事件のあと、道を閉じられたのはこちらだ。だが、ローデンベルク側の言っていることが全部めちゃくちゃかというと、そうでもない。仮に立場が逆ならどうか。
ファルケンマルク領内を、隣国の兵器を積んだ荷車が何十台も通る。しかも何を運ぶか一切知らせる必要はなく、こちらは止めることも確認することもできない。それを古い権利だから黙って通せと言われたら、俺だって嫌だ。問題は、嫌だから何でも開けていい、にはならないことだった。
審理側もそこを繰り返し確認していた。軍事転用できる物と、明白な軍事輸送は同じなのか。通知と異なる疑いがある時、何をもって疑いとするのか。封印公用荷を止められるなら、どれだけの時間が許されるのか。
事件直後の閉鎖と、その後に新条件を呑ませるための閉鎖を同じものとして扱えるのか。一つ一つは細かい。だが、細かいところを曖昧にすると、次に揉めた時はそこから全部広がる。
午前の審理が終わり、公館へ戻ると、昼食を取りながら代表団内で協議をした。食べながらでいいのかと思ったが、午後まで時間がない。温かい料理が運ばれてきても、机の端には書類が残ったままだった。
「最大限を申し上げれば、通知義務そのものを否定する余地はあります」
法務担当者が言った。
「通行権の長年の行使を重く見せ、これまで求められていなかった新しい負担だと主張することはできます。しかし、その場合、領内安全保障についてローデンベルク側へ認められる権限がほとんどなくなり、こちらの主張が強すぎる形になります」
彼はそこで水を一口飲んだ。
「特に、用途が明白な軍事輸送まで何の通知もなく通せる、というところまで権利の内容として認めさせられるかは不確実です。仮にそこへ強く固執すれば、審理側がローデンベルクの確認権をより広く書く余地も出ます」
外交担当者は、別の角度から話した。
「法廷の外も考える必要がございます。周辺諸侯の多くは、一般公用荷への恒常検査には警戒しております。自分たちも同じことをされかねませんから」
「でも、軍事輸送は違う」
「はい。自領を通る明白な軍事輸送について、事前に知らせろという要求まで一切認めないとなれば、こちらの権利主張の方が強すぎると見る者は増えるでしょう」
2人とも、俺に答えを言わない。
当然だ。
法務担当者は、何を主張できるかと、その結果どんな判断が出る危険があるかを示す。外交担当者は、その主張が外からどう見えるかを示す。最後にどこを取るかは、俺の仕事だった。皿の上の肉を1切れ食べた。
少し冷めている。
考える。
欲しいものは、一般公用荷を勝手に開けられないことだ。それが崩れると、王家の輸送は今後ずっとローデンベルク側の裁量にさらされる。合理的な理由もないのに止められるのも困る。一方、明らかに兵器や部隊用の装備をまとめて運ぶ時、事前に知らせること自体でこちらが失うものは何だ。
奇襲するつもりなら困る。……いや、そんな前提で通行権を守ろうとする方がおかしい。ローデンベルクと戦争をする時に、相手の領内を堂々と通って兵器を運びたいから通知義務は嫌です、とは言えない。それ以外なら、通知の手間は増える。
情報も渡る。だが、「軍事転用できる荷物」を全部軍事輸送扱いさせない線を明確にできるなら、一般公用荷を守る方が大きい。
「限定通知までは争いません」
2人がこちらを見た。
続ける。
「ただし、対象は明白な軍事輸送だけです。鉄や革、布、医療用品を、軍でも使えるという理由だけで通知対象にはしない。通常の王家封印公用荷について一般的な検査権も認めない」
法務担当者が頷く。
「疑義がある場合の停止は、客観的な理由が必要。確認するなら双方立会いで必要な範囲だけ。無期限に止めるのも駄目です」
「事件直後の一時閉鎖については?」
少し考えた。
そこまで全部違法だと言い張って、本当に得るものがあるだろうか。死者が出た直後だ。安全確認も調査もせず翌朝から通常運行しろ、という方が無茶だ。
「安全確保と調査に必要な一時閉鎖までは争いません。ただ、それを新しい検査条件を受け入れさせるために続けられる権利にはしないでください」
「承知しました」
外交担当者が尋ねた。
「事件の責任については」
「共同確認で分からなかったものを、ここでどちらかの計画的攻撃に決める必要はないと思います。双方に拡大させた行動があったというところまでで」
口にしてから、少し苦いものが残った。死者が出たのに、誰が最初だったか確定しない。直接誰が誰を殺したかも、全部は分からない。
すっきりしない。
だが、すっきりするためだけに事実を作るわけにはいかない。法務担当者は書き留めた内容を読み返し、確認した。
