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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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答えは一つじゃない

    ◇


 急ぎ王都に帰還したその日の深夜。

 レイヴンは、契約管理局の局長室に現行のチーム全員を緊急招集した。室内にいるのはミリア、ダリウス、リーネの三人。さらに机の上に置かれた二つの通信魔法水晶を通して、帝国のルシアと、王太子のカールが遠隔で参加している。

 窓の外は凍てつくような真っ暗闇だが、局長室の全てのランプには煌々と火が灯され、石造りの暖炉の火が赤々と力強く燃えていた。


 大きなオーク材のテーブルの上には、ミリアが手早く淹れた温かい紅茶のカップが湯気を立てている。その横に、リーネが命懸けで現像したエルヴィラの深夜の暗躍写真が並べられ、ダリウスが遺跡近辺の地脈から削り出してきた異常な魔力波形を示す石のサンプルが無造作に積まれていた。


「……夜分遅くに申し訳ありません。状況は一刻を争います。エルヴィラはプリマ・ラピスへの物理的な隠し通路を開いた。明日にでも、彼女らは最深部への侵入と石の確保を試みるはずです」

 レイヴンは全員の顔を、そして二つの水晶の光を静かに見回した。

「しかし――ただ武力で彼女を止めて石を守るだけでは、根本的な解決にはなりません。ファントム――精霊エオスが遺した根源的な問い。『契約とは本当に必要なのか。信頼だけでは不十分で、自由を殺すだけの鎖なのか』。……我々自身がこの問いに対する『答え』を持っていなければ、いずれ第二、第三のエルヴィラが現れ、この国は内側から崩壊するでしょう」


「『みんなの話を聞きたい』って言い出したのは、レイヴンさん自身ですよ。……らしくない顔をして」

 ミリアが、自分の紅茶を両手で包み込みながら優しく微笑んだ。

「だから、みんなで考えましょう」


「ええ。では始めます。形式は問いません、率直に思ったことを」


 最初に重い口を開いたのは、歴戦の副局長であるダリウスだった。暖炉の前で腕を組んでいた岩山のような巨躯が、わずかにテーブルのほうへ傾いた。


「オレが今回、あの特異点遺跡に足を踏み入れて魔法が無効化され、自分の『鑑定眼』がスウッと消えたとき――正直に言うと、底知れねぇ恐怖を感じた。三十年間、当たり前のように自分の右目にあった機能が完全に死んだんだからな」


 全員が静まり返った。常に豪放磊落でどんな修羅場でも笑っているダリウスが、「怖い」と口にすることは極めて珍しい。リーネが記録のペンを止め、ミリアがカップをテーブルに置く。沈黙の中で、暖炉の薪がパチリとはぜる音だけが響いた。


「三十年前、初めて鑑定眼が光ったとき、オレは世界が変わったと思った。見えなかった魔力の流れが見える。嘘の色が見える。紙の裏の真実が見える。……いつしかそれが、オレの実務の『全て』になっていた。だから遺跡で目が消えたとき、オレは三十年前の何も見えない無力なガキに戻っちまったような気がして、足がすくんだんだ」


 ダリウスは、分厚い手袋を外し、傷だらけの無骨な自分の大きな両手を見つめた。

「だが、鑑定眼が消えた生身の状態で、エルヴィラが解読しているあの壁画の文字を見たときだ。文字の刻みの深さ、石の粒の粗さという『物理的な事実』が、突然オレの肉眼に飛び込んできた。……もしあの時、鑑定眼が正常に起動していたら、オレの目は間違いなく『使われているインクの魔法的な成分』や『魔力の残留年代』ばかりを自動的に分析してしまい、文字の彫りそのものの違和感には絶対に気づけなかった」


 ダリウスは顔を上げ、レイヴンを真っ直ぐに見た。

「どんなに絶大な力を持つ道具も、完全に依存しきっちまえば、逆に『本当に見るべきもの』を見えなくさせる。……契約魔法もこれと同じじゃねえのか」


「……契約魔法という便利すぎる道具に頼り切った結果、本来の目が見えなくなっている、と」

「そうだ。道具がなくても、手で触って紙の厚みを感じ、鼻で嗅いでインクの匂いを知る。三十年前のオレはそうやって泥水啜って仕事をしてきたはずだ。鑑定眼も契約魔法も、極めて強力で便利なツールだが――あれはずっこけた時のための『松葉杖』だ。本当に大地を踏み締めて立つためのオレたちの『足』は、最初からここにある」


