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契約は嘘をつかない 〜「たかが紙切れ」と笑うなら法廷で泣け。底辺から這い上がった監査官が、一行の条文で世界を変えるまで〜  作者: みゃお
契約法典編

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31/40

遺跡は契約を拒まない


    ◇


 冬が深まるにつれ、王都の街並みは雪の中へ静かに沈んでいった。


 帝国との『共同管轄条約』の運用が始まって二ヶ月。

 レイヴンのデスクには日々、条約に基づく新しい運用報告が山のように届いている。過去のヴェルナーの悪弊を清算しつつ、前例のない国際ルールを現場に定着させる作業は困難の連続だったが、チームの働きは着実に実を結びつつある。

 ペンを走らせるレイヴンの手元に、ミリアが静かにカップを置いた。いつものイーグ茶。湯気は立っているが、一口飲んでみると心地よい温度まで冷まされている。「休む間もないでしょうから、淹れたては出しません」という、彼女独特の無言の気遣いだ。


 その平穏で濃密な執務の空気を、ノックの音が鋭く破った。


「局長! 緊急の第一級報告です!」

 リーネが血相を変えて局長室に飛び込んできた。彼女の腕には分厚い報告書と、独自に考案した色分け付箋の束が抱えられている。その全てに、緊急度『最高』を示す赤い付箋がいくつも貼られていた。


「どうしました、リーネ調査員」

「共同管轄地域の測量隊が、境界線の確定作業中に『致命的な異常現象』を発見しました。国境地帯の北東、深い山岳地帯の谷間に――『いかなる契約魔法も一切作動しない』空白の区域が存在しているとのことです」


「契約魔法が、作動しない……?」

「はい。通常の契約書をその区域に持ち込むと、魔法印章の光が完全に消失するそうです。管理局の監査印も反応せず、魔導具の類も沈黙する。契約魔法に依存する全ての事象が、その谷間では『無効化』されています」


 レイヴンのペンを持っていた手がピタリと止まった。

 ヴェルナーの暗号手帳にあった最新の記述。帝国北部辺境に『契約魔法の効力が著しく減衰する不可侵区域』が存在するという情報と一致する。


「問題の空間座標は、ヴェルナーの手帳にあった記述と合致しますか?」

「座標も規模も完全に一致しています。帝国のカール・グラント氏とも緊急回路で照合済みです」

 リーネは一切淀みなく答えた。この二ヶ月間、彼女は『新任の正規調査員』として国際契約チームの実務を完璧に回し、カールとの非公式な連携体制を自力で構築していた。半年前、貴族の館で奴隷のように震えていた少女の面影は、もはやどこにもない。


 レイヴンは立ち上がり、壁に掛けられた大陸全図の前に立った。

 問題の区域は、アルカディアと帝国の国境線から数キロほど帝国側に食い込んでいる。条約に基づく『共同管轄地域』の、ちょうど外縁部だった。


「完全に帝国側の領土内ですね。正式な調査団を入れるには、帝国の内務省の許可が必要になりますが……」

「その件については、すでに『ルシア特使』へ直接照会をかけ、即座に言質を取りました」

「ルシア特使から?」

「はい。『我が国も以前から持て余していた厄介な区域だ。アルカディアと共同で白日の下に晒すことに異議はない』と。先月結んだ条約の『学術的な共同検証』という特例条項を適用し、帝国内務省の干渉を排除する手はずも整えていただきました」


 レイヴンは思わず目を見開いた。驚くべき手際だ。帝国随一の冷徹な執行官と、自局の新米調査員が見事な連携を見せている。

「……素晴らしい初動です、リーネさん。国際条約が、早速最高の形で機能しましたね」

「はい!」


 レイヴンは振り返り、厳しい表情で告げた。

「特命の調査隊を編成します。私と、ミリア調査員、ダリウス副局長。そしてリーネ調査員。全員同行してください。明朝出立します」


「……おいおい局長。トップ全員で何日も前線をウロついて、管理局をカラにする気か?」

 部屋の隅で書類を読んでいたダリウスが、顔をしかめて苦言を呈した。


「この現象は、おそらく我々が扱う『法と契約』の根底そのものを揺るがす異常事態です」レイヴンは静かに、しかし有無を言わさぬ声で言った。「ヴェルナーが死の直前まで探っていた暗部の向こう側。……そしておそらく、この世界に契約魔法が生まれた『起源』に関わるものだ」


