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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第2章 王太子から国王へ

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第21話

マティが馬を止めたところで、厩舎の軒先から1羽の鳥が飛び立った。


蹄が土を2度掻き、ようやく止まる。乗っている本人は満足そうに胸を張ったが、馬のほうは何事もなかったように耳を動かしている。


「兄上。今の、見てた?」


「見てたよ」


「どうだった?」


12歳になった妹にこう聞かれると、適当に「上手だった」で済ませにくい。


昔なら、それで喜んでくれた気もする。今はたぶん駄目だ。


俺が少し考えている横で、柵にもたれていたハインが先に口を開いた。


「前より止まるの早かった」


マティが鞍の上から弟を見る。


「ハインには聞いてないわ」


「聞かれてないけど、兄上が考えてたから先に言っただけだよ」


「それを余計って言うの」


「でも、前より止まるのが早かったのは本当だよ」


「本当でも、言わなくていい時があるの」


「本当じゃないことを言う方が駄目でしょう」


マティの眉が寄った。


前なら、姉に睨まれればもう少し早く引いていた気がする。最近は、自分に理屈があると思うと、そのまま言い返す。


9歳を過ぎて、口だけはずいぶん達者になった。


面倒な方向へ育っている。


いや、たぶんこれが普通なんだろうけど。


「ぼくも、止まるのはさっきより良かったと思うよ」


2人の視線がこっちへ来た。


「それと、曲がる時に前ほど外へ広がらなかった」


「ほら」


なぜかハインが得意そうに言う。


「兄上が言ったのでしょう。ハインじゃないわ」


「同じこと言ったよ」


「兄上が言うのと、ハインが言うのは違うの」


「何が?」


「……今それを説明する気はないわ」


説明できないだけじゃないだろうか。


口にすると俺まで巻き込まれそうなので黙っておく。


調馬場の向こうでは、別の馬が厩務員に引かれて厩舎から出てきた。馬丁が片脚ずつ持ち上げて蹄の裏を確かめ、その脇を、鞍を抱えた若い使用人が通っていく。木柵の外では小さな荷車から干し草の束が下ろされていた。


少し前まで、マティが馬に乗ると聞けば、落ちないかとか、馬が急に走り出さないかとか、そっちが先に気になっていた。もちろん今だって怪我をしてほしくはないが、もう手綱を握らせてもらって喜ぶ年齢ではない。


馬に乗っている時のマティは昔から分かりやすい。上手くできれば機嫌がいいし、できなければもう1回やりたがる。ただ、今の妹の一日は馬だけで終わらない。この後も着替えれば王女としての勉強があるし、母上について客の席へ出ることも前より増えた。


ハインは、今のところ姉ほど馬そのものに夢中ではない。厩舎へ来ても、乗ることより、柵の内側を歩く馬の脚や、馬丁が締め直している革具のほうをじっと見ていることが多い。そして気づいたことがあると、頼まれていなくても口を挟む。


「兄上、もう1回やるから見ていて」


マティが言った。


「まだやるの?」


「まだ終わってないもの」


「ぼくは少し見るだけって聞いて来たんだけど」


「少しでしょう?」


この辺の『少し』は人によって長さが違う。


「兄上、さっきから3回目だよ」


ハインが余計なことを言った。


マティが弟を睨む。


「数えなくていいの」


「暇だから」


「じゃあ厩舎を見てくれば?」


「勝手に入ったら怒られるよ」


それはそうだ。


俺は笑う代わりに柵から背を離した。マティが手綱を整え、そばに立っていた指導役らしい騎乗係が馬の首元へ手を添えて何か短く伝える。こちらに聞かせるためではない、小さな声だった。


マティが馬を歩かせる。


土を踏む蹄の音が一定になり、やがて少し速くなる。裾が揺れ、馬具の金具がかすかに鳴った。


俺は今度こそちゃんと見ることにした。


速歩から速度を落とし、木柵に沿って回る。さっきより馬の頭が内へ向き、マティの身体も大きく崩れない。


なるほど。


これなら、何が良くなったか聞かれても少しは答えられる。


その時、厩舎の向こうで白い光が瞬いた。


1度。少し間を置いて、また。


昼間でも見落としにくい、輪郭のはっきりした光だった。王宮外郭の西側に立つ塔の上で、同じ明滅が何度か続く。


俺がそちらを見たのと、門側にいた護衛の1人が顔を上げたのはほとんど同時だった。


「兄上」


マティも馬を止めた。


「あれ、信号?」


「たぶん」


普段の連絡で、あんな出し方はしない。


光魔法を使った遠距離の信号だ。王都や主要都市、要塞、街道沿いの高台には、人が詰める信号所がある。


ただし、光で文章を送っているわけじゃない。


発信地を示す符号と、あらかじめ決められた短い意味を、次の信号所が読み取って、そのまた次へ送る。火災。武力衝突。死者。街道閉鎖。増援要請。そういう、急いで知らせる価値があって、しかも意味を短く決めておけるものだ。


