星は善悪を選ばない
◇
レイヴンたちが「千年の問い」に対する独自の解答を紡ぎ出したその日の深夜。
歴史の歯車は、彼らを待つことなく無慈悲に急回転を始めた。
「局長! ミリアさん! 来てください!」
廊下に響くリーネの悲痛な叫び声と共に、彼女特製の非魔法監視装置がけたたましい物理的アラートを鳴らした。
急ぎ別室の暗室から飛び出してきたリーネの手には、薬品の臭いがきつい、現像したばかりの何枚もの感光紙が握られている。
「ノクターン教授が……遺跡の外で、何者かと密かに接触しています!」
テーブルに広げられた青白い光学像は、夜間のため不鮮明だったが、人物の輪郭だけは生々しく捉えていた。遺跡から二キロほど離れた、雪に埋もれた木こり小屋。そこに立つエルヴィラと――深くフードを被った二人の長身の人物。
「顔は分かりますか?」
「いいえ。……でも見てください。強引に露出を上げたこの一枚。フードの隙間から、特徴的な銀の襟章が反射しています。間違いありません、帝国の人間です」
「帝国の人間が……あの強固な国境を越えて、アルカディアの最深部に非正規で入り込んでいる?」
レイヴンは即座に通信水晶を起動し、ルシアに直接緊急回線を繋いだ。
『――把握していない。現在、帝国から第一国境地帯への渡航許可は私が全てストップさせている。完全に非正規の浸透工作部隊だ。直ちに軍の裏ルートを叩いて調査する』
ルシアの氷のような声にも、明確などよめきが混じっていた。
エルヴィラの『ラピス基金』の背後にいる巨大な影は、アルカディア国内の腐敗貴族にとどまらず、軍事国家である帝国にまで深く静かに根を張っているのだ。
「リーネさん。資金源となっていたその『ラピス基金』に関する追加情報の解析は?」
「はい! 先ほどカール殿下から、帝国の皇立図書館の奥底を調べた結果の暗号通信が届きました!」
リーネが一枚の羊皮紙を広げ、震える声でカールからの通信文を読み上げた。
『ラピス基金に酷似したカモフラージュ組織が、帝国にも複数存在することを確認。帝国の異端な古代文書研究者たちの裏社会において、それは【星辰の契約団】という不吉な名で呼ばれている。……創設年代は約五十年前。大陸各国の高名な学者や研究者、そして権力の中枢にいる一部の者を構成員とする秘密結社。表向きは歴史的学術組織だが、真の目的は――《始原の契約石》の発見と完全掌握。そして、現代の契約魔法の根源ルールそのものを自分たちの手で【世界規模で書き換えること】を至上命題としている』
その巨大すぎるスケールに、室内の温度が数度下がったような気すらした。
「五十年……。建国時代からではないにせよ、我々の全く知らないところで、半世紀前からそんな途方もない歴史的陰謀が進んでいたとは」
『局長。通信の続きがあります』リーネが唾を呑み込んだ。『生前、兄のヴェルナーが帝国に留学していた際、この組織の尻尾に気づいていたフシがあります。兄の遺品の手帳に狂ったように書き殴られていた「星辰」そして「プリマ」という謎の単語は――間違いなく、この狂信的な秘密結社と、彼らが狙う石を指しています』
カールの通信が途切れた。
全てが一つの太く淀んだ線で繋がった。ヴェルナーの絶望。帝国北部の調査団。ラピス基金の無尽蔵の資金。そして、王立大学の最高頭脳であるエルヴィラ。
「ただの遺跡泥棒ではない。エルヴィラ・ノクターン教授は……世界秩序の転覆を狙う『星辰の契約団』の、極めて中核的な一員だ」
レイヴンの声が、冷たく低く響いた。
「しかし――動機が全く読めません」ミリアが、唇を強く噛んで首を横に振った。「彼女は昨日、『弱者を縛る不公正な契約を軽蔑する』とはっきり言っていました。その想い自体に嘘の色はなかった……。悪い目的じゃないはずなのに、なぜそんな狂った秘密結社と手を組んでまで世界を書き換えようとするんですか?」
「……ヴェルナーと同じ構造なのかもしれませんね。最初の動機は純粋で正しかった。しかし、絶望のあまり『力』を求め、その方法を決定的に間違えた。……我々は、彼女の暴走を物理的に何としても止めなければならない。しかし同時に――彼女を狂わせたその『最初の動機』を理解し、法で裁かなければならない」
しかし、ゆっくりと法で裁く時間すら残されていなかった。
その直後。リーネの監視装置が、本命の恐ろしいアラートを吐き出した。