「……ちっ。契約の起源、ね」

 文句を言いながらも、ダリウスはすでに立ち上がり、愛用の分厚い防寒外套の留め金を点検し始めていた。三十年現場を潜り抜けてきた男の勘が、事態の途方もない『ヤバさ』を正確に嗅ぎ取っていた。


「準備するぞお前ら。氷点下の雪山ハイキングだ。気を引き締めろ」


    ◇


 特設調査隊の道のりは過酷だった。

 王都から帝国北部辺境へと向かう旅程は、馬車で三日、さらに道なき山道を徒歩で一日。王都を出たときは整った石畳だった道が、二日目には粗い砂利に変わり、三日目には凍てついた泥の轍へと変わった。車輪が深い轍に嵌まるたびに、軋む木の音が容赦なく骨の芯まで響く。ミリアはずっと酔い止めの苦い薬草を噛んでおり、馬車の中は革の座席の冷気と、馬の荒い息遣い、そして薬草の匂いが濃密に混じり合っていた。


 四日目。いよいよ馬車を捨て、険しい冬の山道へと足を踏み入れた。

 獣道のように細い斜面の周囲には、冬枯れの木々が灰色の骨のように無数に立ち並んでいる。足元の落ち葉は完全に凍りついており、軍靴で踏みしめるたびにパリパリと薄氷が砕ける乾いた音が響く。手袋を二重にしていても指先が痺れ、吐く息は真っ白に凍りつきそうだった。


「……待ってください。空気が、急に変わりました」

 先頭を歩いていたミリアが、ピタリと足を止めた。その瞬間――レイヴンの肌も、明確な『境界線』を感じ取った。


 ほんの十歩手前まで感じていた、強烈な冬の山肌の空気が消えたのだ。

 針葉樹の青臭い匂いも、湿った土の匂いも、野鳥の声も。見えない分厚いガラスの壁を通り抜けたかのように、全てがふっと遠のいた。音も匂いも極端に薄められ、世界そのものの彩度が一段階落ちたかのような、極めて不自然な静謐。


「鳥の鳴き声が、全く聞こえません……」

 リーネが呟き、素早く手帳を開いて方角・気温・風向きの記録を始めた。


「局長……私の監査印の光が消えました! 完全に魔力が通っていません」

 ミリアが腰から外した管理局の証を掲げた。淡い青の光を常に放っていたはずの魔法印が、ただの冷たい銀の塊に成り果てていた。


「おい……冗談じゃねえぞ。俺の『鑑定眼』もだ」


 背後から、緊迫したダリウスの低く掠れた声が響いた。

 振り返ると、ダリウスが片手で右顔面を覆い、何度も激しく瞬きを繰り返していた。しかし――三十年間、どんな時も契約の嘘を見抜くために灯り続けていた絶対的な『赤い光』が、まるでランプの油が尽きたかのように完全に消失していた。


 ベテラン副局長の顔に、明確な『恐怖』が張り付いていた。

 常にそこにあった右腕を突然切断されたような喪失感。それはかつて、レイヴンが暗闇の地下牢でヴェルナーと対峙し、金色の鑑定眼を突如奪われた時に味わった、あの圧倒的な絶望と同質のものだった。


「ダリウス副局長。……大丈夫です。この異常区域の外へ出れば、必ず元に戻ります」

 レイヴンが低く、安心させるように声をかけた。


「分かって……分かってはいるさっ……畜生め……」

 ダリウスは激しく舌打ちをすると、荒い呼吸を整え、両目を限界まで見開いて前を睨みつけた。その目にはもはや魔法の光はない。しかし――三十年間の修羅場を潜り抜けてきた男の勘と胆力は、決して魔法の光などには依存していない。彼は魔法を失った己の肉体だけで、一歩前へと力強く踏み出した。


