酒場にて
夢だったのだろうか。
たくさん、空からきらきらとふってきた、雪のようなあれは。
もう何もない。何も。
空中庭園の中心のあたりで倒れているあの人は誰?
ロスマリンの仲間……その可能性が一番高い。そうじゃないと、オーロラさんと戦っていた説明がつかない。
説明がつかないといえば、さっき二人のうしろに浮いていたあの無数の刃も……。
オーロラさんが歩いて、立ち止まった。
すごい存在感。
あの〈四人〉がただ集まって立っているだけなのに、ある種の〈結界〉があるみたいで近寄りがたい。
それよりお父様。
お願い。生きていて。
◆
言葉がない。
オーロラは静かに見つめていた。
視線を受けている彼女も、無言。
地上から届く爆発の音がいよいよ強くなる。
庭園にも大きく響き、地面がゆれて、わずかに足場が斜めに傾いた。
「ここはもう危険だ」アルシアスが、しびれを切らしたように口をひらいた。「いくぞ」
オーロラから目をそらし、横たわるコブラを見下ろすロスマリン。
彼女の体から流れ続けていた血が、足元に落ちて広がっていて、コブラの体の下にある血だまりといっしょになっていた。
そして顔をあげると、
(やさしい表情だ。あのころと、何も変わっていない)
微笑した。
その顔つきは自然。
ただ、オーロラの気持ちを不安にさせるものもあった。
別れ、を暗示するような表情に映ったのだ。
ロスマリンはゆっくり歩いて、建物の端に立った。手すりも何もない。身をのりだせばそのまま下に落ちる。
「ばかな真似はやめて!」カミーラが叫んだ。彼女には、ロスマリンが自殺するように思えたからだ。
カミーラのほうを見た。もう、オーロラに向けたような微笑はしていない。
次に、アルシアスを見る。
感情のない無表情。
だが二人は感じとった。ロスマリンのまっすぐな瞳にこめられた、命がけの戦場をともに戦った者へ向ける〈友愛〉の情を。
オーロラは迷っていた。もし、死ぬことでみずからに決着をつけようとしているのなら、それを止める資格は自分にあるのか? 彼女の意志を尊重するべきではないのか。助けるべきでは、ないのではないか。
しかし決心する。
駆け寄って、
ロスマリンに手をのばした。
向こうも、オーロラに手をのばす。
その体はすでに、空中にあった。
斜めに下げられた手と、斜めに上げられた手が、遠くはなれてゆく。
轟音。
黒い煙に包まれて、落下する姿が途中から見えなくなった。
「そんな……」
背後で、カミーラがつぶやく。
「氷山で、裂け目に落ちても死ななかったという神秘的な力があるんだ。こんなところで死ぬはずはない」
アルシアスは、ひとりごとのように言った。
「お父様!」
ユードラがコブラの体に手をあて、大声を出していた。
「しっかり……しっかりして! お願い! 死なないでっ!」
カミーラがひざをつき、彼の状態をあらためた。
「心臓をやられているわけではないようです。急げば、まだ……」
自分には〈バラの瘴気〉があって、近くにいる人間を毒してしまう。
アルシアス、と声をかけようとすると、
「ふん」すでにコブラのわきの下に、自分の体をさしいれていた。「何をしている、おまえも肩をかせ」と言われ、あわてて指示にしたがったユードラ。
コブラへの影響を考慮し、カミーラは数歩うしろに下がる。
(あれだけ他人に対して冷淡だったアルシアスが……。ふふ。いろいろあったけれど、オーロラと関係をもったことで彼女も少し〈やさしく〉なれたということかしら)
唇に笑みを浮かべたまま、視線を横へ流した。
いない。
オーロラは、いったいどこへ?