主要な信号路が無事なら、馬で何日もかかる場所からでも、速報だけなら数時間から半日ほどで届くことがある。


便利だ。


その代わり、詳しい事情は送れない。そういう話は結局、紙に書いて封をして、人が運んでくる。


帝国中が1つの仕組みでつながっているわけでもない。領邦ごとに運用は違う。ただ、主要街道では基本的な緊急符号を引き継げるようにしてある。天候が悪ければ光は届かないし、中継所が止まれば、そこから先はまた馬だ。


「何かあったの?」


マティが聞いた。


「信号だけじゃ、ここからは分からないよ」


そう答えたところで、王宮側からこちらへ向かってくる人影が見えた。


ルーカスだった。


歩き方で、だいたい分かった。


「殿下」


いつものように一礼してから、ルーカスは俺を見る。


「陛下がお呼びです。西方から緊急信号が入りました」


西方。


その言葉だけで、頭の中にいくつかの案件が浮かんだ。


通行許可。検査。書類の差し戻し。積荷の確認。第三者領邦をまたぐたびに増える手続。


面倒ではあるが、どれもこれまでは人が書類を持って行き来し、荷車が何日か余計に止まる種類の問題だった。


「すぐ行く」


ルーカスが頷く。


マティが馬上から俺を見ていた。


「稽古は?」


「続けてて。今のは前より良かった。さっきより外にも膨らんでなかったよ」


「もう行くの?」


「父上に呼ばれたから」


マティは信号塔の方を1度見て、それから少しだけ口を尖らせた。


「……それなら仕方ないわ。でも、戻ったらもう1回見て」


「時間があればね」


「さっき『少し見る』って言ったでしょう」


まだ数えているらしい。


「分かった。戻れたら見るよ」


それでようやく、マティは手綱を握り直した。


ハインはまだ塔のほうを見ていた。


「兄上」


「何?」


「西から来たって、もう分かるんだ」


「発信地も符号で送るからね」


「じゃあ、何があったかも?」


「短いことだけは」


それ以上は、俺だってまだ知らない。


王宮へ戻る途中、さっきまで気にしていたマティの止まり方が、頭からほとんど消えていた。


*


信号所から回された最初の報告は、本当に短かった。


ローデンベルク侯領。主要検査所。


武力衝突。


死者発生。


主要路閉鎖。


至急報告。


そこまでだった。


紙には発信元と中継時刻も書かれていたが、肝心なことはほとんど分からない。


「死者としか分からないのか」


俺が聞くと、カスパルがうなずいた。


「はい。人数も、どちら側かも、この信号では分かりません。現地責任者の封印報告がこちらへ向かっております」


「何が原因で衝突したかも?」


「まだです」


速い代わりに粗い。


さっき頭の中で整理した仕組みを、今度は嫌というほど実感することになった。


死者が出たことは、数時間で分かる。


誰が死んだのかは、まだ分からない。


父上は地図の西側を見た。


「西部側へは、信号で追加の至急報告を求めろ。検査所へ向かっている王家の輸送を止める指示は、正式な文書でも出す」


「承知しました」


「ローデンベルクへは?」


俺が聞く。


「まず事情を確認する。こちらの正式な照会文を急使で出せ。信号だけで法的なやり取りはしない」


父上の返事は早かった。


それは、この通信の限界そのものでもあった。


『主要路閉鎖』は送れる。


『なぜ閉じたのか』『こちらは何を求めるのか』は紙で送る。


別の机では、書記が信号所から来た紙を写し、届け先ごとに分け始めていた。地図の前では西部担当の役人が迂回路を指で追っている。


その日のうちに分かったのは、道が閉じ、人が死んだということだけだった。


翌朝、今度は馬が来た。


王宮へ入る手前から速い蹄音が響き、窓際にいた何人かが顔を上げた。俺も廊下へ出たところで、外郭門を抜けてくる馬が見えた。


胸は汗で濡れ、脚には乾きかけた泥がこびりついている。騎手も似たようなものだった。近くにいた馬丁がすぐ手綱を取り、別の1人が馬の脚を見る。水桶を持って来た若者は、そのまま口元へ差し出さず、いったんそばで止まった。