 一方のリーネは、淡々と手書きで凄まじい量の情報を記録し続けていた。

 方角、気温、風向き、足元の土の感触、空気の湿度。魔法の記録装置が一切使えない現在、彼女の恐るべき集中力によって研ぎ澄まされた『五感』だけが、唯一の信頼できる観測機器だった。


「局長、足元を見てください。土の隙間から……わずかな光が漏れています。青でも金でもない、純白の光です」

 リーネの言葉にレイヴンが足元を凝視すると、確かに星明かりのような淡い光が土の奥から滲み出ている。手袋を外して土に触れると、驚くべきことに温かかった。極寒の冬山の中で、この光を放つ地面だけが生きた人間の体温に近い熱を持っていたのだ。


「区域内に入ってから、気温も急上昇しています。谷の外は氷点下でしたが、現在は推計十五度前後……まるで別の季節のようです」


 深い谷の最奥へと歩を進めた四人の前に、やがて唐突に『それ』が姿を現した。


 巨大な石造りのアーチ状の遺跡。

 高さは五メートルを優に超え、二本の極太の石柱と弧を描く天蓋からなる荘厳な門だった。その表面全体には、全く見たこともない古代文字がびっしりと刻み込まれている。文字の彫りは深く鋭く、一画ずつが石の芯まで食い込んでいるようだ。千年以上前の建造物のはずなのに、風化の痕跡一つなく、まるで昨日彫られたばかりのように生々しく鮮明だった。


 リーネがおそるおそる石柱の表面に指を触れ、息を呑んだ。

「……冷たくありません。石なのに……生き物の体温と同じです。それに、微かに振動しています。まるで、巨大な心臓の脈拍のように……」


「生きている石だと……?」ミリアが信じられないものを見る目で後ずさった。


「ちがう。石に何かが宿っていやがるんだ」ダリウスが、魔法を失った鋭い生の視線で遺跡をねめつけた。「魔法の目がねえからこそ、逆に嫌でも分かるぜ。この石の門は……俺たちに『何か』を見せようとして口を開けて待ってやがる」


 レイヴンは無言のまま、ゆっくりと脈動する石のアーチの下へと踏み込んだ。

 その境界線をまたいだ瞬間――完全に世界が反転した。

 外の凍てつく冬の冷気が完全に遮断され、温かく湿り気を帯びた空気が全身を包み込む。強烈な花の匂いが鼻腔を突いた。冬山には絶対に存在しない、ジャスミンに似たむせ返るような甘い香りに、古い苔と清らかな湧き水の匂いが混じっている。


 彼らは一つの門をくぐり抜け、文字通り『別の歴史』へと足を踏み入れたのだった。


 内部は、思わず息を忘れるほど広大な地下空間だった。

 天然の巨大な洞窟を人工的に削り出したもので、天井は遥か高く、見渡す限りの壁面全体を使って極彩色の『壁画』が描し出されていた。千年以上前のもののはずなのに、赤や青、そして金色の顔料は、まるでたった今塗り終えたかのように鮮烈な輝きを保ち続けている。


 その壁画に描かれていたのは、人間と精霊の姿だった。

 しかし、そこに描かれている両者の関係性は、現代の『契約関係』とは致命的なまでに異なっていた。


 精霊は人間のすぐ隣に立っている。主従でもなく、使役する側とされる側でもない、完全な『対等』として。彼らは間にいかなる羊皮紙も挟まず、ただ素手でしっかりと手を繋ぎ、同じ卓を囲み、同じ火に当たって笑い合っている。人と人間の間に、一切の『契約書』が介在していなかった。