◆
建物の高いところから流れ星のように何かが落ちた。
人の大きさの、黒い布だったような。
それが見えたのはほんの一瞬。
しかしリクールにはすぐにわかった。
(師匠……)
そして理解した。
もうこの要塞教会に用はないんだ、と。
図書館に待機していたあの人は、撤退するタイミングをはかっていた。
この教会の各所に爆薬をしかけ、徹底的に破壊することは全員に周知されている。
〈光路〉が教会の兵、帝国の兵に何重にも包囲されたこの状況。
崩壊の混乱をうまく利用して逃走するためには、はやすぎてもおそすぎてもいけない。
その時が今。
攻撃の手をとめ、うしろにひいた。
一呼吸も休まずに攻めつづけたせいか、剣の柄をにぎった手からは血が流れている。
(なるほどな)
さきほどからくり返し発生している爆発、これは〈光路〉がここから逃げ出す布石であることはわかっていた。
彼らにとって、今こそ潮時だということだろう。
結局、ずっとここで足止めをされてしまった。オーロラたちの力になれたとは言いがたい。
けっして手を抜いたわけではない。
しかし、この若き剣士の懸命さに胸を打たれたのも事実。
ザイネギアは無言で剣をおさめた。
そして、
(こんな俺なんかに……?)
右手を前にのばし、こぶしを心臓の前にもってくるポーズ。
それは相手に、おしみない敬意をしめすポーズ。
(ありがとうございます)
リクールも同じ身ぶりをして、返礼した。
近くで爆発が起こる。
まとわりついた煙のせいでそうしたわけではないが、ザイネギアはあえて少し長く、目をつむった。
彼がまぶたをあける前に、リクールはその場から完全に姿を消した。
◆
「オーロラ!」
ガニュメデスが大きな声をあげて立つ。しかしすぐに、頭をおさえて片ひざをついた。
大丈夫ですか、と近寄るカミーラ。
それよりあれを、と彼女は指をさす。
そこにオーロラは立っていた。
ロスマリンが身を落としたところと、ちょうど反対側の庭園の端に。
「待って!」カミーラは走った。「待って……」
「ここでおわかれだ」
「そんな」
「帝国軍にはもどれない。ここにはもう、私の居場所はないんだ」
強いまなざし。
カミーラの口からは、言えない。
いまさら帝国のためにいっしょに戦ってくれなんて。
じゃあ、オーロラは一介の修道女にもどって、戦わなくてもいい?
いいえ……これだけの力を、戦力を、軍の重役たちが放置しておくわけがない。
なにかと理由をつけて、どうにか戦わせようとするだろう。
国家のために。私欲のために。
その命令に、かたくなに従わなければどうなるかなんて、目に見えている。禁錮……拷問……刑死……。
それでも、
「行かないでっ!」
とカミーラは心をぶつけた。
はなれたところから、アルシアス、ユードラ、ガニュメデスも二人のやりとりを見守っている。
「どこにも行かない」
かすかに、笑ったような顔だ。
安心した。カミーラは胸に手をあてる。
「私はいつだって、おまえのそばにいる。おまえが私を、心から愛するのなら」
あ……
オーロラの背中。
遠ざかる背中。
目の錯覚か、すーっと体が上昇してゆくように見えた。おそらく、カミーラがいる庭園のほうが大きく斜めに傾いたせいだろう。
死ぬための跳躍のようではなかった。
もっと、前向きな、未来に自分の体を投げ入れるようなジャンプ。
「オーロラっ!」
はげしい爆音の切れ間の短い静寂で、カミーラの悲痛な叫び声が、長い残響をひいた。
◆
この物語も、もう終わる。
あとは、〈四聖女〉および彼女たちに関係した人物のその後について、述べておきたい。
カミーラは帝都に帰還し、将軍の職務をまっとうした。
雲散霧消した自身の隊の再編、正式な命令なしで要塞教会に攻め入ったことの問責、カミーラに思いを寄せる有力貴族の男たちとかかわる女連中からの嫉妬や、ありもしない醜聞の流布など悩みの種はつきなかったが、持ち前の奸智をもっていずれも過不足なく終息、解決した。
後世の歴史学者は彼女をこう評する。「最高の美貌と剣技をあわせもった、帝国史上一番の女将軍」だと。
