第65話 最後の解毒
休息を挟む余地はなかった。第一陣の六個を冷水路へ置き、俺とネフィラは旧巣へ引き返した。レベルが上がった直後の身体は数値の上では満ちている。それでも、右側の感覚だけが薄い布越しのように遅れていた。前の毒が消えたのではなく、動けるところまで押し戻されただけだ。
残る卵は六個。振動囮は二つ。食料は四分の一。携帯できる清水はなく、解毒剤はネフィラが持つ最後の一つだけだった。狩猟隊の角笛は、旧巣の壁を一度震わせてから止んだ。遠いから安全なのではない。次の合図まで、位置を変えているだけかもしれない。
ネフィラは殻の薄い卵を幼生二体へ一個ずつ渡し、自分は擦り傷の多い二個を後脚の間へ抱えた。残る二個は、俺が作る水籠へ一個ずつ載せる。第一陣で二個を同じ籠へ入れなかった判断を、そのまま続けた。魔力は余計に使うが、一つが崩れても二つ同時には落ちない。
「先頭は私。お前は列の横だ」
「最後尾じゃなくていいのか」
「最後尾を一体で塞いで倒れたのは誰だ」
反論できなかった。俺は列の横へ身体を細く伸ばし、卵の振動と退路の水を同時に拾える幅を確かめた。守る対象が多いほど、自分が全部を見るべきだと思い込む。けれど全部を見る位置は、全部の攻撃を受ける位置でもある。
旧巣の外壁が砕けた。節の間を赤く光らせた瘴牙が二体、毒霧を押し分けて入ってくる。牙から落ちた雫が床を泡立たせ、膨らんだ腹の表面では熱膜がゆらいでいた。一体は前に囮を噛み砕いた個体らしく、空殻の匂いへ触角を向けても、すぐには飛びつかなかった。
俺は二つの囮を同時には使わなかった。弱く長く震える一つを右の旧孵化棚へ転がす。瘴牙の一体が首を振り、熱流を離れないまま触角だけを向けた。もう一度、振動を不規則に変えると、ようやく脚が右へ動く。
もう一体は動かなかった。腹を低くし、卵の列と俺の間を見比べる。偽物を学習したのか、星材の匂いより生きた卵の熱を選んだのかは分からない。分からないまま、水刃を撃つ案だけは捨てた。毒と熱を食べる相手へ水を届ければ、刃より先に蒸気を増やす。
「動くぞ」
ネフィラの糸が一度鳴った。六個の列が狭い坂へ入る。俺は瘴牙と卵の間へ水を広げ、防水膜を三枚重ねた。厚い一枚ではなく、毒を受ける層、流れを横へ逃がす層、身体へ触れる細粒だけを遅らせる層だ。
瘴牙が膜へ牙を突き立てた。最初の層が緑に濁り、二枚目が熱で縮む。三枚目へ触れた毒は細い針のように右半分へ刺さった。防水膜は毒を消さない。侵入する順番を遅らせるだけだ。その遅れを、卵が何歩進める時間へ換える。
一個目が坂へ入る。二個目が続く。俺は膜の濁った部分だけを切り離し、床の低い溝へ捨てた。捨てた毒水を瘴牙が吸い戻し、腹をさらに膨らませる。処分したつもりのものまで敵の燃料になる。だから次からは切り離さず、乾いた壁へ薄く塗って熱流から遠ざけた。
三個目が坂へ入ったところで、右へ逸れた瘴牙が囮を噛んだ。空殻が熱膜の内側で激しく震え、次の瞬間には砕ける。敵は破片を吐き出し、迷わずこちらへ向き直った。最初の囮は、倒す道具ではなく十数秒を買って消えた。
二体目の尾が横から走った。俺は水圧を足元へ逃がし、体を低くした。尾の先は俺を越え、ネフィラの後脚を掠める。黒紫の細い脚に、紫色の斑点が一気に広がった。