「局長! ノクターン教授が遺跡の深部に向かっています! しかも今度は一人じゃない。先ほどの帝国の暗殺者と思しき人物が二人、彼女と一緒に特異点に入りました!」
「ついに、プリマ・ラピス本体を奪いにかかったか」
レイヴンは椅子から立ち上がり、壁に掛けられた重いコートを羽織った。ダリウスとミリアも即座に無言で立ち上がる。
「リーネさん。ルシアに帝国側の非正規入国者の件を正式通報。王都の治安維持部隊からの応援も呼んでください。……ですが、間に合いませんね」
「急行します!」
凍てつく冬の夜の山道を、レイヴン、ダリウス、ミリアの三人が全力で走った。
雲が切れ、冷たい月明かりが雪を照らし、青白い死の光が獣道を浮かび上がらせる。走る足音が凍った地面に鋭く響き、吐く息が真っ白な尾を引いて流れていく。レイヴンが振り向かなくても、背後からは常に二人の呼吸が聞こえていた。ダリウスの地鳴りのような重い足音と呼吸、そしてミリアの軽やかだが力強い足音。三人のリズムが、完全に一つの心臓のように同調して刻まれている。
遺跡の入り口に到着すると――崩れかけた石のアーチそのものが、微かに、しかし確かに震えていた。
レイヴンが指で触れると、ビリビリとした振動が掌から腕の骨を伝わってくる。生き物の心臓の鼓動とは違う。もっと深く、恐ろしい、大地の脈動そのものだった。
「……私の『鑑定眼』が、遺跡に入る前のこんな外側で完全に消えました。アンチマジックエリアの範囲が、昨日より遥かに拡大しています」
「中の石が、外からの干渉に怒って暴れ始めているんだ。急ぐぞ」
三人が遺跡の暗い通路に飛び込むと、最深部の方から異常な光が漏れていた。
以前見た地下祭壇――そこでは、ファントム(エオス)の清廉な白い光に対して、ひどく淀んだ暗紫色の魔法光が真っ向から対抗してぶつかり合っている。二つの光が洞窟の壁面で火花のように散り、巨大な影が不規則に踊っていた。
最深部に到達した三人の目に飛び込んできたのは、祭壇の中心に立つエルヴィラと、彼女を護衛するように立つ二人のフードの暗殺者だった。
エルヴィラの手には、異様な装置が握られていた。鈍く光る黒い金属と、いくつもの濁った水晶で構成された両手抱えの複雑な機構。水晶の内部には古代精霊語のルーンがびっしりと刻み込まれ、そこからあの暗紫色の凶行な光が放たれている。装置からは、腹の底の臓腑を直接揺さぶるような、低く不快な唸り声があがっていた。
「そこまでです、ノクターン教授」
レイヴンの鋭い一喝が、冷たい遺跡の石壁に何重にも木霊して響いた。
弾かれたように振り返った二人の暗殺者が、即座にレイヴンたちの前に立ち塞がり、懐から抜き身の短剣を構えた。一切の攻撃魔法も、身体強化の魔法すら打ち消されるこの完全な絶対領域では、お飾りの騎士よりも『純粋な体術と刃物』の扱いに長けた裏社会の人間の方が圧倒的に強い。
だが。
丸腰のまま、ダリウスが一歩、大きく前に出た。
短剣の凶刃がランプの光を受けて壁に細い反射を投げる中、百八十センチを超える岩山のような巨躯が、一切の躊躇なく暗殺者たちを見下ろした。
「魔法の目が一つ消えたくらいで――オレが泥水啜って生き抜いてきた『三十年』が、一緒に消えるわけじゃねえんだぞ」
ドスン、とダリウスがブーツを鳴らした瞬間。
魔法とは一切無関係な、純粋な『死線をくぐり抜けてきた男の殺気』に圧され、プロの暗殺者二人が無意識に一歩後ずさった。
そのダリウスの横に滑り込むように、ミリアが両手を前に出して腰を落とす。構えは洗練された騎士道の剣術などではない。エストリアの荒くれ漁師町で、酔っ払いの大男たちを相手に実地で叩き込まれた、金的と喉笛だけを躊躇なく狙う泥臭い喧嘩殺法の構えだ。
圧倒的な魔法の力が消え失せたその場所で、彼らは「生身の自分」だけで完璧に立ち上がっていた。
エルヴィラがゆっくりと振り返った。
分厚い瓶底眼鏡の奥の瞳には――王立大学の最高頭脳としての張り詰めた理性と、それを完全に食い破るほどの狂信的な執念の炎が同居していた。氷点下の遺跡内にもかかわらず、彼女の額にはべっとりと汗が浮いている。
「……さすがはレイヴン局長。しかし、どうやら数分だけ到着が遅かったようですね」
「その危険な装置から今すぐ手を離してください、教授」
