真実は目に映らない
◇
突如持ち込まれた申し出から三日後。レイヴンたちは、エルヴィラ=ノクターン教授を国境の特異点遺跡へと直接案内した。
特設調査隊のミリア、ダリウス、リーネが同行し、レイヴンはあえて一歩引いた位置から、エルヴィラの言動の全てを注意深く監視する役割に徹していた。
初対面の握手で自らの掌に刻み付けられた、あの分厚い刃タコ。一瞬だけ引き攣った右目の瞼。その隠された正体と目的を、確実に炙り出すために。
遺跡の最奥部に足を踏み入れた途端、エルヴィラは「ひっ」と短い息を呑み、完全に我を忘れたように極彩色の壁画に張り付いた。
分厚い革張りの鞄から年代物の手帳を取り出すと、壁面に彫り込まれた無数の文字を猛烈な速度で写し取り始める。その手つきは異常なほど正確で素早かった。ペン先が紙を擦る音が、まるで時計の秒針のように狂いのない一定のリズムを刻んでいる。荒い呼吸すら完全に制御された、熟練の職人のごとき所作。二十年間、大陸中の遺跡を這いずり回ってきたという経歴にだけは、一片の嘘もないことが窺えた。
「素晴らしい……。この文字体系は古代精霊語です。しかも精霊たちが共通語として用いていたコイネー方言の最古の形。……私なら、完全に解読可能です」
「読めるのですか、この古代の文字が」
レイヴンが感嘆を装って問うと、エルヴィラは分厚い眼鏡を押し上げた。
「ええ。この二十年の研究の全てを注ぎ込んで、私自身の手で『古代語辞典』を編纂してありますから。……少し、時間をください」
エルヴィラが解読に没頭するすぐ隣で、リーネもまた静かに自分の手帳を開き、ランタンの明かりを頼りに壁画の模写と記録を行っていた。
しばらくして、リーネは壁画の表面に顔を近づけ、ひんやりとした石の表面を指先でそっと撫でた後、静かに口を開いた。
「ノクターン教授。この一連の文章の……『ここの部分』だけ、文字の書体が僅かに違っていませんか」
「……何?」
リーネがランプの光を当てて指差したのは、壁面の下部に刻まれた一文だった。
「他の文字と比べて、線の彫りがわずかに深く、筆圧の角度も違います。文字の溝に指を沿わせるとよく分かりますが、他の文字は表面が長年の風化で滑らかなのに対し、ここの数行だけは石の削り跡の粒が粗い。……同じ時代に、同じ人間が、同じ道具で彫ったとは思えません」
エルヴィラが、ハッとしてリーネを見下ろした。
分厚い眼鏡の奥の瞳に、純粋な『驚愕』が走った。しかし――レイヴンの灰色の瞳は、その直後にエルヴィラの目に浮かんだ別の感情を確実に見逃さなかった。
驚愕は一瞬で消え去り、瞳孔が細く絞られる。冷酷に『計算』する目。ただの事務員だと思っていたこの銀髪の少女の『異常な観察力』を、今後の計画における脅威としてどう評価し、どう対処すべきか。戦士の本能で推量する目だった。
「……よく気づいたわね、お嬢さん」
エルヴィラはすぐに温和な学者の声色を取り戻した。「その通り。これは壁画の原作者とは別の何者かが、ずっと後世になってから人為的に『追記』した部分よ。削られた時期も全く違う」
「何と書いてあるのですか」ミリアが身を乗り出した。
「まだ完全には解読できていないけれど……『ここに眠るは、始原の――』で文章が不自然に途切れている。その続きの肝心な名詞にあたる一番重要な文字が、意図的に完全に削り取られてしまっているの」
リーネは無言で頷くと、削り取られてえぐれた石の痕跡そのものを、そのままの形で手帳に精密にスケッチし始めた。消しゴムの粉を払い、丁寧に鉛筆の先を紙やすりで整え直してから、線の太さまで正確に描き写していく。
推論や魔法などではない。石が今そこで語っている『破壊されたという物理的な事実』だけを、一切の主観を交えずに紙に固定する。……今のリーネにとって、記録の絶対的な精度は自らの命に等しい誇りだった。
◇
その日から三日三晩、エルヴィラはほとんど寝食も忘れて遺跡内に泊まり込み、壁画の解読作業を猛烈な勢いで進めた。
一方、その間にリーネは遺跡の外に張ったベースキャンプのテント内で、もう一つの重要な『調査』を極秘裏に徹底して行っていた。