騎手は馬から降りると、息を整えるより先に革袋から封書を取り出した。


昨日の光が先に運んだのは、事件が起きたという事実だけだ。


その中身が、ようやく紙で追いついてきた。


封印を確かめ、書記が写しを作る。


詳しい報告で見えてきた状況は、最初の信号から想像したより悪かった。


原因は、王家封印のある荷車の開封検査だった。


最近、ローデンベルクは大型輸送への検査を強めていた。武装護衛を伴う荷、鉄製品、そのほか軍用にも転用できる物資についてだ。


今回の隊列には行政文書のほか、鉄製品、革、布、修繕用部品、医療と衛生に使う物資が含まれていた。武器の大量輸送ではない。だが、軍事利用が不可能とも言えない。


「向こうは開けろと言って、こちらは拒否した」


俺が言うと、カスパルが報告書を見たまま答えた。


「はい」


「古い取り決めは?」


机の反対側にいた書記が、束ねた文書をカスパルへ渡した。端が少し擦れた写しだった。


「王家封印を付した公用荷を遅滞させないという根拠にはなります。ただし、それだけで侯領側の治安上の検査権が全て消えると断言できる書き方でもありません」


最悪に面倒なやつだ。


どちらにも、自分が正しいと言える部分がある。


「今までは?」


「封印確認と書類の照合で通すことが多かったようです。必要がある場合も、開封する前に双方の上役へ照会する。少なくとも近年は、その運用で大きな衝突を避けていました」


つまり、条文だけで動いていたわけではない。


古い権利と、現地の検査権と、今まで何となく回してきた慣行。その3つが、今回は噛み合わなかった。


父上が報告書から目を上げた。


「輸送隊の規模は」


「護衛を含めても、軍勢と呼ぶ規模ではありません」


カスパルが答える。


「ただし武装護衛は付いております」


「ローデンベルク側も?」


「検査所の通常の護衛に、増員があった可能性があります。ここはまだ未確認です」


父上はそれ以上聞かなかった。


俺も、この1枚だけで決めるつもりはなかった。


死者が出た。


それは重い。


だが、誰が何をしたのか分からないうちから、向こうが悪いと決めるのは違う。


こちらが先に手を出した可能性だってある。


押し合いになった現場には、武器を持った人間が何十人もいる。そこへ誰かが魔法で相手を押し飛ばせば、周囲には攻撃が始まったように見えてもおかしくない。たった1人の判断で、揉め事が殺し合いに変わる。


「ローデンベルクへ出した照会への返事は?」


「まだです」


父上が報告書を閉じた。


「こちら側の証言だけで結論は出さない。商人や後続の者からも聞き取れ。ローデンベルク側の正式説明も待つ」


「承知しました」


それで会議は終わらなかった。


終われるはずもない。


詳しい紙が届いたことで、分からないことが減った。


同時に、争うべき点は増えた。


*


ファルケンマルク側の死者、1名。


ローデンベルク側の死者、1名。


負傷者は双方合わせて7名ほど。


人数の数え方に少し差があったが、重傷者を含めればその程度らしい。


現地責任者の報告では、数台の荷車に付けられた王家封印をローデンベルク側が問題にした。


開封を求められ、拒否した。


数時間、話し合った。


それでも通行は認められず、ローデンベルク側が荷車の一部を脇へ移そうとした。ファルケンマルク側はそれを差押えと判断して阻止した。


そこから押し合いになった。


「最初の魔法は?」


俺は報告書から目を上げた。


カスパルが別紙を見る。


「こちら側の護衛が使った可能性があります」


部屋の中が少し静かになった。


「可能性?」


「責任者の報告では、ローデンベルク側に掴まれた者を引き離すため、押し返す目的で使ったとあります。殺傷を意図したものではない、と」


「それを向こうは攻撃と見たかもしれない」


「十分あり得ます」


父上は何も言わず、報告書を受け取った。


俺は椅子にもたれた。


こちらが最初に魔法を使った可能性がある。


それだけ聞けば、ローデンベルク側が『先に攻撃された』と言ってもおかしくない。


でも、魔法を使う前に何があったのかが問題になる。人を掴んだのか。荷車を動かしたのか。王家の公用荷を差し押さえようとしたのか。そもそも、それが向こうの権限内だったのか。