「これは『契約解析・再書換装置』。五十年前、星辰の契約団の初代創設者が基本理論を構築し、私自身が二十年の歳月と途方も無い資金を費やしてようやく完成させた至高のアーティファクト。……これを今暴走しかけているプリマ・ラピス本体に接続すれば、現代の契約魔法の根幹ルールそのものを、文字通り根こそぎ上書きできる」
「上書きして、何を企んでいるんですか」
「全ての不公正な契約を、この世界から一瞬で無効化する」
エルヴィラの声が、狂気を帯びて朗々と響き渡った。
「奴隷契約、搾取的な労働契約、悪辣な金融契約! 弱者から全てを奪い取る世界中の悪意ある契約を、魔法の根源レベルで『エラー』として強制消滅させる! 局長殿、あなたは一件ずつ、一条ずつ、法廷で不正を正してきた。その努力は心から尊いと思う。……しかし! 一件ずつでは絶望的に間に合わない! 今この瞬間にも、世界中で強者の契約に首を絞められ、泣き叫んでいる弱者がいるのだから!」
レイヴンは、銃弾のように撃ち込まれたその熱い言葉に、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
一件ずつでは間に合わない。それは、レイヴン自身がこの一年間、幾度となく直面してきた絶望的な事実でもあったからだ。
「……あなたのその悲痛な想いは、理解できます」
レイヴンは静かに、しかし冷徹な法務官の目を取り戻して言い放った。
「しかし――絶対的な力を用いて、世界中のルールを一瞬で強制的に書き換えることは、一件ずつ泥臭く法で変えることとは根本的に意味が違う。あなたのやろうとしていることは……かつて王都を火の海にした、私の恩師ヴェルナーと全く同じです」
「ヴェルナー? あの狂った破壊論者と私が同じだと?」
「ええ。あなた方の『最初の動機』はどちらも純粋で、弱者を救うための正義だった。しかし、その正義を達成するための方法として『自分に権力と力を集中させること』を選んでしまった。……世界を一瞬で変える絶対的な力を、たった一人の人間が振るうことは、どんなに美しい動機であれ極めて危険です」
「私は、間違えない!」
「善人がプリマ・ラピスの力を持てば、最初のうちは善い書き換えができるかもしれない。しかし、次にその究極の力を手にする者が善人とは限らない。制度を破壊した先に残るのは、むき出しの力の奪い合いだけだ。……絶対的な力そのものが、必ず人を狂わせ、腐敗を生むんです」
正論の刃を突きつけられ、エルヴィラの手がワナワナと震えた。
装置の両側のハンドルを握りしめる指が、血の気を失って真っ白になっている。
「黙れ……! これで全てが終わる……私の、二十年が……!」
彼女が強引に装置の起動レバーを押し込もうとした、まさにその瞬間だった。
『――この石に触れる権利は、お前たちにはない』
祭壇の奥深くから、直接脳髄を揺さぶるようなエオスの声が轟然と響いた。
次の瞬間、プリマ・ラピスから爆発的に膨れ上がった純白の光の奔流が、エルヴィラと二人の暗殺者を纏めて紙屑のように弾き飛ばした。
エルヴィラの手から離れた契約解析装置が、石の床に激突して無惨に砕け散る。濁った水晶が粉々になり、紫色の不吉な光が霧散していく。捻じ曲がった黒い金属の残骸から、ひどく焦げた悪臭が漂った。強制的にルールを上書きしようとする『力(魔法)』そのものを、自由と信頼を愛する精霊が全力で拒絶したのだ。
壁に打ち付けられた二人の暗殺者は完全に気を失っていた。
しかし、床に投げ出されたエルヴィラは、砕け散った自分の装置の残骸を這いつくばる様に見つめ――やがて、両手で顔を覆って、子供のように泣き崩れた。
「ああっ……! 二十年……! 私は……私は二十年かけて、自分の全てを捨ててここまで来たのに……っ!」
レイヴンは、泣き崩れるエルヴィラの前に静かに片膝をついた。
「なぜ……そこまで急いだのですか。二十年もの間、あなたは王立大学で契約法の基礎研究という本分を真っ当に全うしてきたはずだ」
エルヴィラは涙も拭わず、ただ虚ろに天井を見上げた。何千年も前からそこにある、精霊たちの壁画が、彼女の罪を見下ろしている。
「……私の、たった一人の娘が。十八年前に。……たちの悪い貴族の詐欺的な婚姻契約に騙されたのです」
エルヴィラの声は、もはや学者のそれではなく、ただ傷ついた一人の母親のものだった。