しかし、彼女の将軍としての後半生に色濃くあらわれた部下へのいたわり、思いやりなどに起因する〈人望〉に言及する学者は、あまりにも少ない。残された文献などには、その点がほとんど記されていないからだろう。
なお、生涯、背中の傷痕を男に見せることはなかったという。
アルシアスも帝都にもどった。
が、ひとときとはいえテロリストに転向したことは容易には許されなかった。それに、帝位継承権を持つルブルックを彼女が暗殺しようとしたことはもはや誰もが知っていることだった。その罪だけでもかなり重い。カミーラの懇願と根回しもむなしく、ほどなくして牢に入れられた。演劇のように、誰かが書いた台本をなぞるだけといった裁判のあとにくだされたのは〈死刑〉。
だが、その執行の前日の夜、アルシアスは脱獄に成功する。
監視の兵たちに睡眠薬がもられていたこと、牢屋のカギ、さらにはそこへいたるまでの通路のカギなどもことごとく開けられていたことなどから推察して、誰か彼女の脱走を手引きした人間がいるのでは、と思われたがとうとうその〈協力者〉はわからずじまいだった。
早朝、アルシアスがいなくなったことを最初に発見した兵士が、調査にあたった人間に、あまりにもささいなことだからと報告しなかったことがある。「牢屋ん中からよぉ、かすかに……バラのかおりがしたんだ」友人と酒を飲んだ時に、そんなことを語っている。
ガニュメデスは顔をあわせるとすぐに、教会領からディーによって帝都に移送されていたマリーに真実を告げた。
刹那、マリーが顔を赤らめてなんとなく恥ずかしそうな表情を浮かべた意味はガニュメデスにはわからない。しかし次の瞬間、おねーちゃん! と明るい声で抱きついた。
自身が所属していた〈レディ・エリーツ〉が空中分解したことを機に、彼女は軍隊をやめた。そして通常の貴族がするような生活を送ることとなる。しだいに髪も長く伸び、背も伸び、体のラインもより女性的になって、とうとう結婚をせまってくる男性まであらわれるようになった。
でも退屈な日々。ガニュメデスはそれにたえられず、帝国の諜報機関のハイドランジアに自分を売り込んだ。持ち前の情報収集力、人物の観察眼、迅速かつ大胆な行動力、そして使う機会はなくなったものの破格の戦闘力が彼女にはある。「有能な部下ができました」とはディーの弁。
数年後、姉も妹もともに美しく成長し、貴族たちの社交界の間では評判の存在になったという。
ある舞踏会で長い金髪をなびかせるガニュメデスに声をかけた男爵は彼女とダンスをおどっている間、ずっと腑に落ちなかった。容姿端麗、ドレスも似合っている、なのに、なぜ彼女の腰には〈短剣〉が装着されているのだろう……それも二本も。
あの要塞教会は、〈光路〉の爆破によって打ち壊され、ガレキの山になった。
逃げおくれて負傷した者も多い。
突入した兵士たちは教会の人間を救出しつつ、犯人たちの捕縛をこころみたが、〈光路〉のメンバーや、彼らに雇われた暗殺者は、〈建物が壊れる前にすでに戦闘不能になっていた何人か〉をのぞいて、一人もつかまらなかった。
この場所における最高権力者の大司教は無事に発見されるも、こよなく愛した建物の崩壊か……あるいは〈とてもおそろしい経験〉でもしたのか、精神に深いダメージを負ったみたいで、なかば放心状態だったという。とても職務をとりおこなえる身ではなく、彼は山ぶかい田舎に送られてそこに隠棲するようになり、静かな余生をすごした。
ヨーゼフ司教もほどなく保護され、救助された。治療にあたった人間は彼に何度も〈剣で斬られた傷〉について質問したが、いつも明確には答えず「誰かにやられた」と苦笑まじりに答えるばかりだったらしい。
ヨアンナ=エヴァンナストの死体は、見つかっていない。
ユードラは墓前に花をそなえた。
ここであの人が死んだわけじゃないけど、ここがあの人のお墓ってことにきめているから。
もう、ずいぶん時間が流れたけど、要塞教会でのことはいつだって昨日の出来事のように思い出せる。
あの日、わかったこと。