「では、その線で午後の対応を整えます」
「お願いします」
使用人が空いた皿を下げ、別の書記が新しい紙を持ってくる。それで午後の審理へ戻った。
ヴィーネン滞在中、アマーリエ殿下とは小規模な接遇の席で初めて会った。皇帝の娘で、17歳。3年ほど前に兄を亡くしてから後継者として本格的に育てられているらしい。
初めて会ったとき、蜂蜜色に近い金髪と青灰色の目がまず目に入った。顔立ちは凜々しく、背も少し高い。前世では画面越しでしか見たことがないような美女だった。
とはいえ、相手は皇帝の娘だ。何かしらの政治的要素がこの面会にはあるはずだ。気をしっかり持たなくてはいけない。
「初めまして、レオンハルト殿下。ヴィーネンは初めてとうかがいました」
「はい。アマーリエ殿下。昨日着いたばかりです」
「では、まだ道に迷ってはいませんか」
一瞬、質問の意味を考えた。
「今のところは。公館と宮廷と法廷の往復しかしていないので」
「それなら、まだですね」
何がまだなのか。そう思ったら、アマーリエ殿下はとても可愛らしい笑顔を見せながら少し楽しそうに続けた。
「私は子どもの頃から住んでいますが、それでも使わない地区へ行くと迷います。初めての方が迷わない方がおかしいです」
なるほど。
政治的な探りではなかった。多分。
「では、迷ったらヴィーネンのせいにしておきます」
「ええ。案内役のせいにすると後で気まずいので、その方が安全です」
見た目のイメージより可愛らしい方だった。
「法廷はいかがですか」
アマーリエ殿下が尋ねた。
「思ったより静かでした」
「静か?」
「もっと……揉めるものかと」
口にしてから、説明が雑すぎた気がした。だが彼女は首を傾げただけだった。
「揉めてはいるのではありませんか?」
「揉めています。書類で」
今度は意味が通じたらしい。
「それは、静かそうですね」
「かなり」
ただし、静かなまま国と国の通行条件が決まる。そう考えると、剣を抜くより軽いとはとても言えない。近くでは、別の客同士が話している。給仕が杯を交換し、少し離れたところでは年配の男が若い随員へ何か耳打ちしていた。
アマーリエ殿下はそちらへ1度視線をやり、それから俺へ戻した。
「父から、レオンハルト殿下は国王代理として来られたとうかがっています。ご自身で決めなければならないことも多いのでしょう」
「最後の線は、私が決めます。法律の話そのものは、法務の者に任せています」
「全部お一人で分かる必要はないのですね」
「無理だと思います」
「安心しました」
なぜ安心するんだ。顔に出たのか、彼女はすぐに理由を付け足した。
「私も、今教わっていることを全部自分一人で分かれと言われたら困りますから」
「ああ」
それならよく分かる。後継者教育を受けているのは知っている。彼女は、そのことを特別な苦労話にするでもなく言った。
「でも、最後に何を選ぶかは、自分の責任になるのでしょうね」
「たぶん」
「たぶん、ですか?」
「まだ国王になったことがありませんので」
アマーリエ殿下は1度目を瞬いた。
「ふふっ。たしかにそれはそうですね」
楽しそうに彼女は少し笑った。なかなかの破壊力を持った可愛らしい笑顔に、少しつられて照れ笑いをしてしまった。
「ヴィーネンへ来て、少し驚きました」
俺は話題を変えた。
「人の多さですか?」
「それもあります。でも、公館があれだけ集まっていて、使節や役人が普通に行き来していることの方が」
「ファルケンマルクでは、あまり見ませんか?」
「公館も使節もいます。でも、あれだけ集まっているのを見るのは初めてです」
「ヴィーネンは、そういう人たちが集まるための街でもありますから」
アマーリエ殿下はそう言って、近くを通った給仕へ杯を預けた。
「父は、何も起きていない時にこそ会っておくことが大切だとよく言います。問題が起きてから初めましてでは、話を始めるところから時間がかかるから、と」
皇帝らしい。昨日の謁見を思い出した。俺と話した後にも別の一団が待っていた。
「それで、私とも会うことになったんでしょうか」
聞くと、アマーリエ殿下は少し考えた。
「それもあると思います」
否定しない。
「でも私は、どんな方なのか普通に気になっていました。ローデンベルクの件で、ファルケンマルクの話を聞く機会も増えていましたし」
「私も、アマーリエ殿下のお名前は存じていました」
「では、これでお互いに顔も分かりましたね」
「はい」
それだけ言ったところで、別の人物がアマーリエ殿下へ挨拶に来た。彼女は相手の名を呼び、以前聞いたらしい家族の話を短く尋ねる。俺は少し離れた。誰にでもああなのだろう。
