ピッツバーグ、ペンスルヴェイニア…1
「見ろよ、あそこが三角形になってんだろ? あれが世界の果てみてぇなもんだ」
標高四〇〇フィート、傾斜角三〇度の丘の上に位置するオブザーヴェイション・デックのレイリングの向こうを示す男の指の先には、確かにちょっとした景観が広がっていた。北東と南東のそれぞれから流れてくる川が合流して北西へと下り、三本の川がちょうど横に倒したY字を形作っている。Y字の▽部分には三十棟ほどの高層ビルディングが立ち並んでスカイラインを形成しており、その辺りがこの街のダウンタウンということになる。三本の川には視野の範囲内だけでも二十ほどの橋梁――その多くはアズテック・ゴールドに輝いている――が架かり、都市全体では四百四十六架を数えるという。ピッツバーグ。人はこの街をそんな名前で呼ぶ。
男の隣では、袖のないスクウェア・ネックのサマードレスをまとった少女が、少しだけ腰をかがめ、風になびくスカートの裾に膝裏を覗かせながら、淡く澄んだ青い瞳でタワー・ヴューワーを覗き込んでいた。肩甲骨に届く柔らかなブロンドの髪と硬質にきらめく銀色のヴューワー、ドレスのアイリス・ブルー、ミント・グリーン、ライラック・パープル、クリア・デイ、そしてワンポイントのサンシャイン・ゴールドという色彩が、夏の陽射しの中に爽やかに映えていた。十三年前にこの少女につけられた名前は、こんなものだった。エル。E・L・L・E、エル。
「すげぇよな。ニューヨークなんか較べものになんねぇよな。お前、ずいぶん遠くまで来ちまったな。おお、なんてこった、噴水まで出てるじゃねぇか。見えるか? 違う、そっちじゃねぇ、そう、そっちだ。もうちょっと下げてみろ。そうだ、それでいい。見えたろ? まぁ、世界の果ての噴水みてぇなもんだよな。お前、すげぇもんを見ちまったな。目が潰れちまうんじゃねぇか」
エルに話しかける男の声には真実や熱意と呼べる類の感情は含まれておらず、強いて成分を分析するならば、「暑い、ダルい、眠い、どうでもいい」といった感情群を聴き取ることはできよう。男に生じている感情群は正当なものとは言えず、ピッツバーグは(少なくとも橋梁の愛好家ならば)その観賞と研究に一生を費やすに値する街であり、とりわけY字の\部分に輝く三連のセルフ・アンカード・サスペンション・ブリッジ、『スリー・シスターズ』の優雅な美しさには気が遠くなりそうなものだが、残念ながら男は、橋梁が有する合理と調和の美を知ることなく三十四年弱を生きてきてしまったようだ。男の名はビリーといったが、彼にとって橋梁の名称がどうでもよいものであるように、橋梁の愛好家にとっては彼の名称はどうでもよいものであるだろう。ましてや彼の身長が五フィート十一インチであり、二日前に知り合った隣の少女より四インチ半ほど高く、黒い髪に黒い髭を生やし、V字に尖った額と鼻と顎をしていて、深い眼窩の奥に厳しく青い瞳を宿しており、脂肪のない筋肉質の身体に灰色のストライプ柄のタンクトップを着て、黒いジーンズと牡牛の血のように赤い革のブーツを履いていることなど、そしてこの数日間下着を履き替えていないことなど、なんらの価値を有する情報ではあるまい。
下着を履き替えていないビリーは、気のなさそうな声で続けた。
「すげぇ眺めだよな。あれだ、息を、息を、あれすんだよ、息を――なんていうんだ?」
エルはヴューワーを覗き込んだまま、、ようやく言葉を発した。
「息を呑むような(ブレステイキング)」
「ああ。それな。息を呑むような眺めだろうがよ」
「確かに素敵な風景ね」