ネフィラの身体が沈んだ。それでも抱えた二個を離さず、糸で壁へ支点を作る。俺は膜を押し返そうとして、核の奥で脈が一拍遅れるのを感じた。毒はもう外側だけではない。俺も、ネフィラも、同じ坂の途中で動きが鈍り始めていた。
解毒剤は一つしかない。俺が使えば、水籠と防水膜を維持できる。ネフィラが使えば、彼女は卵を抱えたまま坂を越えられる。どちらが全体に得かを、俺が勝手に決めることはできた。けれどその薬は、ネフィラが巣のために保管し、ここまで持ってきたものだ。
「使用権を確認する」
膜を牙で削られながら、俺は言った。
「最後の一つを、誰に使う」
ネフィラは紫へ変わった脚を一度見た。次に、抱えた二個の殻へ触角を触れさせる。
「使用権、か。私が使う。二個を運び切る」
「了解」
迷いのない答えだった。ネフィラは自分の糸袋から黒い実を取り出し、噛み砕いた。脚の紫は広がるのを止めた。色が完全に消えたわけではない。解毒剤は負傷を消す薬ではなく、毒の進行を止める一回だった。
俺の核の痺れは残った。選ばれなかったのではない。俺が選択権を持っていなかっただけだ。そこを自己犠牲の気分へすり替えれば、次にまた他人の薬を自分の判断で配ることになる。俺は痛みを数え、膜が保つ時間だけを計算し直した。
二つ目の振動囮を強く短く震わせ、坂の反対側へ弾いた。学習した瘴牙は一度止まったが、卵列へ飛び込むより近い偽物を確かめる方を選んだ。牙が空殻へ食い込む。これで囮はゼロだ。回収はしない。残した星材の匂いが追跡に使われる可能性まで含めて、今は時間へ交換する。
十秒。ネフィラが二個を抱えて坂の上へ出た。解毒された脚は動くが、踏み込むたびに小さく震えている。
二十秒。幼生二体と三個が通った。糸の手すりが毒でたわみ、一本切れた。俺は切れた糸を縫おうとせず、水籠の縁を壁へ寄せて代わりの支点にした。
三十秒。最後の一個が坂の割れ目へ引っかかった。籠の底から余水を抜きすぎ、殻の下へ砂が噛んでいる。水を増やせば滑る。増やした水は、瘴牙にも俺の位置を教える。
俺は身体を坂の割れ目へ差し込み、殻へ直接触れないよう籠の外側を押した。一度では動かない。二度目で砂が崩れ、卵が半分浮く。その瞬間、背後から牙が外膜を貫いた。
痛みより先に、毒の熱が来た。背面から核へ、ざらついた火が細い道を作る。身体の形が保てず、水籠の片側が落ちた。俺は核を前へ寄せ、崩れた側だけを坂へ貼りつける。失う場所を選ばなければ、全部が一緒に崩れる。
「押す。受け取れ!」
ネフィラの糸が籠へ絡み、幼生が反対側を引く。俺は残った水圧を卵の下へ一度だけ送った。卵は割れ目を越え、坂の上へ滑った。殻が岩へ当たる前に糸が受け止める。
六個目が通った。
俺は敵を倒そうとしなかった。瘴牙の足元だけを流路切断で一瞬乾かし、行き場を失った水圧を背後へまとめて放つ。二体の身体が壁へ押しつけられ、熱膜が大きく揺れた。傷にはならない。追撃を一呼吸遅らせるだけでいい。
水流滑走を使う。普段なら身体全体を細くして走るところを、痺れた右側は引きずり、核のある左側だけを先へ送った。速度を上げすぎれば卵列から離れる。坂を越えたところで滑走を切り、最後尾の糸が届く距離へ戻す。
冷水路の薄膜を三枚閉じる。最初の膜が毒滴を抱え、二枚目が壁へ流し、三枚目が飛沫だけを落とした。瘴牙の牙が入口へ当たるたび、膜が白く震える。追手を止める壁ではない。十二個を次の曲がり角へ動かすまでの蓋だ。