私は戦いには向いていない……ううん、私がそんなことをしたら、お父様に迷惑がかかるってことがわかった。
自分に、人を殺させたくない。お父様がそう望んでいたのなら、すぐにでもやめるべきだった。世は戦乱であわただしいけど、力仕事をしたり、小さなものを売ったり、動物や作物を育てたり、生業はいくらだってある。
そう。もっとはやくに、〈ホワイトハンド〉なんかやめていたら……
「ここにいたのか」
私はふりかえる。そして言う。
「お父様」
私のとなりにしゃがんで、同じ色の花をそなえた。横に見える、たくましい腕に彫られたヘビのタトゥー。
「マリアンゼは、あまり花は好きじゃなかったがな」
と言って、ははっ、と笑った。
あの日、お父様は一命をとりとめた。カミーラさんが言ったとおり、心臓には損傷がなかったことと、すぐれた肺活量があって片方の肺をやられてももう一方がじゅうぶんに機能し、事後の経過も良好で回復もはやかった。
よかった、ほんとに。
「さて、もうひと仕事だ」コブラが立ち上がる。「牛どもに、エサをやらなきゃな」
「私も手伝います」
彼は斜めに唇をあげ、ユードラの頭にぽんと手をおいた。
ロスマリンの行方は不明。
表面的なところでは、〈光路〉はこの後、非暴力と説得を重んじる穏健派と、従来どおり暴力を改革の手段とする急進派とに分かれた。
ロスマリンがこの二派のどちらに与していたかはわからない。そもそも生死すらわからない。
彼女(らしき人間)と接触した数少ない人間は、口をそろえて〈つねにそばにいた若き剣士〉の存在を語っている。
ある者は狂暴な番犬のようだと言い、ある者は忠実な騎士のようだと言い、ある者は姉弟、またある者は男女のパートナーのようだと言っていて、どれを真実とするかはまことに決めがたい。
そして……
うす暗い酒場。
「信じられねぇが」どん、と飲み干したグラスをテーブルにたたきつけた。「いくら待っても連絡が来ねぇ……やはりあの日、あの場所で〈漂流者(エパーヴ)〉は……」
「わかりませんよ」首をゆっくり左右にふる。「あのおかたは、前々から気まぐれなところがありましたから」
「予定を少し変更する必要があるな」テーブルの上の地図を指の先でこんこんとたたく。どういう意味か、そこには大きく〈×〉が記されている箇所があった。
「そうだよそうだよ。あの人が最強だったんでしょ?」
「どうかな。確かに最強の一角ではあったが……」
「まあまあ」持っているグラスを高くかかげた。「おまえら、もっと飲めよ。世界中に散らばった〈俺たち〉がこんなに集まるのなんて、はじめてだろ? 俺は、うれしいぜ」
「この程度の人数でそんなに喜ぶのなら」ほおづえをついたままで言う。「いずれあなたは感動で死んでしまうかもね」
「どういう意味だい?」
「さあ……」
入り口に、人が立った。
黒いローブに白い頭巾。それは修道女の服装。
店のマスターは首をかしげた。なんだか……一瞬でお客たちの雰囲気が変わったような気がしたからだ。
一つの集団で語り合っていたように見えたが、いつのまにか、彼らはそれぞれ、一人で飲みにきている客や、二人づれや三人、四人の小さなグループにわかれ、普通の市民のように談笑していた。たがいに知らない者同士のように。
神につかえるシスターは聖女。
人を殺す武器など、もっているはずがない。
彼女の腰のあたりに、かたく、鋭利なものがかくされているように見えても、それは気のせいだろう。
ゆっくり手がうごいて、体の下のほうへ。
中の客たちは、それを見ていないフリをしているが……。
手がさらに、服の中の何かをさがすようにうごく。
突然、店の中の話し声がやんだ。何事か、とグラスをみがいていたマスターの手もとまる。
全員が同時に、その聖女の顔を見た。
全員を見つめ返し、
女の唇が、注目すればやっとわかるほどかすかに、斜めにあがって、そのまま彼らに向けて言葉を発した――。
町は、もう日が暮れている。夜はもっと深くなる。
教会の晩鐘が鳴った。
<聖女のオムニブレイド・完>