素敵な風景。現在のこの街の景観を表すにふさわしい言葉だろう。かつて「地獄」と呼ばれた煉鋼廠群の景観も、空を黒く覆い尽くしていた煤煙も、時代の風と共に、そして人々の尽力により姿を消し、鐵鏽地帯の代表的都市と呼ばれたことさえ過去になり、今ではヘルスケアとロボティクスと高度教育を謳う、清潔で快適な街へと姿を変えていた。郊外に点残する廃墟をここから見出すには、少しの知識と想像力が必要だ。
「だろ? まぁこれ以上の眺めなんて、アメリカ中どこを探したってねぇよな。っつうことで、さっさとフリスコに――」
がちゃんと音がして、二五セント硬貨がタワー・ヴューワーの機構に飲み込まれた。視界を黒く閉ざされた少女は、あっ、という顔をしてから、名残惜しそうにファインダーから目を離した。ビリーは言った。
「よし、これで満足したよな? まぁもう世界の果てまで来ちまったったんだし、他に行くとこなんかねぇしよ。お前もひと夏の大冒険を終えて――」
「あれがオハイオ川ね」
エルはビリーの言葉を遮り、目を細めながら右に倒れたY字の|部分を差して言った。
「知るかよそんなこと。たぶんそうなんじゃねぇのか」
ビリーは少し不機嫌そうに答えた。エルは続けた。
「オハイオ川は、ミシシッピ川へと繋がっている」
「それは知らねぇが、なぁ、『旅』はそろそろ終わりにしようぜ。フリスコもバーグも変わんねぇよ。おめぇも立派な大人に――」
「そして、ミシシッピ川は多くの支流を飲み込んで、メクシコ湾へと注ぎ込む」
「なんだかわからねぇが、そろそろニューヨークへ帰れよ。グレイハウンドに乗ってな。二時間ぐらいでタイムズ・スクウェアかどっかに着くだろ、たぶんな。フリスコでの『仕事』の話はもう――」
「ミシシッピ川の河口には、ニューオーリンズがある」
「おめぇ、さっきから俺の話を聞いてねぇだろ。だいたい――」
「行ってみたい」
「どこへだよ? クソッタレのコニー・アイランドか?」
「ニューオーリンズ」
ビリーはその単語の意味を一呼吸ぶん考えたあと、慌てたように言った。
「あ? ニューオーリンズなんざ、クソ南部のさらにどん底じゃねぇか。なんでそんなとこまで行かなきゃなんねぇんだよ?」
「それが『ディール』でしょう? あなたとあたしが交わした『ディール』」
「いや、話が違ぇだろがよ。『ディール』はこうだろ? 『俺はおめぇをフリスコに連れていく。おめぇは俺にクソ稼げる『仕事』を紹介する』。それだけだろがよ」
「話が違うのはあなたの方よ。条件がもうひとつあったわ。『サンフランシスコまでのルートはあたしが決める』」
「いや、決めるっつったって、限度ってもんがあんだろうがよ。いくらなんでもニューオーリンズなんてのは――」
「だったらそれは『ディール』の条項に盛り込むべきだったんじゃないの。あなたは自分の言葉を忘れていないわよね? 『わかった、飲むぜ』って言ったでしょ」
ビリーは唇を歪め、なにかを言い返そうとしながら黙り込んだ。正しいのはエルの方だった。悔しそうに顔を歪めながらも言い返してこようとしないビリーを見て、エルは満足そうに、少し柔らかい口調に戻して言った。
「でもきっといいところよ、サンフランシスコもニューオーリンズも。もちろんピッツバーグも素敵だけどね。きっと、楽しい旅になるわ」
肯定はできねぇ、というように眉を険しくひそめながら、ビリーは少し顔を上げ、掠れた声で訊ねた。
「――ニューオーリンズには、なにがあるんだ」
歌うようにエルは答えた。
「ガンボとジャズとマルディ・グラ、そしてブードゥー」
「ブードゥーか」
「ブードゥーよ」