レイヴンからの密命だ。「エルヴィラ=ノクターン教授の過去の経歴を、徹底的に洗ってください。特に――『資金提供者』の金の出所について」
遺跡の外の尾根まで出れば、微弱だが王都との通信魔法が使える。
夜、身を切るような凍気のテントの中で、リーネは小さな魔法ランプの灯りだけを頼りに、書類の山と格闘し続けた。王立大学の公開記録、過去の全学術論文のデータベース、管理局の人事ネットワーク、さらにはカールの権限を経由して帝国側の学術データベースまでも照合していく。
インク瓶のインクが凍りかけるほどの寒さ。リーネは悴む指先に何度も震える息を吹きかけながら、一枚一枚のデータを自分の手帳に書き写し、照合し、真実への線を引いていった。
その結果は――底寒さを忘れさせるほど、戦慄すべきものだった。
「局長。……ノクターン教授の経歴に関する、最終的な調査結果です」
翌朝。テントの外で、レイヴンが淹れたコーヒーを飲みながら、リーネは静かに手帳のページを開いた。
ページには、赤と青の付箋がびっしりと貼られている。
「表向きの経歴には、一切の瑕疵はありませんでした。二十年前に王立大学で古代魔法学の教授に就任して以降の論文四十三本は、全て極めて質の高い一級品です。……しかし、問題はお金の動きです」
リーネは、赤くマーキングした数字の羅列を指差した。
「七年前から突然、大学の正規の研究費とは全く別のルートから、不自然なほど巨額の資金提供を受け続けています。その秘密の提供元は――『ラピス基金』と記録されていました」
「ラピス基金……」カブの中で、レイヴンの灰色の瞳がスッと細まる。
「はい。表向きはただの学術支援目的の民間基金となっていますが、法人登記の書類が不自然なほど抜け落ちており、実質的な設立者の記録がどこにも存在しません。さらに――」
リーネの声が、一段と低く、冷たくなった。
「管理局の持つ大陸全土の資金移動ネットワークの記録と照合した結果、この『ラピス基金』から巨額の資金援助を受けているのは、ノクターン教授一人ではありませんでした。大陸各地の遺跡をそれぞれ担当している研究者、計『七名』が、同時期に同じ基金から秘密裏に支援を受けています。その七名全員の専攻分野が――全く同じ『古代契約術』です」
「……七人同時。極めて組織的な動きですね」
「はい。さらに、カールさんが共有してくれた情報と照らし合わせると――帝国北部の辺境で極秘裏に目撃されていたという『不審な遺跡調査団』と、このラピス基金の資金の動きが見事に一致しました。学術目的という完璧な隠れ蓑を使って、大陸中の古代遺跡を組織的に掘り返している――明らかに『何か』を血眼になって探している巨大な組織です」
レイヴンの脳内で、バラバラだった情報のピースが、冷たいカチリという音を立てて一つに繋がった。
「彼らが何を探しているか――もう見当はついています」
「始原の契約石、でしょうか」
「名前に含まれている。『ラピス(石)基金』。……偶然ではありませんね」
レイヴンは、手袋をした手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「非常によくやりました、リーネさん。ノクターン教授には、当面このまま自由に調査を続けさせます。泳がせて、彼女の後ろの組織へと至る『尻尾』を掴む」
「了解です。……それと局長。本件について、私から一つ『事後報告』があります」
「事後報告?」
「はい」リーネは少しだけ誇らしげに胸を張った。「この特異点遺跡の内側では、魔法の監視装置は一切機能しませんよね。ですので昨日、遺跡の最奥部に『旧式の光学式監視装置』を物理的に仕掛けておきました」
レイヴンは思わず目を見張った。
「光学式……ただのガラスレンズと感光紙を組み合わせた、あの前時代の代物ですか」
「はい! ダリウスさんが言っていたんです。『オレの生身の眼光は、魔法がなくても三十年は消えない。道具ってのは、魔法がなくても仕事を完遂するためのもんだろ』って。だから、魔法が効かないなら、魔法に頼らない物理的な光と薬品の記録方法を使えばいいと思ったんです。三日前に、こっそり特注で部品を取り寄せておきました」