「……その『道具に依存しすぎる恐怖』、私たちの扱う契約にもそのまま当てはまりませんか」


 リーネが自らの手帳から顔を上げ、静かに口を開いた。ペンのキャップを少しだけ噛む、彼女特有の考えがまとまりかけている時の仕草だ。


「完璧な契約書があるから、安心して相手と取引ができる。でも……その契約書という『絶対の道具』に安心しすぎて甘えすぎると、人間はいつの間にか、紙の向こう側にいる生きた相手の顔や痛みを、全く見ようとしなくなるんです。かつてヘルムート伯爵家で、私に『絶対服従の奴隷契約』を機械のように押し付けた大人たちもそうでした。……彼らの目は、私の涙なんて少しも見ていなかった。ただ、完璧な条件が敷き詰められた契約書の文字『だけ』を見て、安心しきっていたんです」


 ダリウスが深く頷き、巨躯に合わせて分厚い革張りの椅子が重く軋んだ。

「その通りだ。契約はどこまでいってもただの人間が作った『道具』だ。便利で、必要不可欠で、多くの場面でオレたちを助けてくれる。だが……契約魔法があるから、本物の『信頼』が生まれるわけじゃない。順番が逆なんだ。本当の信頼ってのは、契約書を交わすよりも先に、生身の人間の間に懸命に築き上げるべきものだ。契約魔法なんてのは――人間同士がすれ違って最後に高いところから落ちちまった時のための『ただの安全網ネット』であって、最初から寄りかかるための『土台』じゃねえ」


「安全網と……土台……」

 ミリアが、両手で紅茶のカップを包み込んだまま、ダリウスの言葉を反芻するように呟いた。

「じゃあ、私たちがよって立つべき本当の『土台』は何ですか、ダリウスさん」


「信頼だ。……ミリア、お前さんがうちのクソ真面目な局長に背中を預けて信頼してんのは、お前さんたちが『雇用契約書』を結んでいるからじゃないだろうが」

「当たり前です! 私がレイヴンさんを信頼しているのは、レイヴンさんがいつも一番苦しいところで逃げずに前に立つ、その言葉と行動の色を……私自身の目で見てきたからです」


「それだ。それが人間同士の、生身の土台だ」


 レイヴンは無言のまま、手元の紙にペンを走らせた。『生身の信頼が土台。強力な契約魔法は、最後の安全網』。それはアーベルの教えにはなかった、新しい視点だった。


「でも――」ミリアが顔を上げ、テーブルの全員を見渡した。「……純粋な『信頼』だけでは、エオスさんも言っていたように、理屈の通じない完全な悪意には対抗できない。だからこそ、アルケス様は『契約』という絶対の保護ルールを作った。……信頼だけでも世界は崩れるし、契約だけでも人は息が詰まって死んでしまう」

「では、何が必要ですか。ミリアさん」

 レイヴンが促すと、ミリアは真っ直ぐに局長の目を見返した。


「第三の柱です。『法』と『契約』と『信頼』。……この三つ全部を組み合わせることが、あの真っ暗な遺跡にはない『私たちらしい答え』なんだと思います」


 ミリアの声には、強い確信が宿っていた。

 一年足らず前、エストリアの港町で借金取りに怯えていた素人の少女が、東部の農村で巨大な税制不正と戦い、帝国との息詰まる情報戦をくぐり抜け――今、この極めて高度な法的哲学の結論に自力で到達している。過酷な一年間の『現場の血肉』が、その一言に凝縮されていた。


「自由な『信頼』だけでは、防ぎきれない悪意がある。絶対的な『契約』だけでは、人間の自由を縛り殺してしまう。そして冷徹な『法』だけでは、人を救う温度が足りない。……だから、三つの不完全なものを組み合わせて、ギリギリのバランスをとりながら、毎日毎日泥臭く微調整し続ける。それが……局長たちが、ずーっとこの一年間、管理局の現場でやってきたことじゃないですか」