1枚の報告書では足りない。


「最初に使われた魔法で、死者が出たのか?」


「その可能性は低いと見られています」


カスパルは慎重に答えた。


「責任者の報告では、最初の魔法は相手を押し返すためのものです。死者が出たのは、その後に双方が武器を抜いてから。ただし、どの攻撃がどちらの死者を出したかまで、この報告だけでは判断できません」


こちらの現場責任者なら、当然こちら側の立場から報告を書く。


悪意がなくても、自分の部下の動きを軽く書くことはあるだろう。


午後になって、検査所の後方にいた商人の証言をまとめた紙が来た。


そちらでは、先に怒鳴り声が増え、荷車の近くで人が押し合い、魔法らしい動きが見えたところまでは同じだった。しかし誰が最初に使ったかについて、証言は割れていた。


荷車が動いたのが先だと言う者。


ファルケンマルクの護衛が手を上げたのが先だと言う者。


ローデンベルク側が武器へ手を掛けたのを見たと言う者。


そもそも後ろに荷車が何台も詰まっていて、前の様子などよく見えなかったと言う者。


この最後の証言が、一番信用できる気すらした。


現場なんて、たいていそんなものだ。


後から地図の上で見ると、全員が全部見ていたように思えてくる。


実際には荷車が邪魔で見えない。馬が暴れる。人が叫ぶ。自分の荷物だって気になる。


その商人たちは衝突後、検査所の後ろで足止めされていた。


御者は馬へ水をやり、傷みやすい荷を抱えた者は役人へ詰め寄り、引き返すか待つかで揉めていたという。


道が止まるというのは、地図の線が消えることじゃない。


人と荷車が、その線の上に溜まるということだ。


「迂回は?」


地図の前で俺が聞くと、西部担当の役人が2つの経路を示した。


「可能です。ただ、北へ回る道は別の2領邦を通るため、許可と通行料が増えます。南は道路条件が悪く、荷車の数によってはさらに日数が必要です」


「どのくらい?」


「積荷と季節にもよりますが、通常より数日は見たほうがよろしいかと」


数日。


地図の上では、ほんの少し回り道をするだけに見える。


でも公文書も修繕部品も医療品も、人が馬と荷車で運ぶ。荷車が1日余計に走れば、御者も馬も1日余計に必要になる。通る領邦が増えれば、そのたびに話を通す相手が増える。


1回ならいい。


問題は、これが普通になることだ。


西部通行の手続を政務として見るようになった頃、俺はあの道を、手続が多くて面倒な仕組みだと思っていた。


書類が合わない。検査で止まる。担当が違えば確認に時間がかかる。


その面倒さ自体は今も同じだ。


ただし今は、その先に死体が2つある。


そして主要路が閉じている。


夕方、ようやくローデンベルク側の説明が届いた。


内容は、こちらの報告と当然違っていた。


ローデンベルク側は、軍事利用可能物資を含む大型輸送について、領内安全のため必要な検査を求めたとした。王家封印があっても、侯領の治安権まで放棄したわけではない。


ファルケンマルク側は開封を拒み、ローデンベルク側が検査のため荷車を移そうとした際にも現場で抵抗した。


そして、魔法による攻撃を受けたため護衛が対応した。


こちら側から見れば、都合のいい書き方だ。


向こうから見れば、こちらの報告も同じだろう。


父上は最後まで読み、紙を机へ置いた。


「閉鎖については」


俺が聞いた。


「調査と治安確保のため、主要検査所を閉鎖する。再開時期は調査後に判断する、とある」


「現場だけの判断じゃない?」


「少なくとも、この通知は侯領の公式なものだ」


カスパルが通知に添えられた別紙を開いた。


「再開に向けた協議事項も付いております。軍事利用可能物資を含む王家公用荷については事前に積荷目録を提出すること。必要がある場合には、双方の役人立会いの下で開封検査を認めること。今回の死傷者について共同で事実確認を行うこと。この辺りを新しい運用として定めたいようです」