指示されるまでもなく、この極限の状況下で魔法無効領域の弱点を突く監視網を、自らの頭脳と裁量で既に構築し終えていたのだ。
「……素晴らしい判断力と実行力です、リーネ調査員」
レイヴンの心からの賞賛の言葉に、リーネは嬉しそうに頬を染め――しかしすぐに調査員の鋭い顔つきに戻り、テントの奥の深い影の中へ手帳を仕舞った。
◇
遺跡到着から四日目。エルヴィラが一冊の重厚な解読レポートをまとめ上げた。
「壁画に描かれていた歴史の全体像は、局長殿がアルケスから直接聞いたという伝承と概ね一致しています。精霊と精霊の争い、そして魔法の誕生。……ただし一つだけ、アルケスが決して語らなかった『重大な欠落箇所』があります」
エルヴィラが三人を、遺跡の最奥部にある特別な壁画の前へと案内した。
それは他の壁画よりも一段と精緻で、色彩も生々しく残っている。特筆すべきは、赤い顔料の中に微細な金粉が贅沢に練り込まれており、ランタンの灯りの角度が変わるたびに、まるで壁画が呼吸しているかのようにチラチラと黄金の瞬きを放つことだった。千年前の狂気的な職人の技が、暗闇の中で今なお生きて鼓動している。
「ここを見てください。アルケスが契約魔法を『自ら創り出した』とされる場面ですが……壁画の描写によれば、彼は一人で無から魔法を創り出したのではなく、ある『絶対的な魔導具』の力を借りたと描かれています」
壁画の中心。巨大な一柱の精霊が、己の手のひらほどの大きさの『石』に、自らの血を流して何かを刻み込んでいる場面。
……その小さな石から、放射状に幾何学的な直線の光が広がり、大陸全体を檻のように包み込んでいく恐ろしい図。
「『始原の契約石』――古代精霊語で『プリマ・ラピス』。この世界の、全ての契約魔法の大源流となった魔法石です」
レイヴンは無表情のまま両手を後ろで組み、脳内でアルケスの悲痛な声を反芻した。
アルケスは「私が契約を創った」と言った。石という媒体の存在には一切触れていない。意図的に隠したのか、忘れるほど些細な道具だったのか、それとも――この壁画の解釈自体が、エルヴィラによる精緻な『誘導』なのか。
「この石を破壊すれば、アルカディア王国のみならず、世界中のあらゆる契約魔法が文字通り一瞬で消滅します。……逆に、この石を掌握し、完全に制御することができれば」
エルヴィラは壁画の金粉の瞬きを見つめながら、恍惚とした声を出した。
「世界の全ての人間の『契約魔法』を、意のままに自由に書き換えることができる」
その瞬間、エルヴィラの声に含まれた異常な『熱』を、三人は確かに感じ取った。
それは客観的な事実を並べる学者の声ではない。狂信者が神の奇跡を語る時の、冷遇され続けた者が革命を夢見る時の、ドロドロとした血の匂いのする熱だった。
「ノクターン教授。その石は……今、どこにあると書かれていますか」
レイヴンが極めて事務的な、氷のような声で尋ねた。
「壁画の解読によれば、この遺跡のさらに地下深く……未発見の層室に封印されているようですわ。残念ながら、正確な場所までは読み取れませんでした」
それが真実か嘘かは――レイヴンにはすでに分かっていた。
彼らが探しているのは、初めからこの『石』なのだ。
「結論が出ました。本件で得られた『プリマ・ラピス』に関する情報は、国家防衛上の最高機密扱いとします。今後一切の外部への情報漏洩を禁じます」
「……もちろんですわ。しかし局長殿、学術的に見ればこの発見は世紀の大偉業です。いずれ事態が落ち着けば、私の名前で論文を――」
「不可能です。プリマ・ラピスの存在が公になれば、世界の根幹を書き換えようとするテロリストや、他国の軍隊が必ずこの石を狙って国境を越えてくる」
その言葉を聞いた瞬間、エルヴィラの表情が――ピシリ、と固まった。
うっすらと開いていた唇が真一文字に閉じられ、分厚い眼鏡のフレームを押し上げようとした指先が、中空でピタリと止まる。