 その時、机の上の通信魔法水晶が少し強いノイズを伴って光った。

 ルシアの怜悧な声が響き渡る。長距離通信特有のマナの乱れが混じり、声は氷のように冷たく聞こえるが、その言葉の奥底には確かな熱があった。


『……帝国の法概念において、契約とは国家の「絶対の命令」に他ならない。そこに人間の信頼などの入る余地はないし、必要悪ですらない。命令コントラクトにさえ従えば、完璧な秩序が保たれると信じられているからだ』

「でも、ルシア特務官。あなた自身が、かつて帝国法を破ってヘルマン卿の命令に逆らいました」

 ミリアが、静かに核心を切り込んだ。数秒の長い沈黙が距離を超えて横たわる。


『……ええ。あの時私は、国家の命令コントラクトよりも、アルヴァレス局長の交渉姿勢に対する己の「信頼トラスト」を優先して選んだ。あれは絶対主義の帝国法では、決して論理的な説明ができない矛盾した行動だ』

「それこそが、ルシアさんが実地で見つけた答えの一部ではないですか?」リーネが身を乗り出した。「どんなに巨大で絶対的な制度の中に組み込まれていても、最後に人の心を動かし、世界を変えるのは『信頼』なんだと」

『……そうかもしれない。私一人では、完璧な答えの言語化はできない。しかし――あなたたち全員がこれから導き出す答えを、私は帝国の地から完全に「信頼」している』


 プツリと、短いノイズと共にルシアとの通信が途切れた。彼女なりの、最大限のエールだった。

 リーネは一つ深呼吸をし、再び自分の手帳を見つめた。


「先ほど、私は奴隷契約で絶対的に縛られていた時の恐怖を話しました」

 リーネの声が少しだけ震えた。しかし、その瞳は暖炉の火を反射して力強く輝いている。

「あの『解約の権限すらない完全な奴隷契約』が消滅したとき、私は人生で初めて、冷たい空気を胸いっぱい吸って息ができた気がしました。でも……あの地獄の絶対契約を論理的に無効にして私を救い出してくれたのも、また別の『契約法ルール』でした。……契約のせいで人生を壊されかけ、契約法のおかげで人生を取り戻した。なんだか矛盾していますよね」

「矛盾じゃねえさ」ダリウスが静かに言った。「それが魔法の存在する社会の、生々しい現実だ」


「はい。ですから、現実を知る私の答えはこうです。――『契約魔法は絶対に必要だが、人間同士の合意によって必ず【変更・解除できるもの】でなければならない』。……一度結んだら永遠に個人の自由意思を奪い、死ぬまで絶対に変えられない契約は、もはや契約ではなく『鎖であり呪い』です。ですが、状況に応じていつでも変えられる余白のある契約は、人間を助ける素晴らしい『道具』です」


 変えられるか、変えられないか。呪いか、道具か。

 その言葉を聞いた瞬間。レイヴンの手が、書類の上でピタリと止まった。


 リーネの紡いだ平易な一本の糸が――エオスが千年間抱え続けた極大の矛盾を解き明かす、決定的な合鍵としてカチリとはまったのだ。


「……相反する二つの概念が、繋がった」

「え?」

「大発見ですよ、リーネさん! 今、あなたが言ったことこそが本質です。自由意思に基づいて『いつでも変えられるし、破棄することもできる』……逆に言えば、その自由があるからこそ、人間があえて『約束を守り続ける』ことに途方も無い価値と意味が生まれるんです! 強制(契約)されて怯えながら守るのではなく、自由意思で選んで主体的に守る。その『裏切る自由があるのに、あえて裏切らない』という選択の連続の果てにこそ、エオスの望んだ本物の【信頼】が証明される!」


「自由と、信頼……」ミリアが、パッと顔を輝かせて復唱した。

「そうです! エオスの求めた『絶対の自由(約束)』と、アルケスが作った『絶対の保護(契約)』。そのどちらか一つが正解なのではない。両方が必要不可欠で、どちらも単体では完全に不完全であり……だからこそ、人間が『法』という調整弁を使って、その二つを両立させるんです!」