少なくとも、俺だけに向けた特別な愛想ではない。それでも、人の名前と事情を覚えて、次に会った時にそこから話せるのは強い。人気取りの技術に見えないところが、なおさら。自分に同じことができるかと考えて、すぐには答えが出なかった。
法廷の判断が示されたのは、それから数日後だった。大筋は、こちらが代表団内で決めた線に近かった。ファルケンマルクの古い通行権は認められる。王家封印の通常公用荷について、ローデンベルクが一般的、恒常的に検査する権利はない。一方的な開封も認められない。
その上で、明白な軍事輸送については、ローデンベルクの安全保障上の利益も認められ、必要な範囲の事前通知を受けられる。鉄や革、布、医療用品など、軍事転用が可能というだけの物資を一律に軍事輸送とはしない。通知との具体的な不一致、封印の異常など、客観的な理由がある場合には一時停止を認める。ただし確認は双方立会いで必要な範囲に限る。無期限の足止めや、包括的な荷改めは認めない。
事件直後の一時閉鎖については、安全確保と調査のための措置として認める。しかし、新しい検査条件を受け入れさせるまで閉鎖を続けられる、とはしない。そして事件そのものについては、双方の行動が衝突を拡大した点は確認しつつ、最初の殺傷行為と各死者の直接原因までは確定しない。一方が計画的に攻撃を始めた事件としても扱わない。
全部を聞き終えた時、勝った、とは思わなかった。負けた、とも違う。欲しかった線の大部分は守れた。だが、こちらの言い分だけがそのまま権利になったわけではない。
ローデンベルクにも守られたものがある。それで街道は動き続ける。多分、それが一番大きい。
公館へ戻ると、すぐに本国へ送る報告の準備が始まった。判断文の写しを整える者、要点を抜き出す者、使者の出発時刻を確認する者。俺たちが法廷で判断を聞いていた間にも、街道では荷車が走っていた。
あれだけ揉めた末に欲しかったものは、結局これなのだと思った。権利について言い勝つことより、街道が使える状態を続けること。そのために、軍を動かす以外の手も実際に働いた。
帰国前、皇帝へ挨拶する機会があった。マクシミリアンは法廷の判断について、満足かとも、不満かとも聞かなかった。
「これで終わりではない」
そう言った。一瞬、次の揉め事の話かと思ったが、続きは違った。
「判断が出れば、今度はそれを双方が守る仕事が始まる。紙に書いた境界は、人が扱わなければただの線だ」
「はい」
「とはいえ、線がないよりはずっとよい」
その言い方には同意できた。俺は、仲介への礼と帰国の挨拶を述べた。皇帝は父上へ言葉を託し、最後にこう言った。
「次にヴィーネンへ来る時は、法廷以外の用件だとよいな、レオンハルト殿」
「私もそう願います、陛下」
本気でそう思う。この街へ来るたび裁判では困る。今回はかなり慌ただしかったので、次回はもっとゆっくり街並みを楽しみたい。
帰路、馬車の窓から街道を眺めた。ヴィーネンから離れていくにつれて、荷車の数は少しずつ減っていく。それでも道は続いている。この道のどこかで分かれ、別の領地へ入り、また別の町へつながっていく。
今回、俺がしたのは、王国がすでに持っていた手の中から一つを選ぶことだった。最後にどこまで譲り、どこを守るかは決めた。でも、その選択肢自体を用意したのは俺ではない。
前世で遊んだ戦略ゲームなら、条件を満たしていない選択肢は最初から選べないようになっていた。現実にはそんな表示はない。必要になった時になって初めて、その手を持っていなかったと分かる。
それは嫌だった。
国を強くしたい、という考え自体は前からあった。けれど今回、その「強い」が少し具体的になった気がする。戦になれば勝てる、というだけではない。揉めた時に、軍を動かす以外の手も選べる。争うことも、譲ることも、別の方法を探すこともできる。そして必要なら、動かないことさえ選べる。
危機が起きてから上手く選ぶだけではなく、何も起きていない時から、選べる手そのものを増やしておく。
俺が王になれば、それも仕事になるのだろう。
そう考えた時、面倒そうだと思うより先に、やってみたいと思った。受け継いだものを使うだけではなく、自分の代で増やしてみたい。何を整え、どこへ人を置き、誰と関係を作るのか。その積み重ねで、国が取れる手そのものを変えていく。
国に必要なことだと思う。
それと同じくらい、俺自身がやってみたい。
自分なら、どこまでやれるだろう。
強い国が欲しい。
できるなら、自分で作ってみたい。