第一陣の六個と、いま運んだ六個を数える。一、二、三。途中で核の脈が遅れ、最初から数え直した。十二。すべてある。割れた殻はない。生きていると断定する前に、ネフィラが一個ずつ振動と温度を確かめた。
残っていた食料は、俺とネフィラに八分の一ずつ分けた。俺は自分の分を傷の補修へ使い、ネフィラは自分の分を毒で動きの鈍った幼生へ渡す。空腹が消える量ではない。核と脚が移動中に崩れないための燃料だ。食料はゼロになった。
ネフィラが十二個を数え終え、こちらを向いた。
「停戦は続ける。だが、私はお前について行くのではない」
「分かってる」
「この先で別れる権利も、私にある」
「それも残す。今は同じ退路を使う」
彼女は触角をわずかに伏せた。それは加入の合図でも、恩を認める仕草でもない。条件を聞いたという返答だった。俺は北の道を示しながら、東へ分かれる糸を切らずに残した。
自分の毒へ意識を向ける。詳細は分からない。右側の感覚低下、背面の刺創、核の遅い脈。防水膜の内側へ入った毒を水で薄めても、ざらつきは消えなかった。ここで自分だけを洗い続ければ、入口の薄膜と水籠を維持できない。俺は洗浄を止め、症状を三十秒ごとに声へ出した。
ネフィラも解毒した脚を確かめる。紫の広がりは止まっているが、関節は元どおりではない。二個を抱え続けようとした彼女は、一つを幼生へ渡した。
「最後の一つを自分へ使ったのを後悔しているか」
「していない。だが、使えば二個を運べると思った判断は変える」
薬の使用権を尊重することと、その後の役割を固定することは別だ。彼女が自分で運搬量を下げたように、俺も毒を受けたまま最後尾へ戻る案を捨てた。次の区間では、幼生でも閉じられる単純な水弁を一つ渡し、俺は列の外側だけを動く。
砕かれた二つの囮には、俺の魔力刻印が残っている。遠隔で消そうとすれば位置を知らせる。回収へ戻れば、十二個を置いていくことになる。俺は《追跡に利用される可能性あり》として残し、南へ流す偽装流へ自分の漏れた水分をつないだ。痕跡を消せなくても、向きだけは誤らせられる。
冷水路という名に反して、安全に飲める水はなかった。岩壁を冷ます細い流れは毒へ触れ、天井の滴にも緑の反応がある。携帯水は補充できない。飢餓感知は北の奥にいる小さな生物の群れを示したが、追えば卵列から離れる。空腹の情報を、目的変更の命令にはしない。
入口の薄膜へ、魔力刻印を一つだけ残した。重い瘴牙が通れば強く、二足の狩猟隊なら短く、霧だけなら鳴らない。一度震えれば消える警報だ。二度目を捨てたぶん、魔力を十二個の移動へ残せる。
ネフィラは卵を温度で三つに分けた。冷えた四個、安定した七個、熱を残す一個。熱い一個だけを端へ隔離すれば、何か起きた時に他へ触れない。だが端は監視が一方向になる。彼女は中央へ置き、幼生二体が両側から振動を拾える配置を選んだ。
卵の外側へ残った毒は、水で洗わず乾いた砂へ吸わせた。砂は緑へ変わる。熱い一個の周囲だけ、色が濃い。殻の内側から毒が出ているのではなく、外面に残った霧が内部の熱で動いているらしい。ネフィラは砂を三度替え、汚れた分を岩穴へ密封した。
角笛が二度鳴った。最初より近く、二回目だけ間隔が短い。薄膜の刻印が一度震える。瘴牙より軽く、短い通過だった。誰なのか確かめるため戻れば、警報の目的が逆転する。俺は強さと時刻だけを石片へ刻み、北の曲がり角までの移動距離を二十歩から十歩ずつへ分けた。