「私は法学部で教鞭をとる身でした。だから、すぐに最新の法律と裁判手続で救おうとした。……でも、法はあまりにも遅すぎた。『手続き中です』『順番をお待ちください』。そう言われている間に……婚姻契約の絶対的な条項によって、娘は財産も、家も、自由も、全てを合法的に根こそぎ奪われたのです」
彼女は分厚い眼鏡を外し、床に置いた。
知性の鎧を脱ぎ捨てた彼女は、どこにでもいる、ただの疲れ切った中年の女性に見えた。
「娘は今も……あの地獄のような契約に縛られたまま、面会すら許されていません。十八年間……私は『これは学問の研究なのだ』と自分に言い聞かせながら、星辰の契約団の力すら利用して、ここまできた。……誰かのためじゃない。ただ……娘を、あの子を助けたかっただけなんです!」
「……一件ずつでは間に合わない。それは、血の滲むような実体験だったのですね」
「……はい」
レイヴンは唇を噛み、己の冷たい手袋を見つめた。
今ならいくらでも完璧な正論が言える。「そのような個別案件は、正規の手続きで我々管理局に相談すべきだった」と。……しかし、この血を吐くような母親の涙の前にその正論をぶつけるのは、ただの冷酷な暴力だ。
レイヴンは、十三歳の冬を思い出していた。
不当な契約で家族と故郷を根こそぎ奪われたとき、少年だった彼は必死に王都の法を頼った。しかし、返ってきた答えは同じだった。「手続き中だから待て」と。
……あの時の無力で絶望していた自分と、目の前で泣き崩れるエルヴィラは、全く同じ場所に立っている。契約法がシステムとして正しいことは骨の髄まで知っている。しかし、その「正しい法」の歩みが決定的に遅く、間に合わないことがあることも、彼は実体験として知っていた。
「ノクターン教授」
レイヴンは、エルヴィラの震える両手を自身の手で真っ直ぐに包み込んだ。
「……あなたの娘さんの件は、我々契約管理局の特命案件として、必ず調査し、救い出します。この『絶対記憶』の眼にかけて。これは……私が直接、責任を持って担当する」
エルヴィラが、ハッと顔を上げた。涙で濡れた頬に、遺跡の白い光が反射している。
「それは……局長としての、契約ですか」
「いいえ」レイヴンは、かつてないほど穏やかに微笑んだ。「一人の人間としての、ただの『約束』です。……契約書なんか、必要ありません」
エルヴィラの唇が微かに震え、やがて大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
裏切りと法の限界を知り尽くした大人は、他人の約束などそう簡単には信じられない。しかし絶望を知り尽くしたからこそ――本当の『約束』を差し出されたとき、その圧倒的な重みと温もりが痛いほど分かるのだ。
ダリウスが静かに歩み寄り、エルヴィラの腕をとって拘束した。
決して手荒な真似はしなかった。分厚い魔法拘束具を彼女の細い手首に嵌めるとき、岩山のようなあの巨漢の指が、驚くほど繊細に、痛まないように動いていた。三十年の血みどろの現場仕事で、何百人もの凶悪犯を拘束してきたダリウスの手。……しかし、極悪人ではない「ただ絶望して間違えただけの人間」に手錠をかけるときの、これが彼なりの最大限の敬意だった。
「ご苦労だったな、教授。あとはうちの局長に丸投げして、ゆっくり休め」
「……はい……っ」
拘束された暗殺者たちと共にエルヴィラが連行されていく後姿を、レイヴンたちは静かに見送った。
祭壇の奥深く――始原の契約石は、再び深い静寂を取り戻し、淡い白光を放ち続けている。その光が、床に散らばった契約解析装置の残骸に反射し、暗闇の中に小さな虹を作っていた。
……力による上書きが否定され、残された答えはただ一つ。
明日、レイヴンは「契約管理局局長」としてではなく、「レイヴン」という一人の人間として、千年間待ち続けた精霊と向かい合う。
(第36話 了)
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本話の適用条文
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・管理局設置法第5条(原本庫の管理)── 古代遺跡内の魔法石は国家の最高保護対象
・刑事法第7条(共謀罪)── 秘密結社『星辰の契約団』としての国家転覆未遂
・※約束の意義 ── 法(限界)を超越する人間同士の絆としての「約束」
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