第83話:宵闇の襲撃者①
時刻は深夜を回り、多くの者が眠りに就く頃。
都市の一角に建つ退魔組織が擁す教会に、招かれざる来客が訪れた。
ソレは、最初小さな染みだった。礼拝堂の床面に、滴る雨雫のように生じた黒い染み。
ソレは急速に円形へ広がり、水溜りの如き姿へ変わる。水面のように揺れる表面は、どこまでも暗い真の闇だ。
ソレが中心から唐突に盛り上がり、次の瞬間には漆黒の外套を纏う何者かが出現していた。固く閉ざされた扉を開けたわけでもなく、ソレは礼拝堂の直中に独り佇む。
目深に被ったフードの下、そこへ隠された素顔は知れない。ただ僅かに覗く口元は、厚みと潤いを持つ女性のもの。
「既に礼拝の時間は過ぎている。御引取り願おう」
硬く平板な男の声が、闖入者へと投げられた。
北壁の高所へ嵌め込まれた荘厳なステンドグラス、その直下へ設けられた説法台の正面に、声の主は立っている。
黒色の立襟僧衣を着込んだ大柄な男、スメラギ・フオウ。彼は歩を踏まず現れた謎の存在に驚くでもない。
彫りの深い精悍な顔は落ち着いた表情を崩さず、黒い瞳で闇色の外套者を見据えている。
至高の精霊使いマカベ・ミハルの弟子であり、武装教会派の上位戦駆者として活動してきた彼にとって、珍奇・怪奇の類は慣れたものだ。
数多の悪鬼邪妖を屠ってきた歴戦の勇士は、ただ静かに不審人物を観察する。
「この教会には守護結界が施してある。それへ一切反応せず、内側に立ち入るなどと。人の容に見えるが、貴様、尋常の存在ではないな?」
フオウが問う。その直後。
立ち尽くす外套の全身から、目には見えない闇の気が溢れ出した。それは猛風を伴い瞬時に拡散し、神父が着る僧衣の裾をはためかせる。
同時に、胸を押し潰すような圧迫感が礼拝堂の全域を満たす。
見た目には変化がない。しかし巨大で堅牢な檻に捕われたような、言葉に出来ない焦燥と不快感が本能を刺激する。
「なんだ、この瘴気は。邪悪の蔽いで結界を内から侵す気だな」
眉間に縦皺を刻み、フオウは肩幅に脚を開いた。
相対する得体の知れない存在を、明確な敵と定めて態勢を整える。
そんな彼の動きを前に、闇暗いフードから露となる唇が、僅かばかりに笑みを刻んだ。
「我に挑むか。無為だな。抗うな、受け入れろ」
外套の奥から零れた抑揚のない声へ応じ、女の足下が揺れる。
暗く深い影の水面が震え、そこから勢いよく怪物が噴き上がって来た。
フオウの身の丈を越えた醜悪な異形は、高らかに舞い上がり、暗色の雫を滴らせ、床の上へと着地を果たす。重量物の落下に空間全体が唸り、支柱を衝撃が伝い走った。
真紅の眼球を忙しなく動かす人外魔は、牙を剥いて対前の神父を見下ろし咆える。
「終局の理を」
女の一声に応え、異形はしたたかに床面を蹴った。
その勢いで床を踏み割り、正面目掛けて突っ込んでいく。驚異的な瞬発力が筋肉質な躯を押し出し、弾丸さながらの狂猛さでフオウへ迫る。
互いの距離が致命的に縮むまでは殆ど一瞬。常人では反応も難しい極限的な動き。だからなのか、フオウはなんの反応も示さない。
ただ立ち尽くすだけの神父へ、闇色に滑る異形は殺意を発散して飛び掛かった。長い腕が限界まで伸ばされ、獲物の心臓を正確に射抜く。
その刹那だ。
鋭利な爪がフオウに接さんとした時、突如として異形の全身が後方へ吹き飛ばされ、神父から一気に引き離された。
目に見えない力によって弾かれた怪物は、抵抗することも出来ないまま最も遠く離れた壁面に激突する。
これと並行してフオウは懐から聖別された四本の釘を指に挟み抜き、即座に左腕を一閃。放たれた聖釘は正確且つ高速で虚空を走り、壁に叩き付けられた異形の頭、首、胸、腹へ見事突き刺さった。
「どういう理屈か知らんが、貴様は護りの術を素通り出来るらしいな。だが、あの怪物はそうもいかぬと見える」
漆黒の外套を見据えるフオウの足下には、金色に光る円陣が現れている。
微細な神霊文字と複雑な図形を内包した法円が、神父を軸にゆっくり回転していた。
彼が師の教えと繰り返される戦いの中で練り上げ、惜しみない努力の成果として創り上げた独自の防御陣である。
術者を中心としてごく狭い範囲にしか展開出来ないが、その分、圧縮された霊子力密度は鉄壁の領域を構築する。外から向かい来るあらゆる異力に自動反応する防御陣は、抵抗素子の励起発動による先鋭的な排除機能が連なり、瞬間的に生じる爆発的なエネルギーを対消滅運動に転化。それによって侵入者を防ぐのではなく、強制的に叩き壊すことで阻む堅牢な要害として優秀な性能を誇っていた。
凡百の魔物などは触れた直後に存在を抹消されるほどの力がある。例え耐え凌いだとしても、強靭な防壁が相互に反転して外界への急膨張を遂げ、近付く全てを容赦なく吹き飛ばす。後は弾かれた異形と同じ末路を辿るのみ。
攻防一体の法円によって弾き飛ばされ無力化した瞬間、外敵はフオウが常備する聖釘に刺し貫かれる。この釘にはフオウが日頃から霊子力を注ぎ、丹念に洗礼処理を施すことにより、不浄を相手にしては無敵の撃滅力を発揮した。貫いた対象の内外構造を高速で解呪し、抗う間も与えず浄化消滅させてしまう。
事実、彼の四釘を受けた異形は、教会壁に縫い付けられた状態から白煙を上げ始めていた。そうかと思えば全体が霞んでいき、朝靄の如く掻き消えてしまう。