レイヴンはその反応を静かに観察した。それは怒りや落胆ではない。明らかな『焦り』だ。
自分の予想以上に迅速に網を張られたことへの焦り。あるいは――本懐を遂げるための『時間が足りない』という、切羽詰まった焦燥感。
◇
その日の深夜。
全てが寝静まり、吹雪の音だけが響くベースキャンプのテントの中で、リーネがレイヴンにひそやかに面会を求めた。
分厚い防寒着を着込んだリーネの手には、特殊な薬品の匂いが染み付いた数枚の紙が握られていた。
「……仕掛けておいた監視カメラが、さきほど反応しました。今夜の午前三時、ノクターン教授が単独でテントを抜け出し、遺跡の深部に入っています」
リーネが机の上に感光紙を並べた。
薄暗いランプの灯りの下、まだ定着液の匂いが残る青白いダゲレオタイプの光学像が、ぼんやりとだが確実に『人影』を捉えていた。エルヴィラ=ノクターンの、あの特徴的な痩身のシルエット。
「写真の中で、教授は壁面の文字を懸命に写し取っています。……写し取っているのは、昼間、彼女が堂々と『文字が意図的に削り取られていて、解読不可能である』と我々に報告した、正にその領域です」
「……解読できなかったのではなく」
「はい。彼女自身の編纂した辞書によれば最初から解読できており――意図的に我々に結果を隠蔽していただけです。教授は、プリマ・ラピスの正確な封印位置を、既に一人で特定している可能性が極めて高い」
テントの外で突風が吹き、分厚いキャンバス布がバタバタと腹立たしい音を立てた。テント内に持ち込んだ小さなストーブの残り火が一瞬だけ赤く蘇り、冷徹に証拠を突きつけるリーネの横顔を妖しく照らし出す。魔法無効化領域という、外部への通信も監視も不可能な『絶対の秘密の密室』。その安心感こそが、老練な結社の一員たるエルヴィラに油断を生じさせた最大の隙だった。
レイヴンは冷たいコーヒーを一口すすり、考えた。
明白な詐称と秘匿行為。即座に彼女を拘束し、尋問にかけることもできる。しかし――エルヴィラ個人の口を割らせるよりも、彼女を泳がせて背後にある『ラピス基金』という巨大な帝国組織の尻尾を掴む方が、国家にとってはるかに有益だ。
「リーネさん。非の打ち所のない、完璧な仕事です。……引き続き、写真による監視を。しかし、教授が石そのものに到達し、手にする前には必ず実力で止めなければならない。彼女の確保には、秒単位のタイミングが重要になります」
「分かりました」
「ちなみに……リーネさんが昼間、最初に『壁面の文字の書体の違い』について彼女に指摘したとき。教授の最初の反応は、どのようなものに見えましたか。あなたの目には」
レイヴンの問いに、リーネは少しだけ首を傾げて記憶を反芻した。
「……驚いた顔をしていました。一介の記録係の小娘が、肉眼で石の削り跡の違いに気づいたことに。でも、その驚きの直後に……明らかに『計算する目』に変わりました。刃物を隠し持った人間が、目の前の相手との距離をどう測るか、考えて評価しているような……冷たい目です」
「その『観察力』こそが、我々の何よりの武器です」
レイヴンの言葉に、リーネは小さく、しかし確固たる自信を込めて微笑んだ。
テントの中のランプが揺れ、彼女の小柄な影が分厚い布地の壁に大きく、力強く映し出される。二年前、公爵邸の地下牢の隅で、理不尽な奴隷契約に縛られてただガタガタと震えて泣いていたか弱い少女は、もうどこにもいない。
今ここに立っているのは――魔法という虚飾に一切騙されず、物理的な事実と証拠だけを静かに、そして冷酷に積み上げ続ける、契約管理局が誇る最も恐るべき『調査員』の姿だった。
(第33話 了)
━━━━━━━━━━━━━━
本話の適用条文
━━━━━━━━━━━━━━
・管理局設置法第5条(契約原本庫の管理)── 機密情報の保全とアクセス監視
・古代契約法(プリマ・ラピスの存在)── 始原の契約石に関する最高機密指定
・※ラピス基金 ── エルヴィラへの資金提供元。帝国と結びつく巨大な調査結社
━━━━━━━━━━━━━━