 熱を帯びたレイヴンの言葉に重なるように、もう一つの通信水晶からカールの若く知的な声が入った。


『……生前、兄のヴェルナーが何度も私に言っていた言葉があります。「契約魔法の魔力的な拘束力が本質なのではない。その前に存在する、人間同士の『合意』こそが絶対の本質なんだ。たとえ将来すべての魔法が消え去っても、合意の記録と信頼関係さえ残っていれば、社会のシステムとしての契約は永遠に存在し続ける」と。……兄はあの暗い地下牢獄の中で、魔法の鎖に頼らなくても成立する、人間の強さを信じた新しい法体系の形をずっと構想し続けていたんだと思います』


 レイヴンは窓の外を見た。凍てつく王都の分厚い冬雲の隙間から、一つだけ鋭く冷たい星が光っている。


「ダリウスさんの『安全網』。ミリアさんの『法・契約・信頼の三位一体のバランス』。ルシアさんの『命令を超える信頼』。カール殿の『合意の本質』。そして……リーネさんの『変えられる自由があるからこそ、あえて守ることで信頼が生まれる』という逆転の発想」

 レイヴンは、手元のメモに書き殴ったそれらの言葉をじっと見つめ、一つに繋ぎ合わせた。

「……私たちの答えが、ようやくたった一つの強靭な太い線になり始めました。完全な独りで絶望していた時よりも、今はるかに遠く、そして高い場所に立っている実感があります」


「感動しているところ申し訳ないんですけど」

 ミリアが、すっかり冷めきった紅茶のカップを置いて急に立ち上がった。

「私たち、明日の大一番のこと忘れてません? ここで答えが出たって、明日の朝までに急いで山に戻って、あの『物理最強の学者』であるエルヴィラ教授が始原の石に触れる前に確保しなきゃ、全部世界の終わりですよ」


「もちろん忘れていません。明日は、全員で紡ぎ出したこの答えを持って、もう一度エオスに会いに行きます。そして同時に――世界の絶対的なルールを私物化しようとするファナティックな盗人を、物理的に力ずくで止める。この二つの難事業を、同時並行でやります」


「同時に、だと?」

 ダリウスが、片側の太い眉を吊り上げた。「おいおい局長。あの石の周りは魔法が一切使えねえんだぞ。しかも相手は、そのへんの騎士団より凶悪な剣術を使う大剣使いの学者サマだ」


「ええ。ですからダリウス副局長――エルヴィラの物理的な確保と無力化の全権は、あなた一人に完全にお任せしたい。私とリーネとミリアは、エオスとの最終的な対話と、石の再封印術式の構築に全神経を集中させます」


「……本気で言ってるのか? オレ一人に任せるって」


「ええ」レイヴンは、何の迷いもなく副局長の巨大な目を見つめ返した。

「まさに今、私たちがたった今ここで出した結論の通りです。不確かな契約魔法の縛りなんかよりも――私はあなたの三十年の血みどろの現場経験を、誰よりも『信頼』していますから」


 ダリウスは一瞬だけ虚を突かれたような顔をし、次いで、酷薄そうにすら見える獰猛な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。


「ふん。……当然だ。クソ真面目な局長サマには、そういう『生身の暴力』の仕事は似合わねえからな」


 暖炉の火が、最後にひときわ大きくパチリと爆ぜた。

 テーブルの上に並んだ冷めた紅茶のカップ。しかし、その場にいる五人分の知恵と思いが共有した熱は、極寒の王都の夜を確かに溶かしていた。


                           (第35話 了)


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本話の適用条文

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・契約法第7条(自由意思の原則)── 【解約・変更の自由】があるからこそ『本物の信頼』が証明されるという新解釈

・契約法第3条(合意の成立)── 魔法的拘束ではなく、人間同士の合意こそが本質

・※管理局の法解釈 ── 自由な『信頼』、絶対の『契約』、その二つを調和させる調整弁としての『法』

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