全快まで休む余裕はない。けれど一度に遠くへ進めば、毒で崩れた時に列が二つへ割れる。先頭が十歩進み、中央が追いつき、最後尾が動く。全員が同じ角の内側へ入ってから、次の十歩を始める。遅い移動でも、互いの停止合図が届く距離を守る。
俺の刺創から漏れた水が床へ細い筋を作った。傷口だけを防水膜で覆い、すでに残った筋は南の偽装流へ接続する。ネフィラは北と東へ糸を一本ずつ残した。俺が北を勧めても、東へ離れる権利は物理的な道として残る。
四度目に替えた砂は緑にならなかった。毒が減ったのか、卵の温度が下がったのかは分からない。俺は水中感知を砂へ通し、殻の内側にある短く細かな動きを拾った。孵化前の通常反応か、熱を受けた成長か、判断できない。《安全》とも《敵化》とも書かず、《変化・原因未確認》とだけ覚える。
食料を使い切ったあと、飢餓感知が十二個の内側へ向きかけた。身体が生きた反応を食料候補として拾ったのだ。俺は感知の対象を切り替え、卵を《守る対象》へ戻す。技能が示す方向は命令ではない。空腹が強い時ほど、その境界は俺が決めなければならない。
北の縦穴まで、俺は水流滑走を使わなかった。速く進めば俺だけが列から離れる。痺れた身体を引きずりながら、ネフィラの停止糸が届く場所を保つ。角笛が鳴った時だけ列の外側へ短く滑り、南へ音をずらした。
途中でネフィラの脚へ紫が戻った。彼女は言われる前に抱えていた卵を置き、幼生へ渡す。解毒剤を使ったから働き続ける義務はない。彼女は糸と進路確認へ回り、自分で役割を変えた。
縦穴の手前で、天井から透明な滴が落ちた。乾きに引かれ、身体が勝手に伸びかける。俺は端だけを触れさせ、緑へ変わるのを見て引いた。飲めない。壁へ大きな傷を刻み、冷水路という名前だけで安全だと思わない印にする。
その時、縦穴の下から熱風が逆流した。中央へ置いた一個の殻が、内側から強く叩かれる。一度、二度。影が急に大きくなり、殻の表面に細い亀裂が走った。
ネフィラが抱え直そうとする。俺は水籠を前へ出し、触れる直前で止めた。
「待て。これは運搬の揺れじゃない」
殻の内側から、小さな牙が突き出た。瘴牙の熱を浴びた幼体が、逃げ切った先で成長を始めていた。
【主人公ステータス】
対象:グルト
種族:クラフトスライム・第一進化種
個体ランク:A
レベル:Lv.23
HP:355/412(ランク:B)
魔力:244/724(ランク:A)
攻撃:133(ランク:C)
防御:60(ランク:D)
速度:230(ランク:C)
技能:鑑定(F/Lv.2)/無限胃袋(D/Lv.1。胃袋検索G/Lv.1による識別・隔離収納)/水刃(G/Lv.3。水刃曲射G/Lv.1を含む)/水中感知(F/Lv.2。流れ読みG/Lv.3、深層感知F/Lv.2、飢餓感知F/Lv.1を含む)/防水膜(G/Lv.3)/水圧制御(G/Lv.3。囮水流G/Lv.1、偽装流G/Lv.1、流路切断G/Lv.1、水流滑走G/Lv.1を含む)/魔材クラフト(G/Lv.3。魔力構造G/Lv.1、遠隔水流罠G/Lv.2、魔力刻印G/Lv.2、骨縫いG/Lv.1を含む)/気配遮断(G/Lv.2)
状態:進化ポイント22。食料0、携帯水0、振動囮0、解毒剤0。瘴牙毒と牙で負傷。残る卵6個の避難を完了し、卵12個は全数生存。ネフィラは離脱権を保ったまま共通退路を移動中。熱を受けた卵内の幼体が成長開始。