「契約が、ないわ……」

 ミリアが、呆然と壁画を見上げて呟いた。


「この壁画が描かれた時代には……『契約』という概念そのものが存在していなかったのかもしれません」

 リーネもまた、震える手で壁画の模写をしながら言った。「契約がない世界なんて……どうやって社会の秩序を保っていたんですか?」


「約束だ」

 レイヴンは、静かな声で答えた。「ただの口約束。魔法という鎖で強制されることのない――純粋な『信頼』だけに基づく約束だ」


 しかし、レイヴンたちが遺跡の最奥部に歩みを進めた先には、もう一つの、巨大で恐ろしい壁画が待ち受けていた。


 そこに描かれていたのは、血を吐くような『悲劇』だった。

 人間が精霊を裏切る場面。口約束を破り、私欲のために精霊の住まう美しい森に火を放つ人間たち。灼熱の炎の中で泣き叫び、消滅していく精霊たちの姿。

 そして壁画の最後には――生き残った一柱の巨大な精霊が、巨岩の前に立ち、絶望の中で『何か』を刻み込んでいる場面が描かれていた。

 その精霊の凄絶な表情は、深い悲しみと激しい怒りに歪みきっている。己の指から流れる血も構わず、巨岩に亀裂が走るほどの凄まじい力任せに、永遠の呪いを刻み込むように。


「あれが……契約魔法の、始まり……?」

 ミリアが両手で口元を覆った。「約束を破った人間に対して、精霊が二度と裏切られないために作った『絶対に破れない約束』――それが、魔法印の起源……」


 レイヴンは、岩に爪を立てる精霊の壁画を、射抜かれたように見つめ続けた。


 契約は――純粋な信頼の『代替品』としてこの世界に生まれたのだ。

 人はもう信じられない。口約束は裏切られる。だから、冷酷な魔法の鎖で縛りつけるしかない。その魔法の根源に流れていたのは、千年前の凄絶な怒りと、二度と傷つきたくないという悲痛な恐怖だった。

 レイヴンがこれまで心血を注いできたもの。契約法、監査制度、そして国家間の巨大な条約。人間社会に秩序をもたらす素晴らしい法の光――その全ての土台が、人間の『裏切り』と精霊の『血の涙』の上に建っているという、残酷な真実。


「――よくぞ、見つけたな。人間よ」


 氷の刃を首筋に当てられたような戦慄が走り、全員が一斉に身構えた。

 ミリアが咄嗟にレイヴンを庇うように前に飛び出し、ダリウスが腰の剣の柄に手をかける。しかし、声の『主』の姿はどこにも見えない。見えない代わりに、広大な地下空間全体に凄まじい密度の『白い光』が脈動し始め、描かれた壁画がその光に呼応して不気味に明滅を繰り返す。

 甘いジャスミンの匂いが、急激に濃密になって鼻腔を麻痺させた。


「私は、この遺跡の番人。契約という概念が産み落とされる前の時代の記憶。……お前たちは、契約に支配されきった穢れた世界から来た者だな」


 その声は、掠れた老人のようでもあり、透き通った子供のようでもあった。性別や年齢という生物的な枠を完全に超越している。しかしその響きの奥底には、途方もない『時間』の重みがあった。深い深い水の底から響いてくるような重低音が、巨大な石壁全体を共鳴させ、彼らの足元の地面まで微細に震わせている。


「あなたは……何者ですか」

 レイヴンは、恐怖をねじ伏せて真っ直ぐに問うた。


「精霊ではない。精霊とは、契約と結びついて固定化された存在だ。私は――契約という鎖が生まれる前の存在。お前たち人間の稚拙な言葉で定義するならば、『ファントム(幻影)』とでも呼ぶがいい。純粋な約束と信頼だけで生きていた時代の、哀れな残滓だ」


 空気を震わせていた白い光が、空間の中心で徐々に凝縮し、巨大な人の形を取り始めた。

 輪郭はあいまいで、顔の造作も判然としない。しかし、その霊的な質量は圧倒的だった。建国の大精霊アルケスとは全く位相の異なる、より古く、より野蛮で根源的な力。周囲の空気そのものが鉛のように重くなり、呼吸をするだけで肺が軋むように痛んだ。


「ぐっ……!」

 ついにダリウスが片膝を突いた。魔法の目などなくても、鍛え上げられた戦士の肉体そのものが、目の前にいる存在との決定的な『力の差』を本能的に悟り、警戒信号を鳴らし続けていたのだ。