「つまり、調査が終わるまで閉じるだけじゃない」


「はい。閉鎖を交渉材料にもしていると見るべきでしょう」


永久に道を閉じれば、ローデンベルクだって損をする。


通行料も落ちる。宿場も商人も困る。迂回路が定着すれば、今度は荷そのものが戻ってこないかもしれない。


でも短期なら違う。


こちらが主要路を使えず困るほど、新しい検査条件を認めさせやすくなる。


しかも向こうにも死者が出ている。何の条件も得ないまま元通りにすれば、ローデンベルク国内では、ファルケンマルクの王家封印荷には手を出せないと受け取られかねない。


事故ではない。


いや、衝突そのものは偶発だったのかもしれない。


でも道が止まったことは、もう偶発ではない。


ローデンベルク侯領は、再開条件を引き出すためにも正式に道を閉じている。


*


翌朝、父上の執務室には前日より紙が増えていた。


古い通行取り決めの写し。


ローデンベルクからの通知。


こちらの現場報告。


商人の証言。


積荷の一覧。


迂回路の見積もり。


書記が壁際の机で文書番号を書き込み、別の役人が封蝋の付いた包みを持って入ってくる。窓際の地図には小さな重りが置かれ、紙がめくれないよう押さえられていた。


俺は昨日から考えていたことを、頭の中でもう1度並べた。


事実関係はまだ確定していない。


こちらが先に魔法を使った可能性はある。


古い取り決めも、こちらに全部都合よく書かれているわけではない。


だから、ローデンベルクが全面的に悪いと決めつけるのは違う。


でも、それと道を閉じられたままにすることは別だ。


前世の歴史に、17世紀の北ヨーロッパで、よく似た構図の通商争いがあった。


バルト海へ入る海峡を握っていたデンマークと、そこを大量の商船が通るオランダの争いだ。


通行税や検査をめぐって揉めた時、オランダは抗議文だけを送り続けたわけではなかった。交渉を続けながら、数十隻の軍艦を数百隻の商船に付けて、本当に海峡を通した。


もちろん、それだけでデンマークを屈服させた、なんて単純な話じゃない。


関税をめぐる交渉はすでに進んでいたし、デンマークはスウェーデンとの戦争も抱えていた。海と陸でも条件は違う。


それでも、オランダは「通る権利がある」と紙に書くだけでは終わらせなかった。


商船を実際に通した。


軍艦を付けて。


撃てば戦争になりかねない状況を作った上で、相手に撃たせず通った。


最後は、通行税や検査の条件を条約で引き直している。


あれをそのまま真似する気はない。


今回は、こちらが完全に正しいかさえまだ分からない。最初に魔法を使ったのがこちらなら、なおさらだ。


それに、軍を動かせば戦争になる可能性はある。


ただ、最初の段階で西部旧領の兵を自領内の街道方面へ寄せただけで、ローデンベルクが全面戦争を選ぶ可能性は高くないと思う。


向こうが欲しがっているのは、こちらの領地でも王都でもない。公用荷に対する検査権と、新しい通行条件だ。永久封鎖を続ければ向こうの商人も宿場も損をする。ファルケンマルクより小さい侯領が、検査手順をめぐって本格的な戦争を始める利点は薄い。


でも、低いだけでゼロではない。


こちらが兵を動かせば、向こうも増員するかもしれない。


増員した兵同士が検査所で向き合い、また誰か1人が魔法を使えば、今度は前回より大きな衝突になる。


そこでこちらが引かなければ、局地戦になる。


さらに兵を出せば、本当に戦争になる。


そうなれば死者だけじゃない。西部への輸送は今より悪くなる。兵を動かす金も食料も馬も要る。商人は道そのものを避ける。皇帝や帝国内の諸侯も、どちらが争いを広げたのかを見る。


そこまで考えれば、気軽に選べる手ではない。


だから、いきなり護衛付きの輸送を検査所へ送り込むつもりもなかった。


まず兵を動かす。


相手に見せる。


期限までは交渉する。


実際に護衛付き輸送を出すかは、その後にもう1度判断する。


ただ、一つだけ歴史の例と同じことがある。


権利は、持っているだけでは弱い。


実際に使えなければ、時間が経つほど「使えない状態」の方が普通になる。


こちらが北や南へ迂回し続ければ、商人も役人もその道を前提に動き始める。ローデンベルクにとっても、主要路を閉じておく費用は小さくなる。


そして周りの領邦にも見える。


ファルケンマルクの通行権は、道を閉じれば使えなくなる程度のものだ、と。


それはまずい。


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