最終話 幸せなキス
トオルくんは本当に招き猫だ。
──いや、訂正しよう。トオルくんは招き猫であり、トールなのだ。招き猫のトールである。
トオルくんがヤンソンのバイトに戻ってくれて、また売り上げが戻った。いや、それどころか倍増したのだ。もう感謝感謝である。
ひっきりなしに来るお客さん。私は品出しに、トオルくんはレジ打ちに精を出した。
二人で頑張ったかいもあり、七時二十分、ようやっと店を閉められた。
札をクローズにする。そこから、ここ一週間ほど恒例となったトオルくんとのお茶会が始まった。
ラウンドテーブルを挟み、談笑する私たち。他愛もない話ばかりであったが、お互いに朗らかな表情をしている。
そんな中、突然会話が止まり、トオルくんが真顔になった。これは何かあるのだろうと、敏感に察知し、訊いてみた。
「どうしたの、トオルくん?」
「えっと、あの……」
「ん? どうしたの?」
「いえ、別に。なんでも。なんでもないです」
私はコーヒーカップを傾ける。一口飲んでから、微笑みながら問いかけた。
「言いかけとか、身体の毒よ。言ってみて? トオルくんの言うことなら、大概は聞けるから」
「え、えっと……じゃあですね」
「うん」
「本当に言っても。僕の我儘を言ってもいいんですね?」
「はい、どうぞ」
私は丁寧に尋ねる。
トオルくんはもじもじしていた。こんな彼は珍しい。いつも、てきぱきと流れるように物事をこなすのに。エースで四番で、頭もいい。家の財力までもある。その上、転生してきた北欧神話の神なのだ。
そんな彼でも、もじもじしたりするのか。ある意味、感心してしまう。
トオルくんは意を決したようで、ようやっと口を開いた。
「その……以前、ここを辞める前、臨時ボーナスがあるって言ったじゃないですか? あれって、僕はまだもらっていないですよね?」
「あ、そうだったね。トオルくん、ごめんなさい。失念していたわ。で、何が欲しいの? 言ってみて?」
「いいんですか?」
「どうぞ」
「最高に……僕にとっては、高価なものですよ?」
私は頬を引きつらせる。お坊ちゃんである彼が言う「高価なもの」とは一体。お車一台とかでしょうか?
それでも覚悟決め、訊いてみる。
「それって何かな?」
「えっと。アナタの。シブさんへのファーストキスです!」
言い切られ、唖然とする。彼の言葉を飲み込むと、私の頬はかぁっと熱くなった。
「ええぇ。そ、そんなつまらないものをご所望なのですか?」
「つまらないなんてとんでもない! シブさんは知りませんが、僕のファーストキスです。好きな人とのキスなんて、どんなものより値打ちがあるじゃないですか! 高価じゃないですか!」
「そんな……私のキスなんて、そんなに価値はないわよ」
「いえ、僕にはどんなダイヤモンドよりも、シブさんの唇の方が高価ですから」
トオルくんがラウンドテーブルに手を当て、立った。そして、顔を近づけてくる。白熱電球のオレンジ色の灯りが、彼を照らし出す。髪はふわりと流れていて、赤い色が燃えている。トール神の髪は、燃えるような赤なのだ。
「そ、そんなことないってば」
私も席を立つ。徐々にお互いの顔が近づいていく。距離が近づくにつれ、心臓の鼓動もどくんどくんと高鳴っていく。
「シブさんもこれがファーストキスですか?」
「う、うん。そう……これが私のファーストキス」
もうお互いの息がかかるほどに顔が近づいている。
焦がれていく。私の心が恋焦がれていく。
熱く熱く、燃える炎のように。
逃げ出したいくらい恥ずかしい。でも……欲しい。トオルくん自身を。我儘だけど、独り占めにしたいほどに。
「二十七にもなって、ファーストキスをしてないなんて、可笑しいでしょ?」
「いえ、ちっとも。僕はかえって感激しています。シブさんのファーストキスが奪えるなんて」
はぁ、とお互いの息がかかる。もう鼻がくっつきそう。
私はたまらなくなり、そっと目を閉じた。
それから、唇に柔らかな感触。トオルくんの唇は、彼がつけているリップクリームの柑橘系の味がした。
小鳥がついばむようなソフトキスをする。ついに、キスしちゃった……。それも憧れのトオルくん相手に。
そのまま舞い上がってしまい、幸せのあまりぐらりと身体が揺らぐ。
彼は大急ぎでテーブルを回り、私の背を支えてくれた。
「だ、大丈夫ですか、シブさん」
「大丈夫大丈夫。──だからね。もう一回」
「おとなしいキスはもうできないかもしれませんよ?」
「それでいいの。大歓迎」
トオルくんは私の背中から、正面に行き、優しく抱きしめてくれた。ふわふわの毛布にくるまれているみたいで、気持ちがいい。
それから、お互いの視線が合う。
こくりと頷くと、今度は荒々しく彼は私の唇を奪った。
幸せだ。私は今、すっごく幸せ。もう脳みそが痺れて、体がとろけそう。
私たちは幸せだった。いや、私だけが幸せなのかもしれないけれども。
でも、トオルくんはにこやかな顔をしている。だから、彼も幸せなのだ。多分、きっと……。
お互いを確認するように、何度か唇を合わせてから、私たちは離れた。このとろけそうな甘い時間は、もうお終い。
それから店の外に出て、鍵をかける。月明かりが眩しい。
「シブさん」
トオルくんは手を差し出してくる。照れながら、私はその手を掴んだ。
月明かりの下、大きな影と、その隣にやや小さな影が並ぶ。その影の手も握り合っていた。
そこから一歩一歩歩いていく。彼も歩幅を合わせてくれる。
私は視線をトオルくんに向ける。彼は、にっこりと笑ってくれた。頭上に浮かぶ月のように穏やかに。
やっぱり、彼は招き猫であり、猛々しい一面もあるトールなのだ。
少なくとも、私はそう思う。
「えい」
突然、トオルくんは私の影を踏んだ。私も負けじと、やり返す。
「やったな、とぅ」
影を踏もうとしたが、ひらりとかわされてしまう。拗ねる私の頭を彼が優しく撫でてくれた。そして、顔を見合わせ、お互い無邪気に微笑んだ。
他愛ない影踏みはこれで終わり。そしてまた手を繋ぎ、ゆっくりと歩き出した。
そうだ、このままでいいんだ。
このまま。このままトオルくんについて行こう。
ゆっくりと、二人で前を歩んでいけばいいんだ。
この蒼い月明かりの下で、ゆっくりと二人で。