「人間よ。なぜ、ここへ来た」

「契約魔法が通じない、この特異な区域を調査するためです。……この区域の魔法を無効化しているのは、あなたの力ですか」


「無効化などしていない。この場所は元々――契約が存在しないのだ。契約が生まれる前の『自由な空間』が、この谷間にだけ取り残されているに過ぎない」

「なぜ、ここだけが残っているのです」

「私が守っているからだ。契約のない世界――すなわち、真の自由の世界を」


 ファントムの声に、底なしの悲しみが混じった。

 千年という途方もない孤独の中から絞り出されるような響き。ポタン、と天井から落ちた水滴の音が、その深い悲しみに句読点を打つように静電気を帯びて響いた。


「かつて、この世界に契約という鎖はなかった。人間と精霊は、信頼と友愛だけで完全に共存していた。しかし人間は欲に駆られて約束を破り、見放された精霊は絶望の中で『決して裏切れない縛り』――つまり、契約を作った。その日、世界から自由は失われた。お前たちはみな、精霊が作り出した残酷な魔法の鎖で永遠に縛られ続けているのだ」


「……私たちの法と契約は、残酷な鎖ですか」

 レイヴン가呟いた。


「鎖だ。お前たちは生まれた時から首輪をつけられ、それに気づいていないだけだ。……人間よ、そんなにも、純粋な『信頼』だけでは不十分だというのか?」


 レイヴンは即座には答えなかった。いや、彼の法学の信条が、その純粋すぎる問いの前で一瞬息を呑んだのだ。

 しかし――彼のすぐ前に立っていたミリアが、静かに、しかし決して引かない声で口を開いた。


「たしかに……私たちの世界には、契約の罠に嵌められ、騙されて苦しむ人がたくさんいます」

 ミリアは、あの薄暗い地下牢を思い出すように目を伏せ、しかしすぐにまっすぐ前を向いた。

「でも――『契約』があったからこそ、救われた人も確実にいるんです。ここにいるリーネさんは、不当な奴隷契約を正当な法で解除することによって、人生を取り戻しました。契約というルールがなかったら、強大な力を持つ者を前に、弱い彼女を救う方法は絶対にありませんでした!」


 ファントムの形作っていた白い光が、はっきりとミリアの方へ向いた。

「人間は、契約という鎖で縛られているからこそ弱者を騙し、同時にその鎖を用いて弱者を救済しているというのか。……ひどく矛盾しているな」


「矛盾しているのは――この世界に生きる私たち人間が、そうだからです」

 横から響いたその言葉に、今度はレイヴンの胸が小さく跳ねた。

 それは、今まさにレイヴン自身が思考し、言語化しようとしていた『答え』と全く同じだった。ミリアは、いつの間にか局長の思考の深淵まで追いついていた。


 ファントムの放つ白光が、束の間、柔らかく揺らいだ。

「……面白い人間たちだ」

 その声の底から、先ほどまでの激しい敵意が僅かに薄れていた。


「お前たちに、さらに考える時間を与えよう。いずれ明確な答えを持って、再び私の前に立ってみせろ。『契約は本当に必要なのか。信頼だけでは不十分なのか』――その究極の答えを。……お前たちの持ち帰る答え次第で、この世界の未来の在り方が決まる」


 言い終えると同時、巨大なファントムの輪郭は霧散し、遺跡を照らしていた白い光が幻のように薄れていった。

 後には、色鮮やかな壁画と、冷たい石の静寂、そしてむせ返るようなジャスミンの匂いだけが、深い余韻となって残されていた。


    ◇


 王都への帰路。特設調査隊の四人は、誰一人として言葉を発しなかった。


 凍えそうな冬の山道を黙々と下りながら、それぞれが自分の中で、ファントムに突きつけられた重い問いを反芻していた。

 純粋な信頼だけでは不十分か。契約という悲劇的な鎖がなくても、人類は生きていけるのか。


 軍靴で踏みしめる足元の落ち葉の音が、昨日ここを登ってきた時とはまるで違って聞こえた。パリパリと薄氷の砕ける乾いた音が、あの魔法の遺跡の中の『永遠のような静寂』を知ってしまった耳には、ひどく騒がしく、現実的で、痛々しく響いた。


 その確かな問いに対する答えは――まだ、四人のうちの誰の中にもなかった。


                           (第31話 了)


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本話の適用条文

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・王権契約第3条(領土の不可侵)── 遺跡のある帝国領の調査には帝国側の許可が必要

・古代契約法(未分類)── 契約前時代の遺跡・壁画が発見される

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